完璧な御曹司は、私の前でだけ余裕がない
月曜日の朝。
明日香は、スマートフォンの画面を見つめながら、何度目かわからないため息をついていた。
『おはようございます。突然ですが、今日の夕食はご予定がありますか?』
一条翔から届いたメッセージ。
それに対して、明日香は昨夜、こう返信した。
『お誘いありがとうございます! 今日は仕事が少し遅くなりそうなので、また別の日でもよろしいでしょうか?』
断ったわけではない。
仕事が忙しいのは本当だし、彼と食事をすること自体は嫌ではなかった。
むしろ、楽しみだと思っている。
問題は、そこだった。
「……楽しみって、何なのよ」
明日香は、誰もいない給湯室で小さくつぶやいた。
翔と会うたびに、胸が落ち着かなくなる。
彼は優しい。話をきちんと聞いてくれるし、こちらの都合を尊重してくれる。
それに、何より格好いい。
けれど、彼は一条グループの社長なのだ。
自分とは住む世界が違う。
そんな人が、どうして自分に何度も声をかけてくれるのだろう。
雨の日に書類を拾っただけ。
それだけのことで、ここまで親しくしようとしてくれる理由がわからない。
もしかすると、単純に珍しいだけなのかもしれない。
いつも周囲から特別扱いされている彼にとって、自分のような普通の女性は新鮮なのだろう。
でも、そんな興味はいつか消える。
そうなったとき、自分だけが本気になっていたら。
「……やめよう」
明日香は、頬を軽く叩いた。
考えすぎだ。
まだ恋人でもないのに、先のことを心配してどうする。
そう思い直し、仕事に戻ろうとした、そのときだった。
「水野さん、電話です」
編集部の同僚から声をかけられた。
「お電話?」
「男性の方。お知り合いみたいだけど」
「わかりました」
明日香は受話器を受け取った。
「お電話代わりました、水野です」
『久しぶり、明日香』
その声を聞いた瞬間、明日香の表情が固まった。
忘れたくても忘れられない声だった。
「……拓也、さん?」
元恋人の、佐藤拓也。
半年前、明日香に別れを告げた男性だった。
*
昼休み。
明日香は、会社の近くにあるカフェへ向かっていた。
拓也から、どうしても直接話したいことがあると言われたからだ。
断ろうとも思った。
けれど、別れた相手から連絡が来る理由が気になったし、仕事中に何度も電話をかけられるのも困る。
一度会って、きちんと話を終わらせよう。
そう考えたのだ。
カフェに入ると、窓際の席に拓也が座っていた。
「久しぶり」
「……久しぶりです」
明日香は、向かいの席に腰を下ろした。
以前は、彼と向かい合って座ることが好きだった。
仕事の話を聞いたり、休日に行きたい場所を相談したり。
何でもない会話が、幸せだった。
けれど、今は違う。
何を話せばいいのか、わからなかった。
「最近、どうしてる?」
「普通だよ。仕事をして、家に帰って……」
「相変わらずだな」
拓也は笑った。
「明日香らしい」
その言葉に、明日香の指先がわずかに動いた。
以前なら、何も気にしなかったかもしれない。
でも今は、彼が何を言いたいのか、少し怖かった。
「それで、今日はどうしたの?」
「ああ。実はさ、最近、面白い話を聞いて」
拓也は、テーブルの上に置いたスマートフォンを操作した。
「一条グループの社長と知り合ったんだって?」
明日香は目を見開いた。
「……どうして、それを?」
「知り合いが、お前の会社の人間と知り合いでね。お前が一条社長と親しそうにしているって聞いたんだ」
「親しいというほどじゃ……」
「へえ。じゃあ、付き合ってるわけじゃないんだ?」
「もちろん違うよ」
明日香は、きっぱりと答えた。
翔とは、まだ何の約束もしていない。
何度か会って、食事に誘われただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「そうか。なら、よかった」
「……よかった?」
拓也は、コーヒーを一口飲んだ。
「いや、別に。ただ、お前がああいう人間と付き合えるとは思わなかったからさ」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
拓也は、悪びれる様子もなく言った。
「一条社長って、すごい人なんだろ? 金もあるし、頭もいいし、顔もいい。そんな男が、わざわざお前を選ぶ理由なんてあるのかなって」
明日香は、黙っていた。
「悪く思わないでくれよ。俺は、お前のことをよく知っているから言ってるんだ」
拓也は、もっともらしい顔で続けた。
「お前は優しいし、真面目だし、いい人だよ。でも、それだけだろ?」
その言葉は、半年前の記憶を呼び起こした。
『明日香って、いい人だけどさ。一緒にいても刺激がないんだよね』
別れ際に言われた言葉。
ずっと忘れようとしていたのに。
「……私のことを、どうして今さらそんなふうに言うの?」
「心配してるんだよ」
「心配?」
「一条社長に遊ばれて、傷つくのはお前だろ?」
明日香は、膝の上で手を握りしめた。
拓也の言うことが正しいのかどうかはわからない。
でも、自分でも不安に思っていたことだった。
翔は、何もかもが完璧だ。
そんな彼が、どうして自分に興味を持ってくれるのか。
いつか飽きられてしまうのではないか。
自分は彼にふさわしくないのではないか。
その不安を、拓也は容赦なく突いてくる。
「……もう、帰るね」
明日香は立ち上がった。
「明日香」
「今日は、もう帰る」
それだけ言って、カフェを出た。
冷たい風が頬を撫でる。
歩きながら、明日香は唇を噛んだ。
――やっぱり、そうなのかな。
