終わらない夏
……
海水が口に流れ込んだ。
慌てて上体を起こし、水と砂を一緒に吐き出した。額の傷に塩水がしみて、息を吸うたび顔がゆがむ。舌の奥は苦く、歯の間には細かな砂が残っていた。いくら吐いても、まだ少しある気がした。
太陽は、相変わらず頭の上にあった。
濡れた砂に座ったまま、しばらく動けなかった。服から水が滴り、上からは陽が照りつける。ほどなく、びしょ濡れの布がまた体に貼りつき始めた。
「次くらい、違う季節にしてくれないかな」
秋でもいいから。
目の前の崖に道を塞がれ、海岸沿いに迂回するしかなかった。ひとつ角を回ったところで、城壁の向こうに立ち上る煙が見えた。
町が燃えていた。
煙は上がり、灰黒い縁を、白くまぶしい空に滲ませていく。遠くで鎧が光った。一度、また一度。鋭いものが目をかすめるようだった。槍を掲げた兵士たちの兜には、見覚えのあるものがついている。
箒みたいな、あれ。
映画で見た。
古代ギリシャ?
一歩、後ずさった。
今度は縛りつけられる柱もない。誰かが間に合うとも限らない。
この時代、トーマスはもう生まれてるんだろうか。
考えるのが怖くなり、脇の斜面へ駆け出した。
元・北越小の女傑を甘く見てもらっては困る。
何年も使っていない肩書きだけど、今日くらい役に立ってほしい。
木陰に這い込んだ頃には、自分に悪態をつく力さえ残っていなかった。手のひらは擦りむけ、膝も痛い。久しぶりの肩書きは、一歩だって余計に登らせてはくれなかった。草の上にうつ伏せになり、胸の中が空っぽになるほど息をした。ようやく仰向けになれたのは、ずいぶん経ってからだった。
木漏れ日が顔に落ちた。
光は葉に細かく砕かれても、熱までは砕かれない。ひとつずつ、額に、まぶたに、持ち上げた手の甲に貼りついてくる。
目を覆った。涙が指の間を抜けて流れた。
アニメやゲームでは、タイムマシンを作れば、いつだってすごい冒険が待っている。行ける場所も、間に合うことも、あんなにたくさんある。
僕はただ、かき氷を一杯、最後まで食べたかっただけなのに。
泣くだけ泣いて顔を拭き、町の見えるところまで這っていった。
白っぽい家々が、一帯ごと黒く焼けていた。屋根と屋根の間から煙が吹き出し、さっきまで分かれていた輪郭をひとつにしている。兵士たちは人々を海へ追い立てていた。誰かが立ち止まり、すぐに突き倒された。後ろの人はその体を避けて歩き続ける。
人の流れがそこで一度割れ、また閉じた。
岩についていた手を、ゆっくり引っ込めた。
手のひらは擦りむけ、膝もまだ痛い。さっきあの斜面を登るだけで、肺まで吐き出しそうになった。息はまだ整わない。岩の熱が残る指先を曲げると、傷口まで引きつれた。
僕には助けられない。
次のジャンプまで自分が生きていられるかどうかも、わからない。
反射した光が目をかすめた。
二人の兵士が外側の山道を登ってくる。慌てて木の陰へ身を引いた。その視界の端に、斜面の下、瓦礫のそばに立つ子供が入った。
七つか八つくらい。頭を丸めている。
あの瓦礫までは十数歩しかない。木の裏から細い道が斜めに延び、崩れた壁の後ろへ通じていた。兵士たちは反対側を歩いていて、まだ壁の角を回らなければならない。
丸坊主の子は壁に手をつき、背伸びして町を見ていた。
まだ、背伸びしている。
彼らには、まるで気づいていない。
僕は座り込み、両腕できつく膝を抱えた。擦りむいた手のひらが服に触れ、焼けるように痛い。小さくなれば、それだけ木陰に隠れられる。そのわずかな陰の中へ、もっと、もっと体を縮めた。
ここにいればいい。
声を出さなければ。
膝に顔を埋めた。
「ごめんなさい……」
次の瞬間、両手で膝を強く打った。
跳ね起き、砂利を蹴り、木の陰から飛び出した。
草が脛を打つ。足が滑り、手をついて、また前へ飛び出す。
「ごめん、お父さん、お母さん」
風に押された涙がこめかみへ流れた。拭く暇もなく斜面を駆け下り、瓦礫の裏の細道へ飛び込む。
振り向きかけた子の口を手で塞ぎ、崩れた壁へ引きずり込んだ。
その子は必死にもがき、僕の手に噛みついた。
痛みで目の前が白くなった。
犬か、君は!
歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んだ。そのまま子供を引きずって、二枚の低い壁の間へ転がり込む。
金属の触れ合う音が近づいた。
子供が、急に動かなくなった。
抱き締めて、壁際にしゃがんだ。手のひらにはまだ歯が当たっている。胸が上下して、どうしても静まらない。さっき走った道が、まだ脚の中に、喉の中に続いていた。ひと息ごとに、空気が口から飛び出そうとした。
壁の外で足音が止まった。
二人とも、何も言わなかった。
汗が顎先に集まり、ぶら下がった。それを振り落とすためにうつむくことさえできない。
やがて音は、ゆっくり遠ざかっていった。
聞こえなくなってから、ようやく手を離した。
丸坊主が振り向いた。青い目を見開いて、長々と何かを言う。
僕は噛み破られた手を持ち上げた。
「怒るのはちょっと待って。ほら、もう代金は払ったから」
その子は手を見ず、町を指さした。
わからない言葉が、初めはせわしなく押し合っていた。それが次第にほどけ、声も小さくなっていく。最後にはひとつの言葉だけが残った。呼んでは止まり、また呼ぶ。
たぶん、わかった。
ママ。
しゃがんで、何か言おうとした。
唇は動いたのに、かけてやれる言葉が見つからない。僕の知っている言葉は二人の間で立ち止まり、向こうへ渡る道を見つけられずにいた。
結局、抱き締めて、そっと背中を叩くしかなかった。
初めは押しのけようとしていた子が、やがて僕の服をつかんだ。
布にこもった力は小さかった。それでも、ずっと離れなかった。
……
山の向こうには、町を逃れた人たちが集まっていた。
平たいパンを分けてくれる人も、水汲みを手伝えば食べ物をくれる人もいた。僕と丸坊主は、近くの使われていない石の家に住みついた。石は昼のあいだに少しずつ日差しを吸い込み、僕たちが寄りかかって座る頃にも、背中へ熱を返してきた。
昼間、その子は僕を水場へ案内し、僕はその子が危ないところへ行くのを止める。
二つ目のほうが、ずっと難しかった。
いつも、あの瓦礫のことばかり気にしているのだ。
一度、道を塞いで、木の枝で兵士が槍を突く真似をした。枝先を前へ出し、熱に揺れる空気の中で止める。その子には通じた。でも、急に大声で泣き始め、山の下を指さした。
「ママ」
手にした枝が、下がった。
それからは、一緒に行くことにした。
まず斜面に隠れて様子を見て、見回りが遠ざかるのを待つ。それから崩れた壁に沿って進んだ。角の向こうへは行かせず、僕は外側で見張っていた。
壁の角に隠れて、僕には見えないところがある。その子はそちらを、僕は反対側を見た。間に散らばった砂利へ陽が落ちて、目を休める場所もないほど白かった。
途中まで行っただけで、引き返さなければならない日もあった。その子が足を踏ん張って嫌がると、僕もしゃがみ、一緒にもう少しだけ町を見た。
少しだけ。
日が高くなってから、二人で帰った。
名前は教えてもらった。
長い名前だった。少なくとも、僕の舌には長すぎた。その子の口ではすらすら出てくる音が、僕の口に入ると押し合いへし合い、一歩も譲らなくなる。
何度試しても首を振られ、最後にはじれたように、もう一度言って聞かせてくれた。
「じゃあ、ナツって呼んでもいい?」
その子を指し、それから頭の上の太陽を指した。
「夏」
短い言葉だった。ようやく、舌がもつれずに済む。
