好きな男の子が幽霊になって会いに来た話。
終わりを探して
「……なん、で……」
喉が、ひりついた。
「死んだ、はずじゃ……」
そう、優華が絞り出すように乾いた声で言うと、
要は頬をかきながら、ふっと視線を逸らして、苦笑いした。
「あー……そうなんだけどさ……」
気まずそうに、でもどこかいつも通りの軽さで。
「なんか俺、未練? があるっぽくて。成仏できねーの」
「………………へ?」
思わず、優華の口から、間の抜けた声が漏れた。
未練。
その言葉が、頭の中でゆっくりと転がる。
「み、未練……って……」
恐る恐る、言葉を探す。
「な、何か……やり残したこと、とか……?」
自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。
怖いとか、信じられないとか、そういう感情が一気に押し寄せすぎて、
逆に、感情が追いついてこない。
驚きも、恐怖も、現実感も、全部、少しずつ遅れている。
要は腕を組んで、うーん、と唸った。
「それがさー……分っかんねーんだよなぁ」
首を傾げて、困ったように笑う。
「未練あるのは確かっぽいんだけど、何が未練なのか自分でも謎」
……そんなこと、ある?
「てかさ」
ふいに、要が顔を近づけてくる。
反射的に優華は一歩、後ずさった。
「涼宮はなんで俺のこと見えてんの?」
「……え」
「霊感アリ的なやつ?」
そう言って、目をきらきらさせる。
状況が状況でなければ、「楽しそうだな」と思ってしまいそうな表情だった。
優華は、言葉を失って、視線を落とした。
……霊感。
今までの人生で、一度だって、幽霊を見たことなんてない。
肝試しに行っても、何も起こらなかったし、
心霊写真だって、全部「それっぽく見えるだけ」だと思ってきた。
なのに。
「……分か、らない……」
小さく、そう呟く。
「私……そういうの……今まで、なにも……」
要は、ふーん、と相槌を打った。
「まーとりあえず....」
軽い調子で。
「涼宮が特別ってことだ」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
……特別。
そんな言葉、生きている時だって、言われたことはなかったのに。
「……要くん」
優華は、唇を噛んでから、ゆっくりと顔を上げた。
街灯の下。
月明かりに照らされて、要は確かに、そこに立っている。
影もある。
声も聞こえる。
なのに。
「……触れたら……消えちゃう、とか……」
無意識に、そんなことを口にしていた。
要は一瞬、きょとんとしたあと、ふっと笑う。
「なんだそれ。俺、シャボン玉かよ」
そう言って、冗談めかして手を振る。
「大丈夫だって。ほら」
そう言って、要は一歩、優華に近づいた。
心臓が、跳ねる。
……やめて。
来ないで。
消えないで。
いろんな感情が、同時に喉元までせり上がる。
でも、要は止まらない。
そして——
優華の目の前で、ぴたりと足を止めた。
「……な?」
にっと笑って、いつもの軽い声で。
「ちゃんと、いるっしょ」
優華は、息をするのも忘れて、
目の前の“存在”を、ただ見つめていた。
……いる。
でも。
……本当に?
これは、現実?
それとも、私が作り上げた、都合のいい幻想?
