完璧な御曹司は、私の前でだけ余裕がない
 翌朝、明日香は会社のデスクで、ある重大な問題に直面していた。

「……どうしよう」

 パソコンの画面には、昨夜から何度も開いては閉じているニュース記事が表示されている。

 そこには、見覚えのある男性の写真があった。

 一条グループ代表取締役社長、一条翔。

 昨日、明日香を食事に誘った、あの完璧すぎる男性だ。

 記事の見出しには、こう書かれていた。

『若き経営者、一条翔。次世代のリーダーとして注目』

 その下には、彼の輝かしい経歴が並んでいる。

 海外の大学を優秀な成績で卒業。複数の言語を自在に操り、二十五歳でグループの主要事業を任され、二十八歳で社長に就任。

 さらに、趣味は料理とクラシック音楽。

 料理?

「……料理までできるの?」

 明日香は思わず声を漏らした。

 いや、待ってほしい。

 顔がいい。頭がいい。お金持ち。仕事もできる。

 そのうえ、料理までできるなんて。

 神様は、この人にいったいいくつ才能を与えたのだろう。

「水野さん、朝から何を見ているの?」

「ひゃっ!」

 背後から声をかけられ、明日香は慌てて画面を閉じた。

 振り返ると、同僚の佐伯美咲が、にやにやと笑っている。

「もしかして、一条社長?」

「ち、違うよ!」

「その反応、絶対そうじゃない」

「だって、昨日のことが気になって……」

「ほら!」

 美咲は嬉しそうに明日香の肩を叩いた。

「ねえ、実際どうだった? 格好よかった? 優しかった? 目が合った?」

「質問が多いよ!」

「だって、あの一条社長だよ? 女性誌でも特集されていたし、経済誌の表紙にもなっていたし。そんな人が明日香を食事に誘ったんでしょう?」

「だから、あれはお礼だってば!」

 明日香は小声で反論した。

「雨の日に、落とした書類を拾っただけなの。それだけで食事に誘ってくれるなんて、丁寧な人なんだなって思っただけ」

「ふうん?」

 美咲は意味ありげに目を細めた。

「じゃあ、もしもう一度誘われたら?」

「断るよ!」

「即答だねえ」

「だって、住む世界が違いすぎるもの」

 明日香は苦笑した。

「私なんて、昨日だって夕飯のおかずを買い忘れて、冷蔵庫にあった卵でどうにかしたくらいだよ。あんな人と食事なんて、緊張して味もわからなくなりそう」

「でもさ」

 美咲は、少しだけ真面目な顔になった。

「明日香って、そうやって最初から自分を相手の下に置くところがあるよね」

「え?」

「相手がすごい人だからって、明日香が劣っているわけじゃないでしょ。明日香には明日香のいいところがあるんだから」

 その言葉に、明日香は一瞬、返事に詰まった。

 自分のいいところ。

 そんなものが、いったいどこにあるのだろう。

 そう考えてしまう自分が、少し嫌だった。

「……ありがとう、美咲」

「どういたしまして。で、もしまた誘われたら、ちゃんと考えること!」

「はいはい」

 明日香は笑って仕事に戻った。

 けれど、その日の午前中、彼女の頭から一条翔のことが消えることはなかった。

     *

 同じ頃。

 一条グループの社長室では、社長秘書の黒田が、珍しく困り果てていた。

「社長。本当に、こちらをご購入されるのですか?」

「ああ」

 翔は、黒田の差し出したタブレットを真剣に見つめていた。

 画面に表示されているのは、恋愛小説のランキングだった。

「この作品は、読者からの評価が高いようだ。明日香さんも気に入ってくれるだろうか」

「……社長」

「なんだ?」

「女性に本を贈られるのは、初めてですか?」

「初めてだが」

 翔は、何のためらいもなく答えた。

「だから、慎重に選んでいる」

 黒田は、こめかみを押さえた。

 この男は、世界各国の企業を相手に、数百億円規模の交渉をまとめてきた人物だ。

 相手企業の経営状況を分析し、数年先の市場動向まで読み切る。

 それなのに、恋愛小説を一冊選ぶだけで、すでに三十分以上も悩んでいる。

「社長、失礼ながら申し上げます」

「どうぞ」

「本を贈ること自体は、悪くないと思います。ただ、相手の好みを直接伺ってからでも遅くはないかと」

「なるほど」

 翔は頷いた。

「確かに、本人に聞くのが一番確実だな」

 そして、すぐにスマートフォンを手に取った。

「では、今日、彼女に会いに行こう」

「……はい?」

「企画の打ち合わせも兼ねて、出版社を訪問する。問題ないだろう?」

「本日の予定は、午後から海外企業とのオンライン会議が二件、夕方から役員会がございます」

「午前中は?」

