終わらない夏
 ……
 手のひらには、強く握られた痛みが少し残っていた。
 もう一度指を曲げる。さっきまで押し当てていた関節を、指先で探した。
 何も、なかった。
 電車の音が耳元で途切れた。次に吸い込んだ空気は、日に温まった草木の匂いがした。靴底が砂利を踏み、一歩よろめく。支えを探して伸ばした手が、ざらつく木の幹に触れた。
 樹皮が手のひらに食い込んだ。
 手を引き、勢いよく振り返った。
 後ろには細い道があった。脇には石灯籠が立ち、木の影が斜めに落ちている。もっと高いところでは、葉が数枚、日差しに白く輝いていた。今にも薄く焼け抜けて、枝から消えてしまいそうだった。
 「クリス?」
 声は、出たきり散っていった。
 道を数歩進んで、また振り向いた。
 木一本、隔てただけかもしれない。
 曲がり角にいるのかもしれない。
 そちらへ歩いた。足元で砂利が細かく鳴った。けれど曲がっても、まだ道しかなかった。傘を差した女の人が前を通る。下駄が地面に当たり、短くはっきり響いた。しばらく見ていると、向こうもこちらを見た。それから傘を少し傾け、僕を避けて通った。
 黒い髪を後ろで結い、歩くたびに着物の袖が揺れていた。傘の下の顔立ちにも、馴染みがあった。
 日本人?
 少なくとも、そう見える。
 身振りをしようと持ち上げた手が、宙で止まった。ゆっくり下ろす。どう動かせば通じるのか、まだ考えてもいなかった手は、急に要らなくなった。今度は、そのまま話してもいいのかもしれない。まずひとつ、言葉を最後まで言って、わかる返事を待てるのかもしれない。
 「すみません……」
 日本語が、すんなり口を出た。
 彼女が足を止め、こちらを見た。
 胸につかえていた息が、そこで少し下りた。
 ここが日本かどうか、次に今は何年かを聞いた。
 明治三十一年。
 はっきり答えてくれた。
 聞き取れたのに、しばらく立ったままでいてから、ようやく頭を下げた。
 明治。
 教科書にしかなかった言葉を、彼女は何気なく口にした。天気や道の名前や、今日の行き先と同じように。傘の縁が揺れ、彼女は遠ざかっていった。一人残された僕は、さっきまで歩いていた帰り道を、少しずつ頭の中にしまった。
 線路を渡って、まっすぐ。
 それから?
 クリスに教えそびれた曲がり角は、もうどれも役に立たなかった。道は覚えているのに、そこへ行けない。
 遠すぎた。
 今度は、駅からどちらへ行けばいいかを考えることさえ、無駄だった。
 木々の奥から、蝉の声が降ってきた。枝葉を抜けた風が、少し湿った涼しさを顔に残す。風がやむと、またこめかみから汗がにじんだ。
 手を上げ、拭った。
 洗ったばかりの服だった。
 襟には、乾かしてもらった柔らかさがまだ少し残っている気がした。でも首の後ろはもう濡れている。その小さな布が貼りついて、顔を動かすたび、肌をかすかに引っ張った。
 「トーマス」
 もう一度、呼んだ。
 さっきより、小さく。
 近くの人が振り向いたので、慌てて首を振り、木陰に下がった。
 返事は、なかった。
 ……
 木陰を抜けると、まず青緑が見えた。
 高いところで、何人かの頭の上から覗いていた。もう少し進むと、巻いた髪、伏せた目、広い肩が、枝葉の向こうから少しずつ現れた。
 足が止まった。
 鎌倉の大仏。
 ほとんど考える間もなく、名前が記憶から浮かび上がり、目の前のものにぴたりと重なった。
 陽が額と肩を照らし、衣のひだに沿って落ちている。窪みは色が深く、静かに影を溜めていた。膝のあたりでは、また明るい空の光に受け止められる。
 そこに、座っていた。
 小学校の頃に見たのと、同じように。
 数歩進み、また止まって見上げた。額を汗が伝っていく。目を細めても、すぐに顔を下げるのは惜しかった。
 本当に、同じだった。
 僕は一度、その下に立ったことがある。首が痛くなっても、まだ見ていたくなった。あの頃は、とても大きくて、空までこの大仏のために空けてあるように思えた。
