終わらない夏
……
枕元のカレンダーには、AUGUSTと印刷されていた。
その下に、大きな数字。
31。
朝、看護師さんが前の一枚を剝がしてくれた。糊のところから紙が離れ、かすかな音を立てた。彼女はそれをひと折りして、持って出ていった。僕はその音をずっと覚えていて、夕方になっても、ついそちらを見てしまった。
八月の、最後の日。
最後の日も、こんなに薄いのだ。光が透けるほどの紙が、枕元に静かに貼りついて、僕が見るのを待っていた。
枕を二つ重ね、ベッドに起き上がっていた。長く座っていると、体が少しずつ下がっていく。彼は気づくと立ち上がり、肩を支え、枕を直してくれた。ほんの少し動くだけでも大変だった。座り直せた頃には、額に汗がにじんでいた。
彼がハンカチで拭ってくれた。
窓は細く開いていた。風がカーテンを持ち上げ、外の濃い緑を見せてくれる。夕日はまだ葉の先に留まっていた。窓の近くの何枚かは縁が丸まり、風を受けて触れ合うと、ごく小さな音がした。
そちらを向き、しばらく耳を澄ませた。
木では、まだ蝉が鳴いているようだった。
ここまで離れると、その声は遠く、聞こえたり聞こえなかったりした。よく聞こうとすると部屋の時計の音がはっきりしすぎて、探すのをやめると、また細いひと筋が窓から入り込む気がした。
あんなに長い夏が、ここまで来ると、こんな細い音しか残していなかった。
「蝉の声、だんだん聞こえなくなってきたね」
彼も、僕の視線の先を見た。
「この夏も、やっと終わるのかな」
言ってから、少し笑った。
こんなに待ったのに、やっぱり誰かに聞かなければわからない。
彼はすぐ答えず、掛け布団の上から僕の手を取った。指はもううまく伸びず、皮膚が緩く関節を覆っていた。手首を支え、頭を下げて、その額に僕の手のひらを当てた。
金髪が、指の腹をかすめた。
まだ、柔らかい。
少し指を動かし、垂れてきたひと房を払ってやろうとした。うまくできなかった。すると、もう少し頭を下げて、触りやすくしてくれた。
「うん」
すぐ近くから、声がした。
「明日は、秋だよ」
彼を見た。
灯りはまだついていない。窓の外の最後の光が、顔の片側を照らしていた。額も、眉のあたりも、目の下のわずかな肌も、昔のままだった。そこに置いた僕の手の甲の染みが、やけにはっきり見えた。
「じゃあ明日は、もう一枚持ってきてね」
「わかった」
「秋になった途端に、風邪をひくのは嫌だから」
彼がうなずき、手のひらの下で額が小さく動いた。
急に、手を離すのが惜しくなった。
……
医者が入ってきたときも、彼はベッドの脇に座っていた。
ノックが聞こえると、まず僕の手を掛け布団に戻し、端を整えてから立って場所を空けた。
いくつか質問された。聞き取れたものも、残せなかったものもあった。耳に届いた音は、意味になる前に少しずつ散ってしまう。
もう一度お願いしようとしたら、隣の人が先にかがみ、日本語で聞いた。
「疲れた?」
「ちょっと」
「どこか、具合の悪いところは?」
少し考えた。
「格好が悪い」
彼が止まった。
もう片方の手を上げ、髪に触れた。
「後ろ、ぺたんこになってない?」
しばらく僕を見て、ようやく笑った。
「なってないよ」
「また、そう言う」
医者も、何の話か何となくわかったらしく、少し笑った。それから僕の手首を取った。指が少し冷たかった。顔を下げてしばらく数え、次に聴診器を胸へ当てる。息をするよう促された。
言われたとおりにした。
吸って、少し止めて、ゆっくり吐く。
こんな簡単なことにも、今では根気よく待ってくれる人が要る。息が入るのを待ち、また体から出るのを待つ。その間の少しの止まりまで、長くなっていた。
診察が終わると、医者は彼に何か話した。
低い声だった。彼は聞き、ときどきうなずき、ずっと椅子の背に手をかけていた。
もう、無理に聞こうとはしなかった。
カーテンが戻り、梢の光を隠した。椅子の背を握る彼の指が見えた。しばらく経ってから、少しずつ緩んだ。
医者が出ていっても、彼はすぐには座らなかった。枕をひとつ抜いて、僕をもう少し低く寝かせてくれた。
手を伸ばして袖口をつかんだ。
彼が止まった。
「行っていいとは、言ってないよ」
「わかってる」
椅子が近くへ寄せられた。
座り直した彼の膝が、ベッドの縁に触れそうだった。布を離すと、その手が代わりに受け止めてくれた。
……
運ばれてきた夕食を、少し食べた。
彼が水を渡してくれた。自分で持とうとして、指はもうコップに触れていたのに、手首が震えた。結局、彼に底を支えてもらい、縁から少し飲んだ。
ぬるい水だった。
しばらく含んでから、飲み込んだ。
「前は、水も自分で注げるなんて言ってたのに」
彼がコップをテーブルへ戻した。
「覚えてる」
「大きなことは、言わないほうがいいね」
ため息をつくつもりが、笑ったような声になった。
彼は唇の端の水をハンカチで拭い、少し手を止めてから畳んだ。濡れたところは内側へ折り込まれ、指の下に小さく、ほかより濃い色だけが残った。
テーブルには、小さな目覚まし時計も置いてあった。
そちらを見た。
「十二時に、合わせてくれる?」
彼も時計を見た。
「今夜の」
「うん」
時計を取り、裏の小さなつまみを回す。中の部品がかすかに擦れた。その手を見つめ、合わせ終わるのを待ってから、またカレンダーを見た。
「その時間になったら、起こしてね」
「うん」
「ちゃんと、知っておきたいから」
少し休み、息をついた。
「こんなに、待ったんだもん」
彼は時計を元に戻し、僕から見えるほうへ向けてくれた。
細い針が、まだ動いている。横になったまま、その針が少しずつ、僕の代わりに明日へ向かうのを見ていた。
