完璧な御曹司は、私の前でだけ余裕がない
翌朝、明日香は会社のデスクで、ある重大な問題に直面していた。
「……どうしよう」
パソコンの画面には、昨夜から何度も開いては閉じているニュース記事が表示されている。
そこには、見覚えのある男性の写真があった。
一条グループ代表取締役社長、一条翔。
昨日、明日香を食事に誘った、あの完璧すぎる男性だ。
記事の見出しには、こう書かれていた。
『若き経営者、一条翔。次世代のリーダーとして注目』
その下には、彼の輝かしい経歴が並んでいる。
海外の大学を優秀な成績で卒業。複数の言語を自在に操り、二十五歳でグループの主要事業を任され、二十八歳で社長に就任。
さらに、趣味は料理とクラシック音楽。
料理?
「……料理までできるの?」
明日香は思わず声を漏らした。
いや、待ってほしい。
顔がいい。頭がいい。お金持ち。仕事もできる。
そのうえ、料理までできるなんて。
神様は、この人にいったいいくつ才能を与えたのだろう。
「水野さん、朝から何を見ているの?」
「ひゃっ!」
背後から声をかけられ、明日香は慌てて画面を閉じた。
振り返ると、同僚の佐伯美咲が、にやにやと笑っている。
「もしかして、一条社長?」
「ち、違うよ!」
「その反応、絶対そうじゃない」
「だって、昨日のことが気になって……」
「ほら!」
美咲は嬉しそうに明日香の肩を叩いた。
「ねえ、実際どうだった? 格好よかった? 優しかった? 目が合った?」
「質問が多いよ!」
「だって、あの一条社長だよ? 女性誌でも特集されていたし、経済誌の表紙にもなっていたし。そんな人が明日香を食事に誘ったんでしょう?」
「だから、あれはお礼だってば!」
明日香は小声で反論した。
「雨の日に、落とした書類を拾っただけなの。それだけで食事に誘ってくれるなんて、丁寧な人なんだなって思っただけ」
「ふうん?」
美咲は意味ありげに目を細めた。
「じゃあ、もしもう一度誘われたら?」
「断るよ!」
「即答だねえ」
「だって、住む世界が違いすぎるもの」
明日香は苦笑した。
「私なんて、昨日だって夕飯のおかずを買い忘れて、冷蔵庫にあった卵でどうにかしたくらいだよ。あんな人と食事なんて、緊張して味もわからなくなりそう」
「でもさ」
美咲は、少しだけ真面目な顔になった。
「明日香って、そうやって最初から自分を相手の下に置くところがあるよね」
「え?」
「相手がすごい人だからって、明日香が劣っているわけじゃないでしょ。明日香には明日香のいいところがあるんだから」
その言葉に、明日香は一瞬、返事に詰まった。
自分のいいところ。
そんなものが、いったいどこにあるのだろう。
そう考えてしまう自分が、少し嫌だった。
「……ありがとう、美咲」
「どういたしまして。で、もしまた誘われたら、ちゃんと考えること!」
「はいはい」
明日香は笑って仕事に戻った。
けれど、その日の午前中、彼女の頭から一条翔のことが消えることはなかった。
*
同じ頃。
一条グループの社長室では、社長秘書の黒田が、珍しく困り果てていた。
「社長。本当に、こちらをご購入されるのですか?」
「ああ」
翔は、黒田の差し出したタブレットを真剣に見つめていた。
画面に表示されているのは、恋愛小説のランキングだった。
「この作品は、読者からの評価が高いようだ。明日香さんも気に入ってくれるだろうか」
「……社長」
「なんだ?」
「女性に本を贈られるのは、初めてですか?」
「初めてだが」
翔は、何のためらいもなく答えた。
「だから、慎重に選んでいる」
黒田は、こめかみを押さえた。
この男は、世界各国の企業を相手に、数百億円規模の交渉をまとめてきた人物だ。
相手企業の経営状況を分析し、数年先の市場動向まで読み切る。
それなのに、恋愛小説を一冊選ぶだけで、すでに三十分以上も悩んでいる。
「社長、失礼ながら申し上げます」
「どうぞ」
「本を贈ること自体は、悪くないと思います。ただ、相手の好みを直接伺ってからでも遅くはないかと」
「なるほど」
翔は頷いた。
「確かに、本人に聞くのが一番確実だな」
そして、すぐにスマートフォンを手に取った。
「では、今日、彼女に会いに行こう」
「……はい?」
「企画の打ち合わせも兼ねて、出版社を訪問する。問題ないだろう?」
「本日の予定は、午後から海外企業とのオンライン会議が二件、夕方から役員会がございます」
「午前中は?」
「十時から十一時まで、空いております」
「それで十分だ」
翔は満足そうに微笑んだ。
黒田は、スケジュール帳を見下ろした。
――社長。先方の担当者との調整が必要なのですが。
しかし、そんな言葉を口にする前に、翔は立ち上がっていた。
「黒田、車の手配を頼む」
「……かしこまりました」
こうして、一条グループの社長は、たった一人の女性に会うために、予定を組み直すことになった。
*
午前十時三十分。
明日香が資料の修正を終え、ようやく一息ついたときだった。
「水野さん、一条社長がいらっしゃったわよ!」
編集部の女性社員が、興奮した様子で駆け込んできた。
「えっ?」
明日香は、思わず椅子から立ち上がった。
「一条社長が?」
「そう! 部長と打ち合わせをされるみたい。今、会議室に案内されているところよ」
「そ、そうなんですね……」
なぜか、心臓が速くなる。
昨日会ったばかりなのに。
しかも、仕事で来ているのだから、明日香が特別に何かをする必要はない。
そうわかっているのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
「水野さん」
今度は部長が顔を出した。
「一条社長から、君にも同席してほしいと要望があった。先日の企画書について、担当者の意見を直接聞きたいそうだ」
「私も、ですか?」
「ああ。君が中心になってまとめた企画だからね。頼むよ」
「わかりました!」
明日香は慌てて資料をまとめた。
そして会議室へ向かう途中、深呼吸をする。
仕事だ。
これは仕事。
相手は大企業の社長だけれど、必要以上に緊張することはない。
そう自分に言い聞かせて扉を開けると。
「おはようございます、水野さん」
翔が、立ち上がって迎えてくれた。
その笑顔を見た瞬間、明日香の決意はあっけなく崩れた。
「お、おはようございます!」
「昨日は、よく眠れましたか?」
「えっ?」
「いえ。少し気になりまして」
「は、はい! 普通に!」
「そうですか。よかった」
翔は、本当に安心したように微笑んだ。
明日香は首をかしげた。
――どうして、そんなことを聞くんだろう。
けれど、部長が席についたため、それ以上尋ねることはできなかった。
打ち合わせは順調に進んだ。
