天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第一章 残したいのは、誰ですか
第1話
祖母の一周忌は、よく晴れた初夏の日に終わった。読経の余韻がまだ残る座敷で、親戚たちが最後のお茶を飲んでいる。紬はその間を静かに回りながら、空いた湯呑みを下げていた。
「紬ちゃんは本当に気がきくわねえ。いいお嬢さんに育ったこと」
「いえ、そんな。おばさまこそ、遠いところをありがとうございました」
にこり、と笑う。笑うのは得意だ。誰かの話が途切れそうになれば、そっと次の話題を差し出す。
父が言葉を選んでいるときは、先回りして補う。そうしていれば、場はいつも穏やかに収まる。
私、三崎紬は、この土地で長く続く旧家・三崎家の一人娘だ。普段は、歴史博物館の古文書を扱う仕事をしている。
幼い頃から「紬さんに任せたら大丈夫」と言われて育ってきた。
(大丈夫、なんだけど)
湯呑みを盆に載せながら、紬は小さく息を吐く。今日は、どうしても聞かなければならない話がある。
親戚が帰り、座敷が静かになったころ。本邸の居間にいた父の宗一郎が湯呑みを置いた。
「紬。離れの件だが」
どきん、と胸が鳴る。来た、と思った。離れは、本邸の裏手の竹垣の向こうにある。
祖母がこの家に嫁いでから、長く暮らした小さな家だ。祖母が亡くなってから一年、戸は閉ざされたままになっている。
「去年の梅雨に、また雨漏りがあっただろう。床も沈んできている。直すとなれば、相当な額になる」
「はい」
「お祖母さまの文書や調度は、本邸の蔵へ移せばいい。建物は、傷みがひどくなる前に取り壊したほうが、あとあとの負担も減る」
父の声は穏やかだった。祖母の思い出を軽んじているわけではない。三崎の家を守ってきた人が、実務としていちばん堅い道を選んでいるだけだ。
それが、紬にはわかる。
わかるから、困る。
(お父さまの言うことは、正しい)
正しい。維持の難しさは、紬だって理解している。祖母から受け継いだ資金にも、限りがある。いつもなら、ここで頷く。
微笑みながら「そうですね」と言って、父の負担が少ない形を探す。
でも。
祖母の膝の上で、黄ばんだ古文書を読んでもらった午後を思い出す。墨の匂い。縁側の光。紬がこの仕事を選んだ、いちばん最初の場所。喉の奥が、きゅっと狭くなった。
「……お父さま」
「うん?」
「取り壊す前に」
声が、少しだけ震えた。
「修理にどれくらいかかるのか、調べさせてください」
居間に、短い沈黙が落ちる。父が目を瞬かせた。娘が自分から何かを申し出ることなど、あまりなかったからだろう。
「調べて、どうする」
「それは、まだ……わかりません。でも、調べないまま決めたくないんです」
言い終えてから、手のひらが汗ばんでいることに気づいた。たったこれだけのことで、心臓がうるさい。父はしばらく考え、やがて小さく頷いた。
「……わかった。知人の紹介で、修復を専門にしている建築家がいる。話を聞くだけ聞いてみよう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げながら、紬はこっそり指先を握りしめた。