この恋で、夜を越えて
【一章】
第一話 再遭〜さいほう〜
■赤坂:料亭水鶴
「来たばかりで悪いんやけど、牡丹の間にお帰りの声、かけてくれへんやろか?」
大女将が、葵の訪問着の裾を整えながら言った。
「はい。お車のご用意ができたと、お伝えしたらよろしおすな」
髪の乱れを直し、葵は廊下を進む。牡丹の間は、お得意様用――格式ある重厚な座敷だ。角を曲がると、仲居たちが困ったように立ちすくんでいた。
「どうしたん?」
葵が声をかけた瞬間――バシャッと水の音。続いて、カランとグラスの転がる音が聞こえた。
「……すみませんが、何か拭くものを」
申し訳なさそうに、初老の男性が顔を出した。グラスでも倒されたのだろう。葵は安心させるように微笑む。
「かしこまりました。おしぼりとタオル、すぐ持って来ておくれやす」
的確な指示を出し「失礼いたします」と襖を開けた。正座して一礼し、すっと顔をあげる。卓の上には、見合いの釣書が十数冊積まれていた。
……すごい数やな。
卓の前に、あぐらをかいて座る若い男性が一人。髪も上着もびしょ濡れだった。
「車に戻る」
上座の男性がそう言い、立ち上がり出て行った。初老の男性は、無言で深く頭を下げる。
ぽた、ぽた……髪先から雫が落ちる音。俯いたまま微動だにしない、若い男の姿。
見ていられず、葵は袂から手拭いを取り出す。
「……これ、使うてください」
葵の声に、彼の体がびくっと硬直した。
え?
葵が不思議に思った、そのとき。
ゆっくりと顔を上げた彼は――かつて、葵の心を甘く占めていた男。
榊宏雅だった。
いつも葵を翻弄するように微笑んでいた、あの美麗な瞳が虚ろに見つめてきた。
葵は、差し出しかけた手拭いを、震える手で卓の端へ置いた。
「宏雅様。こちら、一旦私がお預かりしておきます。また日を改めて、お目通り願います」
初老の男性――東堂が静かに言った。
「ああ」
葵から視線を外し、宏雅が頷く。
……宏雅“様”?
あれこれと交錯する思いを押し込んで、どうにか葵は心を立て直す。
「お車のご用意が、できております」
そう告げると、一礼して座敷を辞した。
■車寄せ
「乗って行かれますか?」
車の横で、東堂が宏雅に声をかけている。
「いや、タクシーを呼ぶから」
東堂は葵の方をちらりと見て、宏雅に問う。
「……お知り合いで?」
「昔」
短くそう言って、宏雅は葵に背を向けた。東堂も乗り込んだ黒塗りの車が、滑るように出ていく。
残されたのは彼だけ。
「……忘れ物した」
背を向けたまま、宏雅が低く言う。
「え、何ですの?」
「携帯」
不貞腐れたような声音に、懐かしい響きがあった。葵は、胸の疼きを抱えながらも微笑んだ。
「ほな、お部屋へ……どうぞ」
廊下を歩く二人の足音。四年という月日が、遠くへ霞んでいくように感じてしまう。
「ここは、ええよ」
控えていた者を下がらせる間、宏雅は沈黙したまま葵をじっと見つめた。記憶より少し痩せた彼は、かえって色気を増し、いかにも危険な男という雰囲気だった。
「どこやろな、携帯」
そう言って探そうとした葵の手を、宏雅は不意に掴んだ。ぐい、と引き寄せられて息が止まる。
「……携帯はある。話がしたくて」
何かが壊れそうになる。
それでも葵は、精一杯笑った。
「何の話やろ。うちは……もう無いよ」
懐かしい匂い。煙草と、あの夜の残り香。
……流されてはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴った、その瞬間。
「あおちゃん」
小さな声がした。
目を向けると、次の間から四歳くらいの男の子が覗いている。宏雅が息を呑み、葵から手を離した。葵は柔らかく微笑み、そっと膝をつく。
