柊木主任の甘やかな執着
2.
週が明け、広報部内はどこか張りつめた空気に包まれていた。
今年度最大規模となる新事業のプレスリリースと、それに伴う記者発表会の準備が佳境を迎えていたからだ。
「榎原さん、例の会場設営とメディア向けの配布資料、最終チェック終わった?」
「はい、柊木主任。全社分の差し替えデータも含めて確認済みです。プレス用のノベルティの発注数も確認しました」
「さすが榎原さん。いつも助かってる、ありがとう」
柊木がホッとしたような笑みを浮かべる。夏月はいつものように完璧な笑顔で返した。
「柊木主任の指導の賜物です」
(このままいけば、明後日の発表会は滞りなく進行できる)
胸の中で夏月が小さく安堵した、その時だった。
「——おい、大変だ! 営業部から連絡があって、今回の新事業の目玉だった提携先のロゴデータ、権利関係の都合で差し替えになったらしい!」
フロアに怒号のような声が響き渡る。
瞬時に広報部内の空気が凍りついた。発表会まであと二日。印刷に回している数千部ものプレスリリース資料、会場のパネル、配布用のメディアキット……そのすべてにロゴが使用されていた。
「そんな……今から全部刷り直しなんて、印刷所に掛け合っても物理的に間に合いませんよ!?」
「会場の大型パネルだって、施工業者に今から変更なんて言ったら激怒されるぞ……!」
慌ただしい雰囲気が広報フロアに広がる。パニックになりかけた広報部員たちに、静かな、けれど良く通る声が届いた。
「落ち着け。まずは事実確認と、損害の最小化だ」
柊木の落ち着いた声と、指示に騒然としていたフロアの空気が少しだけ落ち着きを取り戻す。
彼は仕立てのいいジャケットを羽織り直し、迷いのない足取りで広報フロアの出口を見た。
「田中さんは印刷所に連絡して、作業工程がどこまで進んでいるか止められるラインを確認。他の人間は代替案の施工業者をリストアップしてくれ。俺は今から営業部の部長と提携先に直接出向いて調整してくる」
「「はい!」」
的確で素早い指示を出して広報部員たちが一斉に動き出す中、柊木は夏月の前に歩み寄ると、声のトーンを落として短く告げた。
「榎原さんはプレスリリースのテキストデータの差し替えと、役員陣への報告書のまとめを頼む。……焦らなくていいからな」
「……はい。任せて下さい、柊木主任」
完璧な笑顔を貼り付けて、夏月は深々と頭を下げた。
しかし、柊木の背中がエレベーターの中に消えた瞬間、夏月の瞳から温度が消え失せる。
(……私が、確認を怠ったからだ)
提携先との権利調整は営業部主導だった。とはいえ、広報部の最終チェック時に夏月が、もっときちんとチェックしていれば防げたのではないかと思ってしまう。
自分が『完璧な部下』として機能していれば、もっと早くリスクに気づき、柊木の手を煩わせずに済んだかもしれないのに。
(これ以上、迷惑はかけられない。……私が出来る限り処理しなきゃ)
幼い頃の記憶が、脳裏を掠める。
完璧な姉の陰で『要領が悪くて可愛げがない』と落胆されていた日々。努力を覚えてもなお『愛嬌がなくて可愛げがない』と疎まれていた日々。努力して優秀といえる成果を出しても、なお、姉には届かず愛されない日々。
その呪縛から解き放たれ、今は『完璧』でさえあれば、必要とされるようになったのに。またあんな風に、落胆されるのは嫌だった。
ここにいる価値すらなくなってしまうという強迫観念が、夏月の心を急き立てていた。
────
それからの十二時間は、怒涛のように過ぎていった。印刷所への頭下げ、差し替え用シールの緊急手配、役員への頭下げと説明回りの資料作成。しなければいけない仕事は次から次へと湧いて出た。
夏月は水分補給すら忘れ、自分に課された以上の膨大なタスクを、一人で凄まじい精度とスピードで処理していった。他人に振れば自分が完璧ではないと晒すことになる。不用品になってしまう。だからこそ、出来る限り一人でリカバリーする道を選んだ。周囲も優秀な彼女を頼った。
午後十時……トラブルの目途が立ち、疲弊しきった部員たちが柊木の指示で帰路についた後も、夏月は一人、暗くなった広報部のフロアでPCに向かい続けていた。
画面を見つめる視界が、疲労でかすむ。指先がかすかに震えていた。胃の奥が絞り出されるように痛む。
(……あとは会場用の案内状の差し替えデータをまとめて……新しいロゴの承認と特急印刷のラインの確保と……)
「……いい加減にしろよ」
不意に、背後から氷のように冷たい声が響いた。
夏月が弾かれたように振り向くと、そこには外回りから戻ってきたばかりの柊木が立っていた。
普段の洗練された余裕のある雰囲気は消え失せ、ネクタイはわずかに緩められ、その瞳には見たこともないほどの深い怒りと闇が宿っていた。