……
暗くなると、窓ガラスに少しずつ部屋が映った。
ベッド、小さなテーブル、灯り。それから、ベッドの脇に座る人。
窓の外の木は闇に引き取られたけれど、ガラスは彼を残してくれた。ほんの少し目を動かすだけで、もう一人見えた。
彼は一度寝返りを手伝い、足元の布団を少し緩めてくれた。でも足がまだ冷たくて、またかけ直してもらった。
こういうことに、彼はもう慣れていた。どこに枕を入れれば楽になるのかも、コップが遠すぎると僕がこっそり手を伸ばすことも、知っていた。
下がってきた頭を見て、ふと笑った。
「やっぱり、髪があるほうがいいね」
彼が目を上げた。
「教会のとき」
僕は言った。
「うつむくたび、どうしても笑っちゃって。あとから考えると、本当に失礼だったね」
「あのとき、もう謝ってくれたよ」
「あれは、なし。謝りながら、まだ笑ってたんだもん」
彼も笑った。
あのときの真似をしてみようと首を前へ動かすと、すぐに手が伸び、支えてくれた。
「はい、やめます」
枕へ戻った。
「せっかく、やってみせようとしたのに」
彼の手は肩の後ろに残り、落ち着いて横になったのを待ってから、ゆっくり抜けた。
しばらくして、また聞いた。
「冷蔵庫の氷は?」
「何?」
「クリスの、冷蔵庫」
彼を見ながら、重なった容器を思い出した。透明な壁に白い霜がついていて、ひとつ抜くと、後ろからまたひとつ現れた。あのとき台所の入口に立ち、あそこには尽きない冷たさが隠れていると思った。
「あんなにたくさん。本当に、お店を始めるんだと思ったよ」
「始めないよ」
「知ってる。自分では食べないくせに」
彼は、つないだ手を見下ろした。
「君が来たら、少しはあったほうがいいと思って」
「それにしても、多すぎるよ」
彼は言い返さなかった。
しばらく笑っていたら、不意に目が潤んだ。
「知ってたら、もう一杯食べたのに」
彼が顔を上げた。
「どうしてミントが好きだって知ってるの、って聞いたよね」
「うん」
「いつか、わかるよって」
その言葉が、ゆっくり口元に戻ってきた。
あのときは氷を含み、歯が少し痛くて、また教えてくれないと思いながら、それ以上は聞かなかった。次のひと匙もあったし、冷蔵庫にはまだ氷がたくさんあった。質問がひとつ途中で終わっても、何とも思わなかった。
今になって考えると、聞き終えていないことが、ずいぶんたくさんあった。
彼を見て、もうひと言言おうとした。でも、まぶたが少しずつ重くなった。
彼は首元へ落ちた髪を払ってくれた。
「少し、休もう」
「行かないでね」
「ここにいるよ」
それで、目を閉じた。
……
次に目を覚ますと、部屋の灯りはもう暗くしてあった。
どれだけ眠ったのか、わからなかった。
彼はまだ、手を握っていた。ベッドの縁に置いていた腕は少し位置が変わり、袖口に深いしわが何本もついていた。指を動かすと、すぐ顔を上げ、かがんで覗き込んでくれた。
「起きた?」
少しうなずいた。
本当は、それほどはっきり目が覚めていなかった。夢の何かが、まだ残っていた。取り払われた物干し綱に掛かっていた服だけが、頭の中でそっと揺れ続けているみたいだった。
よく見ようとすると、もう少し散った。
彼がコップを取り、水を飲むかと聞いた。
首を振った。
「じゃあ、話をしようか」
「うん」
思っていたより、小さな声だった。
彼が、もう少し近づいた。
「上海の映画、覚えてる?」
彼を見て、ゆっくり口元を緩めた。
「帽子」
「そう」
彼が笑った。
「あとで聞いたよね。フィルムは本当に絡んでいたのかって」
「本当に?」
「本当。でも、一人でも直せた」
彼に、軽く触れたかった。
指を動かすと、その手をもう少し深く包んでくれた。
「それなのに、呼んだの」
「来てほしかったから」
言ってから、彼はしばらく黙った。
見ていると、心に古くてかすかな嬉しさが戻った。あの晩、椅子に座って振り返ると、まだ彼がいた。そのときと同じだった。
こんなに経っても、あの嬉しさは残っていた。
「何度も振り向いてたね。三度目にうなずいたら、やっと前を向いてくれた」
覚えてる、と言いたかった。
唇は動いたけれど、ごく小さな声しか出なかった。
彼はそれでも、聞こえたように僕を見ていた。
「あとで自転車に乗って朝ご飯に行ったら、店を通るたび止まりたがってた。さっきの店もって聞いたら、うんって」
笑った。
たぶん、声は出ていなかった。それでも彼も笑ってくれた。
「靴を履きかけたまま、階段を駆け下りたこともあったね。途中の女の人が長く話して、どうしてあんなに長いのかって聞いた」
親指が、僕の指の脇を撫でた。
「あの続きはね、ちゃんと靴を履いてから走りなさい、階段が狭いんだから、転んだらどうするのって」
そうだったんだ。
あのとき、残りは聞かないと決めたのを思い出し、何だか少し損をした気がした。こんなに経ってから、ようやく続きを教えてくれるなんて。
文句を言いたかった。
でも、頭の中ではもう言い終わっているのに、口が追いつかなかった。言葉はそこで、足りるだけの息を待ち、舌と唇がゆっくり元の場所を見つけるのを待っていた。
彼は少し待って、それからまた話し始めた。
昔は、僕のほうがよくしゃべった。
話しているうちに遠くへ行ってしまっても、彼は聞いてくれた。やっと初めに何を話そうとしたのか思い出して、戻ってくるまで。言葉を奪うことはめったになかったし、次の言葉で間を埋めようと急ぐこともなかった。
でも、今夜は違った。
話をひとつ終えて僕を見つめ、しばらくすると、また何かを思い出して続けた。ところどころで自分でも少し笑い、うつむいて掛け布団を直し、それから目を上げ、続きを話した。
