奴隷娼婦の成り上がり
第2話『過ぎ去りし日の記憶』
『リアーヌ。あなたならきっと、身分の高い殿方に選ばれる素敵な女性になれるわ。だからもっと頑張りましょうね』──それが母の言葉だった。
『リアーヌ。お前の結婚相手は私が決める』──それが父の言葉だった。
ヴェルムート王国の貴族の家では、当たり前のことだった。
公爵令嬢リアーヌ・ド・ヴィエルは、誰かの妻になるために育てられた。
幼い頃から、彼女の一日はあらかじめ決められた時間割に従っていた。朝は語学と歴史、昼は音楽と舞踏、午後には礼儀作法と社交の心得。食卓での振る舞いから手紙の書き方に至るまで、身につけるべきことはいくらでもあった。
家庭教師たちは、何度も同じことを口にした。
──貴族の娘にとって、教養は飾りではありません。家の名誉を背負うための務めなのです。
リアーヌは、その言葉を疑ったことがなかった。
彼女の父、ジェラール・ド・ヴィエルは公爵であり、軍務大臣でもあった。王宮での会議に呼ばれることも多く、屋敷を空ける日も珍しくない。それでも帰宅すれば、娘の勉強の進み具合を尋ね、時には食後の茶を共にしながら、王国の歴史や戦争について話してくれた。
リアーヌは父の話が好きだった。とりわけ、戦場での判断や、勝敗を分けた小さな決断の話には夢中になった。父の書斎に並ぶ戦史の本を眺めていると、いつの間にか夕食の時間になっていることもあった。
「また戦の本か。お前は本当に飽きないな」
「お父様のお話が面白いからですわ」
「それは光栄だ。だが、舞踏の稽古も忘れるなよ。今度の夜会では、エドワール殿と踊るのだろう?」
その名を聞いて、リアーヌは読んでいた本を閉じた。
エドワール・ド・ヴェルモン──リアーヌの婚約者。彼は名門貴族の青年で、王宮にも出入りしていた。リアーヌより年上で、社交の場ではいつも自信に満ちた笑みを浮かべている。幼い頃から顔を合わせる機会があり、婚約が決まってからは、二人で過ごす時間も増えていた。
「エドワール様は、今度の夜会を楽しみにしてくださっているでしょうか……」
「さてな。本人に聞いてみればいい」
父はそう言って、娘の頭を軽く撫でた。
リアーヌは頬を緩めた。結婚した後の暮らしを想像することは、彼女にとって自然なことだった。夫を支え、家を整え、客人を迎える。いつか子どもが生まれたら、自分が受けた教育を伝えていくのだろう。それが、貴族の娘として歩む人生なのだと思っていた。
ヴェルムート王国では、貴族の身分は生まれによって保証されるものではない。
爵位は家ではなく、個人に対して与えられる。爵位を持つ者だけが貴族として国政に携わることを許される一方、その権限を子に継がせることはできない。たとえ公爵家に生まれたとしても、爵位を得られなければ、貴族としての地位は保持できない。だからこそ、貴族の家に生まれた者は、次の世代も権力の中枢にとどまれるよう、絶えず努力しなければならなかった。息子の多くは爵位を得ることによって。娘の多くは貴族に嫁ぐことによって。他人を蹴落とすことも厭わない者も、決して少なくはない。
それがこのヴェルムート王国の貴族の在り方だった。
家の名誉を守ることは、単なる誇りの問題ではなく、生き残るための条件でもあった。
リアーヌも、そのことを理解していた。自分の結婚が、父の家と婚約者の家との結びつきを強める意味を持つことも。社交の場での何気ない会話や、身につけた礼儀作法のひとつひとつが、家の評判につながることも。
それでも、エドワールとの結婚を政略だけのものだとは思いたくなかった。
彼が自分を見つめるとき、そこに愛情があるのだと信じていたかった。
何故なら──リアーヌは家庭教師に「殿方を楽しませなさい」と教えられてきたからだ。相手を立て、相手の自尊心を傷つけず、相手を怒らせず、相手の話を引き出し、相手の嘘や欲望を見抜き、相手の嫉妬心を刺激せず、相手に人前で恥をかかせないための教育を幼い頃から受けてきた。貴族の伴侶として選ばれるために。好かれるための言動を教え込まれた自分が愛されるのは当たり前のことなのだと、心のどこかで思っていた。
夜会の日、リアーヌは鏡の前に立った。
柔らかく波打つ銀色の髪には、繊細な髪飾り。淡い色のドレスは、紫の瞳を引き立てている。鏡の中の自分を見つめ、リアーヌは小さく息を吐く。鏡の中で侍女が微笑んだ。
「お嬢様、とてもお似合いです」
「ありがとう。少し、緊張しているの」
「エドワール様と踊られるからですか?」
「……ええ」
答えながら、リアーヌは胸元に手を当てた。
今夜、彼とどんな話をしよう。次に会えるのはいつだろう。結婚したら、二人でどんな家を築くのだろう。良い結婚とは、良い男性を愛することではなく、家と家にとってもっとも利益のある結合を作ることなのだと家庭教師に教わった。両親も、そのように言っている。将来について考えると、胸の奥が弾むような、重く沈むような、複雑な気分になる。
やがて、屋敷の馬車が王宮へ向かって出発した。
窓の外には、夕暮れの街並みが流れていく。石畳の道には魔術灯がともり、王都の建物が夕陽を受けて輝いている。
リアーヌは、疑っていなかった。これから先もずっと、貴族の娘として、妻として生きていくことを。自分には果たすべき務めがあり、明日も変わらず続いていくことを。自分の信じてきた自分の人生が、どれほど脆いものの上に築かれていたのかを、このときの彼女はまだ知らなかった。
