奴隷娼婦の成り上がり
第13話『冷たい夜の名残り』
リアーヌが自分の意思で客を取ろうとしなくても、彼女に対する指名客が尽きることはなかった。彼女の父ジェラールは、元軍務大臣でありながら、罪人として処刑された、いわば時の人だった。大罪人の娘であり、美しき異端のチェンジリング・エルフでもあるリアーヌのもとには、話題性だけで多くの男が訪れた。
客が去り、夜が明けても《灰の奉仕者》であるリアーヌの仕事は終わらない。
娼婦たちが眠りについた後の館内には、客の痕跡がいくつも残されている。使用された部屋を整え、廊下を拭き、共有の場所を清める。リアーヌも、その中に混じっていた。桶を手に、廊下の床を磨く。冷たい水に布を浸し、絞る。単純作業を繰り返し、リアーヌはおのれの記憶を遠ざけようと努めた。
窓から差し込む光は淡く、廊下の石床には昨夜の喧騒が嘘のような静けさが残っていた。客にされたことや言われたことを思い出した瞬間、怒りにも似た激しい嫌悪と、薄い吐き気が込み上げる。浴室でどれだけ身体を洗っても、消えなかった汚辱感。見えない何かが皮膚にまとわりついているような不快感。それらを消そうとするように、リアーヌは黙々と床を擦った。
「……ずいぶんと熱心ね」
背後から声が聞こえて、リアーヌは手を止める。
振り返らなくても、誰なのか分かった。
「イレーヌ……」
その名を口にした途端、背後の気配がわずかに硬くなった。
──しまった。
疲労とストレスで思考力が落ちていた。
背後に立つイレーヌが、貴族だった頃の名前で呼ばれることを嫌っているのは、館で再会したときに思い知らされたはずだ。
彼女のことは、社交の場で何度か姿を見かけたことがある程度。親しく話したことはない。友人だったわけでもない。ただ、同じ貴族社会にいた顔見知り。その程度の関係でしかない相手に、このような場所で本名で呼ばれるのは嫌だろう、ということくらいは想像できる。しかし申し訳ないと思うことはできなかった。周囲の娼婦を見下す彼女の態度には同意できない。自分のことだけで精一杯のこんな時に関わり合いになりたくない。それが正直な気持ちだった。
リアーヌの背後から、低い声が返ってくる。
「……その名前で呼ばないでと言っているでしょう? 私はアイリーンよ」
「そうだったわね。ごめんなさい」
リアーヌは振り返らずに答えた。
言いながら、なんの感慨も抱くことなく、かつてのイレーヌの姿を思い出す。彼女はヴェルムート貴族の令嬢としては珍しい生き方を選ぼうとしていた。女でありながら騎士を目指し、爵位を得ようとしていたのだ。その彼女に何があってここにいるのかは分からない。辺境の貴族の一人娘の話など、社交界の噂にはのぼらなかった。人の悪口を好んで話すファティマですら、話題にしない。生き方の珍しさに反して、影の薄い娘だったのだろう。
だが、イレーヌの苛立ちは収まりそうになかった。
まるで、かつての名前を呼ばれること自体が、自分の触れられたくない部分を暴かれることであるかのように。それをしたリアーヌを打ち据えようとするように。
「……あなた、ここに来たばかりなのに、ずいぶんと馴染んだのね。毎晩毎晩客を取って。それでも貴族の娘なの? 貴族の誇りはどこにいったの?」
リアーヌは返事をせず、再び床へと視線を落とした。
布を動かす。水が石床の上を薄く広がる。好きで客を取ったわけではない、と内心で叫びながら。客にまつわる記憶をすべて、消し去ろうとするように。
次の瞬間、頭上から冷たいものが降ってきた。
「──っ!」
それは水だった。桶に入った水を、イレーヌがリアーヌに浴びせかけた。頭から肩へ、冷水が髪を濡らし、顔を伝って首筋へと流れ落ちていく。