僕は、聞いていた。
声が少し遠くなると、彼はかがんだ。僕の目がほかへ動くと、同じところを見て、コップや枕や、ベッドの脇の灯りを少し動かしてくれた。
時計は、まだ動いていた。
彼の話す場所が、ひとつずつ、この暗くなった部屋を通った。水の音がするところも、まだ陽の照るところもあった。もう戻れない通りに、彼の声の中で、また少しだけ歩ける道ができた。
もう、そこへ行かなくてもよかった。
聞いていれば、それでよかった。
……
やがて、彼は話を止めた。
目を開けると、僕の手のひらを見下ろしていた。
あの傷跡は、もう見つけにくくなっていた。肌には深さの違う線がいくつもあり、その間に混ざった古い傷は、かえってありふれて見えた。彼の指の腹が、そのひと筋の上で止まっていた。長いこと、止まっていた。
「あの子……」
彼が言った。
顔を見た。
「石の家で、君が世話をしていた子」
「ナツ」
この言葉は、まだ覚えていた。
口にしても、舌はもつれなかった。
彼はうなずき、僕の手を握ったまま、喉を小さく動かした。
「ずっと、話していなかったことがある」
手を上げようとした。
また髪に触れたいと思ったらしく、彼はすぐに少し持ち上げてくれた。僕はただ指を動かし、その手のひらを軽く押した。
「ちょっと、待って」
彼が止まった。
顔を見つめ、ずいぶん経ってから、ようやく続きを見つけた。
「最後に、もう一度、家に帰りたいな」
窓の外は、もう暗かった。
ガラスには枕元のわずかな光が映っていた。木も、外の道も見えない。なのに頭の中には、急にはっきりと、扉がひとつ浮かんだ。
少し緩んだドアの取っ手。下へ押すと、初めに少し空回りする。
玄関の靴は、いつも揃っていない。
台所では水が出ているかもしれない。お母さんが扉に背を向け、帰ってきた音を聞くと、まず、ご飯は食べたのと聞く。お父さんは奥に座り、こちらを見てから、テレビの音を少し下げる。
あの扉は、確かめなくてもわかる。
手を置けば、どう押せばいいのか、あの少しの遊びをどうやり過ごし、押し開ければいいのか、ちゃんと知っている。
長く考えすぎて、彼がいつ身を寄せてくれたのかも、気づかなかった。
両手で、僕の手が包まれるまで。
「うん」
彼が言った。
「家へ、連れて帰るよ」
目を見た。
青い目。
まだ、わかる。
「一緒に?」
「一緒に」
うなずいた。
彼は枕を低くして、いつでも触れられるところに手を残してくれた。もう握る力はあまりなかった。指を少しだけ曲げ、彼の指にかけた。
頬にシーツが触れ、洗いたての淡い匂いがした。
子供の頃、遠足の帰りにバスで眠ったことを思い出した。目が覚めても、まだ家ではなくて、大人が言った。もう少し寝てていいよ、着いたら起こすから。
だから、目を開けて道を確かめなくてよかった。
どの角を曲がったか覚えなくていい。眠さをこらえ、何度も窓の外を見なくていい。
手を預け、ゆっくり目を閉じた。
……
枕元の目覚ましが、十二時に鳴った。
彼が手を伸ばして止めると、部屋はすぐに静かになった。
カレンダーの数字は、まだ三十一だった。
「十二時だよ」
身をかがめ、ごく小さく言った。
手の中の手は、動かなかった。
しばらく待ってから、彼女の首元にかかった白い髪をひと筋払い、そっと肩を揺すった。
「家に帰ろう」
返事は、なかった。
……
最初は、それがジャンプだとは知らなかった。
覚えているのは、家へ帰る途中だったということだけだ。前に木陰があった。そこを抜け、もうひとつ角を曲がれば、見慣れた通りに出るはずだった。
ところが次の一歩で、靴底が砂利に沈んだ。
足元を見て、顔を上げた。
木は、まだあった。
道は、なくなっていた。
白っぽい墓石がいくつも並び、石と石の間に細い道を残していた。供えられた花には、日差しに萎れたものもあった。花びらは花立ての口に垂れ、水に浸かった茎だけが緑を保っている。夏はここでも、花をそっとしておく気にはなれないらしかった。
葉の奥から、蝉の声が降っていた。
しばらく立って、半歩だけ下がった。
砂利が、もう一度鳴った。
「……道、間違えた?」
口にしてから、自分でも変だと思った。
道を間違えるにしたって、間違えられる道くらい、なければ困る。
入口を探して振り向くと、先に、一人の男の人へ目が止まった。
金色の髪。
墓石の前に座り、深く身をかがめて、片手で目を覆っていた。もう片方は膝につき、ズボンの布を握り締めている。長いこと、ほどけなかった。
初めは、汗を拭いているのだと思った。
肩が、一度震えるまでは。
顔をもっと伏せた。込み上げる息を飲み込もうとしたようだった。でも、もう一度吸い込むと、喉から途切れた声が少し漏れた。指の隙間を伝った涙が手の甲を流れ、手首に落ちた。
立ち止まった。
道を尋ねようとしていた言葉も、口元で止まった。
こういうときは、邪魔しないほうがいいのかもしれない。
でも、あんまり悲しそうに泣いていた。
少し落ち着くまで待とうと、しばらくそこにいた。彼はずっと顔を上げなかった。ときどき呼吸が少し整っても、手を下ろし、目の前を見ると、また目を覆ってしまう。
ようやく整いかけた息が、すぐに崩れた。
辺りを見た。
ほかに、誰もいなかった。
結局、近づいた。
靴底で砂利を踏む音は、できるだけ小さくした。それでも彼には聞こえないようだった。手を伸ばし、一度ためらってから、そっと肩に触れた。
「Hello……」
彼の体が、ぴたりと止まった。
慌てて手を引っ込めた。
しまった。
このあと、何て言うんだっけ。
泣かないで?お悔やみ申し上げます?どっちも英語で何て言うの?
