彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
「お前……まさかもう、何か大きなことを成し遂げた気になっているんじゃないだろうな?」
「……え、いや、そんなつもりは……」
(しまった……この冷徹な表情と声色は……)
「甘いな。営業サポート部の課題は、まだまだ山積みだ。たった一日、後輩一人とうまくいったくらいで、すべて解決したようなツラをするな」
今日のご馳走にちょっと浮かれて満足感を噛みしめていただけなのに、容赦のない現実を突きつけられる。
そうだった……今この瞬間に私の目の前にいるのは、美味しいご飯を作ってくれる優しいお隣さんではなく、あの冷徹で隙のない新上司の魚住さんだったと思い知らされる。
「わ、わかってますよ。まだまだこれからだってことくらい……」
魚住さんは呆れたように鼻で笑い、「だといいがな」と小さく毒づいた。
緊張感で口の中がカラカラになってしまった私は、この重い空気を誤魔化すようにコップの水を一気に飲み干した。
「じゃあ、明日のミッションだが……」
(え……今日の成果の余韻に浸る暇すらなく、もう明日の話?)
「自分の担当業務にしか興味がなく、部全体の改善から逃げ続けているような先輩たちを、やる気にさせる……というのはどうだ?」
「……今度は先輩ですか? ちょっとハードルが高いような……」
「お前、昨日俺が言ったことをもう忘れたのか?」
魚住さんの圧に押され、私は慌てて昨夜のこの部屋での会話を必死に思い出そうとする。
一体何を言われたのか……覚えているようで、明確な言葉はすぐに出てこない。
「はぁ……同じ言葉を何回も言わせるな。手がかかるやつだな」
「す、すいません……」
魚住さんは咳払いをした後に、わずかに顔を近づけてまっすぐに言う。
「俺を信じて、一歩踏み出してみろ。今日わかっただろ? お前には俺がついている。もし失敗しても、俺がいる。だから安心して、チャレンジしろ」
……重く重くのしかかっていた不安が、その低く力強い言葉によって、まるで魔法のようにゆっくりと軽くなっていくのを感じた。
「魚住さんが……ついている?」
「そうだ。俺はこの営業サポート部を本気で変えていきたい。そのためには、お前の力が必要だ。お前に期待しているんだ」
「魚住さん……」
(冷たいのか、温かいのか……一体どっちなのよ……)
魚住さんは、簡単に私の心を揺さぶってくる。この男は……絶妙なアメとムチの使い手らしい。
「それに、明日も今日のような飯が食べたいだろ?」
「それは、もちろんです!」
「……俺だって、頑張ったお前には美味いものをたくさん食わせてやりたい。だから明日も、俺と一緒に踏ん張るぞ。わかったな?」
半ば言わされるような勢いだったけれど、私は大きな声で「はいっ!」と答えていた。
ニヤリと微笑む魚住さんの表情を見て、私は完全にこの男の手のひらの上で転がされているのだと、認めざるを得なかった。
(こんな綺麗な顔で、そんな甘いことを言われたら……やるしかないじゃない……)
機嫌よさげに皿を洗い出す魚住さんを見ながら……できることなら、ずっと魚住さんの手料理を食べたいと思ってしまう。
だけど……よくよく考えたら、付き合っているわけでもない上司と部下が、毎晩こうして隣の部屋で行き来してご飯を食べるなんて……いくらご飯が理由とはいえ、不思議すぎる関係だ。
急に客観的な思考が頭をよぎり、私はどこか居心地の悪さを覚えてしまった。
「どうした? 人の顔をじっと見て」
「……あ、いや……」
「何だ、言いたいことがあるならはっきり言え」
キッチンに響いていた水道の音が、ピタッと止まる。
強気な眼差しで見つめ返してくる魚住さんに気圧され、私は小さな声で「私、毎晩ここに居て……ご迷惑じゃないでしょうか……」と消え入りそうな声で呟いた。
魚住さんは少し考える様子を見せた後に、あっけらかんとした口調で返してくる。
「そうだな。明日も早いし、もう帰れ……」
「え……」
(……やっぱり、突き放すときは冷たいんだ)
ちょっぴり切ない暗い気持ちになりながら椅子から立ち上がり、お邪魔しましたと部屋を後にしようとする。
玄関でローファーに足を押し込んでいたとき、後ろから魚住さんの「おい」という声がかかった。
振り返ると、背の高い魚住さんが思った以上の至近距離に立っていた。
「今日は……よく頑張ったな」
ポン、と大きな手が私の頭に乗せられ、優しく髪を撫で上げた。
(え……こ、これは……)
「これからも、一緒に頑張ろうな」
その甘い声に、顔が熱くなっていく。心臓が高鳴り、我慢ができない……。
「はい、頑張ります! し、失礼します!」
パニックになりながら、逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。鍵を閉めてもなお、激しい鼓動は一向に落ち着いてくれない。
しばらく玄関に立ち尽くし、今のシーンを思い返していた。
(や、やっぱりあの男……アメとムチがうますぎる!)
