この恋で、夜を越えて
第四話 融解
美術商が開いた小さな展覧会。
経済界の文化人が集い、絵画の前で語らう社交の場。
その穏やかな空間で、唐突に“彼の名前”が出た。
「そう言えば榊社長、銀座で噂だそうですね」
話し相手は取引先の常務。声に興味が混じっている。藤原は眉を上げるだけで返した。無関心を装うのは、もう慣れた。
「お相手、あの和装美人の“葵ママ”だとか。派手な仲直りを――」
「仲直り?」
「ええ、交差点でキスですよ。しかも榊社長の新車の助手席に乗せて……銀座の女たちの間じゃ、公然の秘密ですわ」
常務は、軽く笑ってグラスを傾けた。
藤原は視線を絵画に戻す。夜明け前の海――まだ明るくも暗くもない曖昧な色。
「……あの方らしいです」
呟くと、常務は羨ましそうに頷いた。
「妬み半分、羨望半分で……彼の話題で持ちきりですよ。まあ、あれだけの男ですから、放っておく女はいませんな」
「そうでしょうね」
会話を切る為に、藤原は時間を確かめるふりをした。胸に冷たい痛みが広がる。
困った方ですね、社長……。
ようやく菫と心通わせたと聞いたのは、ついこの前。あれほど頑なで、誰の手も届かなかった彼が心許し、人を愛するようになった。
その知らせを聞いた時、藤原は心底安堵した。
なのに――また夜の街へ。
孤独を埋めるように、他の女を抱いている。まるでそれでしか、心を確かめられないように。
――彼は、愛されることを信じられないのだ。
銀座という街は、メディアも踏み込まない。覆い隠すのが上手い。だからこそ、宏雅はあの場所を選んだ。菫の耳に届かない“安全な背徳”。
藤原は、眼鏡を外して眉間を押さえる。
灯りが滲んで見えた。
*
グラスの氷が音を立てた。
カフェの窓際で、葵はストローを指で弾きながら、ふと外を見る。
通りを歩く背の高い男――榊宏雅。
……どこにいても目立つ人やな。
初めて銀座で会うた晩、結局は一夜限り。連絡先も知らへんまま――数ヶ月前に祇園で、ばったり再会した時も、どうせ同じやと思ってたのに。
『おまえの京言葉、また聞かせて』
ベッドに腰かけた宏雅に、柔らかく熱く、甘い口づけの合間に、囁かれたのを思い出す。
『あかん……って、色っぽいやつ』
葵をからかい、心から楽しそうに笑った宏雅。少年みたいな笑顔に、胸がきゅんとした。
視線の先の宏雅は、落ち着いた足取りで、何を考えてるのか分からない。
女の扱いも、そう。決して雑ではないのに、時折、火がついたみたいに激しく抱く。
『二度目があるなんて羨ましい』
女たちの囁きが、耳に残っている。二度目どころか、もう何度も抱かれた。他の子たちが知らない夜を、幾つも過ごしてきた。それを、特別やと思わんようにしてきただけや。
だって、あの人の“本命”は――別にいる。
葵は名前も知らない。
でも、なんとなく分かる。夜の女じゃない。あの人の心を掴んでいる、誰かがいる。
……それでも、うちは構へんと思ってしまう。
宏雅は、他の女と泊まらない。
どんなに飲んでも、口説かれても、夜明け前には帰ってしまう。
けれど、葵の部屋には時々、泊まる。
気まぐれに連絡を寄越して『今から行っていい?』なんて言う。
新車で迎えに来て、助手席のドアを開けてくれる。交差点の信号が赤になると、不意に顔を近づけてくる。『やめてよ、人目あるやん』と笑って押しのけても、彼は悪戯めいた瞳で――唇を重ねてくる。
……そんなの、ずるいやん。
葵は、あの優しさを嬉しいと思う反面、怖くもなる。その温もりが、次の夜を望ませるから。
彼の脆さを、葵は知っている。理性を無くして、荒っぽく抱いてくる夜もある。彼が苦しんでいるのを、感じる夜もある。
それが何なのか――聞く勇気はない。
彼の痛みを、少しでも軽くできるなら……うちは、それでええんやけどな。
窓の向こうを、もう一度見る。
宏雅の姿は、とっくに見えなくなっていた。ストローを回すと、氷が音を立てて崩れた。