手にしていた布が、床に落ちた。リアーヌは、しばらく動かなかった。滴る水が、まつ毛の先から落ちる。灰色のメイド服まで濡れて、肌に張りついている。
イレーヌの笑い声がした。
「ふふっ。客を取って汚れて、可哀想だったから。綺麗にしてあげたわ」
その声には、隠そうともしない嘲りが混じっていた。
リアーヌはゆっくりと振り返った。視線の先には、空になった桶を持ったイレーヌがいる。彼女は誇らしげに笑っていた。まるで、本当に親切なことをしたとでも言いたげに。
──何が貴族よ。馬鹿らしい。
リアーヌの胸の内に、冷たい感情が広がっていく。
確かに、自分は汚辱を感じている。客のことを思い出すだけで、まとわりつくような嫌悪感と殺意にも似た屈辱を感じる。いくら洗っても汚れが落ちない。汚らわしくて仕方がない。しかし、だからといって、イレーヌのような女にこんな仕打ちを受ける筋合いはない。客を取ろうとしない娼婦に、娼婦の何が分かるのか。
リアーヌは濡れた髪を指で払った。
反論しようとは思えなかった。イレーヌと関わることに意味があるとは思えなかった。毎夜、自分が客の前で耐えていることに比べれば、頭から水を浴びせられることなど、あまりにも些細だった。
リアーヌは落ちた布を拾い上げ、平坦な声で言った。
「……ありがとうございます。もう充分、綺麗になったと思います」
イレーヌの得意げな笑みが引きつった。
醜い顔だと思った。性格の悪さが顔に出ている。わざわざ客から逃げなくても、こんな女に金を払う男などいないだろう。
リアーヌはイレーヌから視線を外すと、濡れた布を桶に戻し、再び床を磨き始めた。いくら体を動かしても、濡れた布がぴったりと肌に貼り付いている。不快だった。腹立たしかった。けれど、それだけだ。この程度なら、耐えられる。だから、今は耐えなければ。エドワールが迎えに来てくれる日まで。彼は必ず来てくれる。私は良い妻になるための教育を受けたのだから──リアーヌは自分に言い聞かせた。それだけがリアーヌの支えだった。
そしてこの日の夜、エドワール・ド・ヴェルモンは恩寵の館を訪れた。
客が去り、夜が明けても《灰の奉仕者》であるリアーヌの仕事は終わらない。
娼婦たちが眠りについた後の館内には、客の痕跡がいくつも残されている。使用された部屋を整え、廊下を拭き、共有の場所を清める。リアーヌも、その中に混じっていた。桶を手に、廊下の床を磨く。冷たい水に布を浸し、絞る。単純作業を繰り返し、リアーヌはおのれの記憶を遠ざけようと努めた。
窓から差し込む光は淡く、廊下の石床には昨夜の喧騒が嘘のような静けさが残っていた。客にされたことや言われたことを思い出した瞬間、怒りにも似た激しい嫌悪と、薄い吐き気が込み上げる。浴室でどれだけ身体を洗っても、消えなかった汚辱感。見えない何かが皮膚にまとわりついているような不快感。それらを消そうとするように、リアーヌは黙々と床を擦った。
「……ずいぶんと熱心ね」
背後から声が聞こえて、リアーヌは手を止める。
振り返らなくても、誰なのか分かった。
「イレーヌ……」
その名を口にした途端、背後の気配がわずかに硬くなった。
──しまった。
疲労とストレスで思考力が落ちていた。
背後に立つイレーヌが、貴族だった頃の名前で呼ばれることを嫌っているのは、館で再会したときに思い知らされたはずだ。
彼女のことは、社交の場で何度か姿を見かけたことがある程度。親しく話したことはない。友人だったわけでもない。ただ、同じ貴族社会にいた顔見知り。その程度の関係でしかない相手に、このような場所で本名で呼ばれるのは嫌だろう、ということくらいは想像できる。しかし申し訳ないと思うことはできなかった。周囲の娼婦を見下す彼女の態度には同意できない。自分のことだけで精一杯のこんな時に関わり合いになりたくない。それが正直な気持ちだった。