翔は企画書を丁寧に読み込み、明日香の説明に耳を傾けた。
そして、彼女が話し終えると、真剣な表情で頷いた。
「非常に面白い企画だと思います」
「ありがとうございます」
「特に、読者が自分自身の経験を重ねられるような構成がいい。単に情報を届けるだけではなく、読後に何かを残す。その考え方は、今回のシリーズにふさわしいと思います」
明日香は、思わず顔を上げた。
翔は、ただ褒めているのではなかった。
企画の意図を理解し、具体的な部分を評価してくれている。
「……そこを、わかっていただけて嬉しいです」
自然と言葉がこぼれた。
「私、読んだ人が少しでも前向きになれる本を作りたいんです。落ち込んでいるときに読んで、明日も頑張ろうって思えるような……そんな本を」
話しながら、少し恥ずかしくなった。
大企業の社長に、こんな理想を語ってもよかったのだろうか。
しかし、翔は笑わなかった。
むしろ、その目は先ほどよりも優しくなっていた。
「素敵な考えですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ。僕は、あなたのそういうところが好きです」
「…………え?」
会議室の空気が止まった。
翔も、言った直後に自分の発言を自覚したらしい。
ほんのわずかに目を見開き、それから咳払いをした。
「……失礼。仕事に対する姿勢が、です」
「あ、ああ! そうですよね!」
明日香は、真っ赤になった顔を隠すように資料へ視線を落とした。
部長は何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。
翔は、内心で深く反省していた。
――早まった。
まだ、二度目に会ったばかりだ。
それなのに、好きだなどと。
もっと自然に、少しずつ距離を縮めるつもりだったのに。
どうやら、自分は思っていた以上に彼女に弱いらしい。
*
打ち合わせが終わり、部長が別の来客に対応するため席を外した。
会議室には、明日香と翔の二人だけが残された。
「あの……一条社長」
「翔で構いません」
「えっ?」
「仕事中は難しいかもしれませんが、二人で話すときくらいは、名前で呼んでいただけると嬉しいです」
翔は、できるだけ自然な笑顔を作った。
しかし、その内心は穏やかではない。
名前で呼んでほしい。
できれば、親しみを込めて。
そんな願いを口にすること自体、彼にとっては大きな一歩だった。
「で、でも……」
「もちろん、無理にとは言いません」
「……翔、さん」
明日香は、小さな声で呼んだ。
その瞬間。
翔は、完全に動きを止めた。
たった四文字。
それだけなのに、胸の奥が熱くなる。
これまで、名前を呼ばれることなど何度もあった。
社員からも、取引先からも、家族からも。
なのに、彼女の声で聞く自分の名前は、まるで別のもののように感じられた。
「……ありがとうございます」
「い、いえ!」
明日香は、なぜか自分まで恥ずかしくなっていた。
こんなこと、普通の挨拶の延長にすぎない。
そうわかっているのに。
「それで、あの……今日は何か、ほかにご用件が?」
「ああ、そうでした」
翔は、ようやく本題を思い出した。
「水野さんの好きなものを教えていただきたくて」
「好きなもの?」
「昨日、お願いしましたよね」
明日香は目を瞬いた。
まさか、本当に覚えていたとは思わなかった。
「ええと……本が好きです。あと、甘いものも」
「甘いもの」
翔は、その言葉を大切な情報のように繰り返した。
「特に好きなものはありますか?」
「プリン、ですかね。昔から好きなんです。駅の近くに、小さな喫茶店があるんですけど、そこのプリンがすごくおいしくて」
「プリン……」
「はい。昔ながらの、少し固めのプリンで。カラメルがちょっと苦くて、上に生クリームがのっていて……」
明日香は、話しているうちに自然と笑顔になっていた。
「疲れたときに食べると、幸せな気持ちになるんです」
翔は、その笑顔をじっと見つめていた。
――この笑顔を、もっと見たい。
そう思った。
高価な宝石を贈るよりも、豪華なレストランを予約するよりも。
彼女が好きなものを知り、それを一緒に楽しみたい。
彼女が幸せだと感じる時間を、自分も共有したい。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「いえ、そんな……」
「そのお店、今度教えていただけませんか?」
「えっ?」
「僕も、食べてみたいと思いました」
明日香は、少しだけ驚いた。
こんなに何でも持っている人が、駅前の小さな喫茶店のプリンに興味を持つなんて。
「……本当に、普通のお店ですよ?」
「それがいいんです」
翔は微笑んだ。
「あなたが好きな場所なら、僕も行ってみたい」
明日香は、言葉を失った。
そんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。
自分の好きなものを、誰かが知りたいと思ってくれる。
それが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
「……はい。いつか、ご案内します」
そう答えた明日香の頬は、ほんのりと赤かった。
翔は、その返事を聞いて、心の中で静かに拳を握った。
――よし。
断られなかった。
それだけで、今日は十分な成果だった。
*
その日の午後。
一条グループの社長室では、翔が腕まくりをしていた。
「黒田。これから、少し時間をもらえるか」
「はい。午後の会議までは三十分ほど空いておりますが……何をなさるおつもりですか?」
「料理をする」
「……料理、ですか?」
「プリンを作りたい」
黒田は、数秒間、言葉を失った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「社長。念のため確認いたしますが、何のために?」
「明日香さんが好きだと言っていた」
「なるほど」
黒田は、深く頷いた。
もう驚かないことにした。
「それで、材料は?」
「用意してある」
翔は、デスクの脇に置かれた紙袋を示した。
中には、卵、牛乳、砂糖、生クリーム、バニラエッセンスが入っていた。
「……社長。まさか、今からお作りになるのですか?」
「そうだ」
「午後の会議は?」
「予定どおり出席する」
「お時間は?」
「三十分ある」
「……かしこまりました」
黒田は、これ以上何も言わないことにした。
翔は、料理の手順を確認しながら、真剣に材料を計量した。
普段から料理はする。
栄養バランスを考えた食事を作ることも、手際よく食材を扱うことも得意だった。
