奴隷娼婦の成り上がり

第1話『晩秋の庭園にて』

 王宮の庭園には、秋の終わりを告げる冷たい風が吹いていた。
 風が吹き抜けるたび、枝を離れた枯れ葉が石畳の上を滑るように舞う。
 庭園の片隅に設けられた薔薇園では、季節に取り残されたように秋薔薇が咲いていた。けれど、その姿には春や初夏の華やかさはなかった。枝を彩る葉は暗く、花の数もまばらだった。それでも花々は凛と咲いていた。散りゆく季節の中で、最後の美しさを惜しむように。

「──ねぇ、知ってる?」

 ファティマ・ド・ファミーユは優雅に囁く。豪奢な椅子に腰掛けたファティマは、扇を片手に、周囲の令嬢たちへと微笑みかける。令嬢たちの視線がファティマに集まる。王国一の大貴族の当主の長女であり、いずれは王太子妃になるものと目される彼女は、いつだって令嬢たちの中心にいた。ファティマは満足そうに目を細めると、一人一人の顔を見回しながら声をひそめた。

「恩寵の館の高級娼婦が、どうして『奴隷娼婦』なんて呼ばれているのか……」
「奴隷娼婦……?」

 令嬢の一人が興味深そうに聞き返す。
 恩寵の館とは、ヴェルムート王国と教会が共同で経営する高級娼館であり、国の庇護と教会の慈善によって運営される、格式ある歓楽施設として広く知られている。王侯貴族や聖職者、大富豪など、選ばれた客だけが訪れることを許された場所で、館で働く女性たちは没落した貴族の令嬢や富豪の娘のみ。しかし何故か彼女たちは『奴隷娼婦』という俗称で呼ばれている。その理由を知る者は少ない。多くの者は、高貴な身分を失った者への侮蔑なのだと思っている。
 ファティマは、もったいぶるように扇を閉じた。

「彼女たちは無給なのよ。国と教会の庇護を受けた、高級娼婦なのに……」

 小さな驚きの声が上がった。
 令嬢たちの反応を受けて、ファティマは楽しげに言葉を続ける。

「どれほど大勢の客を取っても、報酬は得られないの。身分は高級娼婦でも、実際には一銭も自由にできない。可哀想にね……」

 令嬢たちは顔を見合わせた。
 その反応を眺めながら、ファティマは満足げに微笑む。
 こういう話が好きだった。自分よりも下にいる誰かの話。自分たちは決してあちら側に落ちることはないのだと、確かめられるような話が。自分たちのいる場所と、恩寵の館の間には、決して越えてはいけない境界がある。ファティマはその境界を強く意識する。

「高級娼婦なんて、名前だけよ。彼女たちは、最底辺の奴隷なの」
「まぁ……」
「そんな待遇だったなんて……」

 驚く者もいれば、露骨に顔をしかめる者もいる。
 けれど、誰もその話題を止めようとはしない。
 ファティマには、それが嬉しかった。
 昔からそうだった。令嬢たちと何を話せばいいのか、彼女にはよく分からなかった。王国一の大貴族には、知られてはならない秘密がある。外から見た名家の姿と内側は同じではない。上流貴族ならではの華やかな話題など、彼女には提供できなかった。けれど、誰かの失敗や不幸なら違う。皆が同じ方向を向いて笑える。そして、その中心にいるのは自分だ。話題の手綱を握るのは自分。知られてはならない秘密を探られることはない。
 ファティマは口元を扇で隠し、くすりと笑った。

「それにしても……リアーヌは、馬鹿な女だわ」

 その名前が出た瞬間、周囲の空気がわずかに変わった。
 元公爵令嬢。つい先日まで、自分たちと同じ場所にいた女。
 けれど今は──娼婦となって、恩寵の館にいる。
 ファティマは淡い色の目を細め、優雅に首を傾げた。

「殿下の寵愛を拒んで、奴隷に堕ちるなんて。リアーヌは本当に馬鹿な女ね。……そうは思わない?」
「ええ……まぁ」
「ソル=アンリ殿下のお相手を断るなんて、私にはとても……」
「でしょう?」

 ファティマは嬉しそうに笑った。
 令嬢たちは皆、自分と同じ考えだ。
 それを確認できたことが、ファティマには嬉しかった。
 けれど、胸の奥には別の感情が沈んでいる。
 リアーヌが羨ましい。ほんの少しだけ羨ましい。ソル=アンリ殿下の愛人になることを拒めるなんて。自分には、そんなことはできない。できるはずがない。ファミーユ家の娘として生まれた以上は──王国一の大貴族は、知られてはならない秘密を抱え、多くの敵に囲まれている。ファミーユ家が没落すれば、自分も道連れになるだろう。だからこそ、王太子ソル=アンリに愛されなければならない。醜く太った王太子殿下の婚約者であり続けなければならない。家名は未来を保証してくれない。高貴な身であり続けるためには、手段など選べない。だから──自分にできないことをしたリアーヌは不幸でなければならない。どこまでも惨めであってほしい。
 ファティマは、再び令嬢たちへと目を向けた。
 彼女たちは笑っている。ある者は楽しそうに、ある者は曖昧に。自分はリアーヌとは違うのだと確認するように。あるいは、そうでなければならないと自分に言い聞かせるように。それらはファティマの望んだとおりの反応だった。
 それでもファティマは、令嬢たちと自分を隔てる壁を感じていた。

 ──哀れなリアーヌ。でも……奴隷で済むなら、まだいい方だわ。本当に悲惨なのは、客を取れなくなった娼婦だもの。

 その話をすれば、令嬢たちは興味を示し、さらなる笑顔を見せるだろう。
 しかしファティマには、己の知る秘密を口にすることはできなかった。
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