「十時から十一時まで、空いております」

「それで十分だ」

 翔は満足そうに微笑んだ。

 黒田は、スケジュール帳を見下ろした。

 ――社長。先方の担当者との調整が必要なのですが。

 しかし、そんな言葉を口にする前に、翔は立ち上がっていた。

「黒田、車の手配を頼む」

「……かしこまりました」

 こうして、一条グループの社長は、たった一人の女性に会うために、予定を組み直すことになった。

     *

 午前十時三十分。

 明日香が資料の修正を終え、ようやく一息ついたときだった。

「水野さん、一条社長がいらっしゃったわよ!」

 編集部の女性社員が、興奮した様子で駆け込んできた。

「えっ?」

 明日香は、思わず椅子から立ち上がった。

「一条社長が?」

「そう! 部長と打ち合わせをされるみたい。今、会議室に案内されているところよ」

「そ、そうなんですね……」

 なぜか、心臓が速くなる。

 昨日会ったばかりなのに。

 しかも、仕事で来ているのだから、明日香が特別に何かをする必要はない。

 そうわかっているのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。

「水野さん」

 今度は部長が顔を出した。

「一条社長から、君にも同席してほしいと要望があった。先日の企画書について、担当者の意見を直接聞きたいそうだ」

「私も、ですか?」

「ああ。君が中心になってまとめた企画だからね。頼むよ」

「わかりました!」

 明日香は慌てて資料をまとめた。

 そして会議室へ向かう途中、深呼吸をする。

 仕事だ。

 これは仕事。

 相手は大企業の社長だけれど、必要以上に緊張することはない。

 そう自分に言い聞かせて扉を開けると。

「おはようございます、水野さん」

 翔が、立ち上がって迎えてくれた。

 その笑顔を見た瞬間、明日香の決意はあっけなく崩れた。

「お、おはようございます!」

「昨日は、よく眠れましたか?」

「えっ?」

「いえ。少し気になりまして」

「は、はい! 普通に!」

「そうですか。よかった」

 翔は、本当に安心したように微笑んだ。

 明日香は首をかしげた。

 ――どうして、そんなことを聞くんだろう。

 けれど、部長が席についたため、それ以上尋ねることはできなかった。

 打ち合わせは順調に進んだ。

 翔は企画書を丁寧に読み込み、明日香の説明に耳を傾けた。

 そして、彼女が話し終えると、真剣な表情で頷いた。

「非常に面白い企画だと思います」

「ありがとうございます」

「特に、読者が自分自身の経験を重ねられるような構成がいい。単に情報を届けるだけではなく、読後に何かを残す。その考え方は、今回のシリーズにふさわしいと思います」

 明日香は、思わず顔を上げた。

 翔は、ただ褒めているのではなかった。

 企画の意図を理解し、具体的な部分を評価してくれている。

「……そこを、わかっていただけて嬉しいです」

 自然と言葉がこぼれた。

「私、読んだ人が少しでも前向きになれる本を作りたいんです。落ち込んでいるときに読んで、明日も頑張ろうって思えるような……そんな本を」

 話しながら、少し恥ずかしくなった。

 大企業の社長に、こんな理想を語ってもよかったのだろうか。

 しかし、翔は笑わなかった。

 むしろ、その目は先ほどよりも優しくなっていた。

「素敵な考えですね」

「……そうでしょうか?」

「ええ。僕は、あなたのそういうところが好きです」

「…………え?」

 会議室の空気が止まった。

 翔も、言った直後に自分の発言を自覚したらしい。

 ほんのわずかに目を見開き、それから咳払いをした。

「……失礼。仕事に対する姿勢が、です」

「あ、ああ! そうですよね!」

 明日香は、真っ赤になった顔を隠すように資料へ視線を落とした。

 部長は何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。

 翔は、内心で深く反省していた。

 ――早まった。

 まだ、二度目に会ったばかりだ。

 それなのに、好きだなどと。

 もっと自然に、少しずつ距離を縮めるつもりだったのに。

 どうやら、自分は思っていた以上に彼女に弱いらしい。

     *

 打ち合わせが終わり、部長が別の来客に対応するため席を外した。

 会議室には、明日香と翔の二人だけが残された。

「あの……一条社長」

「翔で構いません」

「えっ?」

「仕事中は難しいかもしれませんが、二人で話すときくらいは、名前で呼んでいただけると嬉しいです」