葵は、ひっそりと微笑んだ。
経済界の文化人が集い、絵画の前で語らう社交の場。
その穏やかな空間で、唐突に“彼の名前”が出た。
「そう言えば榊社長、銀座で噂だそうですね」
話し相手は取引先の常務。声に興味が混じっている。藤原は眉を上げるだけで返した。無関心を装うのは、もう慣れた。
「お相手、あの和装美人の“葵ママ”だとか。派手な仲直りを――」
「仲直り?」
「ええ、交差点でキスですよ。しかも榊社長の新車の助手席に乗せて……銀座の女たちの間じゃ、公然の秘密ですわ」
常務は、軽く笑ってグラスを傾けた。
藤原は視線を絵画に戻す。夜明け前の海――まだ明るくも暗くもない曖昧な色。
「……あの方らしいです」
呟くと、常務は羨ましそうに頷いた。
「妬み半分、羨望半分で……彼の話題で持ちきりですよ。まあ、あれだけの男ですから、放っておく女はいませんな」
「そうでしょうね」
会話を切る為に、藤原は時間を確かめるふりをした。胸に冷たい痛みが広がる。
困った方ですね、社長……。
ようやく菫と心通わせたと聞いたのは、ついこの前。あれほど頑なで、誰の手も届かなかった彼が心許し、人を愛するようになった。
その知らせを聞いた時、藤原は心底安堵した。
なのに――また夜の街へ。
孤独を埋めるように、他の女を抱いている。まるでそれでしか、心を確かめられないように。
――彼は、愛されることを信じられないのだ。
銀座という街は、メディアも踏み込まない。覆い隠すのが上手い。だからこそ、宏雅はあの場所を選んだ。菫の耳に届かない“安全な背徳”。
藤原は、眼鏡を外して眉間を押さえる。
灯りが滲んで見えた。
*
グラスの氷が音を立てた。
カフェの窓際で、葵はストローを指で弾きながら、ふと外を見る。
通りを歩く背の高い男――榊宏雅。
……どこにいても目立つ人やな。
初めて銀座で会うた晩、結局は一夜限り。連絡先も知らへんまま――数ヶ月前に祇園で、ばったり再会した時も、どうせ同じやと思ってたのに。
『おまえの京言葉、また聞かせて』
ベッドに腰かけた宏雅に、柔らかく熱く、甘い口づけの合間に、囁かれたのを思い出す。
『あかん……って、色っぽいやつ』
葵をからかい、心から楽しそうに笑った宏雅。少年みたいな笑顔に、胸がきゅんとした。
視線の先の宏雅は、落ち着いた足取りで、何を考えてるのか分からない。
女の扱いも、そう。決して雑ではないのに、時折、火がついたみたいに激しく抱く。
『二度目があるなんて羨ましい』
女たちの囁きが、耳に残っている。二度目どころか、もう何度も抱かれた。他の子たちが知らない夜を、幾つも過ごしてきた。それを、特別やと思わんようにしてきただけや。
だって、あの人の“本命”は――別にいる。
葵は名前も知らない。
でも、なんとなく分かる。夜の女じゃない。あの人の心を掴んでいる、誰かがいる。
……それでも、うちは構へんと思ってしまう。
宏雅は、他の女と泊まらない。
どんなに飲んでも、口説かれても、夜明け前には帰ってしまう。
けれど、葵の部屋には時々、泊まる。
気まぐれに連絡を寄越して『今から行っていい?』なんて言う。
新車で迎えに来て、助手席のドアを開けてくれる。交差点の信号が赤になると、不意に顔を近づけてくる。『やめてよ、人目あるやん』と笑って押しのけても、彼は悪戯めいた瞳で――唇を重ねてくる。
……そんなの、ずるいやん。
葵は、あの優しさを嬉しいと思う反面、怖くもなる。その温もりが、次の夜を望ませるから。
彼の脆さを、葵は知っている。理性を無くして、荒っぽく抱いてくる夜もある。彼が苦しんでいるのを、感じる夜もある。
それが何なのか――聞く勇気はない。
彼の痛みを、少しでも軽くできるなら……うちは、それでええんやけどな。
窓の向こうを、もう一度見る。
宏雅の姿は、とっくに見えなくなっていた。ストローを回すと、氷が音を立てて崩れた。
葵は、ひっそりと微笑んだ。