上林弥生の事情

第3話 傷み

寝室を出ると、コーヒーの匂いがした。

弥生は廊下の途中で足を緩めた。ダイニングの椅子には瑛美の姿がなく、キッチンから皿を置く音が聞こえる。時計を見ると、いつも起きる時刻より少し早かった。

「おはよう」

声をかけると、瑛美が振り返った。

「おはよう。もう起きたんだ」

「うん。何してんの」

「朝ごはん。パン、もう焼けるから」

二人分の皿には、目玉焼きと切った野菜が載っていた。片方の卵は黄身が崩れている。瑛美はそれを自分の席へ置き、弥生の前には形の残った方を運んだ。

「コーヒー、飲むよね?」

「飲む。……何時から起きてたん」

「そんなに早くないよ」

答えながら、瑛美はカップにコーヒーを注いだ。最後にトーストを持ってくると、ようやく自分も椅子へ座る。

結婚して、まだ一週間も経っていなかった。

ホテルを出て、この家で二人の生活が始まってから、瑛美は毎朝、弥生より先に起きている。最初の朝はたまたまだと思った。二日続いて、三日目にも食卓が整っていたので、寝坊した日の朝はどうするつもりなのか聞いてみた。

「しないようにする」と、真面目な答えが返ってきた。

弥生はカップを持ち上げた。コーヒーは少し濃かった。

「今日、何時に出る?」

「八時半くらい」

「じゃあ、まだ大丈夫だね。ゆっくり食べて」

「瑛美も食べや。冷めるで」

「うん」

瑛美はフォークを取り、自分の皿へ目を落とした。固まった黄身の端を白身と一緒に切り取っている。

「そっち、替えよか」

「何を?」

「卵」

「いいよ。味は一緒だし」

「ほな僕がそっちでもええやん」

瑛美は顔を上げ、弥生の皿を見た。

「もう食べてるでしょ」

確かに、黄身にはフォークを入れた跡があった。

「……せやな」

「今さら交換されても困ります」

少し笑って、瑛美はパンをかじった。その顔を見て、弥生も食事へ戻った。

昔なら、綺麗に焼けた方を彼女が先に取っていても、別に何とも思わなかっただろう。弥生の皿を覗いて「そっちの方がおいしそう」と言われれば、半分くらいは渡していた。そんなやり取りをしながら、一緒に食べられればよかった。

「足りる?パン、もう一枚あるよ」

「足りる。おいしいわ」

「よかった」

瑛美はほっとしたようにうなずいた。それから、弥生のカップにまだコーヒーが残っているのを確かめた。

彼女のパンは、半分も減っていなかった。

*

着替えを済ませて戻ると、瑛美は食器を片づけ終えていた。

弥生がソファに置いた鞄を取る間に、彼女は時計を見た。自分も会社へ行っていた頃には、同じくらいの時刻に家を出ていたはずだ。今日はまだ部屋着のままで、弥生の持ち物を一つずつ目で追っている。

「今日から東雲建設?」

「うん」

「毎日行くの?」

「いや。ずっと向こうに詰めるわけやないよ。こっちの仕事もあるし」

「そっか」

瑛美はうなずき、少し考えるように首を傾けた。

「変な感じ。私が辞めた途端、今度は弥生が行くんだ」

「入れ替わりやな」

「私の席はもうないけどね」

「そこに座るつもりはないわ」

「分かってるよ」

笑った瑛美が、弥生の胸元で視線を止めた。

「ネクタイ、やろうか?」

「え?」

「ちょっと曲がってる」

弥生は自分の結び目を見下ろした。瑛美は手を出さず、返事を待っている。

以前なら、曲がっていると言う前に引っ張られていたこともあった。首まで一緒に引かれて「苦しいわ」と文句を言うと、「じっとしてないからでしょ」と返ってきた。

「……お願い」

弥生が少し屈むと、瑛美は近づき、結び目をつまんだ。白いシャツの襟へ指を入れ、左右の形を整える。目の前にある彼女の頭を見ていると、鞄を持っていない方の手が自然に上がった。

脇腹へ指先が触れたところで、瑛美の肘が止まった。

ほんの一瞬だった。顔は上げず、ネクタイを持った手も離さない。ただ、さっきまで動いていた身体が固くなった。

弥生は手を下ろした。

瑛美の指が再び動き、結び目を少しだけ引き上げる。最後にネクタイの表面を撫でると、彼女は一歩離れた。

「うん。大丈夫」

普通に笑っていた。

「ありがとう」

弥生も笑って返した。整えてもらった胸元へ、もう一度触れる。

朝食を作ってほしかったわけではない。ネクタイを直してもらうために、この家へ来てもらったのでもない。

——こんなんしてほしかったんちゃうねん。

けれど、そのために早く起きた瑛美を前に、何と言えばいいのか分からなかった。彼女は嫌々世話をしているのではない。朝食を食べ終え、襟元も整った弥生を見て、ようやく肩の力が抜けたようだった。