 翔は、できるだけ自然な笑顔を作った。

 しかし、その内心は穏やかではない。

 名前で呼んでほしい。

 できれば、親しみを込めて。

 そんな願いを口にすること自体、彼にとっては大きな一歩だった。

「で、でも……」

「もちろん、無理にとは言いません」

「……翔、さん」

 明日香は、小さな声で呼んだ。

 その瞬間。

 翔は、完全に動きを止めた。

 たった四文字。

 それだけなのに、胸の奥が熱くなる。

 これまで、名前を呼ばれることなど何度もあった。

 社員からも、取引先からも、家族からも。

 なのに、彼女の声で聞く自分の名前は、まるで別のもののように感じられた。

「……ありがとうございます」

「い、いえ!」

 明日香は、なぜか自分まで恥ずかしくなっていた。

 こんなこと、普通の挨拶の延長にすぎない。

 そうわかっているのに。

「それで、あの……今日は何か、ほかにご用件が?」

「ああ、そうでした」

 翔は、ようやく本題を思い出した。

「水野さんの好きなものを教えていただきたくて」

「好きなもの?」

「昨日、お願いしましたよね」

 明日香は目を瞬いた。

 まさか、本当に覚えていたとは思わなかった。

「ええと……本が好きです。あと、甘いものも」

「甘いもの」

 翔は、その言葉を大切な情報のように繰り返した。

「特に好きなものはありますか?」

「プリン、ですかね。昔から好きなんです。駅の近くに、小さな喫茶店があるんですけど、そこのプリンがすごくおいしくて」

「プリン……」

「はい。昔ながらの、少し固めのプリンで。カラメルがちょっと苦くて、上に生クリームがのっていて……」

 明日香は、話しているうちに自然と笑顔になっていた。

「疲れたときに食べると、幸せな気持ちになるんです」

 翔は、その笑顔をじっと見つめていた。

 ――この笑顔を、もっと見たい。

 そう思った。

 高価な宝石を贈るよりも、豪華なレストランを予約するよりも。

 彼女が好きなものを知り、それを一緒に楽しみたい。

 彼女が幸せだと感じる時間を、自分も共有したい。

「教えてくださって、ありがとうございます」

「いえ、そんな……」

「そのお店、今度教えていただけませんか?」

「えっ?」

「僕も、食べてみたいと思いました」

 明日香は、少しだけ驚いた。

 こんなに何でも持っている人が、駅前の小さな喫茶店のプリンに興味を持つなんて。

「……本当に、普通のお店ですよ?」

「それがいいんです」

 翔は微笑んだ。

「あなたが好きな場所なら、僕も行ってみたい」

 明日香は、言葉を失った。

 そんなふうに言われたことは、今まで一度もなかった。

 自分の好きなものを、誰かが知りたいと思ってくれる。

 それが、こんなにも嬉しいことだったなんて。

「……はい。いつか、ご案内します」

 そう答えた明日香の頬は、ほんのりと赤かった。

 翔は、その返事を聞いて、心の中で静かに拳を握った。

 ――よし。

 断られなかった。

 それだけで、今日は十分な成果だった。

     *

 その日の午後。

 一条グループの社長室では、翔が腕まくりをしていた。

「黒田。これから、少し時間をもらえるか」

「はい。午後の会議までは三十分ほど空いておりますが……何をなさるおつもりですか?」

「料理をする」

「……料理、ですか?」

「プリンを作りたい」

 黒田は、数秒間、言葉を失った。

 そして、ゆっくりと口を開く。

「社長。念のため確認いたしますが、何のために?」

「明日香さんが好きだと言っていた」

「なるほど」

 黒田は、深く頷いた。

 もう驚かないことにした。

「それで、材料は?」

「用意してある」

 翔は、デスクの脇に置かれた紙袋を示した。

 中には、卵、牛乳、砂糖、生クリーム、バニラエッセンスが入っていた。

「……社長。まさか、今からお作りになるのですか?」

「そうだ」

「午後の会議は?」

「予定どおり出席する」

「お時間は?」

「三十分ある」

「……かしこまりました」

 黒田は、これ以上何も言わないことにした。

 翔は、料理の手順を確認しながら、真剣に材料を計量した。

 普段から料理はする。

 栄養バランスを考えた食事を作ることも、手際よく食材を扱うことも得意だった。

 だから、プリンくらい簡単だと思っていた。

 しかし。

「……なぜだ」

 数分後、翔は鍋を見つめていた。

 カラメルが、黒い塊になっている。

「火加減を間違えたのでしょうか」

 黒田が遠慮がちに言った。

