柊木主任の甘やかな執着
1.
「——榎原さん、例の役員会議用のプレゼン資料、完璧だったよ。専務も大絶賛していた」
「滅相もない。柊木主任が事前に方向性を整えてくれていたおかげです。私一人では、あそこまで詰めることはできませんでした」
午後5時、窓の外の空が、とっぷりと夜に染まる。会議室が並ぶフロアから広報部に戻った榎原は、柊木の後ろを歩きながら返事をした。ガラス張りの広報部フロアに、品のある声が響いた。
榎原夏月は、タブレット端末を胸元に抱え、目の前の男性にニコリと笑って見せた。どこからどう見ても、隙のない美しく完璧で品のある営業スマイルだった。
彼女の視線の先に立つ男——広報部主任、柊木冬夜は、仕立てのいいスーツのポケットに片手を突っ込んだまま、少し苦い笑みを浮かべて夏月を見下ろしていた。
「相変わらず謙虚だな。……じゃあ、俺はこれで上がるけれど、君もあまり無理しないように」
「はい、お気遣いありがとうございます、柊木主任。私は先ほどの会議を纏めてから帰ります。お疲れ様でした」
完璧な上司と、完璧な部下。
フロアに残っていた数人の社員たちが、「相変わらずあの二人は凄いな」「柊木主任も榎原さんも、仕事ができる上にスマートで憧れるよ」と囁き合っているのを、夏月の優れた聴覚は逃さず拾い上げていた。
(……今日の『榎原夏月』も完璧。100点満点)
胸の中で小さく安堵の息を吐き、夏月はデスクへと戻る。
立ち振る舞い、言葉遣い、笑顔の角度、他人の自尊心を傷つけないフォローのタイミング。そのすべてを緻密に計算し、演じ切る。
それが、夏月がこの会社で——いや、今まで生きるうえで作り上げた「鎧」だった。
————
それから三十分後。退勤時間を過ぎて、人もまばらになったフロアで夏月は会議のデータを入力していた。
「……で? さっきの専務へのフォロー、腹の中ではどう思ってたんだ?」
背後から降ってきた低い声に、夏月の肩が跳ねた。振り返らなくても誰か分かる。コツリと机に夏月が好きなカフェオレの缶が置かれる。
「……柊木主任。帰ったんじゃなかったんですか?」
「用事があったの思い出した」
さらりと言い放ち、冬夜は夏月の隣のデスクの端に軽く腰をかけた。スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を少しだけ捲り上げたその仕草すら、洗練されていて様になっている。
「……そうですか。急ぎの仕事なら、お手伝いしましょうか?」
「違う。お前を回収しにきたんだよ」
「え?」
キーボードを叩いていた夏月の手が止まる。見上げると、冬夜は置いていった缶カフェオレを顎でしゃくった。
「……専務の無駄に長いスピーチに付き合わされて、ストレス溜め込んでただろ。それ飲んで、帰るぞ?」
「……柊木主任。私はまだ、本日の議事録の整理が——」
「明日の朝、俺がチェックするついでにやれば十分、間に合う。……俺のストレス発散に、飲みに付き合ってくれませんか、榎原サン?」
(……あぁ、また、この人は私を甘やかす)
夏月の好きなカフェオレを差し入れて、彼女が隠し切ったつもりのストレスを優しく解そうと飲みに誘う。夏月を見下ろす優しい目に、彼女はいつも逆らえなかった。
夏月は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながら、小さく溜息をつく。
(……ズルいなぁ)
本当は、柊木が残っていた理由が「仕事」ではないことくらい、夏月にも分かっていた。
この人はいつだってそうだ。部下を一人で残業させないよう、あるいは夜遅くに女性一人で帰らせないよう、こうやってさりげなく理由をつけては守ってくれる。社内の誰もが憧れる、面倒見が良くて完璧な上司。夏月の微小な感情の変化——専務の相手をして疲弊していることまで見抜いて、こうして「飲みに行こう」と強引に連れ出してくれるのは、世界中でこの男だけだった。
「……柊木主任の奢りなら」
「当然」
ふっと柔らかく笑った冬夜に、夏月は「……カフェオレ、ごちそうさまです」と呟き、缶のプルタブを引いて一気に飲み干した。甘さが彼女の身に沁みた。
————
会社近くの、落ち着いた照明が灯るバーのカウンターで夏月と柊木は隣り合って座る。柊木に連れられて、何度か来たことがある店だ。カクテルだけじゃなく料理も美味しくて夏月も好きな店だった。
「——はぁ……」
一口、カンパリオレンジを口に含んだ瞬間、夏月の口から、昼間なら絶対に許されない小さな溜息が零れ落ちた。薄明かりのバーでも鮮やかなオレンジのカクテルは煌めいて見えた。その甘さと苦さを口の中に押し込むように飲み込む。
「出たな、榎原サンの『100点満点のお仕事モード』解除の音」
「……笑わないでください。柊木主任が連れ出したんじゃないですか」