だから、プリンくらい簡単だと思っていた。
しかし。
「……なぜだ」
数分後、翔は鍋を見つめていた。
カラメルが、黒い塊になっている。
「火加減を間違えたのでしょうか」
黒田が遠慮がちに言った。
「……そのようだな」
翔は、焦げたカラメルを見下ろした。
料理で失敗することなど、ほとんどない。
それなのに、今日はどうにも調子が悪い。
明日香の笑顔を思い浮かべるたびに、手元がおろそかになってしまうのだ。
「もう一度だ」
「社長、会議まであと二十分です」
「問題ない」
翔は新しい鍋を用意した。
二度目の挑戦。
今度は慎重に砂糖を溶かし、色を確認しながら火を止めた。
――よし。
そう思った瞬間、今度は熱いカラメルが鍋の底に固まってしまった。
「…………」
「…………」
社長室に、重い沈黙が流れた。
翔は鍋を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに口を開く。
「黒田」
「はい」
「料理人に教わることはできるだろうか」
「もちろん可能です」
「そうか」
翔は、真剣な表情で頷いた。
「では、明日までに完璧なプリンを作れるようにしたい」
黒田は、時計を見た。
「……社長。まずは午後の会議を完璧に終わらせていただけますでしょうか」
「もちろんだ」
翔は即答した。
その後、彼は予定どおり会議に出席し、難しい交渉を見事にまとめ上げた。
だが、会議が終わった瞬間、彼が口にしたのは契約条件でも今後の事業計画でもなかった。
「黒田。料理教室を探してくれ」
「……かしこまりました」
*
翌週の土曜日。
明日香は、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
窓際の席。
目の前には、昔ながらの固めのプリン。
休日に好きな本を読みながら、ゆっくりと過ごす時間は、彼女にとって何よりの贅沢だった。
――やっぱり、おいしい。
一口食べて、明日香は幸せそうに目を細めた。
そのとき。
「……水野さん?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、そこには翔が立っていた。
「えっ!? 翔さん!?」
明日香は、慌てて立ち上がりかけた。
「どうして、ここに?」
「偶然です」
翔は、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「この近くで用事がありまして。通りかかったら、あなたが見えたので」
嘘ではなかった。
ただし、用事というのは、この喫茶店の場所を確認することだったのだが。
翔は、明日香の前にあるプリンに目を落とした。
「それが、以前お話しされていたプリンですか?」
「はい。そうですけど……」
「おいしそうですね」
「本当においしいですよ。よかったら、食べてみますか?」
言ってから、明日香ははっとした。
――何を言っているの、私!
自分のプリンを勧めるなんて、馴れ馴れしかったのではないだろうか。
「す、すみません! 今のは忘れてください!」
「いえ」
翔は、穏やかに首を振った。
「よろしければ、ご一緒しても?」
「……え?」
「僕も、ここで食べてみたいんです」
明日香は、しばらく翔を見つめた。
そして、向かいの席を指さした。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
翔は嬉しそうに座った。
店員が注文を取りに来ると、彼は迷わずプリンを注文した。
やがて運ばれてきたプリンを前に、翔は真剣な顔でスプーンを手に取った。
一口。
そして、ゆっくりと味わう。
「……おいしい」
「でしょう?」
明日香は、思わず笑った。
「甘すぎなくて、カラメルが少し苦いんです。昔から変わらない味で、食べるとほっとするんですよね」
「なるほど……」
翔は、プリンを見つめながら頷いた。
「確かに、これはいいですね」
「ふふっ。翔さん、そんなに真剣にプリンを食べる人、初めて見ました」
明日香が笑う。
その瞬間、翔の胸が大きく跳ねた。
彼女が笑っている。
自分の前で、自然に。
それだけで、今日ここに来た価値があったと思えた。
「……よかった」
「え?」
「あなたが、楽しそうなので」
翔は、少し照れたように目を伏せた。
「僕も嬉しいです」
明日香は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
この人は、どうしてこんなことを、何のためらいもなく言えるのだろう。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、もっと話してみたいと思った。
「翔さんは、普段どんなものを食べるんですか?」
「自分で作ることが多いですね」
「えっ、自炊ですか?」
「はい。簡単なものなら、ひと通り」
「すごい……。お仕事もお忙しいのに」
「時間の使い方には慣れていますから」
翔はそう答えたあと、少し考えるように視線を落とした。
「ただ、最近は……うまくいかないこともありまして」
「うまくいかないこと?」
「料理です」
「料理!?」
明日香は目を丸くした。
翔が、困ったように微笑む。
「実は、プリンを作ろうとしたんです」
「ええっ!?」
「ですが、カラメルを焦がしてしまって」
翔は、どこか悔しそうに続けた。
「二度目も失敗しました」
「ふふっ……!」
明日香は、思わず笑い声を漏らした。
「あ、ごめんなさい! でも、翔さんでも失敗することがあるんですね」
「ありますよ」
「何でも完璧にできる方だと思っていました」
「……僕も、そう思っていました」
翔は、真面目な顔で言った。
それがあまりにも真剣だったので、明日香はまた笑ってしまった。
翔は、彼女の笑顔を見つめながら思った。
失敗してもいい。
格好悪いところを見せてもいい。
彼女がこんなふうに笑ってくれるなら、何度だって挑戦したい。
「水野さん」
「はい?」
「今度、僕に料理を教えていただけませんか?」
「私が、ですか?」
「ええ。あなたの好きなものを、一緒に作ってみたいんです」
明日香は、驚いたように目を瞬いた。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
「……私でよければ」
「ありがとうございます」
翔は、心から嬉しそうに微笑んだ。
そして、心の中でそっと決意した。
次こそは、彼女においしいと言ってもらえるプリンを作ろう。
何度失敗したって構わない。
彼女が好きなものを、自分も好きになりたい。
彼女が笑う理由を、一つでも増やしたい。
それが、今の翔にとって、何より大切なことだった。