「……柊木主任、トラブルの対応お疲れ様でした。メディア向けの修正データの準備は完了です。新しいロゴの承認と特急印刷のラインの確保は、これから——」
夏月はいつものように、完璧で上品な笑顔を浮かべて報告しようとした。ミスを完璧に処理しきった『完璧な部下』としての笑みを浮かべようとした瞬間——
バンッ、と激しい音が響いた。
柊木が夏月のデスクに強く手を突き、彼女の目を射るように見ていた
「柊木主任……?」
「誰が、そこまで無理しろって言った?」
囁くのうな声は、低く、重く、激しい怒りに震えていた。
「他人に仕事を振らず、全部自分で抱え込んで、一人で無理して……何が『完了させておきました』だ。今の顔、鏡で見たか?」
「……私は、当然のフォローをしただけです。元々は私のミスですから、他の人や柊木主任の手を煩わせるわけにはいきません」
疲労を隠しきれないまま、それでも夏月は無理矢理、笑みを貼り付けた。涙を一滴も流さず、自分の限界すら「当然の代償」として受け入れている、冷たく痛々しいほどの諦念の中で咲いた微笑み。その痛々しさに柊木の顔が曇る。
「……完璧じゃなきゃ価値がないから。……そう思ってないか?」
柊木の言葉に、夏月の息が止まった。
「前からそうだ。お前は追い詰められれば追い詰められるほど、そうやって泣きもしないで、完璧な仮面被って笑う」
柊木の脳裏には、4年前の雨の日の記憶が鮮明に蘇っていた。柊木が夏月の指導係になって間もない頃、他部署の理不尽な押し付けで連日、残業をしていた彼女。あの時も夏月は、ボロボロになりながらも『私、昔から要領が悪くて可愛げがないので、こうやって努力するしかないんです』と、泣きもせず——諦めた顔で笑っていたのだ。
その不器用で、痛々しいほど健気な姿を追ううちに。指導係として一緒に過ごし、その努力を知るうちに。時折見せる、柔らかなそのままの笑顔を見るうちに。
——柊木は恋に落ちていた
「……諦めてるなら、何ですか?」
夏月は静かに目伏せ、冷えた声で呟いた。
「私には、守ってもらえるような可愛げなんて最初から無いんです。だから、こうやって一人で処理して、完璧な成果物でいるしかないんです。柊木主任だって……優秀な部下としての私が必要なだけでしょう?」
その瞬間、柊木の理性が、音を立てて吹き飛んだ。
「……ふざけるな。俺がどれだけ……」
今年度最大規模となる新事業のプレスリリースと、それに伴う記者発表会の準備が佳境を迎えていたからだ。
「榎原さん、例の会場設営とメディア向けの配布資料、最終チェック終わった?」
「はい、柊木主任。全社分の差し替えデータも含めて確認済みです。プレス用のノベルティの発注数も確認しました」
「さすが榎原さん。いつも助かってる、ありがとう」
柊木がホッとしたような笑みを浮かべる。夏月はいつものように完璧な笑顔で返した。
「柊木主任の指導の賜物です」
(このままいけば、明後日の発表会は滞りなく進行できる)
胸の中で夏月が小さく安堵した、その時だった。
「——おい、大変だ! 営業部から連絡があって、今回の新事業の目玉だった提携先のロゴデータ、権利関係の都合で差し替えになったらしい!」
フロアに怒号のような声が響き渡る。
瞬時に広報部内の空気が凍りついた。発表会まであと二日。印刷に回している数千部ものプレスリリース資料、会場のパネル、配布用のメディアキット……そのすべてにロゴが使用されていた。
「そんな……今から全部刷り直しなんて、印刷所に掛け合っても物理的に間に合いませんよ!?」
「会場の大型パネルだって、施工業者に今から変更なんて言ったら激怒されるぞ……!」
慌ただしい雰囲気が広報フロアに広がる。パニックになりかけた広報部員たちに、静かな、けれど良く通る声が届いた。
「落ち着け。まずは事実確認と、損害の最小化だ」
柊木の落ち着いた声と、指示に騒然としていたフロアの空気が少しだけ落ち着きを取り戻す。
彼は仕立てのいいジャケットを羽織り直し、迷いのない足取りで広報フロアの出口を見た。
「田中さんは印刷所に連絡して、作業工程がどこまで進んでいるか止められるラインを確認。他の人間は代替案の施工業者をリストアップしてくれ。俺は今から営業部の部長と提携先に直接出向いて調整してくる」
「「はい!」」
的確で素早い指示を出して広報部員たちが一斉に動き出す中、柊木は夏月の前に歩み寄ると、声のトーンを落として短く告げた。
「榎原さんはプレスリリースのテキストデータの差し替えと、役員陣への報告書のまとめを頼む。……焦らなくていいからな」
「……はい。任せて下さい、柊木主任」
完璧な笑顔を貼り付けて、夏月は深々と頭を下げた。
