上林弥生の事情
第2話 救済
瑛美がわずかに眉を寄せたので、弥生は動きを止めた。
「痛くない?」
顔を覗き込むと、枕に頬をつけていた瑛美が目を上げる。ベッド脇の照明だけを残した部屋で、その返事を待つ数秒がひどく長かった。
「……うん、大丈夫」
「ほんまに?」
瑛美は小さくうなずいた。シーツの端を握る指には、まだ力が入っている。
弥生は彼女の頬にかかった髪を払い、それ以上近づかずに待った。
「無理せんといてな。しんどかったら、言うて」
「うん」
瑛美はうなずいたあと、目を伏せた。
弥生はひとまず息をつく。彼女の指がシーツを離したのを確かめてから、もう一度、額に口づけをした。
その夜、二人は初めて夫婦として同じベッドで過ごした。
そのあと、瑛美が身体を起こした。弥生が背中に手を添えようとすると、彼女は先にベッドの端へ移り、寝間着を手に取った。
「お風呂、入ってくるね」
こちらを振り返った顔には小さな笑みがあった。弥生は伸ばしかけた手を下ろした。
「うん。ゆっくり入っといで」
そう言って見送った。
*
シャワーの音が止まってから、しばらく経っていた。
弥生はベッドの背に身体を預け、枕元の時計を見た。まだ起きて待っていたことを瑛美が気にしないよう、手元にはホテルの案内冊子を開いている。載っているレストランはどれも知っていたし、さっきから同じページのままだった。
披露宴が終わるまで、瑛美は何度も衣装を替え、大勢の人に挨拶をした。ようやく一人になれたのだから、長くなるのも無理はない。
冊子を一枚めくる。
廊下の向こうにある浴室の扉は、閉まったままだった。
もう一度、時計を見た。
——長ない?
のぼせているのかもしれない。具合が悪いなら、声をかけた方がいい。
弥生は冊子を閉じ、ベッドから足を下ろしかけた。
そこで、瑛美がここへ来てから何度か見せた表情を思い出した。隣へ座った時。肩に触れようとした時。嫌がったわけではない。ただ、弥生が近づくたび、彼女は次に何があるのかを待つように、少し身を固くした。
浴室でようやく気を抜いているのだとしたら。
戻ってくるまで、もう少し一人でいたいのだとしたら。
弥生は足を戻した。
さっきも、瑛美は拒まなかった。大丈夫だと言った。けれど、妻になったその日に、大丈夫ではないと自分へ言えるのかまでは、分からなかった。
手の中で冊子の角が曲がり、弥生は指を緩めた。
閉じた浴室の扉を見つめながら、弥生は、瑛美の父に結婚の条件を伝えた日のことを思い出していた。
*
数か月前、東雲建設の社長室には、来客用の茶が二つ用意されていた。
弥生の前の茶は手つかずだった。向かいに座る東雲社長も、湯呑みに触れないまま、テーブルへ広げられた資料を見ていた。
「こちらが、今お預かりしてる資金繰り表をもとにした試算です」
弥生は資料の一か所を指した。
「入金の予定が動かへんとしても、月末の支払いには足りません。そこを越えられたとして、次の返済までにもう一度、資金が要ります」
「分かっている」
東雲社長の声に苛立ちはなかった。何度も見直した数字を、また見せられている人の声だった。
「売却を進めている資産もある」
「はい。ただ、今の予定では間に合いません。買い手の方が決済を早めてくれはるなら別ですけど、そこはまだ確約が取れてへんと聞いてます」
東雲社長は黙った。
弥生は次の紙を、その上へ重ねた。
「上林キャピタルとして、救済融資を行う用意があります。当面の支払いだけやのうて、その先の資金繰りも含めてです」
東雲社長の視線が、資料から弥生へ移った。
「……この額を?」
「はい」
「本当に、出してもらえるのか」
「そのつもりで来てます」
東雲社長はもう一度、紙面へ目を落とした。指先で一行を追い、それからゆっくりと背もたれへ身体を戻す。
このところ銀行を回るたびに、追加の資料と時間を求められていた。検討するという返事はあっても、必要な日までに必要な金額が出るという回答はない。それを弥生も知っていた。
「そうか。上林が……」
東雲社長が言いかけたところで、弥生は続けた。
「ただ、無条件いうわけにはいきません」
東雲社長の肩が、わずかに戻った。
「もちろんだ。条件を聞こう」
弥生は資料を置いたまま、膝の上で手を組んだ。
「今回の支援については、うちでも慎重な意見が出てます。今の東雲にこの規模の資金を出して、回収できるんか。代表が個人的な付き合いで判断してるんやないか、と」
「君と私の付き合いのことか」
「はい。昔からようしていただいてるんは、皆知ってますから」