答えは、どこにもなくて。
ただ、胸の奥だけが、
さっきよりも、ずっと苦しくなっていた。
「……要くん、さ」
優華は、少しだけ視線を落としたまま、
ずっと胸の奥に引っかかっていた言葉を、ようやく口にした。
「……自殺……って、聞いたんだけど……」
ずっと、聞きたかった。
でも聞いてしまったら、何かが決定的に壊れてしまいそうで。
だから、今まで言えなかった。
恐る恐る。
躊躇いがちに。
その言葉を聞いた瞬間、要は目を大きく見開いた。
「.......っ、はぁぁぁぁぁぁっ!?」
大袈裟に、ぐいっと上体をのけぞらせて。
「なにそれ!! 俺、自殺ってことになってんの!?」
思っていた反応と、あまりにも違った。
優華はきょとん、としたまま、小さく、こくっと頷く。
「……う、うん……」
すると、要はぶんぶんと首を横に振った。
「いやいやいや、違うかんね!? 全然違うから!」
勢いよく否定してから、少し考えるように顎に手を当てる。
「えーと……桜丘橋って分かる?」
「……あ、うん……」
通学路の途中にある、古い橋。
欄干が低くて、下を覗くと川が見える場所だ。
「そこのさ、欄干のとこで」
要は身振り手振りを交えて話し始めた。
「川の中に、めっちゃ珍しー魚いんの見っけたんだよ」
「……魚……?」
「そうそう。なんか、色も形も見たことなくてさ。
え、新種じゃね!?って思って」
そこまで言って、要は、ふっと肩をすくめる。
「……ちょっと、身乗り出したら」
一拍。
「……落っこちた」
「…………」
「………………」
沈黙。
あまりにも、あまりにも、
さらっとした理由だった。
優華は、言葉を失ったまま、
信じられないものを見るような目で、要を見つめた。
「……なに……それ…………」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど、かすれていた。
要はその視線に気づいたのか、少しだけ気まずそうに目を逸らす。
「……言いたいことは、分かる」
頭の後ろを掻きながら、苦笑いする。
「俺もずっと思ってるし」
一瞬、間を置いてから。
「……俺、こんなアホみたいな理由で死んだん?」
自分で言っていて余計に馬鹿らしくなったのか、
はは、と乾いた笑いを零す。
「人って、こんなぬるっと死ぬんだな……」
まるで、他人事みたいに。
優華の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
自殺じゃ、なかった。
……それは、少しだけ、救いだった。
でも同時に。
こんな理由で。
こんなどうしようもなく、要くんらしい理由で。
「……っ」
言葉が詰まる。
怒りなのか。
呆れなのか。
安心なのか。
悲しみなのか。
どれなのか、自分でも分からない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
「……要くん」
優華は、ぎゅっと拳を握りしめる。
「……生きてて、ほしかった……」
小さくて、震えた声。
それを聞いた要は一瞬だけ言葉を失ったみたいに、目を瞬かせた。
そして、いつものように気まずげに、ぎこちなく笑う。
「……それ、言われると」
視線を逸らして。
「ちょっと、困るんだけど」
でもその笑顔は、ほんの少しだけ、いつもより弱々しく見えた。
「……で、さ」
要は、少しだけ言いにくそうに、でもいつもの調子で口を開いた。
「涼宮に、頼みがあんだけど……」
そう言って、屈託なく、へにゃっと笑う。
そのまま、真っ直ぐに、優華を見た。
「俺が成仏できるように、手伝ってくんねぇ?」
――成仏。
その言葉が、胸に、ずしんと落ちた。
それは優華にとって、二度目の死と同じだった。
もう一度目の前にいる要を、失うということ。
せっかく、会えたのに。
せっかく……視えているのに。
神様は、どうしてこんなにも残酷なんだろう。
「……なん、で……私……?」
掠れた声が、勝手に零れた。
きっと、ひどい顔をしていたと思う。
泣き出す寸前で、必死に、感情を押し殺した顔。
要は、そんな優華の表情に気づいていないみたいに、
人差し指を立てて、にっと笑った。
「涼宮が一番信頼できる!」
まるで、当たり前のことを言うみたいに。
「あと、今んところ、俺の姿見えんのが涼宮だけっぽいんだよね」
優華の胸が、きゅっと縮む。
「涼宮に会うちょっと前、宮野とか流星とかにも会ってきたけどさ」
肩をすくめて。
「全然、見えてないっぽかった」
……宮野くんも、流星くんも。
あんなに、要くんと仲が良かったのに。
「女子は、まだ涼宮が最初だけど」
さらりと、そう付け加える。
「だからさ」
要は、ぱっと両手を合わせて、頭を下げた。
「頼む!」
声を張って。
「俺が成仏できるように、未練を無くす手伝い、してほしい!」
その姿は、生きていた頃と、何ひとつ変わらなくて。
そんなの――
そんなの……。
「……わ、私が……」
優華は、ぎゅっと唇を噛みしめる。
胸の奥が、ずきずきと痛んだ。
さっきから、ずっとだ。
「……力に、なれるかは……わからない、けど……」
泣きそうな顔で、それでも必死に、笑顔を作った。
今にも零れ落ちそうな涙を、奥へ、奥へと押し込めて。
……断れるわけが、なかった。
要は、顔を上げて、ぱっと表情を明るくする。
「マジ!? 助かる!」
そして、いつもの、あの笑顔で。
「やっぱ涼宮、優しいなぁ。
迷惑かけ無いよーに、できるだけ早く成仏すっから!」
その言葉が、胸に、少しだけ、深く刺さった。
優華は、ただ、小さく頷く。
それが自分で選んだ道なのか、
優しさという名の逃げ場のなさなのか。
もう、分からなくなっていた。
第四章 引きずる面影
「……ん?」
突然、要がキョロキョロと辺りを見渡し、少し焦った声を上げた。
「ど、どうしたの?」
優華が声をかけると、要は顔を青ざめさせ、必死で言葉を紡ぐ。
「やっべぇ……なんか........