「……そのようだな」

 翔は、焦げたカラメルを見下ろした。

 料理で失敗することなど、ほとんどない。

 それなのに、今日はどうにも調子が悪い。

 明日香の笑顔を思い浮かべるたびに、手元がおろそかになってしまうのだ。

「もう一度だ」

「社長、会議まであと二十分です」

「問題ない」

 翔は新しい鍋を用意した。

 二度目の挑戦。

 今度は慎重に砂糖を溶かし、色を確認しながら火を止めた。

 ――よし。

 そう思った瞬間、今度は熱いカラメルが鍋の底に固まってしまった。

「…………」

「…………」

 社長室に、重い沈黙が流れた。

 翔は鍋を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 やがて、静かに口を開く。

「黒田」

「はい」

「料理人に教わることはできるだろうか」

「もちろん可能です」

「そうか」

 翔は、真剣な表情で頷いた。

「では、明日までに完璧なプリンを作れるようにしたい」

 黒田は、時計を見た。

「……社長。まずは午後の会議を完璧に終わらせていただけますでしょうか」

「もちろんだ」

 翔は即答した。

 その後、彼は予定どおり会議に出席し、難しい交渉を見事にまとめ上げた。

 だが、会議が終わった瞬間、彼が口にしたのは契約条件でも今後の事業計画でもなかった。

「黒田。料理教室を探してくれ」

「……かしこまりました」

     *

 翌週の土曜日。

 明日香は、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。

 窓際の席。

 目の前には、昔ながらの固めのプリン。

 休日に好きな本を読みながら、ゆっくりと過ごす時間は、彼女にとって何よりの贅沢だった。

 ――やっぱり、おいしい。

 一口食べて、明日香は幸せそうに目を細めた。

 そのとき。

「……水野さん?」

 聞き覚えのある声がした。

 顔を上げると、そこには翔が立っていた。

「えっ!? 翔さん!?」

 明日香は、慌てて立ち上がりかけた。

「どうして、ここに?」

「偶然です」

 翔は、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。

「この近くで用事がありまして。通りかかったら、あなたが見えたので」

 嘘ではなかった。

 ただし、用事というのは、この喫茶店の場所を確認することだったのだが。

 翔は、明日香の前にあるプリンに目を落とした。

「それが、以前お話しされていたプリンですか?」

「はい。そうですけど……」

「おいしそうですね」

「本当においしいですよ。よかったら、食べてみますか?」

 言ってから、明日香ははっとした。

 ――何を言っているの、私!

 自分のプリンを勧めるなんて、馴れ馴れしかったのではないだろうか。

「す、すみません! 今のは忘れてください!」

「いえ」

 翔は、穏やかに首を振った。

「よろしければ、ご一緒しても?」

「……え?」

「僕も、ここで食べてみたいんです」

 明日香は、しばらく翔を見つめた。

 そして、向かいの席を指さした。

「……どうぞ」

「ありがとうございます」

 翔は嬉しそうに座った。

 店員が注文を取りに来ると、彼は迷わずプリンを注文した。

 やがて運ばれてきたプリンを前に、翔は真剣な顔でスプーンを手に取った。

 一口。

 そして、ゆっくりと味わう。

「……おいしい」

「でしょう?」

 明日香は、思わず笑った。

「甘すぎなくて、カラメルが少し苦いんです。昔から変わらない味で、食べるとほっとするんですよね」

「なるほど……」

 翔は、プリンを見つめながら頷いた。

「確かに、これはいいですね」

「ふふっ。翔さん、そんなに真剣にプリンを食べる人、初めて見ました」

 明日香が笑う。

 その瞬間、翔の胸が大きく跳ねた。

 彼女が笑っている。

 自分の前で、自然に。

 それだけで、今日ここに来た価値があったと思えた。

「……よかった」

「え?」

「あなたが、楽しそうなので」

 翔は、少し照れたように目を伏せた。

「僕も嬉しいです」

 明日香は、胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。

 この人は、どうしてこんなことを、何のためらいもなく言えるのだろう。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 むしろ、もっと話してみたいと思った。

