この恋で、夜を越えて
第二話 視線
~四年前~
『SAVIA MUSE HOLDINGS株式会社:サヴィア・ミューズ・ホールディングス』
舞台や映画、音楽といった芸術分野を軸に事業を広げる、新進気鋭の企業。「SAVIA=生命力」「MUSE=芸術の女神」。人と才能が息づき、受け継がれていく――そんな理想を掲げ、注目を集めていた。
その代表を務める男が、榊宏雅である。
■執務室
秘書課長の藤原理仁は、タブレットを開いていた。
「おはよう」
周囲を惑わす美声と共に、長身の男が入ってくる。整った顔立ちに甘く微笑んだ表情。完璧でいて――襟元には、緩んだネクタイ。
「おはようございます、社長。また……朝帰りですか」
声を潜めてしまう。
「ん?」
片眉を上げる社長――榊宏雅。
その仕草すら、やけに色っぽい。
「ネクタイ、昨日と同じような気が……」
「気のせいじゃないか」
涼しい顔で返されて、藤原は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。社内では既に噂が立っている。
『社長、やけに色気ある』
『誰か良い人が、いるんじゃない?』
羨望と嫉妬の入り混じった囁き。だが藤原には、表面的な話ではないと分かっている。
――宏雅は変わった。
華やかな女優やモデルたちを渡り歩いていた頃の、どこか飽き足らぬ表情では無くなった。彼の瞳には、誰かへの熱い想いが宿っている。
ああ……社長は、本気で恋をしているのだ。
その相手が誰か。
藤原には、とうにわかっている。
――星野菫。
執務室の向こうにある秘書課ブース。
ガラス越しに見える彼女の姿を、藤原は追った。静かな集中力。明るい笑顔。あの純真さが、宏雅の荒んだ部分をやわらげている。
あの子を社長直属にしたのは、自分だ。
まさか、こうなるとは……。
菫の横顔に、ほんのり艶が差しているのに気づき、藤原は軽く目を見張る。以前より、ずっと女らしい。愛される歓びに満ち、ふとした瞬間、庇護欲を誘うような――危うさを帯びている。
不意に、背後から低い声が聞こえた。
「……藤原。よこしまな目で見つめるなよ」
背筋が凍る。咳払いをして言った。
「社長ほど、淫らがましい目つきではありません」
「言ってくれる」
宏雅の声が笑いを含む。
見れば、宏雅はデスクの端に腰かけて、ネクタイを結び直しながら、彼女を見つめていた。
飢えたような危険な眼差し。
不意に、耐えきれないといった苦しげな感じで、短く息を吐いて……目を逸らした。
――全部、分かっている。
宏雅が、どれほど菫を大切に思っているか。
そして、同じだけ恐れている事も。
“本気で抱けないだろ、あんな汚れてない子を……俺みたいな男が壊しちゃ駄目だ”
以前、ふと漏らしたあの言葉。
あれこそが、宏雅の本心だと藤原は思っている。
本気でぶつからないと、何も手に入らないのに。大切に思う余り、傷つけることを恐れている。
藤原は、ずっと見てきた。
享楽的に生きてきた宏雅が、菫に出会ってから変わっていく姿を。
最初は、ただの気まぐれだと思っていた。
だが――いつしか、彼の視線は真剣に。彼女が隣にいる時だけ、宏雅の中の刹那的なものが消える。
不釣り合いだと思っていた。
遊び慣れた男と、世間知らずのお嬢様。
けれど、互いに引き寄せ合うように、視線が絡むあの瞬間――どちらが先に恋に落ちたのか、もう分からないほどだ。
……誰よりも、藤原は願っている。
宏雅と菫が、真っすぐに結ばれてほしいと。
それなのに、だ。
彼は今日も、違う女の部屋から出社してくる。
『SAVIA MUSE HOLDINGS株式会社:サヴィア・ミューズ・ホールディングス』
舞台や映画、音楽といった芸術分野を軸に事業を広げる、新進気鋭の企業。「SAVIA=生命力」「MUSE=芸術の女神」。人と才能が息づき、受け継がれていく――そんな理想を掲げ、注目を集めていた。
その代表を務める男が、榊宏雅である。
■執務室
秘書課長の藤原理仁は、タブレットを開いていた。
「おはよう」
周囲を惑わす美声と共に、長身の男が入ってくる。整った顔立ちに甘く微笑んだ表情。完璧でいて――襟元には、緩んだネクタイ。
「おはようございます、社長。また……朝帰りですか」
声を潜めてしまう。
「ん?」
片眉を上げる社長――榊宏雅。
その仕草すら、やけに色っぽい。
「ネクタイ、昨日と同じような気が……」
「気のせいじゃないか」
涼しい顔で返されて、藤原は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。社内では既に噂が立っている。
『社長、やけに色気ある』
『誰か良い人が、いるんじゃない?』
羨望と嫉妬の入り混じった囁き。だが藤原には、表面的な話ではないと分かっている。
――宏雅は変わった。
華やかな女優やモデルたちを渡り歩いていた頃の、どこか飽き足らぬ表情では無くなった。彼の瞳には、誰かへの熱い想いが宿っている。
ああ……社長は、本気で恋をしているのだ。
その相手が誰か。
藤原には、とうにわかっている。
――星野菫。
執務室の向こうにある秘書課ブース。
ガラス越しに見える彼女の姿を、藤原は追った。静かな集中力。明るい笑顔。あの純真さが、宏雅の荒んだ部分をやわらげている。
あの子を社長直属にしたのは、自分だ。
まさか、こうなるとは……。
菫の横顔に、ほんのり艶が差しているのに気づき、藤原は軽く目を見張る。以前より、ずっと女らしい。愛される歓びに満ち、ふとした瞬間、庇護欲を誘うような――危うさを帯びている。
不意に、背後から低い声が聞こえた。
「……藤原。よこしまな目で見つめるなよ」
背筋が凍る。咳払いをして言った。
「社長ほど、淫らがましい目つきではありません」
「言ってくれる」
宏雅の声が笑いを含む。
見れば、宏雅はデスクの端に腰かけて、ネクタイを結び直しながら、彼女を見つめていた。
飢えたような危険な眼差し。
不意に、耐えきれないといった苦しげな感じで、短く息を吐いて……目を逸らした。
――全部、分かっている。
宏雅が、どれほど菫を大切に思っているか。
そして、同じだけ恐れている事も。
“本気で抱けないだろ、あんな汚れてない子を……俺みたいな男が壊しちゃ駄目だ”
以前、ふと漏らしたあの言葉。
あれこそが、宏雅の本心だと藤原は思っている。
本気でぶつからないと、何も手に入らないのに。大切に思う余り、傷つけることを恐れている。
藤原は、ずっと見てきた。
享楽的に生きてきた宏雅が、菫に出会ってから変わっていく姿を。
最初は、ただの気まぐれだと思っていた。
だが――いつしか、彼の視線は真剣に。彼女が隣にいる時だけ、宏雅の中の刹那的なものが消える。
不釣り合いだと思っていた。
遊び慣れた男と、世間知らずのお嬢様。
けれど、互いに引き寄せ合うように、視線が絡むあの瞬間――どちらが先に恋に落ちたのか、もう分からないほどだ。
……誰よりも、藤原は願っている。
宏雅と菫が、真っすぐに結ばれてほしいと。
それなのに、だ。
彼は今日も、違う女の部屋から出社してくる。