向こうは、ひどく不満そうだった。
僕の名前も、うまく言ってくれなかった。何度か教えると、勝手に「テロス」みたいな響きの言葉で呼び始めた。
ゲームでレア装備を落としそうな名前だ。
直すたびにうなずくくせに、次にはまたそう呼ぶ。
まあ、いいか。こっちも本当の名前を呼べてないし。
桃太郎の話や学校の話、今思うと恥ずかしい子供の頃の話をして聞かせた。口を出た言葉は石の家をひと回りして、僕の耳に戻ってきた。たいてい反応はなかったけれど、鬼の真似をして自分の足につまずいたときだけは、少し笑ってくれた。
「今のは、お話に入ってないからね」
ますます笑った。
頭を撫でられるのも嫌いだった。手を伸ばすと、ずいぶん慣れた動きで横へ逃げる。なのに夜になると、眠気に少しずつ押されながら、自分から近づいて、くっついて座った。
昼間はあんなに離れたがるくせに、その距離を、夜には自分で埋めにくる。
手のひらの傷は、少しずつかさぶたになった。
傷の縁がつれて、かゆい。歯と砂利に残された痛みは、触れないようにすれば済む小さなところへ縮んでいった。その子の頭にも、柔らかな金髪が薄く生えた。もうつるつるではない。指を滑らせると、かすかな引っかかりがあった。
暑さは増すばかりだった。
「かき氷……」
家の外で手を扇ぎ、石ころをいじるナツにぼやいた。
手で起こす風まで熱く、一周して顔へ戻ってくる。
「かき氷、かき氷。ミントのかき氷」
ナツが顔を上げた。
手で椀の形を作り、すくって食べる真似をした。肩をすぼめ、口をゆがめ、歯にしみるところまで真剣にやる。うまく演じれば、歯だけでも先に冷たさを味わえる気がした。
長いこと眺めていたナツは、僕の手に石を一個載せた。
「これは食べられません」
手のひらの石は、日に温められていた。元の場所に返して、頬をつまむ。
「でも、その気持ちは褒めてあげよう」
それからは暑くなるたび、かき氷と言い続けた。無視されると、耳元まで寄って言った。
「かき氷。ミント味。絶対ミント味だからね」
その言葉を何度も口に含んだ。ひと口ずつ、まだ溶けない氷みたいに、角のあるままで。
どうせ、通じない。
どうせ、食べられない。
想像で涼むくらい、何もないよりましだった。
数日後、水汲みに行ったとき、水辺で覚えのある匂いに気づいた。
ごくかすかなものが熱気に混ざり、鼻先をかすめた。足を止め、もう一度嗅いで、しゃがみ込む。葉を指で揉むと、その匂いが指先から広がった。
「ミント!」
丸坊主がびくりとした。
葉を鼻先へ差し出すと、匂いを嗅ぎ、自分もしゃがんだ。僕が摘んだのと同じところから何枚かちぎる。指の間でしわくちゃになった葉から、同じ香りがした。
帰ってから、葉を木の椀に入れ、水を注いだ。
ひと口飲む。
水は、やっぱりぬるかった。
それでも口の中には、ようやく馴染みのある清涼感が残った。舌先からゆっくり広がり、すぐ消えてしまいそうで、もう少しだけ含んでいた。
「あとは氷だけだね、ナツ」
椀を渡した。
ナツは飲むと、水に浮かぶ葉を見下ろした。
……
ある日、瓦礫から帰ってきても、ナツは泣かなかった。
変わった形の瓦を拾い、ずっと持って歩いてきた。座ると、改まった顔で僕に差し出した。
どこがいいのか、わからなかった。縁も、反り具合も、色も、手がかりにはならない。それでもいつまでも差し出しているので、こちらも改まって手を伸ばし、受け取った。
