終わらない夏

終わらない夏

 蝉の声が、幾重にも重なって耳に張りついていた。この暑さにとうとう鋸の歯が生えて、頭の中を少しずつ挽いているみたいだった。
 襟元はぐっしょり濡れて、首の後ろに貼りついている。こめかみを伝った汗が一滴、目に入った。しみて、拭おうと手を上げかける。けれど腕は何かに引かれて背中に回されていて、動かすたびにそれがきつく食い込んだ。
 違う。
 蝉じゃない。
 誰かが叫んでいる。大勢が叫んでいる。声は熱気の中でひと塊になり、いくつもの口が開いては閉じた。舌も、歯も見える。そこから吐き出されるものが、どうしても頭に入ってこない。
 ……英語、わかんないんだってば。
 うなだれると、目の前を赤い滴が落ちていった。
 ほんの小さな赤。それがぼやけた視界からこぼれ落ちると、空いたところにはすぐ陽の光が入り込んだ。何度も強くまばたきをして、ようやく二つの言葉だけを聞き取った。
 魔女。
 焼け。
 あんなにたくさんの口が、知らない言葉を吐いているのに。よりによって、この二つだけはわかってしまう。
 ここへ跳躍(ジャンプ)したのは、ひと月ほど前だった。どう見ても中世にしか思えない、どこか辺境の小さな町。何という国なのかもわからない。地名も人の名前も、耳で聞いただけでは何ひとつ手がかりにならなかった。着いた途端、人目を避けたつもりだったのに、結局見つかってしまった。
 今度は、向こうが僕に名前をつけてくれた。
 村人の一人が、松明を掲げて近づいてきた。
 火の熱が顔を打つ。身を引くと、後頭部が木の柱にぶつかった。足元にあった丸いものが転がり、かた、かた、と二度、軽く乾いた音がした。
 薪だ。
 足元を見る。何本も、何本も、積み上げられている。背中で縛られた手をもう一度動かした。縄は緩まない。さっきまでただの音だった言葉が、急にはっきりした形を持った。
 違います、と言いたかった。
 助けて、と言いたかった。
 二つが一緒に喉元まで押し寄せて、口を開けたのに、吸い込んだのは焼けるような空気だけだった。涙のほうは簡単に出た。言葉を選ぶ必要も、誰かにわかってもらう必要もない。頬を伝い、汗と混ざって、口の端を流れるものはどちらも塩辛かった。
 不意に、叫び声がやんだ。
 村人たちが振り向く。その視線を追って、黒い長衣を着た男の人に気づいた。
 胸元には十字架の刺繍。頭の真ん中だけがつるつるに剃られていて、周りを金色の髪が丸く囲んでいる。
 きっちりと。
 こんなに暑くて、騒がしくて、目の前ではまだ松明が燃えているのに、あの髪の輪だけが、きっちりしていた。
 思わず、笑いが漏れた。
 短くかすれた声は、喉を出た途端にひどく場違いに響いた。男の人がこちらを見て、慌てて口を結ぶ。
 彼は松明を持つ人に何かを言った。相手は僕を指さして、声を張り上げた。手の中の炎も揺れる。彼はその人が話し終えるまで待ってから、静かに同じことを繰り返した。
 僕は松明ばかり見ていた。
 炎が横になびけば、目もそちらへ動く。ほんの少し下がるだけで、靴の中の足指が縮こまった。あの人が何を言っているのか、一言も頭に残らなかった。
 ようやく、松明が足元の薪から離れた。
 人々が少しずつ散っていく。最後の何人かは、歩きながら何度も振り返って僕をにらんだ。足は遠ざかっても、視線だけがいつまでも顔に残った。彼は柱の後ろへ回って縄をほどき、そのまま膝をつきかけた僕を支えてくれた。
 近くで見ると、眉のあたりから汗が一滴流れ、頬を伝って襟の中へ消えていった。
 青い目も見えた。
 何もかもが汗でにじむ中、その青だけは、はっきりしていた。
 「ありがとう……」
 やっぱり出てくるのは日本語だった。
 彼は清潔な布を額に当て、ここを押さえて、と身振りで伝えた。それから肩にマントをかけ、僕を連れ出してくれた。
 マントが濡れた襟を押さえ、熱気まで中に閉じ込める。それでも僕は、しっかりと身に巻きつけていた。
 小道の両側には畑が広がっていた。働いていた人たちが農具に体を預け、こちらを見る。畦を越えてくる視線は、マントでも隠せない僕の顔に止まった。彼のそばへ、少しだけ寄る。
 彼は歩調を落としてくれた。
 だから僕も、ゆっくり歩けた。日差しに白く焼けた道を、少しずつ進んでいく。次の一歩で膝が崩れるかもしれないと、もう心配しなくてよかった。
 教会は小さく、長椅子が数列あるだけだった。座って初めて、足がずっと震えていたことに気づいた。木の座面が体を受け止めてくれても、震えのほうはもう終わったと知らないようで、膝の奥に細かく残り続けた。