「翔さんは、普段どんなものを食べるんですか?」

「自分で作ることが多いですね」

「えっ、自炊ですか?」

「はい。簡単なものなら、ひと通り」

「すごい……。お仕事もお忙しいのに」

「時間の使い方には慣れていますから」

 翔はそう答えたあと、少し考えるように視線を落とした。

「ただ、最近は……うまくいかないこともありまして」

「うまくいかないこと?」

「料理です」

「料理!?」

 明日香は目を丸くした。

 翔が、困ったように微笑む。

「実は、プリンを作ろうとしたんです」

「ええっ!?」

「ですが、カラメルを焦がしてしまって」

 翔は、どこか悔しそうに続けた。

「二度目も失敗しました」

「ふふっ……!」

 明日香は、思わず笑い声を漏らした。

「あ、ごめんなさい! でも、翔さんでも失敗することがあるんですね」

「ありますよ」

「何でも完璧にできる方だと思っていました」

「……僕も、そう思っていました」

 翔は、真面目な顔で言った。

 それがあまりにも真剣だったので、明日香はまた笑ってしまった。

 翔は、彼女の笑顔を見つめながら思った。

 失敗してもいい。

 格好悪いところを見せてもいい。

 彼女がこんなふうに笑ってくれるなら、何度だって挑戦したい。

「水野さん」

「はい?」

「今度、僕に料理を教えていただけませんか?」

「私が、ですか?」

「ええ。あなたの好きなものを、一緒に作ってみたいんです」

 明日香は、驚いたように目を瞬いた。

 それから、ゆっくりと笑顔になった。

「……私でよければ」

「ありがとうございます」

 翔は、心から嬉しそうに微笑んだ。

 そして、心の中でそっと決意した。

 次こそは、彼女においしいと言ってもらえるプリンを作ろう。

 何度失敗したって構わない。

 彼女が好きなものを、自分も好きになりたい。

 彼女が笑う理由を、一つでも増やしたい。

 それが、今の翔にとって、何より大切なことだった。

     *

 喫茶店を出たあと。

 明日香は、駅までの道を翔と並んで歩いていた。

 雨は降っていない。

 柔らかな秋の日差しが、街路樹の葉を照らしている。

「今日は、ありがとうございました」

 明日香が言うと、翔は首をかしげた。

「お礼を言うのは、僕のほうです。ご一緒できて嬉しかった」

「……翔さんって、いつもそんなに優しいんですか?」

 思わず口にしてから、明日香は慌てた。

「す、すみません。変なことを聞いてしまって」

「いえ」

 翔は、少し考えた。

「誰にでも、できるだけ誠実でありたいとは思っています」

「そうなんですね」

「でも」

 彼は、明日香のほうを見た。

「あなたには、もっと優しくしたいと思っています」

 明日香の足が止まった。

 翔も、少し先で立ち止まる。

「……どうして、ですか?」

 声が、かすかに震えた。

 翔はすぐには答えなかった。

 まだ、出会って間もない。

 好きだと告げるには早すぎるし、彼女を困らせたくもなかった。

 それでも、これだけは伝えたかった。

「あなたといると、僕は自分が思っていたより、ずっと楽しいんです」

 翔は、柔らかく笑った。

「だから、あなたにも楽しいと思ってもらえたら嬉しい」

 明日香は、何も言えなかった。

 自分のことを、そんなふうに思ってくれる人がいる。

 それが、まだ信じられなかった。

 けれど、翔の目は真剣だった。

 彼女の返事を急かすこともなく、ただ静かに待っている。

「……私も」

 明日香は、小さく口を開いた。

「翔さんとお話しするの、楽しいです」

 言った瞬間、顔が熱くなった。

「で、でも! その、まだ全然知らないことばかりですし……!」

「はい」

 翔は嬉しそうに頷いた。

「これから、少しずつ知っていただけたらと思います」

 その笑顔は、雑誌で見る完璧な社長のものとは違っていた。

 少し照れくさそうで、どこか不器用で。

 明日香は、その表情がとても好きだと思った。

 ――ああ、私。

 もしかしたら、この人のことを、もっと知りたいのかもしれない。

 その気持ちに気づいたとき、明日香の心臓が、また小さく跳ねた。