鞄を持ち直すと、瑛美が玄関までついてきた。

「忘れ物ない?」

「ないよ」

「帰り、何時くらいになりそう?」

「まだ分からへん。遅なるようやったら連絡する」

「うん。分かった」

弥生が靴を履いて振り返ると、瑛美は少し姿勢を正した。

「……東雲のこと、よろしくお願いします」

軽く頭を下げた彼女の髪が、頬の横へ落ちた。

弥生は扉の取っ手へ伸ばした手を止めた。顔を上げた瑛美は、まっすぐこちらを見ている。

「……うん」

それだけ返すのに、一拍かかった。

「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

扉を閉めてから、弥生は息を吐いた。

止めるべきものは、もう止めてある。資金も入れた。あとは東雲建設を立て直すだけだった。

胸元の結び目には触れず、エレベーターへ向かった。

*

東雲建設本社の会議室には、弥生の名前が印刷された席札が置かれていた。

社外取締役、上林弥生。

今日から、融資を実行した側として経営の監督と再建支援に入る。就任までに送られてきた資料は、すでに目を通してあった。午前中は役員や担当部門との打ち合わせに充て、午後から内部資料を詳しく見せてもらう予定だった。

部屋へ入ると、先に着席していた数人が顔を上げた。

弥生は一人ずつ挨拶をし、差し出された名刺を受け取った。上林キャピタルの代表として会ったことのある相手もいる。同じ名前を告げても、今日は名刺より先に左手を見られた。

「このたびは、ご結婚おめでとうございます」

「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」

そう返すと、相手は東雲社長へも会釈した。

融資元の代表が、社長の娘婿になって経営へ入ってくる。しかも二十七歳だった。祝いの言葉を交わしたあと、どのくらい踏み込んで話していいのか測るような間ができた。

弥生は席へ着き、資料を開いた。

二十五で上林キャピタルの代表になった時にも、似た間を何度も経験している。上林の名字がなければ、あの年齢であの椅子へ座ることはなかった。今日ここで席を用意される理由にも、同じ名字が含まれている。

それを打ち消すために、長い挨拶をするつもりはなかった。

東雲社長が支援の概要を説明し、財務担当者へ話を引き継ぐ。弥生は当面の支払予定と融資後の資金残高を確認した。

「この入金予定は、先方に確認済みですか」

「はい。現時点では予定どおりと回答を受けています」

「承知しました。次回以降、変更があった箇所と確認日を併記していただけますか。予定が動いた時に、どの支払いまで影響するか見たいので」

担当者が手元へ書き込む。続いて銀行との協議状況を聞き、取引先への支払条件を確かめた。

当面の資金不足は解消している。止まっていた話も、上林の支援が決まってから少しずつ動き始めていた。

その報告を聞きながら、弥生は資料の余白へ短く印をつけた。

ひとまず、ここまでは予定どおりだった。

*

午前の打ち合わせが終わると、東雲社長が弥生を呼び止めた。

他の役員が退出するのを待ってから、隣の席へ座り直す。残された資料へ視線を落とし、しばらくして口を開いた。

「弥生くん。君には、遠慮なく見てもらいたい」

「そのつもりです」

「瑛美の夫だからということは、考えなくていい。必要なことがあれば言ってくれ」

「はい。仕事で来てますから」

弥生は資料を揃えた。

「気になるところがあったら、そのまま伺います」

「そうしてもらえると助かる」

東雲社長はうなずいた。膝の上で一度手を組み、解く。

「……私に確認したいことがあれば、時間は空ける」

「ありがとうございます」

二十年出入りしてきた家の父親と、次の面談の約束をしていた。

弥生は立ち上がり、頭を下げた。東雲社長も席を立ったが、扉まではついてこなかった。

*

午後、用意された会議室でパソコンを開くと、午前中に依頼した資料が届いていた。

机の上には、月次の業績推移と資金繰り表がある。案件別の予算と実績は、一覧で受け取った。融資を判断する時にも見ていた数字だが、今回はその内訳へ進める。

弥生はまず、借入と返済の動きを追った。

更新されるはずだった融資が更新されていない。その穴を埋めようとした別の借入も、回答が出るまでに時間がかかっている。資産売却の予定が入り、売却代金の入金より先に支払日が来る。