*
喫茶店を出たあと。
明日香は、駅までの道を翔と並んで歩いていた。
雨は降っていない。
柔らかな秋の日差しが、街路樹の葉を照らしている。
「今日は、ありがとうございました」
明日香が言うと、翔は首をかしげた。
「お礼を言うのは、僕のほうです。ご一緒できて嬉しかった」
「……翔さんって、いつもそんなに優しいんですか?」
思わず口にしてから、明日香は慌てた。
「す、すみません。変なことを聞いてしまって」
「いえ」
翔は、少し考えた。
「誰にでも、できるだけ誠実でありたいとは思っています」
「そうなんですね」
「でも」
彼は、明日香のほうを見た。
「あなたには、もっと優しくしたいと思っています」
明日香の足が止まった。
翔も、少し先で立ち止まる。
「……どうして、ですか?」
声が、かすかに震えた。
翔はすぐには答えなかった。
まだ、出会って間もない。
好きだと告げるには早すぎるし、彼女を困らせたくもなかった。
それでも、これだけは伝えたかった。
「あなたといると、僕は自分が思っていたより、ずっと楽しいんです」
翔は、柔らかく笑った。
「だから、あなたにも楽しいと思ってもらえたら嬉しい」
明日香は、何も言えなかった。
自分のことを、そんなふうに思ってくれる人がいる。
それが、まだ信じられなかった。
けれど、翔の目は真剣だった。
彼女の返事を急かすこともなく、ただ静かに待っている。
「……私も」
明日香は、小さく口を開いた。
「翔さんとお話しするの、楽しいです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
「で、でも! その、まだ全然知らないことばかりですし……!」
「はい」
翔は嬉しそうに頷いた。
「これから、少しずつ知っていただけたらと思います」
その笑顔は、雑誌で見る完璧な社長のものとは違っていた。
少し照れくさそうで、どこか不器用で。
明日香は、その表情がとても好きだと思った。
――ああ、私。
もしかしたら、この人のことを、もっと知りたいのかもしれない。
その気持ちに気づいたとき、明日香の心臓が、また小さく跳ねた。
*
その夜。
翔は自宅のキッチンに立っていた。
目の前には、三度目の挑戦となるプリンの材料。
今回は料理人から教わった手順を、ひとつずつ確認している。
卵を混ぜる。
牛乳を温める。
砂糖を加え、丁寧に濾す。
カラメルも、今度は焦がさないように慎重に火を止めた。
そして、蒸し器に入れる。
待つこと数十分。
ついに、プリンが完成した。
「……できた」
翔は、完成したプリンを見つめた。
形は少し不格好だ。
表面にも、わずかな気泡が残っている。
けれど、きちんと固まっているし、カラメルも焦げていない。
翔は一口食べた。
「……悪くない」
だが、すぐに首を横に振った。
これでは、まだ足りない。
明日香が好きだと言っていた、あの喫茶店のプリン。
あのとき、彼女が幸せそうに笑っていた理由を、自分も知りたい。
翔はスマートフォンを手に取り、明日香とのやり取りを開いた。
連絡先は、今日、企画の打ち合わせに必要だという名目で交換したものだ。
まだ、メッセージは送っていない。
何を書けばいいのだろう。
『今日はありがとうございました』
それでは、少し堅苦しいだろうか。
『プリンを作りました』
それだけでは、突然すぎる。
翔は、何度も文章を打っては消した。
そして、ようやく短いメッセージを送信した。
『今日はありがとうございました。教えていただいたプリン、とてもおいしかったです。また、おすすめのお店があれば教えてください』
送信ボタンを押したあと、翔はスマートフォンを見つめた。
返信が来るだろうか。
迷惑ではなかっただろうか。
仕事中でもないのに、こんなに落ち着かないのは初めてだった。
数分後。
画面が光った。
『こちらこそ、ありがとうございました! プリン、気に入っていただけてよかったです。今度は、駅の反対側にある喫茶店もおすすめですよ』
翔は、思わず笑みをこぼした。
さらに、もう一通。
『もしよかったら、今度ご一緒しますか?』
その文字を見た瞬間。
「……っ!」
翔は、スマートフォンを握りしめた。
心臓が、これまでにないほど速く打っている。
彼女から誘ってくれた。
ほんの少しだけでも、自分と一緒に過ごしたいと思ってくれたのだ。
翔は、すぐに返信を打った。
『ぜひ。楽しみにしています』
送信してから、深く息を吐く。
そして、誰もいないキッチンで、小さくつぶやいた。
「……嬉しいな」
世界中の人間が知る、完璧な男。
どんな交渉にも動じず、どんな困難にも冷静に対処する男。
そんな彼が今、たった一通のメッセージで、どうしようもなく幸せな気持ちになっていた。
その事実が、彼自身にも少しおかしかった。
けれど、悪くない。
むしろ、こんな気持ちを知ることができたのは、彼女のおかげだった。
翔は、完成したプリンをもう一度見つめた。
「次は、もっと上手に作ろう」
そう決意した彼の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして翌朝。
明日香のスマートフォンには、思いがけないメッセージが届くことになる。
『おはようございます。突然ですが、今日の夕食はご予定がありますか?』
その一文を見た明日香は、ベッドの上で固まった。
「……えっ?」
画面を見つめること、十秒。
彼女は、枕に顔を埋めた。
「どうして、こんなに心臓に悪いの……!」
その頃、翔は社長室で、秘書の黒田に真剣な顔で尋ねていた。
「黒田。女性を食事に誘う場合、前日の夜と当日の朝では、どちらが適切だと思う?」
「……社長」
「なんだ?」
「まずは、返信をお待ちになってはいかがでしょうか」
「……そうだな」
翔は素直に頷いた。
そして、スマートフォンを机の上に置く。
置いてから三秒後、また手に取った。
黒田は、そっと天井を仰いだ。
――社長の恋愛が成就するまで、私の仕事は増え続けるのかもしれない。
「……どうしよう」
パソコンの画面には、昨夜から何度も開いては閉じているニュース記事が表示されている。
そこには、見覚えのある男性の写真があった。
一条グループ代表取締役社長、一条翔。
昨日、明日香を食事に誘った、あの完璧すぎる男性だ。
記事の見出しには、こう書かれていた。
『若き経営者、一条翔。次世代のリーダーとして注目』
その下には、彼の輝かしい経歴が並んでいる。
海外の大学を優秀な成績で卒業。複数の言語を自在に操り、二十五歳でグループの主要事業を任され、二十八歳で社長に就任。
さらに、趣味は料理とクラシック音楽。
料理?
