完璧な御曹司は、私の前でだけ余裕がない
 その人は、まるで映画の中から抜け出してきたような男性だった。

 雨の降る金曜日の夜。

 水野明日香は、駅前の横断歩道を小走りで渡っていた。

「ああ、もう! 傘を持ってくればよかった……」

 朝は晴れていたのに、天気予報は見事に外れたらしい。

 お気に入りのベージュのコートを濡らしながら、明日香は鞄を頭にかざして走る。

 今日は、出版社で担当している企画の打ち合わせが長引いてしまった。おかげで、楽しみにしていた書店にも寄れなかったし、夕食の買い物もできていない。

 ついていない一日だ。

 そう思った、そのときだった。

「あっ!」

 駅の入り口に差しかかったところで、前を歩いていた男性の鞄から、何枚もの書類が風にあおられて飛び出した。

 紙は雨に濡れた地面へと散らばっていく。

 男性はすぐに足を止めたものの、後ろから人が次々にやってくるせいで、なかなか拾い集められない。

「大変!」

 明日香は迷わず駆け寄った。

「お手伝いします!」

「いや、あなたまで濡れてしまいますよ」

「そんなこと言っている場合じゃありません!」

 明日香はしゃがみ込み、濡れないうちに書類を拾い集めた。

 幸い、ほとんどの紙は地面に落ちる前に回収できた。最後の一枚を拾い上げ、男性に差し出す。

「はい。これで全部でしょうか?」

「……ありがとうございます」

 顔を上げた瞬間、明日香は息をのんだ。

 整った顔立ち。

 すっと通った鼻筋に、涼しげな目元。濡れた黒髪が額に少しかかっていて、かえってその美しさを際立たせている。

 背が高く、仕立てのよい黒いスーツを完璧に着こなしていた。

 腕時計も、きっと自分の給料では何か月分になるかわからないほど高価なものなのだろう。

 ――うわ。ものすごく、格好いい人。

 思わず見とれそうになり、明日香は慌てて視線をそらした。

「いえ、どういたしまして。大事な書類みたいですから、濡れなくてよかったですね」

 男性は手元の書類を確認すると、わずかに目を細めた。

「ええ。本当に助かりました」

「では、私はこれで!」

 明日香はぺこりと頭を下げ、駅の中へ向かおうとした。

 そのとき。

「待ってください」

「はい?」

「せめて、お名前を伺っても?」

「あ、いえ! 本当に大したことではないので!」

 明日香は慌てて首を振った。

「それより、風邪をひかないようにしてくださいね。では!」

 そう言い残し、彼女は逃げるように人混みの中へ消えていった。

 残された男性は、しばらくその背中を見つめていた。

 やがて、手の中にある書類へ視線を落とす。

 その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

「……不思議な人だ」

 礼を言われることに慣れている。

 名前を聞かれ、名刺を求められ、少しでも親しくなろうと近づいてくる人間にも慣れている。

 けれど、彼女は違った。

 自分が誰なのかも知らないまま、ただ困っている人を助け、何も求めずに立ち去った。

 それが、なぜだかひどく印象に残った。

「翔様、お待たせいたしました!」

 背後から、傘を持った男性が駆け寄ってくる。

 翔と呼ばれた男は、差し出された傘を受け取った。

「少し探し物をしていた」

「探し物、ですか?」

「……いや」

 翔は、先ほど彼女が消えていった方向をもう一度見た。

「見つけたのかもしれない」

 秘書は首をかしげたが、翔はそれ以上何も語らなかった。

 ただ、胸の奥に生まれた小さな変化を、彼自身もまだ理解できていなかった。

     *

 月曜日。

「水野さん、この資料、今日中にお願いできる?」

「はい。わかりました!」

 明日香は、上司から渡された書類を受け取りながら笑顔で答えた。

 勤め先は、中規模の出版社である。

 大手企業のような華やかさはないけれど、明日香は本が好きだった。

 誰かの人生を変えるような一冊を世に送り出すこと。

 読み終えた人が、ほんの少しでも幸せな気持ちになれる物語を届けること。

 それが彼女の夢だった。

 もっとも、現実は夢のように甘くない。

 人手不足で仕事は山積み。企画を通すのにも苦労する。自分より若い同僚が大きな仕事を任されているのを見ると、焦ることもあった。