「ここでは、柊木さんな? 笑ってないよ、今日もお疲れ様。専務のあの大雑把な要求を上手く打ち合わせに着地させたのは、本当にお見事って思ったよ」
冬夜は自分のグラスを夏月のグラスに軽くコツンと合わせると、愛おしそうな、けれどどこか食えない眼差しで夏月を見つめた。
「完璧すぎる笑顔の裏で、必死に頭回転させてフォロー入れてるお前の顔……嫌いじゃないよ」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
そう言って微笑む夏月の胸の奥に、甘い充足感と同時に、消えようとしない冷たい諦念が帰ってくる。
(柊木主任は、私の『優秀な部下』としての完璧な計算や、裏での努力を買ってくれている……)
甘い勘違いをしないように夏月は自分に言い聞かせて、鎧を着け直す。彼の言葉に甘えてはいけない。夏月は完璧で優秀じゃなければいけないのだ。
完璧な姉と幼い頃から比較され、追いつこうと必死に努力して隙をなくせばなくすほど、周りから返ってきたのは残酷な言葉だった。
『夏月は賢いけれど、女の子らしい可愛げがないな』
『もっと愛想よく素直になれば可愛いのに』
(……そう。私には、守ってあげたくなるような『可愛げ』なんて無い。だから、せめて完璧じゃないと)
だから夏月は、完璧な部下という鎧を着込み、柊木の隣で最高の成果を出し続けることでしか、彼に必要とされる理由を作れないのだと信じ込んでいる。
「榎原さん? どうした、急に黙り込んで」
「……いいえ。柊木さんがこうしてフォローしてくださるから、私は明日も完璧な『榎原さん』でいられるんだな、と思っていただけです」
諦めを飲み込んで綺麗な笑顔でそう返す夏月に、柊木は一瞬だけ、瞳に鋭い光を宿す。
「……お前さ、またそうやって『完璧な部下』の顔する」
冬夜の手が伸び、カウンター越しに夏月の頬に触れる。親指で、その作り込まれた綺麗な微笑みを撫で下ろすように。
「俺の前でまで、そんな仮面被らなくていいんだよ」
「……これが、私の性分ですから」
触れられた頬から熱が伝わり、心臓が痛いほど跳ねる。この優しさに甘えてしまいたい。抱きしめられたい。
けれど、可愛げのない自分の本心を晒してしまえば、きっとこの心地よい関係は壊れてしまう——
夏月は静かに目伏せ、柊木の手からそっと身を引いた。柊木の指先が虚空を掻く。
——その瞳に静かに見える柊木の瞳に、けれど逃げ場のない執着の火が灯っていることに、夏月はまだ気づいていなかった
「滅相もない。柊木主任が事前に方向性を整えてくれていたおかげです。私一人では、あそこまで詰めることはできませんでした」
午後5時、窓の外の空が、とっぷりと夜に染まる。会議室が並ぶフロアから広報部に戻った榎原は、柊木の後ろを歩きながら返事をした。ガラス張りの広報部フロアに、品のある声が響いた。
榎原夏月は、タブレット端末を胸元に抱え、目の前の男性にニコリと笑って見せた。どこからどう見ても、隙のない美しく完璧で品のある営業スマイルだった。
彼女の視線の先に立つ男——広報部主任、柊木冬夜は、仕立てのいいスーツのポケットに片手を突っ込んだまま、少し苦い笑みを浮かべて夏月を見下ろしていた。
「相変わらず謙虚だな。……じゃあ、俺はこれで上がるけれど、君もあまり無理しないように」
「はい、お気遣いありがとうございます、柊木主任。私は先ほどの会議を纏めてから帰ります。お疲れ様でした」
完璧な上司と、完璧な部下。
フロアに残っていた数人の社員たちが、「相変わらずあの二人は凄いな」「柊木主任も榎原さんも、仕事ができる上にスマートで憧れるよ」と囁き合っているのを、夏月の優れた聴覚は逃さず拾い上げていた。
(……今日の『榎原夏月』も完璧。100点満点)
胸の中で小さく安堵の息を吐き、夏月はデスクへと戻る。
立ち振る舞い、言葉遣い、笑顔の角度、他人の自尊心を傷つけないフォローのタイミング。そのすべてを緻密に計算し、演じ切る。
それが、夏月がこの会社で——いや、今まで生きるうえで作り上げた「鎧」だった。
————
それから三十分後。退勤時間を過ぎて、人もまばらになったフロアで夏月は会議のデータを入力していた。
「……で? さっきの専務へのフォロー、腹の中ではどう思ってたんだ?」
背後から降ってきた低い声に、夏月の肩が跳ねた。振り返らなくても誰か分かる。コツリと机に夏月が好きなカフェオレの缶が置かれる。
「……柊木主任。帰ったんじゃなかったんですか?」
「用事があったの思い出した」
さらりと言い放ち、冬夜は夏月の隣のデスクの端に軽く腰をかけた。スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を少しだけ捲り上げたその仕草すら、洗練されていて様になっている。
「……そうですか。急ぎの仕事なら、お手伝いしましょうか?」
「違う。お前を回収しにきたんだよ」