「……料理までできるの?」
明日香は思わず声を漏らした。
いや、待ってほしい。
顔がいい。頭がいい。お金持ち。仕事もできる。
そのうえ、料理までできるなんて。
神様は、この人にいったいいくつ才能を与えたのだろう。
「水野さん、朝から何を見ているの?」
「ひゃっ!」
背後から声をかけられ、明日香は慌てて画面を閉じた。
振り返ると、同僚の佐伯美咲が、にやにやと笑っている。
「もしかして、一条社長?」
「ち、違うよ!」
「その反応、絶対そうじゃない」
「だって、昨日のことが気になって……」
「ほら!」
美咲は嬉しそうに明日香の肩を叩いた。
「ねえ、実際どうだった? 格好よかった? 優しかった? 目が合った?」
「質問が多いよ!」
「だって、あの一条社長だよ? 女性誌でも特集されていたし、経済誌の表紙にもなっていたし。そんな人が明日香を食事に誘ったんでしょう?」
「だから、あれはお礼だってば!」
明日香は小声で反論した。
「雨の日に、落とした書類を拾っただけなの。それだけで食事に誘ってくれるなんて、丁寧な人なんだなって思っただけ」
「ふうん?」
美咲は意味ありげに目を細めた。
「じゃあ、もしもう一度誘われたら?」
「断るよ!」
「即答だねえ」
「だって、住む世界が違いすぎるもの」
明日香は苦笑した。
「私なんて、昨日だって夕飯のおかずを買い忘れて、冷蔵庫にあった卵でどうにかしたくらいだよ。あんな人と食事なんて、緊張して味もわからなくなりそう」
「でもさ」
美咲は、少しだけ真面目な顔になった。
「明日香って、そうやって最初から自分を相手の下に置くところがあるよね」
「え?」
「相手がすごい人だからって、明日香が劣っているわけじゃないでしょ。明日香には明日香のいいところがあるんだから」
その言葉に、明日香は一瞬、返事に詰まった。
自分のいいところ。
そんなものが、いったいどこにあるのだろう。
そう考えてしまう自分が、少し嫌だった。
「……ありがとう、美咲」
「どういたしまして。で、もしまた誘われたら、ちゃんと考えること!」
「はいはい」
明日香は笑って仕事に戻った。
けれど、その日の午前中、彼女の頭から一条翔のことが消えることはなかった。
*
同じ頃。
一条グループの社長室では、社長秘書の黒田が、珍しく困り果てていた。
「社長。本当に、こちらをご購入されるのですか?」
「ああ」
翔は、黒田の差し出したタブレットを真剣に見つめていた。
画面に表示されているのは、恋愛小説のランキングだった。
「この作品は、読者からの評価が高いようだ。明日香さんも気に入ってくれるだろうか」
「……社長」
「なんだ?」
「女性に本を贈られるのは、初めてですか?」
「初めてだが」
翔は、何のためらいもなく答えた。
「だから、慎重に選んでいる」
黒田は、こめかみを押さえた。
この男は、世界各国の企業を相手に、数百億円規模の交渉をまとめてきた人物だ。
相手企業の経営状況を分析し、数年先の市場動向まで読み切る。
それなのに、恋愛小説を一冊選ぶだけで、すでに三十分以上も悩んでいる。
「社長、失礼ながら申し上げます」
「どうぞ」
「本を贈ること自体は、悪くないと思います。ただ、相手の好みを直接伺ってからでも遅くはないかと」
「なるほど」
翔は頷いた。
「確かに、本人に聞くのが一番確実だな」
そして、すぐにスマートフォンを手に取った。
「では、今日、彼女に会いに行こう」
「……はい?」
「企画の打ち合わせも兼ねて、出版社を訪問する。問題ないだろう?」
「本日の予定は、午後から海外企業とのオンライン会議が二件、夕方から役員会がございます」
「午前中は?」
「十時から十一時まで、空いております」
「それで十分だ」
翔は満足そうに微笑んだ。
黒田は、スケジュール帳を見下ろした。
――社長。先方の担当者との調整が必要なのですが。
しかし、そんな言葉を口にする前に、翔は立ち上がっていた。
「黒田、車の手配を頼む」
「……かしこまりました」
こうして、一条グループの社長は、たった一人の女性に会うために、予定を組み直すことになった。
*
午前十時三十分。
明日香が資料の修正を終え、ようやく一息ついたときだった。
「水野さん、一条社長がいらっしゃったわよ!」
編集部の女性社員が、興奮した様子で駆け込んできた。
「えっ?」
明日香は、思わず椅子から立ち上がった。
「一条社長が?」
「そう! 部長と打ち合わせをされるみたい。今、会議室に案内されているところよ」
「そ、そうなんですね……」
なぜか、心臓が速くなる。
昨日会ったばかりなのに。
しかも、仕事で来ているのだから、明日香が特別に何かをする必要はない。
そうわかっているのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
「水野さん」
今度は部長が顔を出した。
「一条社長から、君にも同席してほしいと要望があった。先日の企画書について、担当者の意見を直接聞きたいそうだ」
「私も、ですか?」
「ああ。君が中心になってまとめた企画だからね。頼むよ」
「わかりました!」
明日香は慌てて資料をまとめた。
そして会議室へ向かう途中、深呼吸をする。
仕事だ。
これは仕事。
相手は大企業の社長だけれど、必要以上に緊張することはない。
そう自分に言い聞かせて扉を開けると。
「おはようございます、水野さん」
翔が、立ち上がって迎えてくれた。
その笑顔を見た瞬間、明日香の決意はあっけなく崩れた。
「お、おはようございます!」
「昨日は、よく眠れましたか?」
「えっ?」
「いえ。少し気になりまして」
「は、はい! 普通に!」
「そうですか。よかった」
翔は、本当に安心したように微笑んだ。
明日香は首をかしげた。
――どうして、そんなことを聞くんだろう。
けれど、部長が席についたため、それ以上尋ねることはできなかった。
打ち合わせは順調に進んだ。
翔は企画書を丁寧に読み込み、明日香の説明に耳を傾けた。
そして、彼女が話し終えると、真剣な表情で頷いた。
「非常に面白い企画だと思います」
「ありがとうございます」
「特に、読者が自分自身の経験を重ねられるような構成がいい。単に情報を届けるだけではなく、読後に何かを残す。その考え方は、今回のシリーズにふさわしいと思います」