幼い頃から、東雲家で夕食を食べた回数など覚えていない。瑛美を迎えに行って、そのまま上がることもあった。東雲社長が帰宅すると、二人で広げていたものを片づけ、挨拶をした。
その頃と同じ相手に向かって、弥生は言った。
「僕が東雲社長と昔から付き合いがあるいうだけで、これだけの金は動かせません。僕個人の金やありませんから」
「それは分かる」
東雲社長はうなずいた。
「では、上林側が納得する条件というのは?」
「両家で、姻戚関係を結ぶことです」
「……姻戚?」
「僕と瑛美です」
空調の音が聞こえた。
東雲社長はしばらく弥生を見ていた。聞き間違いではないと確かめるように、眉間へ深い皺が寄る。
「弥生くん。それはどういう意味だ」
「僕と瑛美が結婚する。その前提で、上林が東雲の支援に入ります」
「会社の話に、瑛美を巻き込むのはやめてくれ」
返事は早かった。
東雲社長は資料から手を離した。
「融資の条件なら聞く。経営について要求があるなら、それも話そう。だが、娘の結婚は別だ」
「お気持ちは分かります」
「分かるなら、なぜそんな条件を出す」
弥生は声の調子を変えなかった。
「上林が継続して支援する理由を、はっきりさせるためです」
東雲社長は短く息を吐いた。
「瑛美は、東雲建設のために結婚させるつもりで育てた娘じゃない。二十七になるまで、本人の好きにさせてきた。これからもそうするつもりだ」
「はい」
「君との結婚が嫌だと言っているんじゃない。君と瑛美が自分たちでそういう話になったのなら、私は何も言わない。だが、これは違う」
弥生はうなずいた。
その先を待つ東雲社長に、撤回の言葉は返さなかった。
「……結婚すれば、東雲の返済能力が変わるとでもいうのか」
「そこは変わりません。返済できる会社に戻していく必要があるんは、どちらにしても同じです」
「ならば」
「せやけど、立て直すまで支え続けるんかどうかは、変わります」
弥生はテーブルの資料へ視線を落とした。
「一度お金を入れて終わり、とはいかへんでしょう。今の支払いを越えても、信用が戻らへんかったら、また資金に困る。取引先にも銀行にも、上林がどこまで東雲を支えるつもりなんか、見られます」
東雲社長は否定しなかった。
「必要な規模の資金を、必要な時期までに用意する。そのうえで、今後も支援する意思を示す。うちが入るんやったら、そこまでやらな意味がありません」
「それは、結婚を条件にしなくてもできる話だ」
「支援の方法としては、できます」
弥生は認めた。
「ただ、その判断を上林に通すには、今より強い理由が要ります」
東雲社長の唇が結ばれた。
「僕は東雲を助けたいと思ってます。瑛美の実家ですから」
弥生はまっすぐ東雲社長を見た。
「せやけど、それだけでは上林を納得させられません。両家が姻戚になるんやったら、話は変わります。今後も上林が東雲を支える、明確な理由ができます」
湯呑みからは、もう湯気が上がっていなかった。
「他の金融機関から、間に合う回答が得られるなら、それもええと思います。資産の売却が間に合うんやったら、その方がええでしょう」
弥生は一度言葉を切った。
「今、どちらも確約がない。信用不安が広がれば、条件はもっと悪うなります。決済を待ってくれてる先にも、いつまでも待っていただけるわけやありません」
東雲社長はテーブルの端に置かれた資金繰り表を見た。
弥生が最初に示した支払日には赤い印がついていた。
「上林が入れば、資金だけやのうて、対外的な信用も補えます。……それが一番確実なんは、分かってはるでしょう」
東雲社長は答えなかった。
弥生も、返事を急かさず待った。
書類に並べたことは、どれも事実だった。追加融資は難航している。売却は間に合わない。上林には金があり、東雲には時間がない。
銀行との話がまとまらなくなった経緯も、取引先の態度が変わった理由も、この資料には載せていなかった。
いま必要なのは、これからの話だった。
「私は決めない」
やがて東雲社長が言った。
「瑛美の結婚を、私が会社のために決めるつもりはない」
「もちろんです。決めるんは瑛美です」
弥生がそう返すと、東雲社長は顔を上げた。
「……瑛美に断られたら、どうする」
「その時は、融資がなくなるだけです」
東雲社長の指が止まった。
弥生は、返済の期日を確認する時と同じ声で答えていた。
「……それを、瑛美に選ばせるのか」
「はい」
「東雲が今どういう状況なのか、分かった上で?」
「もちろんです」