しかし、柊木の背中がエレベーターの中に消えた瞬間、夏月の瞳から温度が消え失せる。
(……私が、確認を怠ったからだ)
提携先との権利調整は営業部主導だった。とはいえ、広報部の最終チェック時に夏月が、もっときちんとチェックしていれば防げたのではないかと思ってしまう。
自分が『完璧な部下』として機能していれば、もっと早くリスクに気づき、柊木の手を煩わせずに済んだかもしれないのに。
(これ以上、迷惑はかけられない。……私が出来る限り処理しなきゃ)
幼い頃の記憶が、脳裏を掠める。
完璧な姉の陰で『要領が悪くて可愛げがない』と落胆されていた日々。努力を覚えてもなお『愛嬌がなくて可愛げがない』と疎まれていた日々。努力して優秀といえる成果を出しても、なお、姉には届かず愛されない日々。
その呪縛から解き放たれ、今は『完璧』でさえあれば、必要とされるようになったのに。またあんな風に、落胆されるのは嫌だった。
ここにいる価値すらなくなってしまうという強迫観念が、夏月の心を急き立てていた。
────
それからの十二時間は、怒涛のように過ぎていった。印刷所への頭下げ、差し替え用シールの緊急手配、役員への頭下げと説明回りの資料作成。しなければいけない仕事は次から次へと湧いて出た。
夏月は水分補給すら忘れ、自分に課された以上の膨大なタスクを、一人で凄まじい精度とスピードで処理していった。他人に振れば自分が完璧ではないと晒すことになる。不用品になってしまう。だからこそ、出来る限り一人でリカバリーする道を選んだ。周囲も優秀な彼女を頼った。
午後十時……トラブルの目途が立ち、疲弊しきった部員たちが柊木の指示で帰路についた後も、夏月は一人、暗くなった広報部のフロアでPCに向かい続けていた。
画面を見つめる視界が、疲労でかすむ。指先がかすかに震えていた。胃の奥が絞り出されるように痛む。
(……あとは会場用の案内状の差し替えデータをまとめて……新しいロゴの承認と特急印刷のラインの確保と……)
「……いい加減にしろよ」
不意に、背後から氷のように冷たい声が響いた。
夏月が弾かれたように振り向くと、そこには外回りから戻ってきたばかりの柊木が立っていた。
普段の洗練された余裕のある雰囲気は消え失せ、ネクタイはわずかに緩められ、その瞳には見たこともないほどの深い怒りと闇が宿っていた。
「……柊木主任、トラブルの対応お疲れ様でした。メディア向けの修正データの準備は完了です。新しいロゴの承認と特急印刷のラインの確保は、これから——」
夏月はいつものように、完璧で上品な笑顔を浮かべて報告しようとした。ミスを完璧に処理しきった『完璧な部下』としての笑みを浮かべようとした瞬間——
バンッ、と激しい音が響いた。
柊木が夏月のデスクに強く手を突き、彼女の目を射るように見ていた
「柊木主任……?」
「誰が、そこまで無理しろって言った?」
囁くのうな声は、低く、重く、激しい怒りに震えていた。
「他人に仕事を振らず、全部自分で抱え込んで、一人で無理して……何が『完了させておきました』だ。今の顔、鏡で見たか?」
「……私は、当然のフォローをしただけです。元々は私のミスですから、他の人や柊木主任の手を煩わせるわけにはいきません」
疲労を隠しきれないまま、それでも夏月は無理矢理、笑みを貼り付けた。涙を一滴も流さず、自分の限界すら「当然の代償」として受け入れている、冷たく痛々しいほどの諦念の中で咲いた微笑み。その痛々しさに柊木の顔が曇る。
「……完璧じゃなきゃ価値がないから。……そう思ってないか?」
柊木の言葉に、夏月の息が止まった。
「前からそうだ。お前は追い詰められれば追い詰められるほど、そうやって泣きもしないで、完璧な仮面被って笑う」
柊木の脳裏には、4年前の雨の日の記憶が鮮明に蘇っていた。柊木が夏月の指導係になって間もない頃、他部署の理不尽な押し付けで連日、残業をしていた彼女。あの時も夏月は、ボロボロになりながらも『私、昔から要領が悪くて可愛げがないので、こうやって努力するしかないんです』と、泣きもせず——諦めた顔で笑っていたのだ。
その不器用で、痛々しいほど健気な姿を追ううちに。指導係として一緒に過ごし、その努力を知るうちに。時折見せる、柔らかなそのままの笑顔を見るうちに。
——柊木は恋に落ちていた
「……諦めてるなら、何ですか?」
夏月は静かに目伏せ、冷えた声で呟いた。
「私には、守ってもらえるような可愛げなんて最初から無いんです。だから、こうやって一人で処理して、完璧な成果物でいるしかないんです。柊木主任だって……優秀な部下としての私が必要なだけでしょう?」
その瞬間、柊木の理性が、音を立てて吹き飛んだ。
「……ふざけるな。俺がどれだけ……」