 それでも、明日香は投げ出さなかった。

「よし。頑張ろう」

 小さく気合いを入れたところで、編集部の扉が勢いよく開いた。

「みんな、ちょっと聞いてくれ!」

 部長が興奮した様子で声を上げる。

「大手の一条グループから、うちに大型企画の打診が来た!」

「一条グループって、あの一条グループですか?」

「そうだ。出版事業にも本格参入するらしい。今回の企画が通れば、うちにとって大きなチャンスになるぞ!」

 編集部が一気にざわめいた。

 一条グループ。

 国内外に幅広く事業を展開する巨大企業で、近年は若き社長の手腕によって急成長を遂げている。

 その社長は、経営者としての能力はもちろん、容姿まで完璧だと話題になっていた。

 名前は、一条翔。

 経済誌の表紙を飾り、海外の企業との交渉を次々に成功させ、二十八歳にしてグループのトップに立つ人物。

 まさに、絵に描いたようなエリートである。

「今回の企画は、若い世代に向けた新しい書籍シリーズだ。先方の代表が直接打ち合わせに来ることになった」

「社長ご本人がですか?」

「ああ。失礼のないように頼むぞ!」

 部長の言葉に、編集部の女性社員たちが色めき立った。

「一条社長って、ものすごく格好いいらしいよ」

「写真を見たことあるけど、俳優みたいだった!」

「独身なんだよね? どんな女性が隣に立つんだろう……」

 そんな会話を聞きながら、明日香は資料を整理していた。

 正直、あまり興味はない。

 確かに格好いい男性は魅力的だと思う。

 けれど、明日香は過去の恋愛で少し傷ついて以来、恋愛に積極的になれずにいた。

 以前付き合っていた男性から、別れ際に言われた言葉が、今も心のどこかに残っている。

『明日香って、いい人だけどさ。一緒にいても刺激がないんだよね』

 そのときは笑って別れた。

 けれど、本当はずっと気にしていた。

 自分には、人を夢中にさせるような魅力がないのではないか。

 誰かに選ばれるほど、特別な存在ではないのではないか。

 だから今は、仕事を頑張って、自分の好きなものに囲まれて暮らせれば十分だと思っていた。

「水野さん、会議室の準備をお願いできる?」

「はい!」

 明日香は資料を抱えて、会議室へと向かった。

     *

 午前十時。

 出版社の正面玄関に、一台の黒い高級車が停まった。

 車から降りてきた男性を見て、受付の女性が思わず姿勢を正す。

 黒いスーツ。

 隙のない身だしなみ。

 落ち着いた足取りと、周囲の空気を自然に変えてしまうような存在感。

 一条翔だった。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 出迎えた部長が深々と頭を下げる。

「こちらこそ。お忙しいところ、恐縮です」

 翔は穏やかに微笑んだ。

 声は低く、よく通る。

 礼儀正しく、それでいて堂々としている。秘書が隣で予定を説明している間にも、翔はすでに今日の資料に目を通していた。

 歩きながら内容を確認し、要点を把握し、質問すべき箇所を整理する。

 その一連の動作に無駄はなかった。

「さすが一条社長……」

 社員たちの小さなささやきが聞こえてくる。

 けれど、翔の意識は別のところにあった。

 この出版社に来ることが決まったとき、彼はひそかに期待していた。

 あの雨の夜に出会った女性が、ここで働いているかもしれない。

 根拠はない。

 名前も知らない。

 ただ、彼女が出版社の紙袋を持っていたことだけは覚えていた。

 だからといって、仕事を私情で決めるつもりはなかった。

 今回の企画には、以前から興味があったのだ。

 それでも、もし彼女にもう一度会えたなら。

 そう考えてしまう自分がいた。

「社長、こちらが会議室です」

 部長に案内され、翔は扉の前に立った。

 その瞬間。

「部長、お茶の準備ができました!」

 明るい声とともに、会議室の扉が開いた。

 湯気の立つトレイを持った女性が顔を出す。

 そして、彼女は翔を見た。

「あ……」

 翔もまた、目を見開いた。

 ベージュのコート。

 少し困ったように揺れる瞳。

 雨の中で書類を拾い集めてくれた、あの女性。

 間違いない。

 彼女だった。

「あの、先日は……」