 あの日も、暑かった。
 帽子のつばでは日差しを防ぎきれず、リュックの紐が肩に食い込んだ。水筒の麦茶は、最後には振ると大きな音がするくらいしか残っていなかった。先生が並ぶように言い、写真の前列の子はしゃがみ、後ろの子は首を伸ばした。誰も半分しか顔が写らないのは嫌だった。
 隣の子が急に大仏の真似をして、目を伏せ、口を結んだ。
 僕は立っていられないほど笑った。
 写真を撮る人がもう手を上げ、先生がもう一度声をかけても、まだこっそり肘でつついていた。その顔、もうやめてよ、と。
 今となっては、誰だったのか、少し思い出せない。
 顔はぼやけた。
 笑い声は残っている。
 それから、写真を撮ったあとに先生が大仏を指さして言ったことも。
 あとで、ここに集合です。
 あのときは、見つけられないかもしれないなんて、少しも思わなかった。
 あんなに大きな大仏が、梢と空の間に座っている。離れるときに振り向けば、そこにいた。少し遠くまで見に行って戻ってきても、まだそこにいた。
 これだけ覚えていればよかった。
 どこを曲がったか、どちらが近いか、来るときこの木の前を通ったか。全部は覚えなくていい。顔を上げて、あの青緑さえ見えれば、遠くへ来すぎていないとわかった。
 そこまで考えて、少し笑ってしまった。
 「あなたは、ずっとここなんですね」
 小さな声だった。言ってから、大仏にそんな話し方をするのはよくない気がして、慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。
 大仏は、相手にしなかった。
 相変わらずの顔だった。
 目を伏せ、口元には、僕には読み取れない何かがあった。子供の頃は笑っていると思った。でも今は、ただ長く座り続けて、何かに急いで応じなくてもよくなっただけのようにも見えた。
 周りを、少しずつ歩いた。
 覚えていないところもあった。
 木の位置、石の色、脇へ通じる小道。あのとき見なかったのか、それともあとからできたのか。わからないまま、歩きながら頭に残る景色の隅を探した。
 記憶には明るいところも、何もないところもあった。さっきまでわかる気がしたのに、近づくと、あまり似ていない石に変わってしまう。
 でも、顔を上げれば、まだ見えた。
 あの青緑だけは、確かにそこに留まっていた。
 ようやく、足取りがゆっくりになった。
 ……
 木陰に、長いこと座っていた。
 初めは、ただ休むつもりだった。
 そのうち、立ちたくなくなった。
 ここからは入口が見えた。人が入ってきては見上げ、見終えた人は反対側へゆっくり去っていく。砂利を踏む音は近づけばはっきりし、遠ざかるとまた風に混ざった。
 誰かがあちらから来るたび、僕は少し顔を上げた。
 何度もそうしてから、自分が何を見ているのかに気づいた。
 明るい色の髪。
 周りより少し高い肩。
 あるいは、まくった袖が少し見えただけ。
 そんな切れ端が人の間から覗くと、先に目を向けた。よく見えてから、ゆっくり視線を戻した。
 両手を膝に置き、長いこと見下ろした。
 おかしいな。
 約束したわけでもないのに。
 呼べば出てくる人じゃない。いくら長く生きていても、どこかで自分の用事をしているはずだ。買い物をして、ご飯を食べて、僕の知らない誰かと話す。
 向こうは、今、夜かもしれない。
 窓辺で、僕には読めない本を開いているかもしれない。
 何年も僕に会っていなくて、今日、木の下に一人で座り、来てくれないと密かに拗ねている人のことなんて、思い出しもしないかもしれない。
 そんなことは、わかっている。
 なのにさっき、着いた途端に名前を呼んだ。
 ここがどこかも確かめず、ひと声かければ、返事があるはずだと思っていた。
 顔を両手に埋めた。
 手のひらはまだ熱かった。目を覆うと、蝉の声がもっと近くなった。