自分は、翔の隣に立てるような女性ではないのかもしれない。
彼の優しさを、都合よく受け取っていただけなのかもしれない。
そう考えると、胸が苦しくなった。
*
午後三時。
一条グループの社長室。
「黒田、先ほどの出版社からの連絡は?」
「はい。企画の進行は順調とのことです」
「そうか」
翔は書類に目を通していた。
だが、いつもなら一度で頭に入る内容が、今日はなかなか入ってこない。
理由は明白だった。
明日香から、返事が来ていない。
昨日までは、短いメッセージでもやり取りができていた。
彼女は丁寧に返信してくれたし、ときには自分から質問をしてくれることもあった。
ところが、今朝送ったメッセージには、まだ既読がついていない。
忙しいのだろう。
そう考えれば済む話だった。
それなのに、どうにも気になってしまう。
「……黒田」
「はい」
「女性が、突然こちらを避けるようになった場合、考えられる理由は何だろうか」
黒田は、一瞬だけ目を伏せた。
「何か、心当たりがおありですか?」
「特にはない……と思う」
翔は考え込んだ。
「ただ、僕が何か失礼なことを言ったのかもしれない」
「それでしたら、直接お尋ねになるのがよろしいかと」
「そうだな」
翔は頷いた。
しかし、その直後、デスクの電話が鳴った。
「一条です」
『社長、大変申し訳ございません。急ぎご報告したいことがありまして』
取引先からの緊急連絡だった。
翔はすぐに仕事へと意識を切り替えた。
問題点を聞き、状況を整理し、必要な対応を指示する。
数分後には、解決に向けた具体的な方針をまとめ上げていた。
それでも、通話を終えた彼の頭には、また明日香のことが浮かんでいた。
彼女が笑ってくれると、嬉しい。
彼女が自分の話を聞いてくれると、もっと話したくなる。
彼女が好きなものを知ると、それを一緒に楽しみたくなる。
そんな気持ちを、今まで知らなかった。
だからこそ、戸惑っていた。
――僕は、彼女に何を求めているのだろう。
答えは、わかっている。
ただ、彼女に自分を好きになってほしい。
そして、彼女自身にも、自分のことを好きだと思えるようになってほしい。
だが、それをどう伝えればいいのか。
翔は、ペンを置いた。
「黒田。明日の予定を確認してくれ」
「はい」
「明日、出版社へ行く」
「……社長、明日は午前中から役員会がございます」
「午後は?」
「取引先との会食がございます」
「では、その前に時間を作る」
黒田は、静かに息を吐いた。
「かしこまりました」
翔は立ち上がり、窓の外を見た。
明日香が、今どんな気持ちでいるのか。
どうして連絡がないのか。
彼女の不安を、自分は何も知らない。
ならば、知る努力をするしかない。
どれほど忙しくても、それだけは後回しにしたくなかった。
*
翌日。
明日香は、いつもより少し早く出社した。
昨日のことが、まだ頭から離れない。
拓也の言葉は、忘れようとすればするほど、心の中で繰り返された。
――そんな男が、わざわざお前を選ぶ理由なんてあるのかな。
わかっている。
翔は、自分に何かを約束したわけではない。
だからこそ、期待しすぎてはいけない。
そう考えた明日香は、翔から届いていたメッセージに、まだ返信できずにいた。
どう返せばいいのか、わからなかったのだ。
いつもどおりに返事をしたら、彼に期待していると思われるかもしれない。
かといって、急に距離を置いたら、失礼になってしまう。
悩んでいるうちに、時間だけが過ぎてしまった。
「水野さん」
同僚の美咲が、心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 昨日から、ちょっと元気がないよ」
「……そうかな?」
「そうだよ。何かあった?」
明日香は、少し迷った。
けれど、結局、小さく笑ってごまかした。
「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫」
「本当?」
「うん」
美咲は納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。
そのとき、編集部の入り口がざわめいた。
「えっ、また?」
「一条社長よ!」
明日香の心臓が跳ねた。
まさか。
顔を上げると、黒いスーツ姿の翔が、部長とともにこちらへ歩いてくるところだった。
彼は社員たちに丁寧に挨拶をしながら、まっすぐ明日香のデスクへと向かってくる。
明日香は、思わず椅子から立ち上がった。
「お、おはようございます」
「おはようございます、明日香さん」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸が苦しくなる。
翔は、彼女の顔をじっと見た。
「……少し、顔色が悪いようですが」
「え?」
「体調が優れないのですか?」
「い、いえ。そんなことはありません」
明日香は、慌てて笑顔を作った。
「元気です」
翔は、すぐには頷かなかった。
いつもの彼女なら、もっと自然に笑っていた。
プリンの話をしていたときも、好きな本の話をしていたときも。
今の笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「明日香さん」
「はい」
「少し、お話しできませんか?」
明日香は、返事に詰まった。
できれば、二人きりになりたくなかった。
顔を見れば、きっと気持ちが揺らいでしまう。
優しくされたら、また期待してしまう。
「……すみません。今、少し仕事が立て込んでいて」
「そうですか」
翔は、穏やかに頷いた。