あんな顔で、あんなことをされたら……頑張る以外の選択肢なんて残されているはずがない。
温かなご馳走で満たされたお腹を優しく擦りながら、私は散らかったリビングの明かりをつけた。
床に脱ぎっぱなしにしていた部屋着や、机の上に置き去りにされていたチラシや封筒を手に取り、ゆっくりと、けれど確かな手つきで片づけ始める。
(まずは……この部屋から、自分の生活から変えていこう……)
ただ仕事に忙殺され、自分を見失っていた毎日。それが、突如として現れた冷酷で完璧な上司によって、鮮やかに塗り替えられていく。
これはきっと、私のズタボロだった人生を大きく変える、最高の転機なのだ。
すべては、あの温かくて優しい、極上の手料理のために……。
――明日も私は、もう一歩前へ……踏み出してみる。
〈了〉
「……え、いや、そんなつもりは……」
(しまった……この冷徹な表情と声色は……)
「甘いな。営業サポート部の課題は、まだまだ山積みだ。たった一日、後輩一人とうまくいったくらいで、すべて解決したようなツラをするな」
今日のご馳走にちょっと浮かれて満足感を噛みしめていただけなのに、容赦のない現実を突きつけられる。
そうだった……今この瞬間に私の目の前にいるのは、美味しいご飯を作ってくれる優しいお隣さんではなく、あの冷徹で隙のない新上司の魚住さんだったと思い知らされる。
「わ、わかってますよ。まだまだこれからだってことくらい……」
魚住さんは呆れたように鼻で笑い、「だといいがな」と小さく毒づいた。
緊張感で口の中がカラカラになってしまった私は、この重い空気を誤魔化すようにコップの水を一気に飲み干した。
「じゃあ、明日のミッションだが……」
(え……今日の成果の余韻に浸る暇すらなく、もう明日の話?)