夕方、二人で石の壁に寄りかかっていた。
昼間の熱が服越しに背中へ伝わる。ナツの髪についた草屑を取ってやった。薄く伸びた金髪はとても柔らかい。間に挟まった草を、指先でゆっくりつまみ出す。
眠そうにこくこくとうなずきながら、まだ僕の裾をつかんでいた。
もう一度、自分の名前をゆっくり言って聞かせた。
ひとつの音ずつ。最後まで言う頃には、僕まで知らない名前のように思えてきた。着慣れた服を裏返したら、見たことのない縫い目が現れたみたいに。
ナツが曖昧に返事をした。
「続きは、また明日ね」
頭に手を戻した。
ずっと夏でも、案外悪くない。
明日覚えられなければ、明後日でいい。
襟の下はまだ濡れていた。汗が肌に留まりすぎて、貼りつく感じにも馴染んでしまった。手の下には柔らかな髪があり、裾には離れない小さな手がある。そうして座っていると、明日も明後日も、それほど想像しにくいものではなかった。
壁の欠けたところから風が吹いた。
長いこと座ってから、ようやく、熱が皮膚だけにあるのではないと気づいた。
もっと深いところで。
ゆっくり、外へ広がっていた。
手が止まった。
ナツが顔を上げた。
息を吸って、その熱を押さえ込もうとした。でも胸に入ってくる空気まで熱く、どこを押さえればいいのかわからなかった。
もう少し、待って。
せめて、この子が眠るまで。
けれどナツは立ち上がり、家へ駆け込んだ。呼び止める間もなく、木の椀を持って戻ってくる。ミントの葉が何枚か浮かんでいた。
歩くたびに、水が揺れる。
肩をつかみ、こちらを向かせた。
「ナツ、僕、もう行かなきゃ」
ナツは僕を見ていた。
「谷に戻って、みんなと一緒にいて。一人で、どこかへ行っちゃだめだよ」
ゆっくり話した。
ひとつひとつを、できるだけ確かに、優しく置く。そうすれば、二人の間にもう少し留まってくれる気がした。長く留まれば、いつか通じるかもしれなかった。
「ここで、僕を待ってちゃだめだよ」
指が少し動き、椀の水が縁まで揺れた。
顎についていた灰を拭ってやる。
「お母さん、早く帰ってくるといいね」
今度こそ、別れの言葉を最後まで言えた。
ナツは真剣にうなずいた。
たぶん、わかっていない。僕にもそれはわかった。ナツはただ、椀をもう少しこちらへ差し出し、一生懸命、僕の発音を真似した。
「かきごおり」
受け取って、両手で包んだ。
水はまだ、ぬるかった。
海水が口に流れ込んだ。
慌てて上体を起こし、水と砂を一緒に吐き出した。額の傷に塩水がしみて、息を吸うたび顔がゆがむ。舌の奥は苦く、歯の間には細かな砂が残っていた。いくら吐いても、まだ少しある気がした。
太陽は、相変わらず頭の上にあった。
濡れた砂に座ったまま、しばらく動けなかった。服から水が滴り、上からは陽が照りつける。ほどなく、びしょ濡れの布がまた体に貼りつき始めた。
「次くらい、違う季節にしてくれないかな」
秋でもいいから。
目の前の崖に道を塞がれ、海岸沿いに迂回するしかなかった。ひとつ角を回ったところで、城壁の向こうに立ち上る煙が見えた。
町が燃えていた。
煙は上がり、灰黒い縁を、白くまぶしい空に滲ませていく。遠くで鎧が光った。一度、また一度。鋭いものが目をかすめるようだった。槍を掲げた兵士たちの兜には、見覚えのあるものがついている。
箒みたいな、あれ。
映画で見た。
古代ギリシャ?