「では、お仕事が落ち着いてからで構いません」
無理強いはしなかった。
そのことが、かえって明日香の胸を痛めた。
翔は、本当に優しい。
だからこそ、怖い。
いつかその優しさが自分に向けられなくなったとき、きっと耐えられない。
「……申し訳ありません」
明日香は、目を伏せた。
「最近、少し忙しくて。しばらく、お食事なども難しいと思います」
言ってしまった。
自分から、距離を置くようなことを。
翔は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「わかりました」
その声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「お仕事を優先してください。無理をなさらないように」
「……ありがとうございます」
明日香は、頭を下げた。
翔は、それ以上何も言わず、部長に呼ばれて会議室へ向かった。
その背中を見送りながら、明日香は胸の奥がひどく痛むのを感じていた。
自分で距離を置いたのに。
どうして、こんなに悲しいのだろう。
*
午後四時。
翔は、出版社の会議室で打ち合わせを終えた。
企画の進行に問題はない。
必要な資料もそろっている。
仕事としては、何も心配することはなかった。
それなのに、心は晴れなかった。
「社長、次の会食へ向かうお時間です」
「……ああ」
翔は立ち上がった。
会議室を出ると、廊下の向こうに明日香の姿が見えた。
彼女は同僚と話していたが、翔に気づくと、すぐに視線をそらした。
その瞬間、翔は確信した。
彼女は、何かを抱えている。
そして、その何かは、自分にも関係があるのかもしれない。
「黒田」
「はい」
「先に車へ行っていてくれ」
「承知しました」
翔は、明日香のほうへ歩いていった。
「あの、明日香さん」
彼女は、びくりと肩を揺らした。
「……はい」
「少しだけ、お時間をいただけませんか?」
「……翔さん」
明日香は、困ったように目を伏せた。
「私……」
言葉が続かない。
翔は、急かさずに待った。
やがて、明日香は小さな声で言った。
「私と、あまり親しくしないほうがいいと思います」
翔の表情が変わった。
「……どうしてですか?」
「それは……」
明日香は、唇を噛んだ。
「翔さんは、すごい人だからです」
「すごい人?」
「仕事もできて、頭もよくて、何でも持っていて……。私とは、住む世界が違います」
翔は黙って聞いていた。
「私、翔さんがどうして私に優しくしてくださるのか、わからないんです。雨の日に助けただけなのに、何度も会いに来てくださって……」
「それは」
「わかっています。翔さんは優しい方だから、きっと誰にでも親切なんですよね」
明日香は、無理に笑った。
「だから、私が勘違いしてしまう前に、ちゃんと距離を置いたほうがいいと思うんです」
言い終えた瞬間、明日香は自分の声が震えていることに気づいた。
本当は、距離を置きたくなんてない。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
でも、好きになってしまったら、きっと傷つく。
だから、今のうちに。
そう考えていた。
翔は、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに口を開いた。
「……明日香さん」
「はい」
「あなたは、僕が誰にでもこんなことをする人間だと思っているのですか?」
「え……?」
「誰かに会いたいと思って、仕事の合間に時間を作る。相手が好きだと言ったものを覚えて、どうすれば喜んでもらえるか考える。たった一通のメッセージの返事を待って、何度もスマートフォンを確認する」
翔は、自分でも驚くほど真剣な声で言った。
「僕が、そんなことを誰にでもすると思いますか?」
明日香は、言葉を失った。
翔は、少しだけ苦笑した。
「……すみません。責めたいわけではないんです」
彼は一度、深く息を吸った。
「ただ、あなたに誤解されたまま、離れていかれるのは嫌なんです」
その言葉に、明日香の胸が大きく揺れた。
「僕は、あなたともっと話したい。あなたが好きなものを知りたい。あなたが笑ってくれると嬉しいし、あなたが困っていたら力になりたい」
翔は、まっすぐに彼女を見つめた。
「それは、あなたが特別だからです」
明日香の目に、涙がにじんだ。
そんなことを言われたら。
そんなふうに、まっすぐ気持ちを伝えられたら。
自分の中にある不安が、すべて消えてしまいそうだった。
けれど、まだ怖い。
「……でも」
明日香は、かすれた声で言った。
「私なんかが、翔さんの隣にいてもいいんでしょうか」
翔の表情から、笑みが消えた。
「……明日香さん」
「私、特別な人間じゃありません。仕事だって、まだまだだし、何かすごい才能があるわけでもないし……」
明日香は、俯いた。
「以前、付き合っていた人にも言われたんです。私はいい人だけど、一緒にいても刺激がないって」
翔は、静かに聞いていた。
「だから、ずっと思っていました。私には、人を夢中にさせるような魅力がないんじゃないかって」
声が震える。
「翔さんみたいな人が、私を好きになってくれるなんて、きっと何かの間違いなんじゃないかって……」
とうとう、涙が一粒こぼれた。
明日香は、慌てて拭おうとした。
けれど、その前に翔が口を開いた。
「……その人は、あなたの何を見ていたのでしょうね」
「え……?」
「あなたが、誰かのために一生懸命になれること。仕事に誠実であること。好きなものを話すときに、あんなに幸せそうに笑うこと」