男の人が、ゆっくり顔を上げた。
青い目だった。
目の周りは赤く、まつげも濡れていた。僕を見て、少し唇を開いた。さっきまで整わなかった息を、この先どう続ければいいのか、急に忘れてしまったみたいだった。
つい、自分の顔に触れた。
何か、ついてる?
彼の片手が動いた。少し上がり、結局、膝で止まった。
ずいぶん経ってから、ようやく一度まばたきをした。
目元が先に、少し笑った。
でも口元では、その笑みがうまく続かなかった。うつむき、ハンカチで目を押さえ、またこちらを見た。
「こんにちは」
日本語だった。
「日本語、話せるんだ!」
急に声が大きくなった。慌てて周りを見て、少し声を落とし、続けて尋ねた。
「ここ、日本?」
彼がうなずいた。
ほっとした。
少なくとも、わけもわからず外国まで歩いてきたわけではない。
わけもわからず墓地に入ったのも、大してましではないけれど。
彼は、まだ僕を見ていた。
何だか恥ずかしくなり、後ろを指して、また手を下ろした。
「さっき、道を間違えたみたいで。ここにいるのが見えたから、その……」
続きを言いにくかった。
道を聞こうとしたら、すごく泣いていたので、とは言えない。
彼はうつむき、ズボンを握っていた手をゆっくりほどいた。そこだけ布がすっかりしわになっていた。ひと撫でして、直らなかったので、そのまま止めた。
「ありがとう」
「お礼なんて、僕、何もしてないよ」
慌てて手を振った。
言い終わると、また二人とも黙ってしまった。
木漏れ日が、ちょうど首の後ろに当たっていた。避けようと少し横へ動いたけれど、こめかみの汗はもう頬へ流れていて、手の甲でこするしかなかった。
彼はその仕草を見て、また口元を少し動かした。
僕も、つられて笑った。
本当に、何を言えばいいかわからなかった。
「今年の夏、ほんとに暑いね」
彼はしばらく僕を見た。
「そうだね」
まだ、少しかすれた声だった。
襟をつまみ、二度ほど扇いだ。風が肌をなで、ほんの一瞬だけ涼しかった。手を止めると、暑さはすぐ戻った。襟がまた首の後ろにつき、さっき浮かせたところも、すぐに濡れた。
彼はハンカチを畳み、ゆっくり立ち上がった。
途中で、脚がしびれていたのか、少し体が揺れた。慌てて手を伸ばすと、彼は脇の石の縁につかまり、少し待ってから立ち直った。
「大丈夫」
手を戻した。
彼は僕より少し背が高かった。立つと、顔の涙の跡がよく見えた。目尻から顎まで続く一本はまだ乾かず、光を受けてかすかに輝いていた。
さっき天気の話をしたのも、よくなかった気がしてきた。
「あの、もう少しここにいたいなら、僕、一人で――」
「かき氷、食べる?」
顔を上げた。
彼はこちらを見て、少し間を置き、付け足した。
「ミント味」
「どうして、僕がミントのかき氷好きだって知ってるの!」
今度こそ、声を抑えられなかった。
彼が笑った。
少しずつ、笑みが広がった。目にはまだ涙があったけれど、今度はさっきほど苦しそうではなかった。
見ていると、僕も笑いたくなった。でも、こんなにすぐ嬉しそうにするのもよくない気がして、口元をどうすればいいのかわからなかった。
「ごめん、そういう意味じゃ……」
「いいんだよ」
彼が言った。
自分の指を、少し握った。
何がいいのかも、わからなかった。
でも彼はもうハンカチをポケットにしまい、肩の力もさっきほど入っていなかった。こっそり確かめてから、結局、出かけた言葉を最後まで言った。
「ミントが、いちばん好きなんだ」
「うん」
小さな返事だった。
大事に覚えてくれるみたいに。
もっと先に聞くべきことを、ふと思い出した。
「そうだ、名前は?」
「トーマス」
「名字は?」
彼は少し笑ったまま、僕を見た。
「教えない」
「けち!」
口に出した途端、少し後悔した。
さっきまで、泣いていた人なのに。
もう、けちだなんて言ってしまった。
でもトーマスは怒らなかった。うつむいて一度笑い、そばの小さな手帳を取った。反った表紙を閉じ、墓石の前に置く。
古い手帳だった。
紙の端は毛羽立ち、表紙も少し曲がっていた。指の腹でそっと押さえて伸ばし、まっすぐに置き直す。手はしばらくそこに留まってから、ゆっくり離れた。
隣で待っていた。
葉の間から風が抜け、こめかみの汗がようやく少し冷えた。
彼が、またこちらへ向いた。
「行こう」
「お店、遠い?」
「遠くない」
小道へ二歩ほど出て、また止まり、僕を待った。
慌てて足元の石の縁をまたいだ。
トーマス。
心の中で、もう一度言ってみた。
覚えやすい名前だ。
木陰を出るとき、もう一度顔を見た。目はまだ赤かったけれど、呼吸は落ち着いていた。少し考えてから、やっぱり小さく聞いた。
「少し、よくなった?」
彼が振り向いた。
それから、うなずいた。
「ずっとよくなった」
「よかった」
僕も、ほっとした。
もう墓地の門が見えていた。外を自転車が一台通った。前籠には薄い色の布がかかり、風に隅が持ち上がって、すぐ戻った。
二歩ほど急いで、隣へ並んだ。
「かき氷、もう売り切れてないよね?」
「大丈夫」
「どうして、わかるの?」
彼がこちらを見た。
「あるよ」
確かな声だったので、ひとまず信じることにした。
二人で、墓地を出た。
……
足音が、少しずつ遠ざかっていった。
石の道を風が抜け、墓前の黄ばんだ手帳を揺らした。
反った表紙が持ち上がり、その内側の、色あせた文字が見えた。
ナツ。
紙がかすかに震え、少しめくれて、また戻った。
陽が梢を越え、まっすぐ墓石に当たった。
夏目遥。
その三文字が、きらきらと光っていた。
墓石の表面は、終わらない夏のように、焼けるほど熱かった。