     *

 その夜。

 翔は自宅のキッチンに立っていた。

 目の前には、三度目の挑戦となるプリンの材料。

 今回は料理人から教わった手順を、ひとつずつ確認している。

 卵を混ぜる。

 牛乳を温める。

 砂糖を加え、丁寧に濾す。

 カラメルも、今度は焦がさないように慎重に火を止めた。

 そして、蒸し器に入れる。

 待つこと数十分。

 ついに、プリンが完成した。

「……できた」

 翔は、完成したプリンを見つめた。

 形は少し不格好だ。

 表面にも、わずかな気泡が残っている。

 けれど、きちんと固まっているし、カラメルも焦げていない。

 翔は一口食べた。

「……悪くない」

 だが、すぐに首を横に振った。

 これでは、まだ足りない。

 明日香が好きだと言っていた、あの喫茶店のプリン。

 あのとき、彼女が幸せそうに笑っていた理由を、自分も知りたい。

 翔はスマートフォンを手に取り、明日香とのやり取りを開いた。

 連絡先は、今日、企画の打ち合わせに必要だという名目で交換したものだ。

 まだ、メッセージは送っていない。

 何を書けばいいのだろう。

『今日はありがとうございました』

 それでは、少し堅苦しいだろうか。

『プリンを作りました』

 それだけでは、突然すぎる。

 翔は、何度も文章を打っては消した。

 そして、ようやく短いメッセージを送信した。

『今日はありがとうございました。教えていただいたプリン、とてもおいしかったです。また、おすすめのお店があれば教えてください』

 送信ボタンを押したあと、翔はスマートフォンを見つめた。

 返信が来るだろうか。

 迷惑ではなかっただろうか。

 仕事中でもないのに、こんなに落ち着かないのは初めてだった。

 数分後。

 画面が光った。

『こちらこそ、ありがとうございました! プリン、気に入っていただけてよかったです。今度は、駅の反対側にある喫茶店もおすすめですよ』

 翔は、思わず笑みをこぼした。

 さらに、もう一通。

『もしよかったら、今度ご一緒しますか?』

 その文字を見た瞬間。

「……っ!」

 翔は、スマートフォンを握りしめた。

 心臓が、これまでにないほど速く打っている。

 彼女から誘ってくれた。

 ほんの少しだけでも、自分と一緒に過ごしたいと思ってくれたのだ。

 翔は、すぐに返信を打った。

『ぜひ。楽しみにしています』

 送信してから、深く息を吐く。

 そして、誰もいないキッチンで、小さくつぶやいた。

「……嬉しいな」

 世界中の人間が知る、完璧な男。

 どんな交渉にも動じず、どんな困難にも冷静に対処する男。

 そんな彼が今、たった一通のメッセージで、どうしようもなく幸せな気持ちになっていた。

 その事実が、彼自身にも少しおかしかった。

 けれど、悪くない。

 むしろ、こんな気持ちを知ることができたのは、彼女のおかげだった。

 翔は、完成したプリンをもう一度見つめた。

「次は、もっと上手に作ろう」

 そう決意した彼の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 そして翌朝。

 明日香のスマートフォンには、思いがけないメッセージが届くことになる。

『おはようございます。突然ですが、今日の夕食はご予定がありますか?』

 その一文を見た明日香は、ベッドの上で固まった。

「……えっ?」

 画面を見つめること、十秒。

 彼女は、枕に顔を埋めた。

「どうして、こんなに心臓に悪いの……!」

 その頃、翔は社長室で、秘書の黒田に真剣な顔で尋ねていた。

「黒田。女性を食事に誘う場合、前日の夜と当日の朝では、どちらが適切だと思う?」

「……社長」

「なんだ?」

「まずは、返信をお待ちになってはいかがでしょうか」

「……そうだな」

 翔は素直に頷いた。

 そして、スマートフォンを机の上に置く。

 置いてから三秒後、また手に取った。

 黒田は、そっと天井を仰いだ。

 ――社長の恋愛が成就するまで、私の仕事は増え続けるのかもしれない。
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