翔は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「僕には、あなたの素敵なところが、たくさん見えています」
明日香は、目を見開いた。
「あなたは、自分が特別ではないと言いましたね」
翔は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「でも、僕にとっては特別なんです」
その言葉が、胸の奥へと染み込んでいく。
「……翔さん」
「あなたが自分のことを好きになれない日があっても、僕があなたを好きだという気持ちは変わりません」
翔は、明日香の目をまっすぐに見つめた。
「だから、どうか、自分には愛される価値がないなんて思わないでください」
明日香は、もう何も言えなかった。
涙が止まらない。
こんなふうに、自分の価値を信じてくれる人がいるなんて、思ってもいなかった。
翔は、少し迷ってから尋ねた。
「……手を握っても、いいですか?」
明日香は、涙を拭いながら小さく頷いた。
翔は、彼女の手をそっと包み込んだ。
温かかった。
その手は、決して強引に引き寄せたりはしなかった。
ただ、彼女が望むなら、いつでも支えられるように。
「明日香さん」
「……はい」
「僕は、あなたに何かを証明してほしいわけではありません」
翔は、優しく微笑んだ。
「ただ、僕と一緒にいるときくらいは、無理をせずに笑っていてほしいんです」
明日香は、涙の向こうで彼を見つめた。
この人は、本当にずるい。
こんなことを言われたら、もう、好きにならないなんて無理だ。
そう思ってしまった。
*
その日の夕方。
翔は、予定していた会食を終え、車の中で黒田の報告を聞いていた。
「社長、先ほどの件ですが、先方から追加の資料が届いております」
「確認しておこう」
翔は資料を受け取り、目を通した。
仕事は、いつもどおり順調だった。
だが、頭の片隅では、明日香のことを考えていた。
彼女は、なぜあんなに自分を低く見積もってしまうのだろう。
誰かに言われた言葉が、そこまで深く残ってしまうものなのか。
自分には、すべてを理解することはできないかもしれない。
けれど、彼女が傷ついた理由を知りたいと思った。
そして、もう二度と、同じような言葉で彼女が傷つかなくて済むようにしたい。
「黒田」
「はい」
「一つ、頼みたいことがある」
「何でしょうか」
「今後、出版社との企画については、引き続き通常どおり進めてくれ。僕の個人的な感情で、彼女の仕事に影響を与えたくない」
「承知いたしました」
「それから……」
翔は、少しだけ考えた。
「明日香さんが、安心して僕と会えるようにしたい」
黒田は、静かに頷いた。
「でしたら、社長ご自身のお気持ちを、少しずつ伝えていかれるのがよろしいかと存じます」
「……そうだな」
翔は窓の外を見た。
恋愛に、正解はない。
仕事のように、計画を立てれば必ず成功するわけでもない。
それでも。
彼女を大切にしたいという気持ちだけは、間違いなく本物だった。
*
翌日の昼休み。
明日香のスマートフォンが震えた。
翔からのメッセージだった。
『昨日は、話してくださってありがとうございました』
その下に、もう一通。
『すぐに不安をなくすことは難しいと思います。だから、急がなくて大丈夫です。僕は、あなたのペースを大切にしたいと思っています』
明日香は、画面を見つめた。
さらに、三通目。
『それでも、一つだけお願いがあります』
胸がどきりとした。
『自分のことを、あまり悪く言わないでください。僕が好きになった人ですから』
「…………っ」
明日香は、スマートフォンを胸に抱きしめた。
「もう……本当に、ずるい……」
頬が熱い。
目の奥が、また少し潤んだ。
こんなに大切にされたら。
こんなに真剣に向き合われたら。
もう、自分の気持ちをごまかせない。
明日香は、ゆっくりと返信を打った。
『ありがとうございます。翔さんとお話しできて、嬉しかったです』
送信して、しばらく待つ。
すると、すぐに返事が来た。
『僕も嬉しかったです』
そして、続けて。
『もしよろしければ、今週末、もう一度お会いできませんか? 今度は、あなたが好きな本のお話を聞きたいです』
明日香は、画面を見つめたまま微笑んだ。
今度は、迷わなかった。
『はい。私でよければ、ぜひ』
送信した直後、翔から返信が届く。
『ありがとうございます。今から、週末が待ち遠しいです』
明日香は、思わず声を上げた。
「……どうしよう!」
近くの席にいた美咲が、すぐに振り返る。
「何? 何があったの?」
「な、何でもない!」
「その顔で何でもないは無理があるよ!」
明日香は、スマートフォンを隠した。
けれど、口元の笑みは隠せなかった。
誰かに好かれることを、怖いと思っていた。
自分には、そんな価値がないと思っていた。
でも今は、少しだけ信じてみたい。
自分のことを、こんなにも大切に思ってくれる人がいる。
その気持ちを、受け取ってみたい。
明日香は、窓の外を見た。
秋の空は、どこまでも青かった。
*
その夜。
一条グループの社長室では、翔が珍しく上機嫌だった。
「社長、何か良いことでもございましたか?」
黒田に尋ねられ、翔は一瞬、表情を引き締めた。
「……別に、何もない」
「そうですか」
黒田は、机の上に置かれたスマートフォンをちらりと見た。
画面には、明日香から届いたメッセージが表示されている。
『はい。私でよければ、ぜひ』
翔は、その一文を何度も読み返していた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「……楽しみだな」