 彼はステンドグラスの下に立っていた。肩に赤や青の光が落ちて、確かに少し神々しかった。
 それから、うつむいた。
 頭のてっぺんが、きらりと光った。
 「はは……ごめん、ほんとにごめん……」
 うつむいて涙を拭いても、肩が止まらない。さっき流しきれなかったものが一度に押し寄せてきて、笑っても震え、泣いても震えた。額に押し当てた布はすっかりずれていた。
 「知り合いに、あんまり似てるから」
 通じるとは思わず、日本語で言い訳した。
 そのとき、胸の奥から、覚えのある熱が上がってきた。
 汗の届かないところに潜んでいる熱だった。初めはほんの小さなものが、ゆっくり広がっていく。僕はこれを知っている。夏の日差しにどれほど肌を焼かれていても、内側からにじみ出すこの感覚は紛れなかった。
 また、行くんだ。
 まだこの人のマントを着ていて、名前さえ知らないのに。
 彼は少し笑い、教会の脇にある狭い階段を下りていった。僕は一人で座り、一息ずつ呼吸を整えながら、せめてもう少しゆっくりであってほしいと願った。
 息が整うまで。
 それくらいは。
 すぐに足音が戻ってきた。
 彼は木の椀を運んできた。
 中には砕いた氷が盛られ、淡い緑色の汁が少しかかっている。氷の角が色ガラスを通った光を受けて、細かくきらめいた。この長い暑さをほんの少しだけ砕いて、椀に入れてきたみたいだった。
 椀を見て、彼の顔を見た。
 中世の神父。
 かき氷。
 この二つが並んだせいで、暑さでただでさえ働きの悪かった頭が、完全に止まった。
 でも、あの椀の持ち方。青い目。こちらを見て、僕が何か言うのを待っている、その顔――
 「トーマス?」
 彼は僕の手に椀を渡し、隣に座った。
 ひと口、食べた。
 ミント。
 細い冷たさが舌の上に広がった。しばらく口の中に留めておく。襟はまだ湿って首に貼りつき、額も痛かったけれど、口の中のほんの狭いところだけは、ようやく休ませてもらえた。
 いちばん好きな味だった。
 彼はゆっくり、はっきりした日本語で言った。
 「今は、ジョンという名前だ」
 「本当に、君なの?」
 「そうだよ」
 「じゃあ、その髪……」
 彼は頭のてっぺんに手をやった。
 「また伸びるよ」
 また笑ってしまい、額の傷まで引きつった。彼は僕の手から布を取り、当て直してくれた。
 聞くことは山ほどあった。次々と頭の中に押し寄せるのに、最初に選んだのは、いちばん役に立たない質問だった。
 「僕のこと、知ってる?」
 「知ってる」
 彼はしばらく僕を見た。
 「でも、君とは会う順番が違う」
 うつむいて、氷を少しすくう。匙が椀の縁に触れ、小さな音がした。淡い緑の水の中で氷が動く。さっきまでくっきりしていた角が、もう丸くなり始めていた。
 「この前は僕が慰めたんだよ。お墓の前であんまり泣いてるから、どうしたらいいかわからなくて」
 彼は黙って聞いていた。
 「今度は君に助けてもらっちゃった。かき氷までついてるし」
 椀を少し持ち上げてみせる。
 「僕のほうが得してるね」
 彼も笑った。
 少ししてから、尋ねた。
 「私に会うのは、これで何回目?」
 片手を空け、指を二本立てた。
 「二回目」
 彼は懐から小さな手帳を取り出した。紙は黄ばみ、端が毛羽立っている。めくるたびに、その端が指の腹をかすめた。あるページを開き、僕の言ったことを木炭で書き留める。
 「じゃあ、君は不老不死ってこと?」
 彼はうなずいた。
 僕は匙をくわえたまま、しばらく彼を見ていた。
 「まあ、僕みたいな時間跳躍者(ジャンパー)がいるんだもん。死なない人が一人くらいいても、変じゃないか」
 彼は手帳をしまった。
 「今度は、どのくらいいられる?」
 椀では、ミントの水に浮かんだ氷がかすかに触れ合っていた。もうひと口、食べたかった。匙を入れて、淡い緑と白いかけらを一緒にすくう。それだけなのに。
 「あ、あんまり長くは――」
 熱が、一気に込み上げた。
 最後まで言えなかった。
 木の椀が長椅子にぶつかり、砕いた氷が床に散った。
 ジョンは、まだそこに座っていた。
 しばらくして腰をかがめ、匙を拾い、椀を起こした。
 黒い長衣を脱いで丁寧に畳み、説教台に置く。それから長椅子のそばに落ちたマントを拾い、外へ出ていった。
 椀の氷は、まだ溶けきっていなかった。
 
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