「どうしたん。こっち出てきはったら、あかんえ」
声の優しさに、宏雅の瞳が熱く揺れる。
「おやつ欲しい」
「お腹空いてはるん?」
「――ここにおったんか。えらいすみません」
慌てたように来た店の若衆が、その子を連れて下がって行った。葵は立ち上がり、ふうと小さく息を吐いた。
「子どもに優しいんだな」
宏雅の声が、葵の背中に落ちる。
「ええ?普通やろ」
笑いながら振り返った葵は、はっとした。宏雅は、親からの愛情を知らん人やった。昔、ケーキを一緒に食べた思い出が甦る。『関係ない日でも良いから』と、誕生日のようにロウソクを立てた彼の嬉しげな顔。
「良い母親、やってるってわけだ」
微笑んだ宏雅の顔は、あの夜と同じだ。胸の奥が、きゅんと鳴る。けれど、その甘い笑みの後に、宏雅の言葉が低く落ちた。
「……あれ、俺のじゃないよな?」
「え?」
「いや、だから……葵と俺の……」
口ごもる彼を、まじまじと見つめ返してから、葵は小さく吹き出した。
「あの子は……妹の子どす。うちは、お腹大きい妹の代わりに、妹の嫁ぎ先を手伝うてるだけやの」
「……そうか」
整った宏雅の頬に、わずかな陰。
「今、ほっとした顔してはったわ。榊さん」
視線を落としたまま葵は、拗ねたように呟いた。
「いや、逆だよ」
意外な返しに、思わず葵が顔を上げる。
「残念って思った……葵の子どもなら、幸せになれそうだから」
その口調の優しさに胸が震えた。
「もう、そないな事言うたら、あかんえ……」
葵の声が、かすかに揺れて先細る。
「葵」
彼に名を呼ばれて、かあっと熱くなる。
「抱きしめさせて」
返事もできずに、ただ目を瞑った。
次の瞬間、懐かしい腕の中に全てが戻ってくる。
彼への想いも、会えなかった距離さえも――その腕の中で溶けてゆく。
「来たばかりで悪いんやけど、牡丹の間にお帰りの声、かけてくれへんやろか?」
大女将が、葵の訪問着の裾を整えながら言った。
「はい。お車のご用意ができたと、お伝えしたらよろしおすな」
髪の乱れを直し、葵は廊下を進む。牡丹の間は、お得意様用――格式ある重厚な座敷だ。角を曲がると、仲居たちが困ったように立ちすくんでいた。
「どうしたん?」
葵が声をかけた瞬間――バシャッと水の音。続いて、カランとグラスの転がる音が聞こえた。
「……すみませんが、何か拭くものを」
申し訳なさそうに、初老の男性が顔を出した。グラスでも倒されたのだろう。葵は安心させるように微笑む。
「かしこまりました。おしぼりとタオル、すぐ持って来ておくれやす」
的確な指示を出し「失礼いたします」と襖を開けた。正座して一礼し、すっと顔をあげる。卓の上には、見合いの釣書が十数冊積まれていた。
……すごい数やな。
卓の前に、あぐらをかいて座る若い男性が一人。髪も上着もびしょ濡れだった。
「車に戻る」
上座の男性がそう言い、立ち上がり出て行った。初老の男性は、無言で深く頭を下げる。
ぽた、ぽた……髪先から雫が落ちる音。俯いたまま微動だにしない、若い男の姿。
見ていられず、葵は袂から手拭いを取り出す。
「……これ、使うてください」
葵の声に、彼の体がびくっと硬直した。
え?
葵が不思議に思った、そのとき。
ゆっくりと顔を上げた彼は――かつて、葵の心を甘く占めていた男。
榊宏雅だった。
いつも葵を翻弄するように微笑んでいた、あの美麗な瞳が虚ろに見つめてきた。
葵は、差し出しかけた手拭いを、震える手で卓の端へ置いた。
「宏雅様。こちら、一旦私がお預かりしておきます。また日を改めて、お目通り願います」
初老の男性――東堂が静かに言った。
「ああ」
葵から視線を外し、宏雅が頷く。
……宏雅“様”?