一歩、後ずさった。
今度は縛りつけられる柱もない。誰かが間に合うとも限らない。
この時代、トーマスはもう生まれてるんだろうか。
考えるのが怖くなり、脇の斜面へ駆け出した。
元・北越小の女傑を甘く見てもらっては困る。
何年も使っていない肩書きだけど、今日くらい役に立ってほしい。
木陰に這い込んだ頃には、自分に悪態をつく力さえ残っていなかった。手のひらは擦りむけ、膝も痛い。久しぶりの肩書きは、一歩だって余計に登らせてはくれなかった。草の上にうつ伏せになり、胸の中が空っぽになるほど息をした。ようやく仰向けになれたのは、ずいぶん経ってからだった。
木漏れ日が顔に落ちた。
光は葉に細かく砕かれても、熱までは砕かれない。ひとつずつ、額に、まぶたに、持ち上げた手の甲に貼りついてくる。
目を覆った。涙が指の間を抜けて流れた。
アニメやゲームでは、タイムマシンを作れば、いつだってすごい冒険が待っている。行ける場所も、間に合うことも、あんなにたくさんある。
僕はただ、かき氷を一杯、最後まで食べたかっただけなのに。
泣くだけ泣いて顔を拭き、町の見えるところまで這っていった。
白っぽい家々が、一帯ごと黒く焼けていた。屋根と屋根の間から煙が吹き出し、さっきまで分かれていた輪郭をひとつにしている。兵士たちは人々を海へ追い立てていた。誰かが立ち止まり、すぐに突き倒された。後ろの人はその体を避けて歩き続ける。
人の流れがそこで一度割れ、また閉じた。
岩についていた手を、ゆっくり引っ込めた。
手のひらは擦りむけ、膝もまだ痛い。さっきあの斜面を登るだけで、肺まで吐き出しそうになった。息はまだ整わない。岩の熱が残る指先を曲げると、傷口まで引きつれた。
僕には助けられない。
次のジャンプまで自分が生きていられるかどうかも、わからない。
反射した光が目をかすめた。
二人の兵士が外側の山道を登ってくる。慌てて木の陰へ身を引いた。その視界の端に、斜面の下、瓦礫のそばに立つ子供が入った。
七つか八つくらい。頭を丸めている。
あの瓦礫までは十数歩しかない。木の裏から細い道が斜めに延び、崩れた壁の後ろへ通じていた。兵士たちは反対側を歩いていて、まだ壁の角を回らなければならない。
丸坊主の子は壁に手をつき、背伸びして町を見ていた。
まだ、背伸びしている。
彼らには、まるで気づいていない。
僕は座り込み、両腕できつく膝を抱えた。擦りむいた手のひらが服に触れ、焼けるように痛い。小さくなれば、それだけ木陰に隠れられる。そのわずかな陰の中へ、もっと、もっと体を縮めた。
ここにいればいい。
声を出さなければ。
膝に顔を埋めた。
「ごめんなさい……」
次の瞬間、両手で膝を強く打った。
跳ね起き、砂利を蹴り、木の陰から飛び出した。
草が脛を打つ。足が滑り、手をついて、また前へ飛び出す。
「ごめん、お父さん、お母さん」
風に押された涙がこめかみへ流れた。拭く暇もなく斜面を駆け下り、瓦礫の裏の細道へ飛び込む。
振り向きかけた子の口を手で塞ぎ、崩れた壁へ引きずり込んだ。
その子は必死にもがき、僕の手に噛みついた。
痛みで目の前が白くなった。
犬か、君は!
歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んだ。そのまま子供を引きずって、二枚の低い壁の間へ転がり込む。
金属の触れ合う音が近づいた。
子供が、急に動かなくなった。
抱き締めて、壁際にしゃがんだ。手のひらにはまだ歯が当たっている。胸が上下して、どうしても静まらない。さっき走った道が、まだ脚の中に、喉の中に続いていた。ひと息ごとに、空気が口から飛び出そうとした。
壁の外で足音が止まった。
二人とも、何も言わなかった。
汗が顎先に集まり、ぶら下がった。それを振り落とすためにうつむくことさえできない。
やがて音は、ゆっくり遠ざかっていった。
聞こえなくなってから、ようやく手を離した。
丸坊主が振り向いた。青い目を見開いて、長々と何かを言う。
僕は噛み破られた手を持ち上げた。
「怒るのはちょっと待って。ほら、もう代金は払ったから」
その子は手を見ず、町を指さした。