「え?」
キーボードを叩いていた夏月の手が止まる。見上げると、冬夜は置いていった缶カフェオレを顎でしゃくった。
「……専務の無駄に長いスピーチに付き合わされて、ストレス溜め込んでただろ。それ飲んで、帰るぞ?」
「……柊木主任。私はまだ、本日の議事録の整理が——」
「明日の朝、俺がチェックするついでにやれば十分、間に合う。……俺のストレス発散に、飲みに付き合ってくれませんか、榎原サン?」
(……あぁ、また、この人は私を甘やかす)
夏月の好きなカフェオレを差し入れて、彼女が隠し切ったつもりのストレスを優しく解そうと飲みに誘う。夏月を見下ろす優しい目に、彼女はいつも逆らえなかった。
夏月は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じながら、小さく溜息をつく。
(……ズルいなぁ)
本当は、柊木が残っていた理由が「仕事」ではないことくらい、夏月にも分かっていた。
この人はいつだってそうだ。部下を一人で残業させないよう、あるいは夜遅くに女性一人で帰らせないよう、こうやってさりげなく理由をつけては守ってくれる。社内の誰もが憧れる、面倒見が良くて完璧な上司。夏月の微小な感情の変化——専務の相手をして疲弊していることまで見抜いて、こうして「飲みに行こう」と強引に連れ出してくれるのは、世界中でこの男だけだった。
「……柊木主任の奢りなら」
「当然」
ふっと柔らかく笑った冬夜に、夏月は「……カフェオレ、ごちそうさまです」と呟き、缶のプルタブを引いて一気に飲み干した。甘さが彼女の身に沁みた。
————
会社近くの、落ち着いた照明が灯るバーのカウンターで夏月と柊木は隣り合って座る。柊木に連れられて、何度か来たことがある店だ。カクテルだけじゃなく料理も美味しくて夏月も好きな店だった。
「——はぁ……」
一口、カンパリオレンジを口に含んだ瞬間、夏月の口から、昼間なら絶対に許されない小さな溜息が零れ落ちた。薄明かりのバーでも鮮やかなオレンジのカクテルは煌めいて見えた。その甘さと苦さを口の中に押し込むように飲み込む。
「出たな、榎原サンの『100点満点のお仕事モード』解除の音」
「……笑わないでください。柊木主任が連れ出したんじゃないですか」
「ここでは、柊木さんな? 笑ってないよ、今日もお疲れ様。専務のあの大雑把な要求を上手く打ち合わせに着地させたのは、本当にお見事って思ったよ」
冬夜は自分のグラスを夏月のグラスに軽くコツンと合わせると、愛おしそうな、けれどどこか食えない眼差しで夏月を見つめた。
「完璧すぎる笑顔の裏で、必死に頭回転させてフォロー入れてるお前の顔……嫌いじゃないよ」
「……褒め言葉として受け取っておきます」
そう言って微笑む夏月の胸の奥に、甘い充足感と同時に、消えようとしない冷たい諦念が帰ってくる。
(柊木主任は、私の『優秀な部下』としての完璧な計算や、裏での努力を買ってくれている……)
甘い勘違いをしないように夏月は自分に言い聞かせて、鎧を着け直す。彼の言葉に甘えてはいけない。夏月は完璧で優秀じゃなければいけないのだ。
完璧な姉と幼い頃から比較され、追いつこうと必死に努力して隙をなくせばなくすほど、周りから返ってきたのは残酷な言葉だった。
『夏月は賢いけれど、女の子らしい可愛げがないな』
『もっと愛想よく素直になれば可愛いのに』
(……そう。私には、守ってあげたくなるような『可愛げ』なんて無い。だから、せめて完璧じゃないと)
だから夏月は、完璧な部下という鎧を着込み、柊木の隣で最高の成果を出し続けることでしか、彼に必要とされる理由を作れないのだと信じ込んでいる。
「榎原さん? どうした、急に黙り込んで」
「……いいえ。柊木さんがこうしてフォローしてくださるから、私は明日も完璧な『榎原さん』でいられるんだな、と思っていただけです」
諦めを飲み込んで綺麗な笑顔でそう返す夏月に、柊木は一瞬だけ、瞳に鋭い光を宿す。
「……お前さ、またそうやって『完璧な部下』の顔する」
冬夜の手が伸び、カウンター越しに夏月の頬に触れる。親指で、その作り込まれた綺麗な微笑みを撫で下ろすように。
「俺の前でまで、そんな仮面被らなくていいんだよ」
「……これが、私の性分ですから」
触れられた頬から熱が伝わり、心臓が痛いほど跳ねる。この優しさに甘えてしまいたい。抱きしめられたい。
けれど、可愛げのない自分の本心を晒してしまえば、きっとこの心地よい関係は壊れてしまう——
夏月は静かに目伏せ、柊木の手からそっと身を引いた。柊木の指先が虚空を掻く。
——その瞳に静かに見える柊木の瞳に、けれど逃げ場のない執着の火が灯っていることに、夏月はまだ気づいていなかった
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