奴隷娼婦の成り上がり

第12話『宴と追悼、ファティマの囁き』【3】

 戦没者追悼式典が終わった後、ソル=アンリは王宮の回廊でリアーヌ・ド・ヴィエルを呼び止めた。軍務大臣ジェラールへの怒りは、今も彼の胸の奥底に燻っているが、その娘は別だった。銀色の髪に、どこか人を寄せつけない紫の瞳。貴族令嬢としての品位を失わず、それでいて媚びるような卑しさもない。ソル=アンリは、そんなリアーヌを気に入っていた。

「リアーヌ。君が結婚した後の話だが、私の愛人にならないか」

 ソル=アンリにとって、それは寛大な申し出だった。
 王族の愛人になる。それは名誉であり、強大な権力者の寵愛を受けるということだ。この国では、既婚の貴族女性が王族の愛人となることが、暗黙の了解として認められている。夫のある身であろうと、王族に望まれれば応じる。そして身ごもった子供は、御落胤ではなく、夫婦の実子として育てる。それが社交界の常識だった。
 リアーヌは驚いた様子も見せず、静かに頭を下げた。

「お心遣いは光栄に存じます。しかし、私は複数の殿方を愛せるほど器用ではありません。婚約者ただ一人に尽くし、彼を支えることで、この国の力になりたいと考えております。どうか、お許しください」

 何を言われたのか、ソル=アンリには理解できなかった。

「……何だと?」
「私は、夫となる方を裏切りたくないのです」

 裏切りたくない。その言葉が、ソル=アンリの脳裏で不快に反響した。
 まるで自分が、彼女に不義を強いる卑劣な男であるかのようではないか。王太子の寵愛を受けることが、どうして裏切りになる? 夫への義理など、王族の恩寵に比べれば些細なものだろう。王族が貴族の妻を愛人にするという、誰もが承知している慣習を、なぜこの女だけが拒むのだ。
 ソル=アンリは、笑顔を取り繕った。王太子たる自分が、ひとりの令嬢に拒絶されたなどと、誰かに知られるわけにはいかない。

「……そうか。まあ、今すぐ返事を求めているわけではない」

 ソル=アンリがそう告げると、リアーヌは再び礼をし、踵を返した。
 引き止めることはできなかった。できるはずがなかったのだ。ここで声を荒らげれば、自分の面目が潰れる。
 遠ざかる銀髪を見つめながら、ソル=アンリは拳を握り締めた。断られたことが悔しいのではない。自分の申し出が、断るに値するものだと判断されたことが許せなかった。王太子である自分の望みを、あの女は自分の価値観ひとつで退けたのだ。

 ──リアーヌには、私の愛人になるという栄誉が理解できないらしい。父が父なら、娘も娘だ。

 ソル=アンリの目には、憎しみが宿っていた。

          ◇

 王太子の私室は、王族の権勢を誇示するように贅を尽くしていた。
 壁には繊細な装飾が施され、金細工の燭台や高価な調度品が並ぶ。深い色合いの絨毯の上には、絹張りの豪奢なカウチソファが置かれていた。その中央に腰掛けるファティマ・ド・ファミーユは、薄手のドレスをまとい、長いプラチナブロンドを肩に流している。彼女はウェーブのかかった髪を優雅な指先で整えながら、膝の上に頭を預けるソル=アンリを見下ろしていた。憂いを帯びた美しい顔立ちも、柔らかな微笑みも、ファティマのすべては絵画のような室内によく映える。だが、その膝枕に身を委ねる王太子は、肥え太った身体をソファに沈め、肉の重なった顔をさらしていた。
 ファティマは幼子をあやすようにソル=アンリに囁いた。

「……ジェラールはあなたに恥をかかせたのよ」

 いつからだろう。ソル=アンリと二人きりで過ごすとき、身分を捨てて母親のような態度で接するようになったのは。ファティマはソル=アンリの癖のない金髪を指で梳きながら、穏やかに微笑んだ。

「あんなの、わざとに決まっているわ。そうでしょう?」
「ああ……」

 ソル=アンリは横を向いたまま、平坦な声で答えた。
 ファティマはしばらく黙ってソル=アンリを見つめていた。その目は、未来の王の機嫌をうかがうというよりも、彼の胸の内を見透かそうとしているかのようだった。

「でも……ジェラールが何を言おうと、正しいのはあなたなのよ。あなたの言ったとおりだわ。ジェラールは王弟アヴィリオを王にしたいのよ」
「何故、そう思う」

 ソル=アンリはファティマのほうを見ずに訊いた。
 彼は自分に媚びへつらう者を見慣れている。ファティマが未来の王妃の地位を欲っしていることも知っている。しかし彼女の言葉がただの盲目的な追従者のものとは思えなかった。あるいは、そうであってほしいというのが彼の本心なのか。
 ファティマは、意味ありげに微笑んだ。

「だって……アヴィリオはチェンジリング・エルフの弾圧に反対しているもの」
「それがアヴィリオを王にする理由になるのか?」
「ええ。なるわ。ジェラールの娘のリアーヌは、チェンジリング・エルフだもの」

 ソル=アンリはファティマの顔を見上げた。

「……その話は本当なのか?」
「本当よ。魔力制御用の装身具を身につけていないけれど……」

 それは教会に届け出ていないことを意味している。
 聖エリオス教の教義では、エルフ族は魔物の一種とされている。魔物の血を引くチェンジリング・エルフを隠匿することは、神と教会に背く反社会的な行為であり、露見すれば異端として処罰されることになっていた。
 ファティマは声を潜め、言葉を続ける。

「リアーヌが歩いても、足音は聞こえない。すぐそばにいるのに気配も香水の匂いもしない。チェンジリング・エルフの異能力《無音歩法》を使っているのよ」

 ソル=アンリは、記憶を探った。
 確かに、以前からそんな噂を耳にしたことがある。リアーヌは人の気配を察するのが早く、足音を立てずに近づくことができる。社交界では、身のこなしが優雅だと褒められていたが、実際は人ならざる力を使っていたのだ──
 ソル=アンリは悔しげに拳を握りしめた。

「……そうだったのか。道理で──」

 ソル=アンリの心の隙間に、冷たい毒が染み込んでいく──あの女は、私の愛人になるという栄誉を拒んだ。とうてい納得のいく話ではなかったが、ようやく合点がいった。あの女は、エルフという傲慢な種族の末裔だったのだ。だから──
 ファティマの柔らかな声が、追い討ちをかける。

「ジェラールは危険よ。あの男を消さなければ、あなたは王にはなれないわ」
「ああ……そうだな……」

 ソル=アンリはにたりと笑った。
 あの父娘には、思い知らせてやらねばならない。未来の王に逆らうことが、どれほど愚かなことなのかを。そしてそれは『いつか』ではなく、そう遠くない日の話になるだろう。
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