なんか、涼宮から離れらん無くなってる……っぽい!!」
「……え゙っ!?」
優華の口から、聞いたこともないような、濁点の付いた悲鳴のような
声が出た。
「ちょ、見ててみ? 俺があっち行こうとしても……」
要は、全力で優華から離れようと試みる。
手を振り、足を大きく踏み出す――
だが、走り出して2、3メートルほど離れたところで、
いきなり動きが止まった。
まるで見えない壁に阻まれたかのように。
もしくは、ランニングマシンに乗っているかのように――
どれだけ足を動かしても、前には進めない。
「ほらな?! どういう仕組みなん、これ!!」
要は必死に手を伸ばし、体を揺すってみるが、状況は変わらない。
「え……嘘、ちょっ……これ、どうするの……っ!?」
優華も、唇を震わせ、思わず後ずさる。
視界には、目の前で宙に浮くように立ち往生する要。
「……えっと、あ、かっ、要くん……?」
優華が恐る恐る手を伸ばすと、要は小さく振り返り、目を丸くした。
「なにこれ……助けてぇぇ……!」
幽霊で、この状況の発端である張本人なのに、完全にパニック状態。
その姿は滑稽で、でもどこか切なく、優華の心臓をぎゅっと掴んだ。
優華は思わず、頭を抱え、どうしたらいいか分からないまま、
深く息をついた。
* * *
「はぁ、はぁ………ど…どうしようか……これ」
ひとしきり、色んなことを試してみた二人だったが、
時折すれ違うサラリーマン風の男性や主婦っぽい女性に、
優華が怪訝な目で見られるだけだった。
ぜぇぜぇと肩で息をしながら、頬を伝う汗を拭う優華。
その隣で、同様にぜぇぜぇと膝に手をついて息を切らす要を見て、目を丸くした。
「要く……ん、は……幽霊だか……ら……
疲れないん、……じゃ……?」
息も絶え絶えに尋ねる優華に、要は両手を上げて
お手上げポーズを取る。
「それは……っ、俺が聞きたいぃ〜〜!
はぁ……はぁ……、疲れ、たぁー……!!!」
変なところだけ幽霊らしくない要の姿に、一周回って驚きではなく
呆れを感じる優華。
でもその横に立つ自分も心底くたくたで、もう頭が回らない。
優華は小さく息をつき、ぼそりとつぶやいた。
「……要くん、とりあえず……私の家、帰って良い?」
その声には、半ば投げやりで、半ば必死な色が混ざっている。
「……あとのことは……そこで決めよ……?」
優華は、そう自分に言い聞かせるように、深く息をついた。
* * *
なんとか夜道を歩き、優華は家に辿り着いた。
「……ただいまー……」
力の抜けた声でそう言うと、母親の返事を待つこともなく、
そのまま階段を上がる。
自室のドアを開けて、ベッドに――ぼふっ、と、身を投げ出した。
その少し後ろから。
「……お邪魔しまーす……」
遠慮がちな声。
要は、靴を脱ぎ、家の中をきょろきょろと見回しながら、
まるで本当に“友達の家に初めて来た”みたいな様子で、
部屋に入ってきた。
その瞬間。
「あっ……!」
要がいることを思い出した優華は、
ばっとベッドから跳ね起き、そのまま縁に腰を下ろす。
要も、少し迷ってから、その真横に、静かに腰掛けた。
二人並んで。
「「はぁ……」」
ほとんど同時に、疲れの混じったため息が零れる。