 「世話を焼くのがうますぎるのも、困るよね」
 さらに小さな声になった。
 自分に言い訳をしているだけみたいに。
 まだ、何度かしか会っていない。
 それなのに、手元へコップを置く音が恋しかった。急がずに話す声が。笑い終わるのも、まとまらない話を言い終えるのも、待ってくれることが。
 あの、「下にいるよ」も。
 そのときは、怒るので精いっぱいだった。
 でもあとで外へ出たら、本当に下にいた。
 低い塀に座り、袖をきちんとまくって、足音がすれば振り向いてくれた。
 たったひと言で、人はそこにいてくれることがあるんだ。
 僕が泣き終わって、顔を洗って、ゆっくり階段を下りてからも、まだ見つけられるところに。
 ゆっくり手を下ろした。
 目の前には、やっぱり大仏がいた。
 木の陰から誰かが出てくることも、隣に立って、疲れたか、先に座りたいかと聞いてくれることもなかった。
 脚を少し引き寄せ、通る人のために場所を空けた。
 日差しが木陰の縁を、少しずつ、こちらへ進んできていた。
 ……
 子供の頃、先生はこの大仏について、ほかにもいろいろ教えてくれた。
 いつ造り始めたのか、高さはどれくらいか、重さはどれくらいか。
 ほとんど忘れてしまった。
 あの頃は水を飲んだり、友達を探したり、帰りのバスで眠れるかを考えたりするのに忙しかった。年号はやたらに長くて、試験の紙に書くためだけにあるようだった。その下で汗だくになっている僕とは、あまり関係がなかった。
 今、見上げていると、ひどく単純なことが少しわかった。
 この大仏は、もう、こんなにたくさんの夏を座って過ごしてきたのだ。
 僕の知っている服を着た人も、知らない服を着た人も、ここへ来る。葉が伸び、落ち、また伸びる。下に立った子供は顔を上げ、途方もなく大きいと思う。何年も経って戻ってきても、やっぱり首を反らさなければ、その顔は見えない。
 覚えては忘れたあの年号は、こんなふうに、少しずつ過ぎた時間だった。
 肩に陽が当たり、衣のひだに影が落ちる。
 人が近づき、遠ざかる。
 僕が生まれる前から、ここにいた。
 小学校の遠足は、今からなら、まだずっと先だ。
 それでも、もうここにいる。
 あの騒がしい集合写真も、そこに写る、まだ大きくなっていない顔も全部、この午後から少しずつ待っていけば、やがてここへ来る。
 そう思って、座ったまま動かなかった。
 立っていられないほど笑っていた僕は、まだ来るのだ。リュックを背負い、麦茶の少しだけ残った水筒を持ち、同級生の間に詰め込まれて、隣の子の変な顔をやめさせようとしている。
 大仏は、ここに座り続けていればいい。
 見ていると、胸が少しずつ楽になった。
 覚えているものが、全部、後ろに取り残されたわけではないんだ。
 先にここへ来ていたものもある。
 ただ、近づいて、顔を上げなければ、僕にはわからなかった。
 あの日、写真を撮ったところに、もう一度立ちたくなった。
 よく覚えていないので、見当をつけて少し横へ歩き、また戻る。最後に日の当たる地面で止まり、記憶の中のカメラがあったはずのほうへ向いた。
 背中には大仏。
 隣は、空いていた。
 手を上げ、ポーズを取ってみて、ゆっくり下ろした。
 あのときは、あんなに窮屈だった。
 隣の子が触るのが嫌で、前の子に顔を隠されるのも嫌で、早く先生が解散と言ってくれないかと思っていた。肩と肩がくっついて、少し動くだけで、同じように暑がっている誰かに当たった。
 今は、こんな広いところを、一人で使えてしまう。
 うつむくと、足元に自分の影があった。
 風が吹き、裾が揺れた。
 影も、揺れた。
 急に、一人で写真を撮りたくなくなった。
 ……
 木陰が移ると、別の場所へ座り直した。
 そこからも、大仏は見えた。
 大きな輪郭を見つめながら、少しずつトーマスの顔を思い出した。
 それから、前に会ったとき、今はクリスだと言っていたことを思い出した。
 今は?