明日香は、スマートフォンの画面を見つめながら、何度目かわからないため息をついていた。
『おはようございます。突然ですが、今日の夕食はご予定がありますか?』
一条翔から届いたメッセージ。
それに対して、明日香は昨夜、こう返信した。
『お誘いありがとうございます! 今日は仕事が少し遅くなりそうなので、また別の日でもよろしいでしょうか?』
断ったわけではない。
仕事が忙しいのは本当だし、彼と食事をすること自体は嫌ではなかった。
むしろ、楽しみだと思っている。
問題は、そこだった。
「……楽しみって、何なのよ」
明日香は、誰もいない給湯室で小さくつぶやいた。
翔と会うたびに、胸が落ち着かなくなる。
彼は優しい。話をきちんと聞いてくれるし、こちらの都合を尊重してくれる。
それに、何より格好いい。
けれど、彼は一条グループの社長なのだ。
自分とは住む世界が違う。
そんな人が、どうして自分に何度も声をかけてくれるのだろう。
雨の日に書類を拾っただけ。
それだけのことで、ここまで親しくしようとしてくれる理由がわからない。
もしかすると、単純に珍しいだけなのかもしれない。
いつも周囲から特別扱いされている彼にとって、自分のような普通の女性は新鮮なのだろう。
でも、そんな興味はいつか消える。
そうなったとき、自分だけが本気になっていたら。
「……やめよう」
明日香は、頬を軽く叩いた。
考えすぎだ。
まだ恋人でもないのに、先のことを心配してどうする。
そう思い直し、仕事に戻ろうとした、そのときだった。
「水野さん、電話です」
編集部の同僚から声をかけられた。
「お電話?」
「男性の方。お知り合いみたいだけど」
「わかりました」
明日香は受話器を受け取った。
「お電話代わりました、水野です」
『久しぶり、明日香』
その声を聞いた瞬間、明日香の表情が固まった。
忘れたくても忘れられない声だった。
「……拓也、さん?」
元恋人の、佐藤拓也。
半年前、明日香に別れを告げた男性だった。
*
昼休み。
明日香は、会社の近くにあるカフェへ向かっていた。
拓也から、どうしても直接話したいことがあると言われたからだ。
断ろうとも思った。
けれど、別れた相手から連絡が来る理由が気になったし、仕事中に何度も電話をかけられるのも困る。
一度会って、きちんと話を終わらせよう。
そう考えたのだ。
カフェに入ると、窓際の席に拓也が座っていた。
「久しぶり」
「……久しぶりです」
明日香は、向かいの席に腰を下ろした。
以前は、彼と向かい合って座ることが好きだった。
仕事の話を聞いたり、休日に行きたい場所を相談したり。
何でもない会話が、幸せだった。
けれど、今は違う。
何を話せばいいのか、わからなかった。
「最近、どうしてる?」
「普通だよ。仕事をして、家に帰って……」
「相変わらずだな」
拓也は笑った。
「明日香らしい」
その言葉に、明日香の指先がわずかに動いた。
以前なら、何も気にしなかったかもしれない。
でも今は、彼が何を言いたいのか、少し怖かった。
「それで、今日はどうしたの?」
「ああ。実はさ、最近、面白い話を聞いて」
拓也は、テーブルの上に置いたスマートフォンを操作した。
「一条グループの社長と知り合ったんだって?」
明日香は目を見開いた。
「……どうして、それを?」
「知り合いが、お前の会社の人間と知り合いでね。お前が一条社長と親しそうにしているって聞いたんだ」
「親しいというほどじゃ……」
「へえ。じゃあ、付き合ってるわけじゃないんだ?」
「もちろん違うよ」
明日香は、きっぱりと答えた。
翔とは、まだ何の約束もしていない。
何度か会って、食事に誘われただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「そうか。なら、よかった」
「……よかった?」
拓也は、コーヒーを一口飲んだ。
「いや、別に。ただ、お前がああいう人間と付き合えるとは思わなかったからさ」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
拓也は、悪びれる様子もなく言った。
「一条社長って、すごい人なんだろ? 金もあるし、頭もいいし、顔もいい。そんな男が、わざわざお前を選ぶ理由なんてあるのかなって」
明日香は、黙っていた。
「悪く思わないでくれよ。俺は、お前のことをよく知っているから言ってるんだ」
拓也は、もっともらしい顔で続けた。
「お前は優しいし、真面目だし、いい人だよ。でも、それだけだろ?」
その言葉は、半年前の記憶を呼び起こした。
『明日香って、いい人だけどさ。一緒にいても刺激がないんだよね』
別れ際に言われた言葉。
ずっと忘れようとしていたのに。
「……私のことを、どうして今さらそんなふうに言うの?」
「心配してるんだよ」
「心配?」
「一条社長に遊ばれて、傷つくのはお前だろ?」
明日香は、膝の上で手を握りしめた。
拓也の言うことが正しいのかどうかはわからない。
でも、自分でも不安に思っていたことだった。
翔は、何もかもが完璧だ。
そんな彼が、どうして自分に興味を持ってくれるのか。
いつか飽きられてしまうのではないか。
自分は彼にふさわしくないのではないか。
その不安を、拓也は容赦なく突いてくる。
「……もう、帰るね」
明日香は立ち上がった。
「明日香」
「今日は、もう帰る」
それだけ言って、カフェを出た。
冷たい風が頬を撫でる。
歩きながら、明日香は唇を噛んだ。
――やっぱり、そうなのかな。
自分は、翔の隣に立てるような女性ではないのかもしれない。