『リアーヌ。お前の結婚相手は私が決める』──それが父の言葉だった。
ヴェルムート王国の貴族の家では、当たり前のことだった。
公爵令嬢リアーヌ・ド・ヴィエルは、誰かの妻になるために育てられた。
幼い頃から、彼女の一日はあらかじめ決められた時間割に従っていた。朝は語学と歴史、昼は音楽と舞踏、午後には礼儀作法と社交の心得。食卓での振る舞いから手紙の書き方に至るまで、身につけるべきことはいくらでもあった。
家庭教師たちは、何度も同じことを口にした。
──貴族の娘にとって、教養は飾りではありません。家の名誉を背負うための務めなのです。
リアーヌは、その言葉を疑ったことがなかった。
彼女の父、ジェラール・ド・ヴィエルは公爵であり、軍務大臣でもあった。王宮での会議に呼ばれることも多く、屋敷を空ける日も珍しくない。それでも帰宅すれば、娘の勉強の進み具合を尋ね、時には食後の茶を共にしながら、王国の歴史や戦争について話してくれた。
リアーヌは父の話が好きだった。とりわけ、戦場での判断や、勝敗を分けた小さな決断の話には夢中になった。父の書斎に並ぶ戦史の本を眺めていると、いつの間にか夕食の時間になっていることもあった。
「また戦の本か。お前は本当に飽きないな」
「お父様のお話が面白いからですわ」
「それは光栄だ。だが、舞踏の稽古も忘れるなよ。今度の夜会では、エドワール殿と踊るのだろう?」
その名を聞いて、リアーヌは読んでいた本を閉じた。
エドワール・ド・ヴェルモン──リアーヌの婚約者。彼は名門貴族の青年で、王宮にも出入りしていた。リアーヌより年上で、社交の場ではいつも自信に満ちた笑みを浮かべている。幼い頃から顔を合わせる機会があり、婚約が決まってからは、二人で過ごす時間も増えていた。
「エドワール様は、今度の夜会を楽しみにしてくださっているでしょうか……」
「さてな。本人に聞いてみればいい」
父はそう言って、娘の頭を軽く撫でた。
リアーヌは頬を緩めた。結婚した後の暮らしを想像することは、彼女にとって自然なことだった。夫を支え、家を整え、客人を迎える。いつか子どもが生まれたら、自分が受けた教育を伝えていくのだろう。それが、貴族の娘として歩む人生なのだと思っていた。
ヴェルムート王国では、貴族の身分は生まれによって保証されるものではない。
爵位は家ではなく、個人に対して与えられる。爵位を持つ者だけが貴族として国政に携わることを許される一方、その権限を子に継がせることはできない。たとえ公爵家に生まれたとしても、爵位を得られなければ、貴族としての地位は保持できない。だからこそ、貴族の家に生まれた者は、次の世代も権力の中枢にとどまれるよう、絶えず努力しなければならなかった。息子の多くは爵位を得ることによって。娘の多くは貴族に嫁ぐことによって。他人を蹴落とすことも厭わない者も、決して少なくはない。
それがこのヴェルムート王国の貴族の在り方だった。
家の名誉を守ることは、単なる誇りの問題ではなく、生き残るための条件でもあった。
リアーヌも、そのことを理解していた。自分の結婚が、父の家と婚約者の家との結びつきを強める意味を持つことも。社交の場での何気ない会話や、身につけた礼儀作法のひとつひとつが、家の評判につながることも。
それでも、エドワールとの結婚を政略だけのものだとは思いたくなかった。
彼が自分を見つめるとき、そこに愛情があるのだと信じていたかった。
何故なら──リアーヌは家庭教師に「殿方を楽しませなさい」と教えられてきたからだ。相手を立て、相手の自尊心を傷つけず、相手を怒らせず、相手の話を引き出し、相手の嘘や欲望を見抜き、相手の嫉妬心を刺激せず、相手に人前で恥をかかせないための教育を幼い頃から受けてきた。貴族の伴侶として選ばれるために。好かれるための言動を教え込まれた自分が愛されるのは当たり前のことなのだと、心のどこかで思っていた。
夜会の日、リアーヌは鏡の前に立った。
柔らかく波打つ銀色の髪には、繊細な髪飾り。淡い色のドレスは、紫の瞳を引き立てている。鏡の中の自分を見つめ、リアーヌは小さく息を吐く。鏡の中で侍女が微笑んだ。
「お嬢様、とてもお似合いです」
「ありがとう。少し、緊張しているの」
「エドワール様と踊られるからですか?」
「……ええ」
答えながら、リアーヌは胸元に手を当てた。
今夜、彼とどんな話をしよう。次に会えるのはいつだろう。結婚したら、二人でどんな家を築くのだろう。良い結婚とは、良い男性を愛することではなく、家と家にとってもっとも利益のある結合を作ることなのだと家庭教師に教わった。両親も、そのように言っている。将来について考えると、胸の奥が弾むような、重く沈むような、複雑な気分になる。
やがて、屋敷の馬車が王宮へ向かって出発した。
窓の外には、夕暮れの街並みが流れていく。石畳の道には魔術灯がともり、王都の建物が夕陽を受けて輝いている。
リアーヌは、疑っていなかった。これから先もずっと、貴族の娘として、妻として生きていくことを。自分には果たすべき務めがあり、明日も変わらず続いていくことを。自分の信じてきた自分の人生が、どれほど脆いものの上に築かれていたのかを、このときの彼女はまだ知らなかった。