 明治三十一年には、何という名前なんだろう。
 どの名前で探せばいいのかさえ、わからない。
 まったく、もう。
 名前も服も、ころころ変えて。前には頭の真ん中がつるつるだったのに、その次にはちゃんと髪が生えていた。会うたびに、見慣れないものの中から、少しずつ彼を見つけなければならない。
 でも、あの目は覚えている。
 青い目。
 目を閉じ、思い浮かべてみた。
 まだ、はっきりしていた。
 僕を見ると、初めは止まる。それから、目元にゆっくり笑みが浮かぶ。僕がいきなりそこへ現れるのは、嬉しいことなのだというように。手を止めて、こちらへ歩いてきてくれるくらいには。
 あの笑い方も、覚えている。
 そっと指を握った。
 これからも、そうだったらいいな。
 どこへ落ちて、目を開けて、どんな空を見ることになっても。せめて一人だけ、知っている人がいてくれたら。
 ゆっくり探せばいい。
 間違えても、遅くなってもいい。目の前まで行けば、彼はまだ顔を上げて、僕が誰か、わかってくれる。
 子供の頃、はぐれても、集合場所さえ覚えていれば、そこまで怖くなかったみたいに。
 大仏は、ここにいる。
 でも僕は、いつもここへ来られるわけではない。
 遠く離れた場所もある。大仏さえ、まだない頃もあるかもしれない。名前も言えない町や、ひと言も通じない道は、僕がこれを覚えているからといって、ここへの道を残してはくれない。
 何か、ほかのものを覚えていたかった。
 知らない年月を越えても、まだ僕にわかる何かを。
 そこまで考えて、少し恥ずかしくなった。
 欲張りな願いだった。
 会うたびに彼のほうではどれだけ経っているのか、ちゃんと聞いたこともないのに。
 僕にはまだ消えきらない熱が、彼のところでは、窓を閉めたり服を替えたりできる季節を、いくつも越しているのかもしれない。
 聞かなかった。
 なのに、もう心の中で、こっそり場所を空けていた。
 そこに、立っていてほしかった。
 僕だと、わかってほしかった。
 また別れを言いそびれても、すぐにその人を、これからの日々からしまい込まずに済むように。
 まだ、残しておいてもいい。
 あの青い目も、言いかけた言葉も、次に会ったら最初に話したいことも。
 今だけ、会えないのかもしれない。
 次が、あるのかもしれない。
 ……
 人が来て、もう出る時間だと教えてくれた。
 慌てて立ち上がり、ズボンの埃を払い、頭を下げた。
 長く座りすぎて、脚が少ししびれていた。一歩目を出すと、足の下に小さな針がたくさんあるようだった。膝に手をつき、少し待ってから、来た道を戻った。
 夕方の風は、さっきより柔らかかった。
 襟はまだ濡れて首の後ろに貼りついていたけれど、もうそれほど熱くはなかった。葉の奥には暮れかけの色が溜まり、それでも陽はまだ高いところに残って、梢を透かしていた。
 門まで来て、また振り向いた。
 大仏は、まだ座っていた。
 枝葉に隠れて一部分しか見えなくても、ちゃんとわかった。
 空の手を、そっと握った。
 次に会ったら、まず聞いてみたい。
 僕がいなくなったあと、待っていてくれる?
 ずっとずっと経っても、待っていてくれる?
 ……
 それから、いくつもの場所が僕の足元を過ぎていった。
 日に白く焼けた石段。苔の生えた井戸の縁。雨に濡れきった船板。ご飯を目の前に出してくれる人も、戸を叩くより先に閂をかける人もいた。知らない言葉の中に、少しずつわかるものが増える。でも、次に移った先では、それも役に立たなくなった。
 やっと覚えた音だけが口に残った。開ける扉を二度と見つけられない、何本かの鍵のように。
 相変わらず、お腹はすくし、眠くもなった。髪を洗ったばかりのときに風が吹くと、それだけで嬉しかった。汗の貼りつかない首筋を毛先がかすめると、今日もそう悪くないと思えた。
 ただ、もうずいぶん長く歩いている道もあった。
 夏は、いつまでも終わらなかった。
 ……
 一九三七年、六月。
 上海。
 新聞社の前に立ち、英字新聞に並ぶ数字をしばらく見ていた。後ろを人が通り、道端の浅い水溜まりへ革靴を踏み込んだ。空の半分が砕けた。
 雨がやんだばかりだった。
 雨は大して涼しさを運ばず、かえって通りじゅうを湿気で膨らませていた。背中に貼りついた服を少し浮かせても、風が入り込む前にまた戻ってしまう。店先の日除けには水が溜まり、布がたわんでいた。店員が長い竹竿で押し上げると、大量の水が落ちてきて、通る人たちが避けた。
 僕も、跳びのいた。
 なかなか素早かった。
 よかった。この特技は、まだ残っている。
 電車がベルを鳴らし、角を曲がっていった。窓から扇子を持つ手がいくつも出ている。帽子を取り、額に当てる人もいた。道端の女の人は首筋の汗がチャイナドレスの襟へ流れているのに、耳飾りだけは暑さも知らず、話すたびに揺れていた。