今日は、情報量が多すぎた。
要の死。
葬式。
要との再会。
成仏と、未練の話。
そして――なぜか、離れられないという事実。
頭も心も、完全にオーバーヒートしていた。
それに加えて、さっきの意味の分からない全力ダッシュで、
体力まで削られている。
……もう、何も考えたくなかった。
優華はそのまま仰向けに寝転がった。
右手を、目を覆うように額に乗せて、ふーっと長く息を吐く。
体から力が抜けていく。
要はそんな優華を見て、気まずそうにするでもなく、
冗談を言うでもなく。
俯いて、珍しく真剣な表情をしていた。
……自分のことで、精一杯なのだろう。
無理もない。
昨日まで、普通の男子高校生だったのだ。
部活があって、友達がいて、
未来のことなんて、せいぜいテストか軽音部のライブのことくらいしか
考えていなかったはずだ。
それが、突然死んで。
でも、未練があって、成仏できなくて。
この世を、半端な形で彷徨っている。
ショックじゃないわけが、ない。
それでも。
優華が泣きそうな顔をしていたから。
だから、自分まで辛気臭い顔をするわけにはいかなかった。
要は、案外――
空気を読むのが、上手かった。
部屋には、静かな夜の音だけが流れている。
この空間で。
この距離で。
二人はようやく、今日一日の重さを、少しだけ、下ろしたのだった。
第五章 望んだ明日
「……死にたく……ねぇなぁ」
不意に、優華の耳に苦しそうに掠れた要の声が届いた。
ぽつり、と。
独り言みたいに零れ落ちた、本音。
優華の肩が、びくっと揺れる。
……聞こえていない。
私は何も聞いていなかった。
そう自分に言い聞かせて、何も聞こえなかったふりをする。
仰向けのまま、顔は動かさない。
声も出さない。
ただ、右手で覆った瞳の奥にじわりと、熱が滲んだ。
……だめ。
要くんに気づかれちゃだめだ。
優華は指先でそっと、涙を拭う。
嗚咽が漏れないように、息を殺して。
二人とも――
もう、いっぱいいっぱいだった。
大好きな人が、死んだと思ったら、幽霊として突然、目の前に現れて。
それなのに、「二度目の死」を迎える手伝いをしてほしい、なんて。
そんな残酷なお願いを、断れなかった優華。
気がついたときには、もう死んでいて、
未練があるからと、成仏できずにこの世に縛られ、同級生の女子に、
自分が消える手伝いをしてほしいと言わざるを得なかった要。
誰が耐えられるというのだろう。
2人のメンタルはもう、限界ぎりぎりだった。
生きてほしいと、願う優華。
生きたいと、願う要。
その2人の想いは似ているようで全くの別物。
同じ言葉に聞こえるのに。
……決して、同じではない。
優華の願いは、「失いたくない」という、祈りで。
要の願いは、「戻れないと分かっている」、諦めにも似た願いだった。
その二つは、交わらない。
重なったように見えて、決定的に、すれ違っている。
静かな部屋の中で。
二人は、それぞれの絶望を抱えたまま、同じ天井を見つめていた。
何も言えず。
何も、言わないまま。
夜だけが、ゆっくりと、深くなっていった。
* * *
翌朝。
――、みや。
―――ずみや。
――――涼宮!