明日香は、思わず顔を上げた。
翔は、ただ褒めているのではなかった。
企画の意図を理解し、具体的な部分を評価してくれている。
「……そこを、わかっていただけて嬉しいです」
自然と言葉がこぼれた。
「私、読んだ人が少しでも前向きになれる本を作りたいんです。落ち込んでいるときに読んで、明日も頑張ろうって思えるような……そんな本を」
話しながら、少し恥ずかしくなった。
大企業の社長に、こんな理想を語ってもよかったのだろうか。
しかし、翔は笑わなかった。
むしろ、その目は先ほどよりも優しくなっていた。
「素敵な考えですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ。僕は、あなたのそういうところが好きです」
「…………え?」
会議室の空気が止まった。
翔も、言った直後に自分の発言を自覚したらしい。
ほんのわずかに目を見開き、それから咳払いをした。
「……失礼。仕事に対する姿勢が、です」
「あ、ああ! そうですよね!」
明日香は、真っ赤になった顔を隠すように資料へ視線を落とした。
部長は何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。
翔は、内心で深く反省していた。
――早まった。
まだ、二度目に会ったばかりだ。
それなのに、好きだなどと。
もっと自然に、少しずつ距離を縮めるつもりだったのに。
どうやら、自分は思っていた以上に彼女に弱いらしい。
*
打ち合わせが終わり、部長が別の来客に対応するため席を外した。
会議室には、明日香と翔の二人だけが残された。
「あの……一条社長」
「翔で構いません」
「えっ?」
「仕事中は難しいかもしれませんが、二人で話すときくらいは、名前で呼んでいただけると嬉しいです」
翔は、できるだけ自然な笑顔を作った。
しかし、その内心は穏やかではない。
名前で呼んでほしい。
できれば、親しみを込めて。
そんな願いを口にすること自体、彼にとっては大きな一歩だった。
「で、でも……」
「もちろん、無理にとは言いません」
「……翔、さん」
明日香は、小さな声で呼んだ。
その瞬間。
翔は、完全に動きを止めた。
たった四文字。
それだけなのに、胸の奥が熱くなる。
これまで、名前を呼ばれることなど何度もあった。
社員からも、取引先からも、家族からも。
なのに、彼女の声で聞く自分の名前は、まるで別のもののように感じられた。
「……ありがとうございます」
「い、いえ!」
明日香は、なぜか自分まで恥ずかしくなっていた。
こんなこと、普通の挨拶の延長にすぎない。
そうわかっているのに。
「それで、あの……今日は何か、ほかにご用件が?」
「ああ、そうでした」
翔は、ようやく本題を思い出した。
「水野さんの好きなものを教えていただきたくて」
「好きなもの?」
「昨日、お願いしましたよね」
明日香は目を瞬いた。
まさか、本当に覚えていたとは思わなかった。
「ええと……本が好きです。あと、甘いものも」
「甘いもの」
翔は、その言葉を大切な情報のように繰り返した。
「特に好きなものはありますか?」
「プリン、ですかね。昔から好きなんです。駅の近くに、小さな喫茶店があるんですけど、そこのプリンがすごくおいしくて」
「プリン……」
「はい。昔ながらの、少し固めのプリンで。カラメルがちょっと苦くて、上に生クリームがのっていて……」
明日香は、話しているうちに自然と笑顔になっていた。
「疲れたときに食べると、幸せな気持ちになるんです」
翔は、その笑顔をじっと見つめていた。
――この笑顔を、もっと見たい。
そう思った。
高価な宝石を贈るよりも、豪華なレストランを予約するよりも。
彼女が好きなものを知り、それを一緒に楽しみたい。
彼女が幸せだと感じる時間を、自分も共有したい。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「いえ、そんな……」
「そのお店、今度教えていただけませんか?」
「えっ?」
「僕も、食べてみたいと思いました」
明日香は、少しだけ驚いた。
こんなに何でも持っている人が、駅前の小さな喫茶店のプリンに興味を持つなんて。
「……本当に、普通のお店ですよ?」
「それがいいんです」
翔は微笑んだ。
「あなたが好きな場所なら、僕も行ってみたい」
明日香は、言葉を失った。
そんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。
自分の好きなものを、誰かが知りたいと思ってくれる。
それが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
「……はい。いつか、ご案内します」
そう答えた明日香の頬は、ほんのりと赤かった。
翔は、その返事を聞いて、心の中で静かに拳を握った。
――よし。
断られなかった。
それだけで、今日は十分な成果だった。
*
その日の午後。
一条グループの社長室では、翔が腕まくりをしていた。
「黒田。これから、少し時間をもらえるか」
「はい。午後の会議までは三十分ほど空いておりますが……何をなさるおつもりですか?」
「料理をする」
「……料理、ですか?」
「プリンを作りたい」
黒田は、数秒間、言葉を失った。
そして、ゆっくりと口を開く。
「社長。念のため確認いたしますが、何のために?」
「明日香さんが好きだと言っていた」
「なるほど」
黒田は、深く頷いた。
もう驚かないことにした。
「それで、材料は?」
「用意してある」
翔は、デスクの脇に置かれた紙袋を示した。
中には、卵、牛乳、砂糖、生クリーム、バニラエッセンスが入っていた。
「……社長。まさか、今からお作りになるのですか?」
「そうだ」
「午後の会議は?」
「予定どおり出席する」
「お時間は?」
「三十分ある」
「……かしこまりました」
黒田は、これ以上何も言わないことにした。
翔は、料理の手順を確認しながら、真剣に材料を計量した。
普段から料理はする。
栄養バランスを考えた食事を作ることも、手際よく食材を扱うことも得意だった。
だから、プリンくらい簡単だと思っていた。
しかし。
「……なぜだ」
数分後、翔は鍋を見つめていた。