 蝉の声は、街路樹の濃い葉の奥に隠れていた。車の音が少し遠のくと、押し込められていた声がまた浮かび、車輪の去った隙間を埋めた。
 陰のある側を歩いた。
 ここには、外国人が多かった。
 明るい髪、暗い髪、日に赤く焼けた首筋、腕に挟んだ帽子。カフェの扉が開くたび、短い音楽と別の言葉が漏れ出し、閉まると一緒に途切れた。
 白いスーツの男が角に立ち、身をかがめて連れの煙草に火をつけていた。先に髪が目に入り、足が遅くなった。顔が上がってから、また歩き出した。
 違った。
 髪の色が似ていなくても、見てしまうことがあった。
 少し横を向いた人の肩や背中が、ちょうど光の中に浮かぶと、もうひと目。目のほうが先に止まり、顔を確かめてから、足のためらいがほどけた。
 こんな探し方、馬鹿みたいだとは思う。
 でも、外国人がこんなにいる。
 もしかしたら。
 彼も暑がって襟を緩め、どこかの店の前で、今日は何を食べようかと迷っているかもしれない。
 ショーウインドーの前を通り、ガラス越しに後ろを見た。
 人力車が一台、ゆっくり過ぎていくだけだった。
 ……
 夕方、川辺まで来た。
 水は湿った匂いを立て、熱の残る石岸に沿ってゆっくり流れていた。橋の影には何艘かの舟が寄り合い、屋根の下に洗濯物が干してある。子供が舷に腹ばいになり、水に浸かった縄を指でいじっていた。
 岸辺の空き地に、白い布が張ってあった。
 長さの違う椅子が何列か並び、後ろには立っている人もいた。机の上に映写機が一台あり、そばにはブリキの缶がいくつか置かれている。川風が来ると、白い布の裾が膨らみ、すぐに戻った。
 映画だ。
 足を止めた。
 やっと、言葉がわからなくてもできそうなことがあった。
 隣で紙の扇子を持った人が、何かを言った。僕は白い布を指し、映写機を指して、どうにか英単語を探した。
 その人は別の言葉に替え、ゆっくり話してくれた。
 それでも、全部はわからなかった。
 最後に映写機の後ろの空いた椅子を指し、懐中時計を見てから、両手を広げた。
 「Late.」
 これは、わかった。
 映写技師が遅れているんだ。
 うなずいて、笑ってみせた。
 映画にも、もう少し待つ時間が要るらしい。
 白い布に、隣の木の枝が影を落としていた。葉が揺れ、影も揺れる。前の席の男の子が、つかまえようと高く手を伸ばした。そばの大人が笑った。
 まだ映像のない白い布の前で、もう小さな手が伸びていた。
 うつむいて、手のひらに触れた。
 傷跡はずいぶん薄くなっていた。手を開くと掌の線に隠れるところがあり、皮膚を少し寄せなければ、全部は見つけられない。
 とっくに、痛くなくなっていた。
 何年も経つうちに、噛まれたあの瞬間、どれほど痛かったのかさえ忘れてしまった。痛みは記憶からきれいに引き、周りより薄い線だけを残した。自分で探さなければならないくらいの。
 あの子が怒った顔は、まだ覚えているのに。
 少し笑って手を下ろし、もう少し川沿いに歩こうとした。暗くなる。今夜の寝場所くらい、決めておかなければ。
 不意に、後ろで自転車のベルが鳴った。
 短い音だった。ちょっと触れただけで、すぐハンドルを握り直さなければならなかったみたいに。
 荷物をくくりつけた自転車を押して、誰かが人の間を通ってきた。椅子を避け、待っている人たちに何か言って軽く頭を下げる。それから、車体に結んだ平たい丸い缶を外した。
 先に、手が見えた。
 袖は肘の下までまくってあった。缶の蓋を指で押さえ、親指で縁をひと回り確かめる。
 それから、顔が上がった。
 金色の髪が少し乱れていた。額に汗で貼りついた髪もあれば、妙に跳ねたところもある。急いで来た道の風が、ここへ着いてもまだ離してくれないみたいだった。
 青い目が、人の頭の上をかすめた。
 僕の足は、その場に止まった。
 ……
 川辺の手すりには、昼間の温かさが残っていた。
 つかまって、少し前へ寄る。石岸に触れる水がひととき静まり、ぼんやりと人の姿を映した。
 水の中の女も手を上げ、こめかみに触れた。
 もう、昔の美少女じゃない。
 四十くらい。
 風が来ると顔は崩れ、やむとまたゆっくり戻った。目尻に細いしわがあることも、笑えば口元の線が前より深くなることも知っていた。今日初めて現れた変化ではない。
 知らない場所の鏡で、何度も見ていた。顔を近づけ、髪の一本が光で白く見えるだけなのか、本当に白いのかを調べたこともある。
 どの場所も僕のために何も残してくれないのに、顔には少しずつ跡が増えた。
 でも、さっき彼を見た瞬間には、何も考えなかった。
 ただ、駆け寄りたかった。
 昔みたいに服をつかみ、まず呼び止めて、それから笑うか泣くか決めたかった。
 こめかみから手を下ろした。
 僕だと、わからなかったら?