彼の優しさを、都合よく受け取っていただけなのかもしれない。
そう考えると、胸が苦しくなった。
*
午後三時。
一条グループの社長室。
「黒田、先ほどの出版社からの連絡は?」
「はい。企画の進行は順調とのことです」
「そうか」
翔は書類に目を通していた。
だが、いつもなら一度で頭に入る内容が、今日はなかなか入ってこない。
理由は明白だった。
明日香から、返事が来ていない。
昨日までは、短いメッセージでもやり取りができていた。
彼女は丁寧に返信してくれたし、ときには自分から質問をしてくれることもあった。
ところが、今朝送ったメッセージには、まだ既読がついていない。
忙しいのだろう。
そう考えれば済む話だった。
それなのに、どうにも気になってしまう。
「……黒田」
「はい」
「女性が、突然こちらを避けるようになった場合、考えられる理由は何だろうか」
黒田は、一瞬だけ目を伏せた。
「何か、心当たりがおありですか?」
「特にはない……と思う」
翔は考え込んだ。
「ただ、僕が何か失礼なことを言ったのかもしれない」
「それでしたら、直接お尋ねになるのがよろしいかと」
「そうだな」
翔は頷いた。
しかし、その直後、デスクの電話が鳴った。
「一条です」
『社長、大変申し訳ございません。急ぎご報告したいことがありまして』
取引先からの緊急連絡だった。
翔はすぐに仕事へと意識を切り替えた。
問題点を聞き、状況を整理し、必要な対応を指示する。
数分後には、解決に向けた具体的な方針をまとめ上げていた。
それでも、通話を終えた彼の頭には、また明日香のことが浮かんでいた。
彼女が笑ってくれると、嬉しい。
彼女が自分の話を聞いてくれると、もっと話したくなる。
彼女が好きなものを知ると、それを一緒に楽しみたくなる。
そんな気持ちを、今まで知らなかった。
だからこそ、戸惑っていた。
――僕は、彼女に何を求めているのだろう。
答えは、わかっている。
ただ、彼女に自分を好きになってほしい。
そして、彼女自身にも、自分のことを好きだと思えるようになってほしい。
だが、それをどう伝えればいいのか。
翔は、ペンを置いた。
「黒田。明日の予定を確認してくれ」
「はい」
「明日、出版社へ行く」
「……社長、明日は午前中から役員会がございます」
「午後は?」
「取引先との会食がございます」
「では、その前に時間を作る」
黒田は、静かに息を吐いた。
「かしこまりました」
翔は立ち上がり、窓の外を見た。
明日香が、今どんな気持ちでいるのか。
どうして連絡がないのか。
彼女の不安を、自分は何も知らない。
ならば、知る努力をするしかない。
どれほど忙しくても、それだけは後回しにしたくなかった。
*
翌日。
明日香は、いつもより少し早く出社した。
昨日のことが、まだ頭から離れない。
拓也の言葉は、忘れようとすればするほど、心の中で繰り返された。
――そんな男が、わざわざお前を選ぶ理由なんてあるのかな。
わかっている。
翔は、自分に何かを約束したわけではない。
だからこそ、期待しすぎてはいけない。
そう考えた明日香は、翔から届いていたメッセージに、まだ返信できずにいた。
どう返せばいいのか、わからなかったのだ。
いつもどおりに返事をしたら、彼に期待していると思われるかもしれない。
かといって、急に距離を置いたら、失礼になってしまう。
悩んでいるうちに、時間だけが過ぎてしまった。
「水野さん」
同僚の美咲が、心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 昨日から、ちょっと元気がないよ」
「……そうかな?」
「そうだよ。何かあった?」
明日香は、少し迷った。
けれど、結局、小さく笑ってごまかした。
「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫」
「本当?」
「うん」
美咲は納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。
そのとき、編集部の入り口がざわめいた。
「えっ、また?」
「一条社長よ!」
明日香の心臓が跳ねた。
まさか。
顔を上げると、黒いスーツ姿の翔が、部長とともにこちらへ歩いてくるところだった。
彼は社員たちに丁寧に挨拶をしながら、まっすぐ明日香のデスクへと向かってくる。
明日香は、思わず椅子から立ち上がった。
「お、おはようございます」
「おはようございます、明日香さん」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸が苦しくなる。
翔は、彼女の顔をじっと見た。
「……少し、顔色が悪いようですが」
「え?」
「体調が優れないのですか?」
「い、いえ。そんなことはありません」
明日香は、慌てて笑顔を作った。
「元気です」
翔は、すぐには頷かなかった。
いつもの彼女なら、もっと自然に笑っていた。
プリンの話をしていたときも、好きな本の話をしていたときも。
今の笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「明日香さん」
「はい」
「少し、お話しできませんか?」
明日香は、返事に詰まった。
できれば、二人きりになりたくなかった。
顔を見れば、きっと気持ちが揺らいでしまう。
優しくされたら、また期待してしまう。
「……すみません。今、少し仕事が立て込んでいて」
「そうですか」
翔は、穏やかに頷いた。
「では、お仕事が落ち着いてからで構いません」