 翔が口を開くより早く、明日香が驚いた声を上げた。

「えっ! 雨の日の……!」

 しまった、と思ったのだろう。

 明日香はすぐに口を押さえた。

 周囲の社員たちが不思議そうに二人を見比べる。

「水野さん、一条社長とお知り合いなのか?」

「い、いえ! 知り合いというほどでは……!」

 明日香は慌てて頭を下げた。

「先日は失礼いたしました。あのときは、ちゃんとご挨拶もせずに……」

「いいえ。こちらこそ、きちんとお礼を伝えられませんでした」

 翔は彼女を見つめた。

 仕事中だということも、周囲に人がいることも、もちろん理解している。

 それでも、胸の奥から湧き上がる喜びを抑えるのは難しかった。

 もう一度、会えた。

 しかも、彼女は自分の名前を知っても、態度を変えなかった。

 翔は自然と口元を緩めた。

「お会いできて嬉しいです」

「……え?」

「先日のお礼を、改めてさせていただけませんか?」

 明日香は困ったように眉を下げた。

「いえ、本当に大したことではありませんから……」

「私にとっては、大したことでした」

 その声が思いのほか真剣だったので、明日香は言葉を失った。

 翔は、普段なら相手の反応を見ながら話を進める。

 しかし今は、どうにも調子が狂っていた。

 何を言えば彼女が喜んでくれるのか。

 どうすれば、もう少し自分のことを知ってもらえるのか。

 そんなことばかり考えてしまう。

 やがて、翔は一つの決心をした。

「あの、もしご迷惑でなければ」

 ほんの少しだけ、声が慎重になる。

「今夜、食事に付き合っていただけませんか?」

 会議室が、しんと静まり返った。

 部長は目を丸くし、秘書は一瞬だけ表情を止めた。

 そして、明日香は。

「……ええっ!?」

 手に持っていたトレイを落としかけた。

「しょ、社長とですか!?」

「はい」

「私が!?」

「あなたにお願いしています」

 翔は真面目な顔で頷いた。

 明日香の頭の中は、完全に混乱していた。

 相手は一条グループの社長だ。

 雑誌で見かけるような、雲の上の人だ。

 そんな人が、なぜ自分を食事に誘うのだろう。

 お礼だとしても、そこまでしてもらう理由がない。

 それに、こんなに格好いい人と二人きりで食事なんて、心臓がもたない。

「あの……お気持ちは嬉しいのですが、遠慮させてください!」

 明日香は勢いよく頭を下げた。

「本当に、お礼なんて必要ありませんから!」

 翔は固まった。

 断られる可能性を、考えていなかったわけではない。

 けれど、ここまではっきりと断られるとは思っていなかった。

 交渉の席で、どれほど難しい条件を突きつけられても動じない男が、たった一人の女性の返事に言葉を失っている。

 そんな自分が信じられなかった。

「……そう、ですか」

「申し訳ありません!」

「いえ。あなたが謝ることではありません」

 翔は、なんとか笑顔を作った。

 しかし、胸の内側では、予想外の感情が渦巻いていた。

 残念だ。

 もう一度話したかった。

 彼女がどんな本を好きで、どんなことに笑い、どんな毎日を過ごしているのか知りたかった。

 ただ、それだけなのに。

「では、せめて一つだけお願いしても?」

「は、はい?」

「今度、あなたの好きなものを教えてください」

「好きなもの……ですか?」

「ええ。食べ物でも、本でも、何でも」

 翔は穏やかに微笑んだ。

「あなたのことを、もう少し知りたいんです」

 明日香の頬が、じわじわと赤くなる。

 その言葉が、単なる社交辞令には聞こえなかったからだ。

「……私なんかのことで、よければ」

「あなたのことでなければ、意味がありません」

 即答だった。

 明日香は、思わず翔の顔を見つめた。

 彼は、どこまでも真剣だった。

 からかっているようにも、遊んでいるようにも見えない。

 ただ、まっすぐに自分を見ている。

 その視線に耐えられなくなり、明日香は小さく頭を下げた。

「……考えておきます」

「ありがとうございます」

 翔は、まるで大きな商談がまとまったかのように嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見た明日香は、胸が小さく跳ねるのを感じた。