「自分の担当業務にしか興味がなく、部全体の改善から逃げ続けているような先輩たちを、やる気にさせる……というのはどうだ?」
「……今度は先輩ですか? ちょっとハードルが高いような……」
「お前、昨日俺が言ったことをもう忘れたのか?」
魚住さんの圧に押され、私は慌てて昨夜のこの部屋での会話を必死に思い出そうとする。
一体何を言われたのか……覚えているようで、明確な言葉はすぐに出てこない。
「はぁ……同じ言葉を何回も言わせるな。手がかかるやつだな」
「す、すいません……」
魚住さんは咳払いをした後に、わずかに顔を近づけてまっすぐに言う。
「俺を信じて、一歩踏み出してみろ。今日わかっただろ? お前には俺がついている。もし失敗しても、俺がいる。だから安心して、チャレンジしろ」
……重く重くのしかかっていた不安が、その低く力強い言葉によって、まるで魔法のようにゆっくりと軽くなっていくのを感じた。
「魚住さんが……ついている?」
「そうだ。俺はこの営業サポート部を本気で変えていきたい。そのためには、お前の力が必要だ。お前に期待しているんだ」
「魚住さん……」
(冷たいのか、温かいのか……一体どっちなのよ……)
魚住さんは、簡単に私の心を揺さぶってくる。この男は……絶妙なアメとムチの使い手らしい。
「それに、明日も今日のような飯が食べたいだろ?」
「それは、もちろんです!」
「……俺だって、頑張ったお前には美味いものをたくさん食わせてやりたい。だから明日も、俺と一緒に踏ん張るぞ。わかったな?」
半ば言わされるような勢いだったけれど、私は大きな声で「はいっ!」と答えていた。
ニヤリと微笑む魚住さんの表情を見て、私は完全にこの男の手のひらの上で転がされているのだと、認めざるを得なかった。
(こんな綺麗な顔で、そんな甘いことを言われたら……やるしかないじゃない……)
機嫌よさげに皿を洗い出す魚住さんを見ながら……できることなら、ずっと魚住さんの手料理を食べたいと思ってしまう。
だけど……よくよく考えたら、付き合っているわけでもない上司と部下が、毎晩こうして隣の部屋で行き来してご飯を食べるなんて……いくらご飯が理由とはいえ、不思議すぎる関係だ。
急に客観的な思考が頭をよぎり、私はどこか居心地の悪さを覚えてしまった。
「どうした? 人の顔をじっと見て」
「……あ、いや……」
「何だ、言いたいことがあるならはっきり言え」
キッチンに響いていた水道の音が、ピタッと止まる。
強気な眼差しで見つめ返してくる魚住さんに気圧され、私は小さな声で「私、毎晩ここに居て……ご迷惑じゃないでしょうか……」と消え入りそうな声で呟いた。
魚住さんは少し考える様子を見せた後に、あっけらかんとした口調で返してくる。
「そうだな。明日も早いし、もう帰れ……」
「え……」
(……やっぱり、突き放すときは冷たいんだ)
ちょっぴり切ない暗い気持ちになりながら椅子から立ち上がり、お邪魔しましたと部屋を後にしようとする。
玄関でローファーに足を押し込んでいたとき、後ろから魚住さんの「おい」という声がかかった。
振り返ると、背の高い魚住さんが思った以上の至近距離に立っていた。
「今日は……よく頑張ったな」
ポン、と大きな手が私の頭に乗せられ、優しく髪を撫で上げた。
(え……こ、これは……)
「これからも、一緒に頑張ろうな」
その甘い声に、顔が熱くなっていく。心臓が高鳴り、我慢ができない……。
「はい、頑張ります! し、失礼します!」
パニックになりながら、逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。鍵を閉めてもなお、激しい鼓動は一向に落ち着いてくれない。
しばらく玄関に立ち尽くし、今のシーンを思い返していた。
(や、やっぱりあの男……アメとムチがうますぎる!)
あんな顔で、あんなことをされたら……頑張る以外の選択肢なんて残されているはずがない。
温かなご馳走で満たされたお腹を優しく擦りながら、私は散らかったリビングの明かりをつけた。
床に脱ぎっぱなしにしていた部屋着や、机の上に置き去りにされていたチラシや封筒を手に取り、ゆっくりと、けれど確かな手つきで片づけ始める。
(まずは……この部屋から、自分の生活から変えていこう……)
ただ仕事に忙殺され、自分を見失っていた毎日。それが、突如として現れた冷酷で完璧な上司によって、鮮やかに塗り替えられていく。
これはきっと、私のズタボロだった人生を大きく変える、最高の転機なのだ。
すべては、あの温かくて優しい、極上の手料理のために……。
――明日も私は、もう一歩前へ……踏み出してみる。
〈了〉