どこで詰まったかは、知っていた。

次に、仕入先や外注先との取引条件を見た。以前より支払いを早めた箇所がある。信用への懸念を伝えられ、条件の維持を求めて交渉した記録も残っていた。

そうなるように、外から働きかけた。

弥生は紙を一枚めくった。

銀行の慎重な姿勢も、取引先の不安も、何もないところから自分一人で作ったものではない。もともとあった懸念を強め、別の懸念と重なる時期を選んだ。その結果、個別には耐えられるはずの変更が、同じ資金繰り表の中へ集まった。

どの月が苦しくなるかも、どこまでなら持ちこたえられるかも、見積もったつもりだった。

もうその圧力はいらない。上林の資金と信用をつけ、通常の条件で取引できるように戻していく。その間に、不採算の案件を整理する。

会社を助けるつもりは本当だった。結婚が決まる前から、そのための資金を用意し、再建の手順も考えていた。

弥生は資金繰り表を脇へ置き、案件別の一覧を画面に出した。

受注額を見てから、売上と利益へ進む。

そこで、スクロールする手が止まった。

受注は残っていた。売上も、資金繰りが詰まった時の印象ほど落ち込んではいない。

それに対して、利益が薄かった。

全体の数字では分かっていた。だが内訳を見ると、同じような規模の工事でも、残る利益にずいぶん差がある。原価が当初の予算を超えた案件を拾っていくと、いくつかは外注費の増加が大きかった。

弥生は一覧から一件を開いた。

資材の調達額も、人件費も上がっている。建設会社なら、それだけで見積もりとの差は生まれる。急な手配が必要になれば、外注の単価が高くなることもある。

手元のメモに案件番号を書き、隣へ確認したい項目を並べた。

この段階では、普通の予算超過だった。

別の案件を開き、原価の推移を月ごとにたどる。外注費の増え始めた月を見て、弥生は資金繰り表を引き戻した。

銀行との協議が難航し始めた月より、前だった。

——これ、僕が触る前やな。

少し戻って、受注時の予算を確かめる。利益は当初から極端に低かったわけではない。途中で原価の見込みが上がり、その後も少しずつ増えていた。

弥生は日付に印をつけ、次へ進んだ。

大きな会社なのだから、自分が何もしなくても、うまくいかない工事くらいはある。利益が減っていたところへ資金の問題が重なった。それなら、それぞれの原因を分けて直せばよかった。

ただ、次の案件にも、似た動きがあった。

*

追加の資料を持ってきた経営管理の担当者に、弥生は画面を向けた。

「この案件は、工期が延びていますか」

「大きな遅れはありません。そちらは、予定どおり引き渡しを終えています」

「品質の問題で手直しが増えた、という記録は?」

担当者は案件番号を確認し、持参した資料をめくった。

「少なくとも、この報告の中にはありません」

弥生は隣の案件も示した。こちらは一部工程の変更があったが、全体の工期を大幅に延ばすものではないという。

「原価が増えた理由は、何と説明されていますか」

「資材価格の上昇と、外注費の増加です。現場側から上がっている説明では、その二つが主になります」

「外注費が増えたのは、範囲が広がったからですか。単価が上がったからですか」

「そこまでは、こちらの一覧では分かりません。契約と変更の記録を確認する必要があります」

「では、それをお願いします。最初の発注から、変更があったものを追える形で」

担当者はメモを取り、弥生が印をつけた案件番号を控えた。

「この数件だけでよろしいでしょうか」

「比較したいので、同じ時期の近い規模の案件も何件か。予算内に収まったものを含めてください」

「承知しました。明日以降、揃ったものからお送りします」

「ありがとうございます。今日は、今ある資料だけで大丈夫です」

担当者が退出してから、弥生は渡された進捗報告を開いた。

工事は進んでいた。外注先の作業も報告されている。出来高の確認があり、引き渡しを終えた案件には完了の記録がついていた。

今ある資料からは、何か大きな失敗をして、その後始末に費用がかかったようには見えない。

もちろん、書類を数枚見ただけで現場の事情まで分かるわけではなかった。資材の値上がりが当初の見積もりを超えたのかもしれない。必要な業者を確保するため、条件を譲ったのかもしれない。発注額の妥当性は、契約を見てから判断することになる。

それでも、画面へ戻るたび、同じ列に目がいった。

仕事を受け、工事をし、代金を得ている。

そのわりに、東雲建設へ残るものが少なかった。

弥生は椅子の背へ身体を預けた。

自分がかけた圧力は、銀行との関係だけではない。取引条件が厳しくなれば、会社は普段と違う手配をする。支払いを待ってくれる業者を選ぶために、価格で譲歩した可能性もある。外から資金繰りを締めた結果、想定していないところで費用が増えていたのなら、それも自分のしたことだった。