リアーヌの背後から、低い声が返ってくる。
「……その名前で呼ばないでと言っているでしょう? 私はアイリーンよ」
「そうだったわね。ごめんなさい」
リアーヌは振り返らずに答えた。
言いながら、なんの感慨も抱くことなく、かつてのイレーヌの姿を思い出す。彼女はヴェルムート貴族の令嬢としては珍しい生き方を選ぼうとしていた。女でありながら騎士を目指し、爵位を得ようとしていたのだ。その彼女に何があってここにいるのかは分からない。辺境の貴族の一人娘の話など、社交界の噂にはのぼらなかった。人の悪口を好んで話すファティマですら、話題にしない。生き方の珍しさに反して、影の薄い娘だったのだろう。
だが、イレーヌの苛立ちは収まりそうになかった。
まるで、かつての名前を呼ばれること自体が、自分の触れられたくない部分を暴かれることであるかのように。それをしたリアーヌを打ち据えようとするように。
「……あなた、ここに来たばかりなのに、ずいぶんと馴染んだのね。毎晩毎晩客を取って。それでも貴族の娘なの? 貴族の誇りはどこにいったの?」
リアーヌは返事をせず、再び床へと視線を落とした。
布を動かす。水が石床の上を薄く広がる。好きで客を取ったわけではない、と内心で叫びながら。客にまつわる記憶をすべて、消し去ろうとするように。
次の瞬間、頭上から冷たいものが降ってきた。
「──っ!」
それは水だった。桶に入った水を、イレーヌがリアーヌに浴びせかけた。頭から肩へ、冷水が髪を濡らし、顔を伝って首筋へと流れ落ちていく。
手にしていた布が、床に落ちた。リアーヌは、しばらく動かなかった。滴る水が、まつ毛の先から落ちる。灰色のメイド服まで濡れて、肌に張りついている。
イレーヌの笑い声がした。
「ふふっ。客を取って汚れて、可哀想だったから。綺麗にしてあげたわ」
その声には、隠そうともしない嘲りが混じっていた。
リアーヌはゆっくりと振り返った。視線の先には、空になった桶を持ったイレーヌがいる。彼女は誇らしげに笑っていた。まるで、本当に親切なことをしたとでも言いたげに。
──何が貴族よ。馬鹿らしい。
リアーヌの胸の内に、冷たい感情が広がっていく。
確かに、自分は汚辱を感じている。客のことを思い出すだけで、まとわりつくような嫌悪感と殺意にも似た屈辱を感じる。いくら洗っても汚れが落ちない。汚らわしくて仕方がない。しかし、だからといって、イレーヌのような女にこんな仕打ちを受ける筋合いはない。客を取ろうとしない娼婦に、娼婦の何が分かるのか。
リアーヌは濡れた髪を指で払った。
反論しようとは思えなかった。イレーヌと関わることに意味があるとは思えなかった。毎夜、自分が客の前で耐えていることに比べれば、頭から水を浴びせられることなど、あまりにも些細だった。
リアーヌは落ちた布を拾い上げ、平坦な声で言った。
「……ありがとうございます。もう充分、綺麗になったと思います」
イレーヌの得意げな笑みが引きつった。
醜い顔だと思った。性格の悪さが顔に出ている。わざわざ客から逃げなくても、こんな女に金を払う男などいないだろう。
リアーヌはイレーヌから視線を外すと、濡れた布を桶に戻し、再び床を磨き始めた。いくら体を動かしても、濡れた布がぴったりと肌に貼り付いている。不快だった。腹立たしかった。けれど、それだけだ。この程度なら、耐えられる。だから、今は耐えなければ。エドワールが迎えに来てくれる日まで。彼は必ず来てくれる。私は良い妻になるための教育を受けたのだから──リアーヌは自分に言い聞かせた。それだけがリアーヌの支えだった。
そしてこの日の夜、エドワール・ド・ヴェルモンは恩寵の館を訪れた。