 僕は彼を覚えている。あんなにはっきりと。椀を持つとき、どこに指を添えていたかさえ、まだ頭に残っている。
 でも彼は、今の僕を覚えているとは限らない。
 振り向くと、彼はもう映写機の横で、うつむいてリールをいじっていた。間を人が通り、とっさに脇へよけた。その人が通り過ぎると、今度はどうやって一歩戻ればいいのか、わからなくなった。
 たった一人分、空けただけなのに。
 その短い距離の向こうへ、今の顔をどう持っていけばいいのか、急にわからなかった。
 まず、呼んだほうがいいのかもしれない。
 でも、どの名前で?
 「そちらの方」
 顔を上げた。
 彼はリールを手に、こちらを見ていた。日本語で尋ねる。
 「少し、手伝ってもらえる?フィルムが絡んでしまって」
 川風が吹き、額の髪をもう少し乱した。
 口を開けた。
 用意しかけていた言葉は、ひとつも役に立たなかった。
 結局、近づいて、手を差し出した。
 「先に言っとくけど、壊しても弁償できないからね」
 「ここを支えるだけでいい」
 リールを渡し、僕がしっかり持つのを待ってから、ゆっくり手を離した。ほどけたフィルムが二重に輪を作り、支柱にかかっている。彼はうつむいて少しずつ直し、ときどき、もう少し上へ、もう少しこちらへと身振りで伝えた。
 僕は、もう少し彼のほうへ寄った。
 肩が、彼の腕に触れそうだった。
 汗の匂いに、かすかな石鹸の匂いが混ざっていた。これだけ近づいて初めて、彼の呼吸もいつもより速いとわかった。本当に急いで来たらしい。
 今度は、僕が遅れたんじゃないんだ。
 手の中のリールを見下ろし、急に笑いたくなった。
 泣きたくもなった。
 同じところで二つの気持ちが押し合うので、リールをもっとしっかり支えた。
 「人使いが上手だね」
 「ごめん」
 真面目な声だったのに、口元が少し動いた。
 慌てて目を伏せた。
 フィルムには一こまずつ、小さな人が写っていた。あんなに近く並んで、まだ動いていない。大事に支える指がこわばると、彼が反対側を持ち、重さを分けてくれた。
 「これでいい?」
 「うん」
 彼は僕を見た。
 「それで、いいよ」
 ……
 映画が始まると、彼にいちばん近い椅子に座った。
 スクリーンでは、男が自分の帽子を追いかけていた。帽子が転がるたび、そちらへ走る。やっと押さえたと思ったら、今度は誰かの足の下にあった。見上げる情けない顔がおかしくて、周りの人と一緒に、つい笑ってしまった。
 言葉がわからなくても、同じところで笑えるんだ。
 笑ってから、後ろを見た。
 彼は、まだいた。
 映写機の光がそばを抜け、空気の中の細かな埃を照らしている。横を向いていた彼は、椅子の音がすると、こちらを見た。
 慌てて前へ向き直った。
 少しすると、また振り向いてしまった。
 三度目には、彼はそのまま僕にうなずいた。
 わかってるよ、とでもいうように。
 鼻に触れ、ようやくしばらくおとなしくしていた。
 あの晩の映画がどんな話だったのか、あとになるとあまり覚えていなかった。なかなか頭に収まらない帽子と、後ろで規則正しく響く機械の音だけは残った。
 一こま、また一こま。小さな人たちが、ようやく動き始めた。
 ときどきスクリーンがかすかに揺れ、川風が額の汗を冷ましてくれた。座ったまま、その音が確かに進んでいくのを聞いていた。今夜どこへ行けばいいのかは、もう考えなかった。
 映画が終わると、彼はリールをしまい、缶の蓋をひとつずつ閉めた。
 僕は椅子を二脚、運ぶのを手伝った。
 人が去ると、空き地は急に広くなった。白い布はまだ掛かっていたけれど、光を失うと、しわが全部見えた。さっきまで走り回っていた人たちは、何重もの輪になって缶の中へ戻され、風だけがまだ、ときどき布の隅を持ち上げた。
 彼は最後の缶を置くと、川辺へ来て、僕の隣で止まった。
 二人で手すりに寄りかかった。
 対岸には灯りがついていた。水に落ちた光を舟の舳先がそっと分け、長い線に引き延ばしていく。
 横顔を盗み見た。
 やっぱり、あのままだった。
 だから、ちゃんと話すはずの言葉が、少し形を変えて出た。
 「時間跳躍者(ジャンパー)って、思ったより早く年を取るんだね」
 彼がこちらを向いた。
 目の前に手を出し、開いて、握った。