枕元のカレンダーには、AUGUSTと印刷されていた。
その下に、大きな数字。
31。
朝、看護師さんが前の一枚を剝がしてくれた。糊のところから紙が離れ、かすかな音を立てた。彼女はそれをひと折りして、持って出ていった。僕はその音をずっと覚えていて、夕方になっても、ついそちらを見てしまった。
八月の、最後の日。
最後の日も、こんなに薄いのだ。光が透けるほどの紙が、枕元に静かに貼りついて、僕が見るのを待っていた。
枕を二つ重ね、ベッドに起き上がっていた。長く座っていると、体が少しずつ下がっていく。彼は気づくと立ち上がり、肩を支え、枕を直してくれた。ほんの少し動くだけでも大変だった。座り直せた頃には、額に汗がにじんでいた。
彼がハンカチで拭ってくれた。
窓は細く開いていた。風がカーテンを持ち上げ、外の濃い緑を見せてくれる。夕日はまだ葉の先に留まっていた。窓の近くの何枚かは縁が丸まり、風を受けて触れ合うと、ごく小さな音がした。
そちらを向き、しばらく耳を澄ませた。
木では、まだ蝉が鳴いているようだった。
ここまで離れると、その声は遠く、聞こえたり聞こえなかったりした。よく聞こうとすると部屋の時計の音がはっきりしすぎて、探すのをやめると、また細いひと筋が窓から入り込む気がした。
あんなに長い夏が、ここまで来ると、こんな細い音しか残していなかった。
「蝉の声、だんだん聞こえなくなってきたね」
彼も、僕の視線の先を見た。
「この夏も、やっと終わるのかな」
言ってから、少し笑った。
こんなに待ったのに、やっぱり誰かに聞かなければわからない。
彼はすぐ答えず、掛け布団の上から僕の手を取った。指はもううまく伸びず、皮膚が緩く関節を覆っていた。手首を支え、頭を下げて、その額に僕の手のひらを当てた。
金髪が、指の腹をかすめた。
まだ、柔らかい。
少し指を動かし、垂れてきたひと房を払ってやろうとした。うまくできなかった。すると、もう少し頭を下げて、触りやすくしてくれた。
「うん」
すぐ近くから、声がした。
「明日は、秋だよ」
彼を見た。
灯りはまだついていない。窓の外の最後の光が、顔の片側を照らしていた。額も、眉のあたりも、目の下のわずかな肌も、昔のままだった。そこに置いた僕の手の甲の染みが、やけにはっきり見えた。
「じゃあ明日は、もう一枚持ってきてね」
「わかった」
「秋になった途端に、風邪をひくのは嫌だから」
彼がうなずき、手のひらの下で額が小さく動いた。
急に、手を離すのが惜しくなった。
……
医者が入ってきたときも、彼はベッドの脇に座っていた。
ノックが聞こえると、まず僕の手を掛け布団に戻し、端を整えてから立って場所を空けた。
いくつか質問された。聞き取れたものも、残せなかったものもあった。耳に届いた音は、意味になる前に少しずつ散ってしまう。
もう一度お願いしようとしたら、隣の人が先にかがみ、日本語で聞いた。
「疲れた?」
「ちょっと」
「どこか、具合の悪いところは?」
少し考えた。
「格好が悪い」
彼が止まった。
もう片方の手を上げ、髪に触れた。
「後ろ、ぺたんこになってない?」
しばらく僕を見て、ようやく笑った。
「なってないよ」
「また、そう言う」
医者も、何の話か何となくわかったらしく、少し笑った。それから僕の手首を取った。指が少し冷たかった。顔を下げてしばらく数え、次に聴診器を胸へ当てる。息をするよう促された。
言われたとおりにした。
吸って、少し止めて、ゆっくり吐く。
こんな簡単なことにも、今では根気よく待ってくれる人が要る。息が入るのを待ち、また体から出るのを待つ。その間の少しの止まりまで、長くなっていた。
診察が終わると、医者は彼に何か話した。
低い声だった。彼は聞き、ときどきうなずき、ずっと椅子の背に手をかけていた。
もう、無理に聞こうとはしなかった。
カーテンが戻り、梢の光を隠した。椅子の背を握る彼の指が見えた。しばらく経ってから、少しずつ緩んだ。
医者が出ていっても、彼はすぐには座らなかった。枕をひとつ抜いて、僕をもう少し低く寝かせてくれた。
手を伸ばして袖口をつかんだ。
彼が止まった。
「行っていいとは、言ってないよ」
「わかってる」
椅子が近くへ寄せられた。
座り直した彼の膝が、ベッドの縁に触れそうだった。布を離すと、その手が代わりに受け止めてくれた。
……
運ばれてきた夕食を、少し食べた。
彼が水を渡してくれた。自分で持とうとして、指はもうコップに触れていたのに、手首が震えた。結局、彼に底を支えてもらい、縁から少し飲んだ。
ぬるい水だった。
しばらく含んでから、飲み込んだ。
「前は、水も自分で注げるなんて言ってたのに」
彼がコップをテーブルへ戻した。
「覚えてる」
「大きなことは、言わないほうがいいね」
ため息をつくつもりが、笑ったような声になった。
彼は唇の端の水をハンカチで拭い、少し手を止めてから畳んだ。濡れたところは内側へ折り込まれ、指の下に小さく、ほかより濃い色だけが残った。
テーブルには、小さな目覚まし時計も置いてあった。
そちらを見た。
「十二時に、合わせてくれる?」
彼も時計を見た。
「今夜の」
「うん」
時計を取り、裏の小さなつまみを回す。中の部品がかすかに擦れた。その手を見つめ、合わせ終わるのを待ってから、またカレンダーを見た。
「その時間になったら、起こしてね」
「うん」
「ちゃんと、知っておきたいから」
少し休み、息をついた。
「こんなに、待ったんだもん」
彼は時計を元に戻し、僕から見えるほうへ向けてくれた。
細い針が、まだ動いている。横になったまま、その針が少しずつ、僕の代わりに明日へ向かうのを見ていた。