優華は、誰かに名前を呼ばれて、ふっと目を覚ました。
「……ん……なに……?」
寝起きの、掠れた声。
ゆっくりと、重たい瞼を開く。
霞んだ視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
天井。
カーテン越しの朝の光。
そして。
鮮明になった視界の中心に、
自分の顔を覗き込んでいる、要の顔があった。
「わああああ…………っ!?!?!?」
反射的に、のけぞるように跳ね起きる。
心臓が、痛いほど鳴った。
「ちょっ、落ち着け!?」
要が慌てて手を振るが、優華の頭はまだ、完全には回っていない。
ぼんやりと霧がかかったみたいだった思考が、
数秒かけて、少しずつ、はっきりしてくる。
……夢じゃ。
夢じゃ、なかった。
胸の奥に、ふっと、何かが落ちる。
安心したような、でも同時に、心がズキッと痛むような。
そんな、不思議な感覚。
「よっす!」
要はいつもと変わらない調子で、悪戯っぽく笑った。
「びっくりした?」
「……び、びっくりするに……決まってる……!」
まだ早鐘を打つ胸を押さえながら、優華は小さく息を整える。
それでも。
目の前にいるこの人が、消えていないことを確認するみたいに、
つい、じっと見てしまう。
要はそんな視線に気づいて、首を傾げた。
「なに。俺、寝癖やばい?」
「……ち、違う……」
優華は慌てて視線を逸らしてから、小さく、でもちゃんと、言った。
「……要くん、おはよ……」
その一言に。
要は、一瞬だけ、言葉を失ったみたいに目を瞬かせて、
それから、ふっと、力の抜けた笑顔を浮かべた。
「おはよ、涼宮」
その声は、昨日よりも、ほんの少しだけ、柔らかかった。
朝の光が、二人の間に差し込む。
何も解決していない。
未練も、成仏も、これからだ。
それでも。
今日が、始まってしまった。
――幽霊の要と、それが見えてしまう、優華の。
少しだけ、奇妙で、
どうしようもなく、現実な一日が。
* * *
優華が慌てたように前髪を整えていると、
要は頭の後ろで腕を組み、天井を見上げながら口を開いた。
「なーんかさぁ」
気の抜けた声。
「幽霊になると、寝れなくなるっぽくて〜」
「……え」
「俺さ、昨日の夜、めっちゃ暇だったんだよね」
肩をすくめて、困ったように笑う。
「どうにかなんねーかな〜。マジで時間の流れ遅すぎ」
そして、ふと思いついたみたいに続けた。
「睡眠が未練とかだったら、俺詰みじゃね?」
その言い方は、どう切り取っても、
数日前までの――生きていた頃の、いつもの要だった。
その空気に触れて、優華は、胸の奥が少しだけ、緩むのを感じた。
……まるで、数日前に戻ったみたい。
「そうなんだ」
小さく笑って、答える。
「ふふ……幽霊って、睡眠欲が無いのかな」
「んな。なんかさ、映画とかで見る幽霊と全然違うよな。
思ってたのとぜんぜん違う。あ、触れないってのは想像通りか。」
「ね……違うことばっかりで、びっくり」
そんなふうに、二人で、他愛もない会話を交わしていた、その時。
コンコン、と。
部屋のドアが、軽くノックされた。
「はーい」
優華が返事をすると、ドアが開いて、母親が顔を出す。
「おはよう。朝ごはん、できてるわよ」
「あ、うん……」
優華が返そうとした、その直後。
母親は、少し首を傾げた。
「……優華、今、誰かと話してた?」
一瞬、時間が止まった。
「優華の話し声が聞こえたから。
てっきり電話でもしてるのかと思ったわ」
胸が、どくん、と鳴る。
「あっ……えっと……」
頭が、急速に回り始める。
「き、気のせいじゃないかな。お母さんの!」
少し早口で。
「わ、私、喋ってなんかないよ?」
母親は一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、
「あら、そう?」
と笑って、深く追及せずにドアを閉めた。
「じゃあ、早く降りてきなさいね」
ぱたん、とドアが閉まる音。
優華は、その場にへたり込みそうになりながら、
肩の力を抜いた。
「……はぁぁぁ……」
その様子を見ていた要が、
目を丸くしてから、ポン、と両手を打つ。
「あー......そっか!」
小さく手を叩いて。
「俺の姿が見えないってことは、声も聞こえねーのか!」
そして、少し青ざめて。
「あっぶねぇ……。
今、気づかんかったらさ、」
優華の方を見て、苦笑いする。
「涼宮、一人で話してるヤバいやつになるとこだったくね……!?」
「要くん……そういうのもっと早く気づいて……っ!」
小さく抗議しつつも、
優華は、どこか可笑しくなって、くすっと笑った。
でも同時に、この家では。
この世界では。
要は、本当に“いない存在”なのだという事実が、静かに胸に沈んだ。
日常は、もう始まっている。
——要がそこにいない前提の日常が。
それをどうやって誤魔化して、
どうやって一緒に生きていくのか、優華はまだ知らない。
ただ、今日も要は、隣にいる。
それだけが、今の支えだった。