カラメルが、黒い塊になっている。
「火加減を間違えたのでしょうか」
黒田が遠慮がちに言った。
「……そのようだな」
翔は、焦げたカラメルを見下ろした。
料理で失敗することなど、ほとんどない。
それなのに、今日はどうにも調子が悪い。
明日香の笑顔を思い浮かべるたびに、手元がおろそかになってしまうのだ。
「もう一度だ」
「社長、会議まであと二十分です」
「問題ない」
翔は新しい鍋を用意した。
二度目の挑戦。
今度は慎重に砂糖を溶かし、色を確認しながら火を止めた。
――よし。
そう思った瞬間、今度は熱いカラメルが鍋の底に固まってしまった。
「…………」
「…………」
社長室に、重い沈黙が流れた。
翔は鍋を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、静かに口を開く。
「黒田」
「はい」
「料理人に教わることはできるだろうか」
「もちろん可能です」
「そうか」
翔は、真剣な表情で頷いた。
「では、明日までに完璧なプリンを作れるようにしたい」
黒田は、時計を見た。
「……社長。まずは午後の会議を完璧に終わらせていただけますでしょうか」
「もちろんだ」
翔は即答した。
その後、彼は予定どおり会議に出席し、難しい交渉を見事にまとめ上げた。
だが、会議が終わった瞬間、彼が口にしたのは契約条件でも今後の事業計画でもなかった。
「黒田。料理教室を探してくれ」
「……かしこまりました」
*
翌週の土曜日。
明日香は、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
窓際の席。
目の前には、昔ながらの固めのプリン。
休日に好きな本を読みながら、ゆっくりと過ごす時間は、彼女にとって何よりの贅沢だった。
――やっぱり、おいしい。
一口食べて、明日香は幸せそうに目を細めた。
そのとき。
「……水野さん?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、そこには翔が立っていた。
「えっ!? 翔さん!?」
明日香は、慌てて立ち上がりかけた。
「どうして、ここに?」
「偶然です」
翔は、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「この近くで用事がありまして。通りかかったら、あなたが見えたので」
嘘ではなかった。
ただし、用事というのは、この喫茶店の場所を確認することだったのだが。
翔は、明日香の前にあるプリンに目を落とした。
「それが、以前お話しされていたプリンですか?」
「はい。そうですけど……」
「おいしそうですね」
「本当においしいですよ。よかったら、食べてみますか?」
言ってから、明日香ははっとした。
――何を言っているの、私!
自分のプリンを勧めるなんて、馴れ馴れしかったのではないだろうか。
「す、すみません! 今のは忘れてください!」
「いえ」
翔は、穏やかに首を振った。
「よろしければ、ご一緒しても?」
「……え?」
「僕も、ここで食べてみたいんです」
明日香は、しばらく翔を見つめた。
そして、向かいの席を指さした。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
翔は嬉しそうに座った。
店員が注文を取りに来ると、彼は迷わずプリンを注文した。
やがて運ばれてきたプリンを前に、翔は真剣な顔でスプーンを手に取った。
一口。
そして、ゆっくりと味わう。
「……おいしい」
「でしょう?」
明日香は、思わず笑った。
「甘すぎなくて、カラメルが少し苦いんです。昔から変わらない味で、食べるとほっとするんですよね」
「なるほど……」
翔は、プリンを見つめながら頷いた。
「確かに、これはいいですね」
「ふふっ。翔さん、そんなに真剣にプリンを食べる人、初めて見ました」
明日香が笑う。
その瞬間、翔の胸が大きく跳ねた。
彼女が笑っている。
自分の前で、自然に。
それだけで、今日ここに来た価値があったと思えた。
「……よかった」
「え?」
「あなたが、楽しそうなので」
翔は、少し照れたように目を伏せた。
「僕も嬉しいです」
明日香は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
この人は、どうしてこんなことを、何のためらいもなく言えるのだろう。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、もっと話してみたいと思った。
「翔さんは、普段どんなものを食べるんですか?」
「自分で作ることが多いですね」
「えっ、自炊ですか?」
「はい。簡単なものなら、ひと通り」
「すごい……。お仕事もお忙しいのに」
「時間の使い方には慣れていますから」
翔はそう答えたあと、少し考えるように視線を落とした。
「ただ、最近は……うまくいかないこともありまして」
「うまくいかないこと?」
「料理です」
「料理!?」
明日香は目を丸くした。
翔が、困ったように微笑む。
「実は、プリンを作ろうとしたんです」
「ええっ!?」
「ですが、カラメルを焦がしてしまって」
翔は、どこか悔しそうに続けた。
「二度目も失敗しました」
「ふふっ……!」
明日香は、思わず笑い声を漏らした。
「あ、ごめんなさい! でも、翔さんでも失敗することがあるんですね」
「ありますよ」
「何でも完璧にできる方だと思っていました」
「……僕も、そう思っていました」
翔は、真面目な顔で言った。
それがあまりにも真剣だったので、明日香はまた笑ってしまった。
翔は、彼女の笑顔を見つめながら思った。
失敗してもいい。
格好悪いところを見せてもいい。
彼女がこんなふうに笑ってくれるなら、何度だって挑戦したい。
「水野さん」
「はい?」
「今度、僕に料理を教えていただけませんか?」
「私が、ですか?」
「ええ。あなたの好きなものを、一緒に作ってみたいんです」
明日香は、驚いたように目を瞬いた。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
「……私でよければ」
「ありがとうございます」
翔は、心から嬉しそうに微笑んだ。
そして、心の中でそっと決意した。