あれこれと交錯する思いを押し込んで、どうにか葵は心を立て直す。
「お車のご用意が、できております」
そう告げると、一礼して座敷を辞した。
■車寄せ
「乗って行かれますか?」
車の横で、東堂が宏雅に声をかけている。
「いや、タクシーを呼ぶから」
東堂は葵の方をちらりと見て、宏雅に問う。
「……お知り合いで?」
「昔」
短くそう言って、宏雅は葵に背を向けた。東堂も乗り込んだ黒塗りの車が、滑るように出ていく。
残されたのは彼だけ。
「……忘れ物した」
背を向けたまま、宏雅が低く言う。
「え、何ですの?」
「携帯」
不貞腐れたような声音に、懐かしい響きがあった。葵は、胸の疼きを抱えながらも微笑んだ。
「ほな、お部屋へ……どうぞ」
廊下を歩く二人の足音。四年という月日が、遠くへ霞んでいくように感じてしまう。
「ここは、ええよ」
控えていた者を下がらせる間、宏雅は沈黙したまま葵をじっと見つめた。記憶より少し痩せた彼は、かえって色気を増し、いかにも危険な男という雰囲気だった。
「どこやろな、携帯」
そう言って探そうとした葵の手を、宏雅は不意に掴んだ。ぐい、と引き寄せられて息が止まる。
「……携帯はある。話がしたくて」
何かが壊れそうになる。
それでも葵は、精一杯笑った。
「何の話やろ。うちは……もう無いよ」
懐かしい匂い。煙草と、あの夜の残り香。
……流されてはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴った、その瞬間。
「あおちゃん」
小さな声がした。
目を向けると、次の間から四歳くらいの男の子が覗いている。宏雅が息を呑み、葵から手を離した。葵は柔らかく微笑み、そっと膝をつく。
「どうしたん。こっち出てきはったら、あかんえ」
声の優しさに、宏雅の瞳が熱く揺れる。
「おやつ欲しい」
「お腹空いてはるん?」
「――ここにおったんか。えらいすみません」
慌てたように来た店の若衆が、その子を連れて下がって行った。葵は立ち上がり、ふうと小さく息を吐いた。
「子どもに優しいんだな」
宏雅の声が、葵の背中に落ちる。
「ええ?普通やろ」
笑いながら振り返った葵は、はっとした。宏雅は、親からの愛情を知らん人やった。昔、ケーキを一緒に食べた思い出が甦る。『関係ない日でも良いから』と、誕生日のようにロウソクを立てた彼の嬉しげな顔。
「良い母親、やってるってわけだ」
微笑んだ宏雅の顔は、あの夜と同じだ。胸の奥が、きゅんと鳴る。けれど、その甘い笑みの後に、宏雅の言葉が低く落ちた。
「……あれ、俺のじゃないよな?」
「え?」
「いや、だから……葵と俺の……」
口ごもる彼を、まじまじと見つめ返してから、葵は小さく吹き出した。
「あの子は……妹の子どす。うちは、お腹大きい妹の代わりに、妹の嫁ぎ先を手伝うてるだけやの」
「……そうか」
整った宏雅の頬に、わずかな陰。
「今、ほっとした顔してはったわ。榊さん」
視線を落としたまま葵は、拗ねたように呟いた。
「いや、逆だよ」
意外な返しに、思わず葵が顔を上げる。
「残念って思った……葵の子どもなら、幸せになれそうだから」
その口調の優しさに胸が震えた。
「もう、そないな事言うたら、あかんえ……」
葵の声が、かすかに揺れて先細る。
「葵」
彼に名を呼ばれて、かあっと熱くなる。
「抱きしめさせて」
返事もできずに、ただ目を瞑った。
次の瞬間、懐かしい腕の中に全てが戻ってくる。
彼への想いも、会えなかった距離さえも――その腕の中で溶けてゆく。