無理強いはしなかった。
そのことが、かえって明日香の胸を痛めた。
翔は、本当に優しい。
だからこそ、怖い。
いつかその優しさが自分に向けられなくなったとき、きっと耐えられない。
「……申し訳ありません」
明日香は、目を伏せた。
「最近、少し忙しくて。しばらく、お食事なども難しいと思います」
言ってしまった。
自分から、距離を置くようなことを。
翔は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「わかりました」
その声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「お仕事を優先してください。無理をなさらないように」
「……ありがとうございます」
明日香は、頭を下げた。
翔は、それ以上何も言わず、部長に呼ばれて会議室へ向かった。
その背中を見送りながら、明日香は胸の奥がひどく痛むのを感じていた。
自分で距離を置いたのに。
どうして、こんなに悲しいのだろう。
*
午後四時。
翔は、出版社の会議室で打ち合わせを終えた。
企画の進行に問題はない。
必要な資料もそろっている。
仕事としては、何も心配することはなかった。
それなのに、心は晴れなかった。
「社長、次の会食へ向かうお時間です」
「……ああ」
翔は立ち上がった。
会議室を出ると、廊下の向こうに明日香の姿が見えた。
彼女は同僚と話していたが、翔に気づくと、すぐに視線をそらした。
その瞬間、翔は確信した。
彼女は、何かを抱えている。
そして、その何かは、自分にも関係があるのかもしれない。
「黒田」
「はい」
「先に車へ行っていてくれ」
「承知しました」
翔は、明日香のほうへ歩いていった。
「あの、明日香さん」
彼女は、びくりと肩を揺らした。
「……はい」
「少しだけ、お時間をいただけませんか?」
「……翔さん」
明日香は、困ったように目を伏せた。
「私……」
言葉が続かない。
翔は、急かさずに待った。
やがて、明日香は小さな声で言った。
「私と、あまり親しくしないほうがいいと思います」
翔の表情が変わった。
「……どうしてですか?」
「それは……」
明日香は、唇を噛んだ。
「翔さんは、すごい人だからです」
「すごい人?」
「仕事もできて、頭もよくて、何でも持っていて……。私とは、住む世界が違います」
翔は黙って聞いていた。
「私、翔さんがどうして私に優しくしてくださるのか、わからないんです。雨の日に助けただけなのに、何度も会いに来てくださって……」
「それは」
「わかっています。翔さんは優しい方だから、きっと誰にでも親切なんですよね」
明日香は、無理に笑った。
「だから、私が勘違いしてしまう前に、ちゃんと距離を置いたほうがいいと思うんです」
言い終えた瞬間、明日香は自分の声が震えていることに気づいた。
本当は、距離を置きたくなんてない。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
でも、好きになってしまったら、きっと傷つく。
だから、今のうちに。
そう考えていた。
翔は、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに口を開いた。
「……明日香さん」
「はい」
「あなたは、僕が誰にでもこんなことをする人間だと思っているのですか?」
「え……?」
「誰かに会いたいと思って、仕事の合間に時間を作る。相手が好きだと言ったものを覚えて、どうすれば喜んでもらえるか考える。たった一通のメッセージの返事を待って、何度もスマートフォンを確認する」
翔は、自分でも驚くほど真剣な声で言った。
「僕が、そんなことを誰にでもすると思いますか?」
明日香は、言葉を失った。
翔は、少しだけ苦笑した。
「……すみません。責めたいわけではないんです」
彼は一度、深く息を吸った。
「ただ、あなたに誤解されたまま、離れていかれるのは嫌なんです」
その言葉に、明日香の胸が大きく揺れた。
「僕は、あなたともっと話したい。あなたが好きなものを知りたい。あなたが笑ってくれると嬉しいし、あなたが困っていたら力になりたい」
翔は、まっすぐに彼女を見つめた。
「それは、あなたが特別だからです」
明日香の目に、涙がにじんだ。
そんなことを言われたら。
そんなふうに、まっすぐ気持ちを伝えられたら。
自分の中にある不安が、すべて消えてしまいそうだった。
けれど、まだ怖い。
「……でも」
明日香は、かすれた声で言った。
「私なんかが、翔さんの隣にいてもいいんでしょうか」
翔の表情から、笑みが消えた。
「……明日香さん」
「私、特別な人間じゃありません。仕事だって、まだまだだし、何かすごい才能があるわけでもないし……」
明日香は、俯いた。
「以前、付き合っていた人にも言われたんです。私はいい人だけど、一緒にいても刺激がないって」
翔は、静かに聞いていた。
「だから、ずっと思っていました。私には、人を夢中にさせるような魅力がないんじゃないかって」
声が震える。
「翔さんみたいな人が、私を好きになってくれるなんて、きっと何かの間違いなんじゃないかって……」
とうとう、涙が一粒こぼれた。
明日香は、慌てて拭おうとした。
けれど、その前に翔が口を開いた。
「……その人は、あなたの何を見ていたのでしょうね」
「え……?」
「あなたが、誰かのために一生懸命になれること。仕事に誠実であること。好きなものを話すときに、あんなに幸せそうに笑うこと」