次こそは、彼女においしいと言ってもらえるプリンを作ろう。
何度失敗したって構わない。
彼女が好きなものを、自分も好きになりたい。
彼女が笑う理由を、一つでも増やしたい。
それが、今の翔にとって、何より大切なことだった。
*
喫茶店を出たあと。
明日香は、駅までの道を翔と並んで歩いていた。
雨は降っていない。
柔らかな秋の日差しが、街路樹の葉を照らしている。
「今日は、ありがとうございました」
明日香が言うと、翔は首をかしげた。
「お礼を言うのは、僕のほうです。ご一緒できて嬉しかった」
「……翔さんって、いつもそんなに優しいんですか?」
思わず口にしてから、明日香は慌てた。
「す、すみません。変なことを聞いてしまって」
「いえ」
翔は、少し考えた。
「誰にでも、できるだけ誠実でありたいとは思っています」
「そうなんですね」
「でも」
彼は、明日香のほうを見た。
「あなたには、もっと優しくしたいと思っています」
明日香の足が止まった。
翔も、少し先で立ち止まる。
「……どうして、ですか?」
声が、かすかに震えた。
翔はすぐには答えなかった。
まだ、出会って間もない。
好きだと告げるには早すぎるし、彼女を困らせたくもなかった。
それでも、これだけは伝えたかった。
「あなたといると、僕は自分が思っていたより、ずっと楽しいんです」
翔は、柔らかく笑った。
「だから、あなたにも楽しいと思ってもらえたら嬉しい」
明日香は、何も言えなかった。
自分のことを、そんなふうに思ってくれる人がいる。
それが、まだ信じられなかった。
けれど、翔の目は真剣だった。
彼女の返事を急かすこともなく、ただ静かに待っている。
「……私も」
明日香は、小さく口を開いた。
「翔さんとお話しするの、楽しいです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
「で、でも! その、まだ全然知らないことばかりですし……!」
「はい」
翔は嬉しそうに頷いた。
「これから、少しずつ知っていただけたらと思います」
その笑顔は、雑誌で見る完璧な社長のものとは違っていた。
少し照れくさそうで、どこか不器用で。
明日香は、その表情がとても好きだと思った。
――ああ、私。
もしかしたら、この人のことを、もっと知りたいのかもしれない。
その気持ちに気づいたとき、明日香の心臓が、また小さく跳ねた。
*
その夜。
翔は自宅のキッチンに立っていた。
目の前には、三度目の挑戦となるプリンの材料。
今回は料理人から教わった手順を、ひとつずつ確認している。
卵を混ぜる。
牛乳を温める。
砂糖を加え、丁寧に濾す。
カラメルも、今度は焦がさないように慎重に火を止めた。
そして、蒸し器に入れる。
待つこと数十分。
ついに、プリンが完成した。
「……できた」
翔は、完成したプリンを見つめた。
形は少し不格好だ。
表面にも、わずかな気泡が残っている。
けれど、きちんと固まっているし、カラメルも焦げていない。
翔は一口食べた。
「……悪くない」
だが、すぐに首を横に振った。
これでは、まだ足りない。
明日香が好きだと言っていた、あの喫茶店のプリン。
あのとき、彼女が幸せそうに笑っていた理由を、自分も知りたい。
翔はスマートフォンを手に取り、明日香とのやり取りを開いた。
連絡先は、今日、企画の打ち合わせに必要だという名目で交換したものだ。
まだ、メッセージは送っていない。
何を書けばいいのだろう。
『今日はありがとうございました』
それでは、少し堅苦しいだろうか。
『プリンを作りました』
それだけでは、突然すぎる。
翔は、何度も文章を打っては消した。
そして、ようやく短いメッセージを送信した。
『今日はありがとうございました。教えていただいたプリン、とてもおいしかったです。また、おすすめのお店があれば教えてください』
送信ボタンを押したあと、翔はスマートフォンを見つめた。
返信が来るだろうか。
迷惑ではなかっただろうか。
仕事中でもないのに、こんなに落ち着かないのは初めてだった。
数分後。
画面が光った。
『こちらこそ、ありがとうございました! プリン、気に入っていただけてよかったです。今度は、駅の反対側にある喫茶店もおすすめですよ』
翔は、思わず笑みをこぼした。
さらに、もう一通。
『もしよかったら、今度ご一緒しますか?』
その文字を見た瞬間。
「……っ!」
翔は、スマートフォンを握りしめた。
心臓が、これまでにないほど速く打っている。
彼女から誘ってくれた。
ほんの少しだけでも、自分と一緒に過ごしたいと思ってくれたのだ。
翔は、すぐに返信を打った。
『ぜひ。楽しみにしています』
送信してから、深く息を吐く。
そして、誰もいないキッチンで、小さくつぶやいた。
「……嬉しいな」
世界中の人間が知る、完璧な男。
どんな交渉にも動じず、どんな困難にも冷静に対処する男。
そんな彼が今、たった一通のメッセージで、どうしようもなく幸せな気持ちになっていた。
その事実が、彼自身にも少しおかしかった。
けれど、悪くない。
むしろ、こんな気持ちを知ることができたのは、彼女のおかげだった。
翔は、完成したプリンをもう一度見つめた。
「次は、もっと上手に作ろう」
そう決意した彼の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
そして翌朝。
明日香のスマートフォンには、思いがけないメッセージが届くことになる。
『おはようございます。突然ですが、今日の夕食はご予定がありますか?』
その一文を見た明日香は、ベッドの上で固まった。
「……えっ?」
画面を見つめること、十秒。
彼女は、枕に顔を埋めた。
「どうして、こんなに心臓に悪いの……!」
その頃、翔は社長室で、秘書の黒田に真剣な顔で尋ねていた。
「黒田。女性を食事に誘う場合、前日の夜と当日の朝では、どちらが適切だと思う?」
「……社長」
「なんだ?」
「まずは、返信をお待ちになってはいかがでしょうか」
「……そうだな」
翔は素直に頷いた。
そして、スマートフォンを机の上に置く。
置いてから三秒後、また手に取った。
黒田は、そっと天井を仰いだ。
――社長の恋愛が成就するまで、私の仕事は増え続けるのかもしれない。