 「ほら。誕生日をいつ祝えばいいのかもわからないのに、しわだけは、ちゃんと増える」
 彼は何も言わなかった。
 僕も川を見た。
 「明日には、学校へ戻れるんじゃないかって思うこともあるんだ。宿題、出してないから、先生に呼ばれるなあって」
 そこまで言って、自分で笑った。
 「本当に戻ったら、まず、どなたですかって聞かれそうだけど」
 彼がポケットからハンカチを出し、手元へ差し出した。
 受け取って、こめかみを拭いた。洗い込まれた布は柔らかく、折り目が手のひらに触れた。その線に沿ってゆっくり畳み直していると、もうあの冗談を続けたくなくなった。
 「今は、何て名前?」
 彼が少し笑った。
 「アレックス」
 「アレックス」
 繰り返すと、返事をしてくれた。
 これで、また知り合いになれた。
 ハンカチを握ったまま、もう少し顔を見て、とうとう聞いた。
 「どうして、僕だってわかったの?」
 彼は、続きを待った。
 「さっき、前に会ったことがあるって、先に言ったほうがいいかなって思ってた。覚えてなかったら、かき氷とか、教会とか、それから……」
 言葉を止め、自分の顔を指した。
 「もしかして、こんな僕にも、もう会ってたの?」
 「もっと年を取った君にも、会ってる」
 固まってしまった。
 彼は少し笑った目で僕を見ていた。
 「ちょっと」
 肘で軽くつついた。
 「女性に、そういうこと言うのは失礼だよ」
 「失礼だったね」
 返事が速すぎて、まるで反省しているように聞こえなかった。
 もう一度にらもうとしたのに、先に口元が緩んだ。
 「こういうときは、全然変わってない、昔のままだよって言うんだよ」
 彼は黙って、僕を見た。
 少し恥ずかしくなって、先に顔をそらした。
 「やっぱりいい。そこまで嘘つかなくても」
 川を舟が通った。灯りが足元からゆっくり離れ、手すりの下の水がまた暗くなった。手を置くと、彼の手の甲に触れた。
 どちらも、引かなかった。
 少しして、彼の指が動き、僕の指の脇に触れた。
 川を見つめたまま、見えもしない舟を真剣に見ているふりをして、手だけをゆっくり返した。
 彼の手のひらが、重なった。
 温かかった。
 指を少し曲げると、握ってくれた。
 さっきまでは、あんなに話せたのに。今は、ひと言しか残っていなかった。長いこと胸に置いてきた言葉だった。知らない扉の前をいくつも過ぎ、行く先もわからない夕方をいくつも越えて、それでも置くところが見つからなかった。
 今、彼は隣にいた。
 その手を握り、ようやく聞けた。
 「待っていてくれる?」
 小さな声だった。
 聞き終わって初めて、息を止めていたことに気づいた。
 彼は、つないだ手を見下ろさなかった。
 「ずっと、待っている」
 彼を見た。
 川辺にはまだ人が通り、遠くで自転車のベルがひとつ鳴った。誰かが店の日除けを畳み、ひだに溜まった水が、ぽたぽた落ちていた。
 長いこと、何も言えなかった。
 意味はもう、わかっていた。それでも言葉は耳元に残った。もう少しはっきり聞きたくて、でも、声を出すのが惜しかった。自分の声で、あの言葉を覆ってしまいそうだった。
 結局、我慢できない性分が先に顔を出した。
 「それなのに、今日は遅刻したんだ」
 彼がうなずいた。
 「うん」
 「もう少しで、帰るところだったよ」
 手の中で、彼の指が少し強くなった。
 ちょっと文句を言うだけのつもりだった。
 なのに言い終わると、急に目の奥がひどく熱くなった。
 うつむいて、握りしめてしわになったハンカチを広げた。一度拭き、もう一度拭く。忙しそうに手を動かした。そうしていれば、見られずに済む気がした。
 彼は隣で、拭き終わるのを待っていた。
 つないだほうの手は、ずっと離れなかった。
 ……
 近くに、しばらく住むことになった。
 アレックスが探してくれた部屋は二階にあって、窓の外には洗濯物を干す竹竿が何本も渡っていた。午前中に誰かがシーツを洗うと、布の隅から水が滴った。下の屋台が開けば、匂いは人より先に上ってきて、閉まりきらない窓の隙間から入り込んだ。
 彼は早く来る日も、遅く来る日もあった。
 自転車のベルが、少しずつ聞き分けられるようになった。
 本当は、ほかの人と大して違わない。ただ、あの音がすると、決まって下で誰かが見上げてくれる。