東雲社長は弥生を見たまま、ゆっくりと言った。
「それは、選択とは言わないだろう」
弥生は黙っていた。
聞こえなかったわけではない。その指摘について、考える時間が必要だったわけでもない。
父親が会社のために娘を差し出すことを拒んでも、瑛美が会社のために結婚を選べば、同じところへ着く。瑛美が家族と東雲建設をどれだけ大切にしているか、弥生は知っている。
東雲社長も知っていた。
だから、この条件を持ってきた。
弥生は組んだ手を解かず、向かいの男の視線を受けた。
東雲社長の目から、それまで残っていた戸惑いが消えていく。代わりに、契約の相手を測る時の慎重さが表れた。
「……本気なんだな」
「こんな話、冗談ではしません」
返事を聞いて、東雲社長は背もたれから身体を起こした。
目の前にいるのは、二十年前から知っている弥生だった。声も、話す時に少し首を傾ける癖も変わらない。子供の頃にも、言われたことにはこうして真面目に答えた。
今目の前にいる弥生は、東雲社長が何を言っても、条件を取り下げる気はない。それを、黙って座っているだけで伝えていた。
東雲社長は資料を引き寄せた。融資の概要を一枚ずつめくり、最後まで目を通す。弥生はその間、何も言わなかった。
会社を救うつもりで作った案だった。資金を出したあとは、本気で立て直す。東雲社長が気にする箇所も、問われるだろう点も、検討してきていた。
この話さえ進めば、止められるものは止められる。
弥生は東雲社長の手元を見ながら待った。
「瑛美には、私から話す」
最後の紙を置いて、東雲社長が言った。
「だが、これは承諾ではない。君の条件を受け入れるかどうかは、瑛美が決める」
「はい」
「私から結婚しろとは言わない」
「分かりました」
「……弥生くん」
呼び止めるような声に、弥生は目を上げた。
東雲社長は何かを言いかけ、それをやめた。膝の上へ戻した手を、きつく握っている。
弥生は一度、頭を下げた。
「お願いします」
それ以上は迫らなかった。
先方へ残す資料を揃え、自分の控えだけを鞄へ収める。椅子から立ち上がる時にも、退出の挨拶にも、普段と違うところはなかった。
東雲社長は立たなかった。
弥生が扉の前で振り返って会釈すると、座ったまま、わずかにうなずいた。
*
扉の開く音に、弥生は顔を上げた。
寝室へ戻ってきた瑛美は、髪を乾かし終えていた。ホテルの寝間着の袖口を直しながら、こちらを見る。
「ごめん、長くなっちゃった」
「のぼせてへん?」
「うん、大丈夫。先に寝ててくれてよかったのに」
「そっか」
弥生は冊子を枕元へ置いた。
瑛美はベッドの脇まで来て、掛け布団を少し持ち上げた。弥生が隣を空けても、すぐには入ってこなかった。彼の顔を一度見てから、肩が触れない位置へ静かに横になる。
弥生は自分の方へ身体を寄せた。
「電気、消してええ?」
「うん。お願いします」
瑛美が横になるのを待って、照明を落とした。
窓には厚いカーテンが引かれている。目が慣れるまでは、天井の輪郭も見えなかった。隣で寝返りを打つ気配がして、衣擦れの音が小さく響いた。
「今日は疲れたやろ。よう寝て」
「弥生も、ちゃんと寝てね」
「うん」
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
話はそこで終わった。
瑛美の呼吸が落ち着くまで、思っていたほど時間はかからなかった。長い一日だった。弥生も疲れているはずなのに、目を閉じても眠れない。
そっと顔を横へ向けた。
瑛美は弥生の方を向いて眠っていた。枕に頬が少し押され、片手が顔の近くに出ている。眠っている時まできちんとしてはいられないらしく、その手の袖口は折れたままだった。
直そうとして、弥生は手を伸ばしかけた。けれど、袖口へ触れる前に止まった。
起こしたら悪い。
そう思ってから、昔はそんなことを気にしなかったと気づく。両家で食事をした帰り、迎えの車で瑛美が眠ってしまえば、家に着いたところで肩を叩いた。「着いたで」と声をかけるのに、ためらったことなどなかった。
今夜は、寝間着の袖に触れるだけのことができない。
瑛美が結婚を断れば、融資はなくなる。
あの日、父親を前にしても、その条件を変える気はなかった。瑛美は受け入れ、今日、二人は夫婦として皆に祝われた。
望んだ通りに、瑛美は隣にいる。
それなのに、目を覚ました彼女がまた身を固くするかもしれないと思うと、伸ばした手を先へ進められなかった。
弥生は手を引き戻した。瑛美の袖口は、折れたままにしておいた。