 ――だめだめ。相手は社長。私はただの編集者。

 そう自分に言い聞かせながら、明日香はお茶をテーブルに置いた。

 けれど、もう気づいていた。

 自分の心が、ほんの少しだけ、この人に惹かれ始めていることに。

     *

 打ち合わせが終わったあと。

 翔は、会社へ戻る車の中で窓の外を眺めていた。

「社長」

 向かいに座る秘書が、遠慮がちに声をかける。

「本日の打ち合わせですが、先方の担当者は非常に優秀でしたね」

「そうだな」

「特に、水野さんという方は企画の内容をよく理解されていました」

「……ああ」

 翔は短く答えた。

 もちろん、仕事の面でも彼女には好感を持った。

 しかし、それ以上に気になっていることがある。

「なあ」

「はい」

「女性を食事に誘うときは、どうすればいい?」

「……はい?」

 秘書は、聞き間違いかと思った。

 長年、翔の仕事を支えてきたが、こんな質問をされたのは初めてだった。

「相手が断った場合は、もう一度誘ってもいいのか。それとも、しばらく待ったほうがいいのか」

「社長……」

「なんだ?」

「失礼ですが、どなたをお誘いになったのですか?」

「水野明日香さんだ」

 翔は、初めて彼女の名前を口にした。

 名札に書かれていた名前を、忘れないように心に刻んでいたのだ。

「……なるほど」

 秘書は、ようやく事情を察したようだった。

 そして、少しだけ笑った。

「まずは、お相手の方の気持ちを尊重されることが大切かと」

「わかっている」

「でしたら、焦らずに距離を縮めていかれてはいかがでしょう」

「距離を縮める……」

 翔はその言葉を繰り返した。

 これまでの人生で、目標を定めれば最短距離で到達することを考えてきた。

 けれど、恋愛には最短距離などないのかもしれない。

 彼女が自分をどう思っているのか。

 何を好み、何を嫌うのか。

 どうすれば、彼女の笑顔をもっと見られるのか。

 一つずつ、知っていくしかない。

 翔は、窓に映った自分の顔を見た。

 そこには、普段よりもずっと柔らかな表情をした男がいた。

「……面白いな」

「何がでしょうか?」

「誰かのことを、こんなに知りたいと思ったのは初めてだ」

 秘書は、返す言葉を失った。

 一条グループの若き社長。

 頭脳明晰、容姿端麗、何事にも動じない完璧な男。

 その彼が、たった一人の女性に振り回されている。

 しかも、本人はそれを少しも嫌だと思っていないらしい。

「秘書」

「はい」

「彼女の好きなものを知る方法を、一緒に考えてくれ」

「……かしこまりました」

 秘書は深々と頭を下げた。

 そして心の中で、そっと付け加えた。

 ――これは、長い戦いになりそうだ。

     *

 その日の夜。

 自宅に帰った明日香は、ベッドの上でスマートフォンを握りしめていた。

 画面には、検索結果が表示されている。

『一条翔 社長 プロフィール』

 年齢、二十八歳。

 一条グループ代表取締役社長。

 海外の有名大学を優秀な成績で卒業。

 複数の言語を操り、就任後はグループの業績を大幅に伸ばした。

 さらに、慈善活動にも積極的で、社員からの信頼も厚い。

 おまけに、写真まで美しい。

「……何なの、この人」

 明日香は枕に顔を埋めた。

「完璧すぎるでしょ……!」

 自分とは住む世界が違う。

 それなのに、あの人は自分に「あなたのことを知りたい」と言った。

 思い出すだけで、頬が熱くなる。

「きっと、親切な人なんだよ。雨の日に助けてもらったから、お礼をしたかっただけ」

 そう結論づけようとした。

 けれど。

 ――あなたのことでなければ、意味がありません。

 あの言葉が、頭から離れない。

 明日香はスマートフォンを伏せ、天井を見上げた。

「……もう、知らない」

 そうつぶやいた直後、画面が光った。

 会社の同僚からのメッセージだった。

『明日香! さっきの一条社長との話、聞いたよ! あの人、普段は女性社員にもすごく距離を置いてるらしいよ!』

 続けて、もう一通。

『なのに明日香を食事に誘ったって本当!? 何があったの!?』

「えええっ!?」

 明日香は飛び起きた。

「ち、違うから! 絶対に何かの勘違いだから!」

 慌てて返信を打ちながらも、心のどこかではわかっていた。

 あの人は、勘違いするような目をしていなかった。

 あの真剣な眼差しを、どうしても忘れられない。

 そして同じ頃。

 一条グループの社長室では、翔が秘書の報告を聞いていた。

「水野明日香さんは、読書がお好きなようです。特に、心が温かくなる恋愛小説をよく読まれるとか」

「恋愛小説……」

 翔は、机の上の資料に目を落とした。

 仕事の書類なら、どれほど難解な内容でもすぐに理解できる。

 だが、恋愛小説の選び方となると話は別だった。

「どの作品がいいだろうか」

「社長ご自身で選ばれるのがよろしいかと」

「そうだな」

 翔は真剣に頷いた。

 そして、すぐさまパソコンを開いた。

「明日、書店に行こう」

 秘書は静かに目を閉じた。

 ――社長。明日は海外企業との重要な会議が三件入っております。

 だが、彼はまだ知らない。

 世界を相手にする男が、たった一人の女性に恋をしたとき。

 その完璧な日常が、どれほど甘く、そして忙しいものになるのかを。

 翔は画面に映る恋愛小説の紹介文を読みながら、小さくつぶやいた。

「明日香さんは、どんな物語が好きなんだろう」
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