わからない言葉が、初めはせわしなく押し合っていた。それが次第にほどけ、声も小さくなっていく。最後にはひとつの言葉だけが残った。呼んでは止まり、また呼ぶ。
たぶん、わかった。
ママ。
しゃがんで、何か言おうとした。
唇は動いたのに、かけてやれる言葉が見つからない。僕の知っている言葉は二人の間で立ち止まり、向こうへ渡る道を見つけられずにいた。
結局、抱き締めて、そっと背中を叩くしかなかった。
初めは押しのけようとしていた子が、やがて僕の服をつかんだ。
布にこもった力は小さかった。それでも、ずっと離れなかった。
……
山の向こうには、町を逃れた人たちが集まっていた。
平たいパンを分けてくれる人も、水汲みを手伝えば食べ物をくれる人もいた。僕と丸坊主は、近くの使われていない石の家に住みついた。石は昼のあいだに少しずつ日差しを吸い込み、僕たちが寄りかかって座る頃にも、背中へ熱を返してきた。
昼間、その子は僕を水場へ案内し、僕はその子が危ないところへ行くのを止める。
二つ目のほうが、ずっと難しかった。
いつも、あの瓦礫のことばかり気にしているのだ。
一度、道を塞いで、木の枝で兵士が槍を突く真似をした。枝先を前へ出し、熱に揺れる空気の中で止める。その子には通じた。でも、急に大声で泣き始め、山の下を指さした。
「ママ」
手にした枝が、下がった。
それからは、一緒に行くことにした。
まず斜面に隠れて様子を見て、見回りが遠ざかるのを待つ。それから崩れた壁に沿って進んだ。角の向こうへは行かせず、僕は外側で見張っていた。
壁の角に隠れて、僕には見えないところがある。その子はそちらを、僕は反対側を見た。間に散らばった砂利へ陽が落ちて、目を休める場所もないほど白かった。
途中まで行っただけで、引き返さなければならない日もあった。その子が足を踏ん張って嫌がると、僕もしゃがみ、一緒にもう少しだけ町を見た。
少しだけ。
日が高くなってから、二人で帰った。
名前は教えてもらった。
長い名前だった。少なくとも、僕の舌には長すぎた。その子の口ではすらすら出てくる音が、僕の口に入ると押し合いへし合い、一歩も譲らなくなる。
何度試しても首を振られ、最後にはじれたように、もう一度言って聞かせてくれた。
「じゃあ、ナツって呼んでもいい?」
その子を指し、それから頭の上の太陽を指した。
「夏」
短い言葉だった。ようやく、舌がもつれずに済む。
向こうは、ひどく不満そうだった。
僕の名前も、うまく言ってくれなかった。何度か教えると、勝手に「テロス」みたいな響きの言葉で呼び始めた。
ゲームでレア装備を落としそうな名前だ。
直すたびにうなずくくせに、次にはまたそう呼ぶ。
まあ、いいか。こっちも本当の名前を呼べてないし。
桃太郎の話や学校の話、今思うと恥ずかしい子供の頃の話をして聞かせた。口を出た言葉は石の家をひと回りして、僕の耳に戻ってきた。たいてい反応はなかったけれど、鬼の真似をして自分の足につまずいたときだけは、少し笑ってくれた。
「今のは、お話に入ってないからね」
ますます笑った。
頭を撫でられるのも嫌いだった。手を伸ばすと、ずいぶん慣れた動きで横へ逃げる。なのに夜になると、眠気に少しずつ押されながら、自分から近づいて、くっついて座った。
昼間はあんなに離れたがるくせに、その距離を、夜には自分で埋めにくる。
手のひらの傷は、少しずつかさぶたになった。
傷の縁がつれて、かゆい。歯と砂利に残された痛みは、触れないようにすれば済む小さなところへ縮んでいった。その子の頭にも、柔らかな金髪が薄く生えた。もうつるつるではない。指を滑らせると、かすかな引っかかりがあった。
暑さは増すばかりだった。
「かき氷……」
家の外で手を扇ぎ、石ころをいじるナツにぼやいた。
手で起こす風まで熱く、一周して顔へ戻ってくる。
「かき氷、かき氷。ミントのかき氷」
ナツが顔を上げた。
手で椀の形を作り、すくって食べる真似をした。肩をすぼめ、口をゆがめ、歯にしみるところまで真剣にやる。うまく演じれば、歯だけでも先に冷たさを味わえる気がした。