 僕は窓へ身を乗り出した。
 「ちょっと待って!」
 言ってから、靴を探し始めた。
 一度、急ぎすぎて、階段の角で水の入った盥を持つ女の人にぶつかりかけた。長々と小言を言われ、何度も頭を下げるしかなかった。外へ出ても、まだ上で声がした。
 「何て言ってるの?」
 「ゆっくり歩きなさいって」
 「あんなに長くて、それだけ?」
 「ほかにも、少し」
 彼は自転車が倒れないよう押さえてくれた。
 残りは、聞かないことにした。
 後ろに乗ると、通りは別の速さで流れ始めた。
 歩くよりは速い。でも、見えなくなるほどではない。店先で切った瓜、竹籠の中で濡れた布をかけられた菓子。結ったばかりの女の人の髪から、風に吹かれた短い毛が数本、耳のそばへこぼれた。
 どれもそばを通り過ぎていく。立ち止まらなくても、ひと目見る時間はあった。
 もう、明るい髪の後ろ姿を、一人ずつ確かめなくてよかった。
 ときには、ぼんやりすることさえあった。
 二度聞かれて初めて、何が食べたいかという質問だったのだと気づくくらいに。
 「全部、食べたい」
 「さっきの店も?」
 「うん」
 彼は少し笑ったようだった。
 自転車が、ゆっくり道端に止まった。
 夏は、まだ暑かった。
 午後の部屋では、枕を裏返しても、冷たいのは少しの間だけだった。肌が触れた途端、その冷たさは体温に食べられ、髪の生え際からまた汗がにじんだ。
 相変わらずよく眠れない日もあり、夢も見た。起きると、まず窓の外の看板と通りを確かめた。
 わかってから、ゆっくり息を戻した。
 でも、下では自転車のベルが鳴る。
 だから枕に顔を埋め直して、もう少しだけ、ぐずぐずしていられた。
 ……
 いなくなったのは、穏やかな朝だった。
 朝ご飯はもう食べていた。豆乳が思ったより熱く、急いで飲んだせいで舌をやけどした。道すがら、舌先でそっと上顎に触れ続けていた。
 アレックスは、ゆっくり自転車をこいでいた。
 水を撒いたばかりの道を車輪が通ると、湿った匂いが立った。日差しはまだ通りいっぱいには広がらず、建物の影が斜めに横たわっている。店の戸板を一枚ずつ外し、壁に立てかける人がいた。腕が明るいところへ伸び、また影の中へ戻った。
 後ろに座り、彼の腰の脇に手を添えていた。
 シャツが風で少し膨らみ、指の甲に触れた。
 そのとき、あの馴染みの熱が、少しずつ上がってきた。
 うつむいて、しばらく待った。
 まだ、そこにあった。
 道が小さく跳ね、体が前へ動いた。額が彼の背中に触れる。
 「どうしたの?」
 少し強くつかんだ。
 「そろそろ、行くみたい」
 ペダルを踏む動きが緩んだ。
 自転車はまだ、まっすぐ進んでいた。朝の空気の中で、チェーンの回る音がよく聞こえた。ハンドルを握る手を見ていたら、初めて後ろに乗ったとき、ちゃんと座れたか、わざわざ振り向いてくれたのを思い出した。
 もう、そんな必要はなかった。
 どう近づけばいいのか、どこに足を収めればいいのか、曲がるときはどちらへ少し体を寄せればいいのか。僕はもう知っていた。
 体が、覚えていた。
 車輪が進めば、次の小さな揺れを、どうやって彼と一緒にやり過ごせばいいのか、わかった。
 「止まろうか?」
 首を振ってから、見えないのだと思い出した。
 「ううん」
 風が、二人のそばを通った。
 「このままがいい」
 そっと頬を背中へつけた。
 薄い布一枚の向こうから、一人の体温と、まだ日に温められていない、清潔な朝の匂いが伝わった。手はまだ腰の脇をつかみ、シャツと一緒に指の甲が小さく動いた。
 胸の熱は、外へ広がり続けていた。
 目を閉じた。
 「アレックス」
 「うん」
 「またね」
 しばらくして、彼が言った。
 「またね」
 ……
 自転車の後ろが、急に軽くなった。
 アレックスはハンドルを立て直し、ゆっくり半回転だけペダルを踏んで、道端に止まった。
 振り向いた。
 後ろには、誰もいなかった。
 シャツの腰には、つかまれたしわが何本か残っていた。
 しばらく見てから、口元を少し緩めた。
 それから、小さく息をついた。
 
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