……
暗くなると、窓ガラスに少しずつ部屋が映った。
ベッド、小さなテーブル、灯り。それから、ベッドの脇に座る人。
窓の外の木は闇に引き取られたけれど、ガラスは彼を残してくれた。ほんの少し目を動かすだけで、もう一人見えた。
彼は一度寝返りを手伝い、足元の布団を少し緩めてくれた。でも足がまだ冷たくて、またかけ直してもらった。
こういうことに、彼はもう慣れていた。どこに枕を入れれば楽になるのかも、コップが遠すぎると僕がこっそり手を伸ばすことも、知っていた。
下がってきた頭を見て、ふと笑った。
「やっぱり、髪があるほうがいいね」
彼が目を上げた。
「教会のとき」
僕は言った。
「うつむくたび、どうしても笑っちゃって。あとから考えると、本当に失礼だったね」
「あのとき、もう謝ってくれたよ」
「あれは、なし。謝りながら、まだ笑ってたんだもん」
彼も笑った。
あのときの真似をしてみようと首を前へ動かすと、すぐに手が伸び、支えてくれた。
「はい、やめます」
枕へ戻った。
「せっかく、やってみせようとしたのに」
彼の手は肩の後ろに残り、落ち着いて横になったのを待ってから、ゆっくり抜けた。
しばらくして、また聞いた。
「冷蔵庫の氷は?」
「何?」
「クリスの、冷蔵庫」
彼を見ながら、重なった容器を思い出した。透明な壁に白い霜がついていて、ひとつ抜くと、後ろからまたひとつ現れた。あのとき台所の入口に立ち、あそこには尽きない冷たさが隠れていると思った。
「あんなにたくさん。本当に、お店を始めるんだと思ったよ」
「始めないよ」
「知ってる。自分では食べないくせに」
彼は、つないだ手を見下ろした。
「君が来たら、少しはあったほうがいいと思って」
「それにしても、多すぎるよ」
彼は言い返さなかった。
しばらく笑っていたら、不意に目が潤んだ。
「知ってたら、もう一杯食べたのに」
彼が顔を上げた。
「どうしてミントが好きだって知ってるの、って聞いたよね」
「うん」
「いつか、わかるよって」
その言葉が、ゆっくり口元に戻ってきた。
あのときは氷を含み、歯が少し痛くて、また教えてくれないと思いながら、それ以上は聞かなかった。次のひと匙もあったし、冷蔵庫にはまだ氷がたくさんあった。質問がひとつ途中で終わっても、何とも思わなかった。
今になって考えると、聞き終えていないことが、ずいぶんたくさんあった。
彼を見て、もうひと言言おうとした。でも、まぶたが少しずつ重くなった。
彼は首元へ落ちた髪を払ってくれた。
「少し、休もう」
「行かないでね」
「ここにいるよ」
それで、目を閉じた。
……
次に目を覚ますと、部屋の灯りはもう暗くしてあった。
どれだけ眠ったのか、わからなかった。
彼はまだ、手を握っていた。ベッドの縁に置いていた腕は少し位置が変わり、袖口に深いしわが何本もついていた。指を動かすと、すぐ顔を上げ、かがんで覗き込んでくれた。
「起きた?」
少しうなずいた。
本当は、それほどはっきり目が覚めていなかった。夢の何かが、まだ残っていた。取り払われた物干し綱に掛かっていた服だけが、頭の中でそっと揺れ続けているみたいだった。
よく見ようとすると、もう少し散った。
彼がコップを取り、水を飲むかと聞いた。
首を振った。
「じゃあ、話をしようか」
「うん」
思っていたより、小さな声だった。
彼が、もう少し近づいた。
「上海の映画、覚えてる?」
彼を見て、ゆっくり口元を緩めた。
「帽子」
「そう」
彼が笑った。
「あとで聞いたよね。フィルムは本当に絡んでいたのかって」
「本当に?」
「本当。でも、一人でも直せた」
彼に、軽く触れたかった。
指を動かすと、その手をもう少し深く包んでくれた。
「それなのに、呼んだの」
「来てほしかったから」
言ってから、彼はしばらく黙った。
見ていると、心に古くてかすかな嬉しさが戻った。あの晩、椅子に座って振り返ると、まだ彼がいた。そのときと同じだった。
こんなに経っても、あの嬉しさは残っていた。
「何度も振り向いてたね。三度目にうなずいたら、やっと前を向いてくれた」
覚えてる、と言いたかった。
唇は動いたけれど、ごく小さな声しか出なかった。
彼はそれでも、聞こえたように僕を見ていた。
「あとで自転車に乗って朝ご飯に行ったら、店を通るたび止まりたがってた。さっきの店もって聞いたら、うんって」
笑った。
たぶん、声は出ていなかった。それでも彼も笑ってくれた。
「靴を履きかけたまま、階段を駆け下りたこともあったね。途中の女の人が長く話して、どうしてあんなに長いのかって聞いた」
親指が、僕の指の脇を撫でた。
「あの続きはね、ちゃんと靴を履いてから走りなさい、階段が狭いんだから、転んだらどうするのって」
そうだったんだ。
あのとき、残りは聞かないと決めたのを思い出し、何だか少し損をした気がした。こんなに経ってから、ようやく続きを教えてくれるなんて。
文句を言いたかった。
でも、頭の中ではもう言い終わっているのに、口が追いつかなかった。言葉はそこで、足りるだけの息を待ち、舌と唇がゆっくり元の場所を見つけるのを待っていた。
彼は少し待って、それからまた話し始めた。
昔は、僕のほうがよくしゃべった。
話しているうちに遠くへ行ってしまっても、彼は聞いてくれた。やっと初めに何を話そうとしたのか思い出して、戻ってくるまで。言葉を奪うことはめったになかったし、次の言葉で間を埋めようと急ぐこともなかった。
でも、今夜は違った。
話をひとつ終えて僕を見つめ、しばらくすると、また何かを思い出して続けた。ところどころで自分でも少し笑い、うつむいて掛け布団を直し、それから目を上げ、続きを話した。