長いこと眺めていたナツは、僕の手に石を一個載せた。
「これは食べられません」
手のひらの石は、日に温められていた。元の場所に返して、頬をつまむ。
「でも、その気持ちは褒めてあげよう」
それからは暑くなるたび、かき氷と言い続けた。無視されると、耳元まで寄って言った。
「かき氷。ミント味。絶対ミント味だからね」
その言葉を何度も口に含んだ。ひと口ずつ、まだ溶けない氷みたいに、角のあるままで。
どうせ、通じない。
どうせ、食べられない。
想像で涼むくらい、何もないよりましだった。
数日後、水汲みに行ったとき、水辺で覚えのある匂いに気づいた。
ごくかすかなものが熱気に混ざり、鼻先をかすめた。足を止め、もう一度嗅いで、しゃがみ込む。葉を指で揉むと、その匂いが指先から広がった。
「ミント!」
丸坊主がびくりとした。
葉を鼻先へ差し出すと、匂いを嗅ぎ、自分もしゃがんだ。僕が摘んだのと同じところから何枚かちぎる。指の間でしわくちゃになった葉から、同じ香りがした。
帰ってから、葉を木の椀に入れ、水を注いだ。
ひと口飲む。
水は、やっぱりぬるかった。
それでも口の中には、ようやく馴染みのある清涼感が残った。舌先からゆっくり広がり、すぐ消えてしまいそうで、もう少しだけ含んでいた。
「あとは氷だけだね、ナツ」
椀を渡した。
ナツは飲むと、水に浮かぶ葉を見下ろした。
……
ある日、瓦礫から帰ってきても、ナツは泣かなかった。
変わった形の瓦を拾い、ずっと持って歩いてきた。座ると、改まった顔で僕に差し出した。
どこがいいのか、わからなかった。縁も、反り具合も、色も、手がかりにはならない。それでもいつまでも差し出しているので、こちらも改まって手を伸ばし、受け取った。
夕方、二人で石の壁に寄りかかっていた。
昼間の熱が服越しに背中へ伝わる。ナツの髪についた草屑を取ってやった。薄く伸びた金髪はとても柔らかい。間に挟まった草を、指先でゆっくりつまみ出す。
眠そうにこくこくとうなずきながら、まだ僕の裾をつかんでいた。
もう一度、自分の名前をゆっくり言って聞かせた。
ひとつの音ずつ。最後まで言う頃には、僕まで知らない名前のように思えてきた。着慣れた服を裏返したら、見たことのない縫い目が現れたみたいに。
ナツが曖昧に返事をした。
「続きは、また明日ね」
頭に手を戻した。
ずっと夏でも、案外悪くない。
明日覚えられなければ、明後日でいい。
襟の下はまだ濡れていた。汗が肌に留まりすぎて、貼りつく感じにも馴染んでしまった。手の下には柔らかな髪があり、裾には離れない小さな手がある。そうして座っていると、明日も明後日も、それほど想像しにくいものではなかった。
壁の欠けたところから風が吹いた。
長いこと座ってから、ようやく、熱が皮膚だけにあるのではないと気づいた。
もっと深いところで。
ゆっくり、外へ広がっていた。
手が止まった。
ナツが顔を上げた。
息を吸って、その熱を押さえ込もうとした。でも胸に入ってくる空気まで熱く、どこを押さえればいいのかわからなかった。
もう少し、待って。
せめて、この子が眠るまで。
けれどナツは立ち上がり、家へ駆け込んだ。呼び止める間もなく、木の椀を持って戻ってくる。ミントの葉が何枚か浮かんでいた。
歩くたびに、水が揺れる。
肩をつかみ、こちらを向かせた。
「ナツ、僕、もう行かなきゃ」
ナツは僕を見ていた。
「谷に戻って、みんなと一緒にいて。一人で、どこかへ行っちゃだめだよ」
ゆっくり話した。
ひとつひとつを、できるだけ確かに、優しく置く。そうすれば、二人の間にもう少し留まってくれる気がした。長く留まれば、いつか通じるかもしれなかった。
「ここで、僕を待ってちゃだめだよ」
指が少し動き、椀の水が縁まで揺れた。
顎についていた灰を拭ってやる。
「お母さん、早く帰ってくるといいね」
今度こそ、別れの言葉を最後まで言えた。
ナツは真剣にうなずいた。
たぶん、わかっていない。僕にもそれはわかった。ナツはただ、椀をもう少しこちらへ差し出し、一生懸命、僕の発音を真似した。
「かきごおり」
受け取って、両手で包んだ。
水はまだ、ぬるかった。