弥生は椅子を戻し、月ごとの原価の推移を出した。

まず、そこを確かめる必要があった。

*

夕方、上林キャピタル側の仕事をいくつか片づけたあと、弥生は再び東雲建設の資料を広げた。

窓の外は暗くなり始めていた。廊下を通る人の数も減っている。

パソコンには、自分だけが見られる予定の履歴を開いた。誰と会ったか、いつ連絡を取ったか。そこに露骨な目的が書かれているわけではない。だが、日付と相手を見れば、何のための話だったかは思い出せた。

余白のある紙へ、いくつかの日付を書き出す。横には、東雲建設側で条件が変わった時期を置いた。

ある銀行との協議が止まった月。

——ここは僕。

支払いの前倒しが増えた月。

——これも僕。

売却を急ぐことになり、条件が悪くなったところまで追って、弥生はペンを持ったまま少し考えた。

直接そこへ働きかけたわけではない。だが、金を急いで用意しなければならなくしたのは、自分だった。

——ここも、まあ、僕やな。

思っていた以上に、自分へ戻ってくる。

弥生は一度、目を閉じた。それから案件別の資料を重ねた。

外注費が膨らみ始めた月と、取引条件を変更した月を比べる。支払いを早めたせいで手元の金が減ることと、工事そのものにかかる費用が増えることは分けて見なければならない。そのうえで、片方がもう片方を招いた可能性を追った。

順序が合うものはあった。

だが、合わないものも残った。

取引先の条件が厳しくなる前に、すでに原価が増えている案件がある。その後、資金繰りが苦しくなってからも、同じように利益が削られていく。最初の増加まで自分のせいにするには、日付が早すぎた。

別の案件へ移る。

こちらも、資金調達が難しくなるより前からだった。

弥生は二つの期間を指で追い、もう一度、予定の履歴へ戻った。その頃に東雲へ影響する話をしていなかったか。一つずつ確認した。

なかった。

該当する日付の横へペン先を置いたまま、弥生は止まった。

——これは?

紙の上の数字を見た。

知らん。

ペンを離し、資料を初めから見直した。案件ごとに利益を計上する時期の違いもある。現時点の見込みと、完了後の実績をそのまま比べてはいけない。受け取った一覧で分かる範囲を確かめ、説明のつく箇所を外していった。

それでも、いくつかの印が残った。

契約を見なければ、何が起きたかは言えない。経営上の判断が悪かっただけかもしれないし、現場で避けられない事情があったのかもしれない。

ただ、自分が外から条件を悪くしたことで、すべてが始まったわけではなかった。

弥生は資金繰り表を手前へ引いた。

救済融資の案を持っていく少し前、東雲の状況は急に悪くなった。もう少し粘ると思っていた銀行が引き、会社は予想より早く支援を必要とした。

その時は、うまくいったと思った。

効かせるべきところへ、圧力が効いた。これで上林の条件を受け入れてもらえる。そう考え、救済融資の案を持って東雲社長に会いに行った。

今、目の前にある数字で同じ時期を見ると、違うものが見えた。

東雲建設は、弥生が見積もったほどの利益を残せていなかった。資金を調達しにくくした時には、すでに別の理由で余力が減っていた。

そこへ、もう一度、外から負荷をかけていた。

弥生はネクタイの結び目へ指を入れた。朝、瑛美に直してもらったそれを、少しだけ緩める。

もし、結婚の話がもっと長引いていたら。

東雲社長が条件を拒み続け、瑛美の返事も得られないまま、同じことをあと半年続けていたら。

その半年を、東雲が持ちこたえたかどうかは分からなかった。

途中で救済しなければならなかっただろう。それでも、間に合うところで止められると思っていた。そのために数字を見ていたつもりだった。

弥生は、資金残高が最も低くなる月を見つめた。

見積もりの前提が、違っていた。

こめかみへ手をやると、指先に薄く汗がついた。室内は暑くない。弥生は手を下ろし、しばらく座ったままでいた。

机の端で、携帯電話の画面が光った。

瑛美からだった。

『遅くなりそう? ごはん、何時でも温められるようにしてあるよ』

弥生は画面を手に取り、返信を打った。

『まだ少しかかる。先に食べといて。遅くなってごめんな』

送信してから、携帯電話を伏せた。

廊下で話し声がして、遠ざかっていった。会議室の扉は閉じている。

机の上には、借入、支払い、案件ごとの原価と利益が並んでいた。その間に、自分の行動の日付を記した紙がある。

もう一度、順に照らし合わせた。

自分が傷つけた箇所は、分かる。そこは戻すつもりで来た。

けれど、その紙に書いた日付の外にも、東雲は傷んでいた。

弥生は、説明のつかない印の残った資料を手元へ寄せた。数字を見つめたまま、長く黙っていた。

「……どうりで上手く行き過ぎやと思った」

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