僕は、聞いていた。
声が少し遠くなると、彼はかがんだ。僕の目がほかへ動くと、同じところを見て、コップや枕や、ベッドの脇の灯りを少し動かしてくれた。
時計は、まだ動いていた。
彼の話す場所が、ひとつずつ、この暗くなった部屋を通った。水の音がするところも、まだ陽の照るところもあった。もう戻れない通りに、彼の声の中で、また少しだけ歩ける道ができた。
もう、そこへ行かなくてもよかった。
聞いていれば、それでよかった。
……
やがて、彼は話を止めた。
目を開けると、僕の手のひらを見下ろしていた。
あの傷跡は、もう見つけにくくなっていた。肌には深さの違う線がいくつもあり、その間に混ざった古い傷は、かえってありふれて見えた。彼の指の腹が、そのひと筋の上で止まっていた。長いこと、止まっていた。
「あの子……」
彼が言った。
顔を見た。
「石の家で、君が世話をしていた子」
「ナツ」
この言葉は、まだ覚えていた。
口にしても、舌はもつれなかった。
彼はうなずき、僕の手を握ったまま、喉を小さく動かした。
「ずっと、話していなかったことがある」
手を上げようとした。
また髪に触れたいと思ったらしく、彼はすぐに少し持ち上げてくれた。僕はただ指を動かし、その手のひらを軽く押した。
「ちょっと、待って」
彼が止まった。
顔を見つめ、ずいぶん経ってから、ようやく続きを見つけた。
「最後に、もう一度、家に帰りたいな」
窓の外は、もう暗かった。
ガラスには枕元のわずかな光が映っていた。木も、外の道も見えない。なのに頭の中には、急にはっきりと、扉がひとつ浮かんだ。
少し緩んだドアの取っ手。下へ押すと、初めに少し空回りする。
玄関の靴は、いつも揃っていない。
台所では水が出ているかもしれない。お母さんが扉に背を向け、帰ってきた音を聞くと、まず、ご飯は食べたのと聞く。お父さんは奥に座り、こちらを見てから、テレビの音を少し下げる。
あの扉は、確かめなくてもわかる。
手を置けば、どう押せばいいのか、あの少しの遊びをどうやり過ごし、押し開ければいいのか、ちゃんと知っている。
長く考えすぎて、彼がいつ身を寄せてくれたのかも、気づかなかった。
両手で、僕の手が包まれるまで。
「うん」
彼が言った。
「家へ、連れて帰るよ」
目を見た。
青い目。
まだ、わかる。
「一緒に?」
「一緒に」
うなずいた。
彼は枕を低くして、いつでも触れられるところに手を残してくれた。もう握る力はあまりなかった。指を少しだけ曲げ、彼の指にかけた。
頬にシーツが触れ、洗いたての淡い匂いがした。
子供の頃、遠足の帰りにバスで眠ったことを思い出した。目が覚めても、まだ家ではなくて、大人が言った。もう少し寝てていいよ、着いたら起こすから。
だから、目を開けて道を確かめなくてよかった。
どの角を曲がったか覚えなくていい。眠さをこらえ、何度も窓の外を見なくていい。
手を預け、ゆっくり目を閉じた。
……
枕元の目覚ましが、十二時に鳴った。
彼が手を伸ばして止めると、部屋はすぐに静かになった。
カレンダーの数字は、まだ三十一だった。
「十二時だよ」
身をかがめ、ごく小さく言った。
手の中の手は、動かなかった。
しばらく待ってから、彼女の首元にかかった白い髪をひと筋払い、そっと肩を揺すった。
「家に帰ろう」
返事は、なかった。
……
最初は、それがジャンプだとは知らなかった。
覚えているのは、家へ帰る途中だったということだけだ。前に木陰があった。そこを抜け、もうひとつ角を曲がれば、見慣れた通りに出るはずだった。
ところが次の一歩で、靴底が砂利に沈んだ。
足元を見て、顔を上げた。
木は、まだあった。
道は、なくなっていた。
白っぽい墓石がいくつも並び、石と石の間に細い道を残していた。供えられた花には、日差しに萎れたものもあった。花びらは花立ての口に垂れ、水に浸かった茎だけが緑を保っている。夏はここでも、花をそっとしておく気にはなれないらしかった。
葉の奥から、蝉の声が降っていた。
しばらく立って、半歩だけ下がった。
砂利が、もう一度鳴った。
「……道、間違えた?」
口にしてから、自分でも変だと思った。
道を間違えるにしたって、間違えられる道くらい、なければ困る。
入口を探して振り向くと、先に、一人の男の人へ目が止まった。
金色の髪。
墓石の前に座り、深く身をかがめて、片手で目を覆っていた。もう片方は膝につき、ズボンの布を握り締めている。長いこと、ほどけなかった。
初めは、汗を拭いているのだと思った。
肩が、一度震えるまでは。
顔をもっと伏せた。込み上げる息を飲み込もうとしたようだった。でも、もう一度吸い込むと、喉から途切れた声が少し漏れた。指の隙間を伝った涙が手の甲を流れ、手首に落ちた。
立ち止まった。
道を尋ねようとしていた言葉も、口元で止まった。
こういうときは、邪魔しないほうがいいのかもしれない。
でも、あんまり悲しそうに泣いていた。
少し落ち着くまで待とうと、しばらくそこにいた。彼はずっと顔を上げなかった。ときどき呼吸が少し整っても、手を下ろし、目の前を見ると、また目を覆ってしまう。
ようやく整いかけた息が、すぐに崩れた。
辺りを見た。
ほかに、誰もいなかった。
結局、近づいた。
靴底で砂利を踏む音は、できるだけ小さくした。それでも彼には聞こえないようだった。手を伸ばし、一度ためらってから、そっと肩に触れた。
「Hello……」
彼の体が、ぴたりと止まった。
慌てて手を引っ込めた。
しまった。
このあと、何て言うんだっけ。
泣かないで?お悔やみ申し上げます?どっちも英語で何て言うの?