翔は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「僕には、あなたの素敵なところが、たくさん見えています」
明日香は、目を見開いた。
「あなたは、自分が特別ではないと言いましたね」
翔は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「でも、僕にとっては特別なんです」
その言葉が、胸の奥へと染み込んでいく。
「……翔さん」
「あなたが自分のことを好きになれない日があっても、僕があなたを好きだという気持ちは変わりません」
翔は、明日香の目をまっすぐに見つめた。
「だから、どうか、自分には愛される価値がないなんて思わないでください」
明日香は、もう何も言えなかった。
涙が止まらない。
こんなふうに、自分の価値を信じてくれる人がいるなんて、思ってもいなかった。
翔は、少し迷ってから尋ねた。
「……手を握っても、いいですか?」
明日香は、涙を拭いながら小さく頷いた。
翔は、彼女の手をそっと包み込んだ。
温かかった。
その手は、決して強引に引き寄せたりはしなかった。
ただ、彼女が望むなら、いつでも支えられるように。
「明日香さん」
「……はい」
「僕は、あなたに何かを証明してほしいわけではありません」
翔は、優しく微笑んだ。
「ただ、僕と一緒にいるときくらいは、無理をせずに笑っていてほしいんです」
明日香は、涙の向こうで彼を見つめた。
この人は、本当にずるい。
こんなことを言われたら、もう、好きにならないなんて無理だ。
そう思ってしまった。
*
その日の夕方。
翔は、予定していた会食を終え、車の中で黒田の報告を聞いていた。
「社長、先ほどの件ですが、先方から追加の資料が届いております」
「確認しておこう」
翔は資料を受け取り、目を通した。
仕事は、いつもどおり順調だった。
だが、頭の片隅では、明日香のことを考えていた。
彼女は、なぜあんなに自分を低く見積もってしまうのだろう。
誰かに言われた言葉が、そこまで深く残ってしまうものなのか。
自分には、すべてを理解することはできないかもしれない。
けれど、彼女が傷ついた理由を知りたいと思った。
そして、もう二度と、同じような言葉で彼女が傷つかなくて済むようにしたい。
「黒田」
「はい」
「一つ、頼みたいことがある」
「何でしょうか」
「今後、出版社との企画については、引き続き通常どおり進めてくれ。僕の個人的な感情で、彼女の仕事に影響を与えたくない」
「承知いたしました」
「それから……」
翔は、少しだけ考えた。
「明日香さんが、安心して僕と会えるようにしたい」
黒田は、静かに頷いた。
「でしたら、社長ご自身のお気持ちを、少しずつ伝えていかれるのがよろしいかと存じます」
「……そうだな」
翔は窓の外を見た。
恋愛に、正解はない。
仕事のように、計画を立てれば必ず成功するわけでもない。
それでも。
彼女を大切にしたいという気持ちだけは、間違いなく本物だった。
*
翌日の昼休み。
明日香のスマートフォンが震えた。
翔からのメッセージだった。
『昨日は、話してくださってありがとうございました』
その下に、もう一通。
『すぐに不安をなくすことは難しいと思います。だから、急がなくて大丈夫です。僕は、あなたのペースを大切にしたいと思っています』
明日香は、画面を見つめた。
さらに、三通目。
『それでも、一つだけお願いがあります』
胸がどきりとした。
『自分のことを、あまり悪く言わないでください。僕が好きになった人ですから』
「…………っ」
明日香は、スマートフォンを胸に抱きしめた。
「もう……本当に、ずるい……」
頬が熱い。
目の奥が、また少し潤んだ。
こんなに大切にされたら。
こんなに真剣に向き合われたら。
もう、自分の気持ちをごまかせない。
明日香は、ゆっくりと返信を打った。
『ありがとうございます。翔さんとお話しできて、嬉しかったです』
送信して、しばらく待つ。
すると、すぐに返事が来た。
『僕も嬉しかったです』
そして、続けて。
『もしよろしければ、今週末、もう一度お会いできませんか? 今度は、あなたが好きな本のお話を聞きたいです』
明日香は、画面を見つめたまま微笑んだ。
今度は、迷わなかった。
『はい。私でよければ、ぜひ』
送信した直後、翔から返信が届く。
『ありがとうございます。今から、週末が待ち遠しいです』
明日香は、思わず声を上げた。
「……どうしよう!」
近くの席にいた美咲が、すぐに振り返る。
「何? 何があったの?」
「な、何でもない!」
「その顔で何でもないは無理があるよ!」
明日香は、スマートフォンを隠した。
けれど、口元の笑みは隠せなかった。
誰かに好かれることを、怖いと思っていた。
自分には、そんな価値がないと思っていた。
でも今は、少しだけ信じてみたい。
自分のことを、こんなにも大切に思ってくれる人がいる。
その気持ちを、受け取ってみたい。
明日香は、窓の外を見た。
秋の空は、どこまでも青かった。
*
その夜。
一条グループの社長室では、翔が珍しく上機嫌だった。
「社長、何か良いことでもございましたか?」
黒田に尋ねられ、翔は一瞬、表情を引き締めた。
「……別に、何もない」
「そうですか」
黒田は、机の上に置かれたスマートフォンをちらりと見た。
画面には、明日香から届いたメッセージが表示されている。
『はい。私でよければ、ぜひ』
翔は、その一文を何度も読み返していた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「……楽しみだな」