男の人が、ゆっくり顔を上げた。
青い目だった。
目の周りは赤く、まつげも濡れていた。僕を見て、少し唇を開いた。さっきまで整わなかった息を、この先どう続ければいいのか、急に忘れてしまったみたいだった。
つい、自分の顔に触れた。
何か、ついてる?
彼の片手が動いた。少し上がり、結局、膝で止まった。
ずいぶん経ってから、ようやく一度まばたきをした。
目元が先に、少し笑った。
でも口元では、その笑みがうまく続かなかった。うつむき、ハンカチで目を押さえ、またこちらを見た。
「こんにちは」
日本語だった。
「日本語、話せるんだ!」
急に声が大きくなった。慌てて周りを見て、少し声を落とし、続けて尋ねた。
「ここ、日本?」
彼がうなずいた。
ほっとした。
少なくとも、わけもわからず外国まで歩いてきたわけではない。
わけもわからず墓地に入ったのも、大してましではないけれど。
彼は、まだ僕を見ていた。
何だか恥ずかしくなり、後ろを指して、また手を下ろした。
「さっき、道を間違えたみたいで。ここにいるのが見えたから、その……」
続きを言いにくかった。
道を聞こうとしたら、すごく泣いていたので、とは言えない。
彼はうつむき、ズボンを握っていた手をゆっくりほどいた。そこだけ布がすっかりしわになっていた。ひと撫でして、直らなかったので、そのまま止めた。
「ありがとう」
「お礼なんて、僕、何もしてないよ」
慌てて手を振った。
言い終わると、また二人とも黙ってしまった。
木漏れ日が、ちょうど首の後ろに当たっていた。避けようと少し横へ動いたけれど、こめかみの汗はもう頬へ流れていて、手の甲でこするしかなかった。
彼はその仕草を見て、また口元を少し動かした。
僕も、つられて笑った。
本当に、何を言えばいいかわからなかった。
「今年の夏、ほんとに暑いね」
彼はしばらく僕を見た。
「そうだね」
まだ、少しかすれた声だった。
襟をつまみ、二度ほど扇いだ。風が肌をなで、ほんの一瞬だけ涼しかった。手を止めると、暑さはすぐ戻った。襟がまた首の後ろにつき、さっき浮かせたところも、すぐに濡れた。
彼はハンカチを畳み、ゆっくり立ち上がった。
途中で、脚がしびれていたのか、少し体が揺れた。慌てて手を伸ばすと、彼は脇の石の縁につかまり、少し待ってから立ち直った。
「大丈夫」
手を戻した。
彼は僕より少し背が高かった。立つと、顔の涙の跡がよく見えた。目尻から顎まで続く一本はまだ乾かず、光を受けてかすかに輝いていた。
さっき天気の話をしたのも、よくなかった気がしてきた。
「あの、もう少しここにいたいなら、僕、一人で――」
「かき氷、食べる?」
顔を上げた。
彼はこちらを見て、少し間を置き、付け足した。
「ミント味」
「どうして、僕がミントのかき氷好きだって知ってるの!」
今度こそ、声を抑えられなかった。
彼が笑った。
少しずつ、笑みが広がった。目にはまだ涙があったけれど、今度はさっきほど苦しそうではなかった。
見ていると、僕も笑いたくなった。でも、こんなにすぐ嬉しそうにするのもよくない気がして、口元をどうすればいいのかわからなかった。
「ごめん、そういう意味じゃ……」
「いいんだよ」
彼が言った。
自分の指を、少し握った。
何がいいのかも、わからなかった。
でも彼はもうハンカチをポケットにしまい、肩の力もさっきほど入っていなかった。こっそり確かめてから、結局、出かけた言葉を最後まで言った。
「ミントが、いちばん好きなんだ」
「うん」
小さな返事だった。
大事に覚えてくれるみたいに。
もっと先に聞くべきことを、ふと思い出した。
「そうだ、名前は?」
「トーマス」
「名字は?」
彼は少し笑ったまま、僕を見た。
「教えない」
「けち!」
口に出した途端、少し後悔した。
さっきまで、泣いていた人なのに。
もう、けちだなんて言ってしまった。
でもトーマスは怒らなかった。うつむいて一度笑い、そばの小さな手帳を取った。反った表紙を閉じ、墓石の前に置く。
古い手帳だった。
紙の端は毛羽立ち、表紙も少し曲がっていた。指の腹でそっと押さえて伸ばし、まっすぐに置き直す。手はしばらくそこに留まってから、ゆっくり離れた。
隣で待っていた。
葉の間から風が抜け、こめかみの汗がようやく少し冷えた。
彼が、またこちらへ向いた。
「行こう」
「お店、遠い?」
「遠くない」
小道へ二歩ほど出て、また止まり、僕を待った。
慌てて足元の石の縁をまたいだ。
トーマス。
心の中で、もう一度言ってみた。
覚えやすい名前だ。
木陰を出るとき、もう一度顔を見た。目はまだ赤かったけれど、呼吸は落ち着いていた。少し考えてから、やっぱり小さく聞いた。
「少し、よくなった?」
彼が振り向いた。
それから、うなずいた。
「ずっとよくなった」
「よかった」
僕も、ほっとした。
もう墓地の門が見えていた。外を自転車が一台通った。前籠には薄い色の布がかかり、風に隅が持ち上がって、すぐ戻った。
二歩ほど急いで、隣へ並んだ。
「かき氷、もう売り切れてないよね?」
「大丈夫」
「どうして、わかるの?」
彼がこちらを見た。
「あるよ」
確かな声だったので、ひとまず信じることにした。
二人で、墓地を出た。
……
足音が、少しずつ遠ざかっていった。
石の道を風が抜け、墓前の黄ばんだ手帳を揺らした。
反った表紙が持ち上がり、その内側の、色あせた文字が見えた。
ナツ。
紙がかすかに震え、少しめくれて、また戻った。
陽が梢を越え、まっすぐ墓石に当たった。
夏目遥。
その三文字が、きらきらと光っていた。
墓石の表面は、終わらない夏のように、焼けるほど熱かった。