天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第2話
建築家が来訪したのは、それから十日後のことだった。
客間に通された人を見て紬は一瞬、お茶を出す手を止めかけた。背が高い。仕立てのよい紺のジャケットに、少し長めの前髪。目鼻立ちは驚くほど端正だ。けれど、こちらを値踏みするような色はない。静かな目をしていた。
「久世律です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
低く、落ち着いた声。
(……歴史的建造物の修復で、国内外から評価されている方だって聞いていたけれど)
想像していたより、ずっと若い。そして、想像していたよりずっと、きれいな人だった。いけない、と紬は慌てて笑顔を整える。
「三崎紬と申します。どうぞ、お茶を」
湯呑みを置いたとき、ふと目に入った。律の右肩に、うっすらと白い埃がついている。
(どこか、直前に現場へ寄られたのかしら……)
本人はまったく気にしていない様子で、鞄から取り出した古い金具の写真を、そっと両手で扱っていた。そのていねいな手つきと肩の埃との落差が、なんだか可笑しい。言うべきか、言わざるべきか。
悩んでいるうちに、父が三崎家の来歴を語りはじめた。
明治期の創建であること。離れは、祖母が嫁いでから暮らした場所であること。そして、建物の傷みが進んでいること。
紬は父の横に控え、お茶を注ぎ足しながら、必要なところで補足する。
「床下の湿気は、梅雨のたびに強くなっておりまして」
「雨樋は、五年前に一度直しております」
いつもの役割だ。体に染みついた、整える仕事。父の話は、少しずつ、取り壊しの方向へ傾いていく。
「費用を考えれば、文書と調度だけを本邸に移すのが現実的かと」
律は、メモも取らずに黙って聞いていた。否定も、肯定もしない。ただ、父の言葉をひとつずつ、確かめるように受け取っている。
そして父が話し終えたとき、ふいに顔を上げた。
「最初に、調べたいとおっしゃったのは、どなたですか?」
父が、きょとんとする。
「それは……娘の紬ですが」
「そうですか」
律の視線が、ゆっくりと、紬へ向いた。
どきりとする。この部屋で、父以外の誰かにまっすぐ見られたのは、初めてのような気がした。
「では、紬さんのお考えを聞かせてください」
「わ、私、ですか?」
「はい。離れをどうしたいと思っていますか」
問われて、頭が真っ白になった。
(どうしたい……?)
答えは、ある。あるのだ。
「……残したい、です」
言葉は、思っていたよりすんなり出た。
「祖母が過ごした家ですし、あの家には、まだ読めていない文書もたくさんあって。壊してしまったら、それがなくなってしまう気がして」
「はい」
「だから、残したいんです。でも」
続く言葉が、出てこない。残して、どうするのか。誰が使うのか。維持するお金はどこから出すのか。父の質問に答えられなかったら、と思うと、舌が固まってしまう。
「……でも、その先は、まだ、わかりません」
消え入りそうな声になった。呆れられるだろうか。呼び出しておいて、何も考えていないのかと。膝の上の手を握りしめて待っていると、律は、ごく自然に頷いた。
「そうですか。では、決めるために調べましょう」
責める響きは、少しもなかった。
「現地を見せていただけますか。残せるかどうかは、見てからでないと言えません」
父が、驚いたように紬を見る。紬も、ぽかんとして律を見る。
(今の、怒られなかった……?)
胸の奥の、固く結んでいた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。離れの戸を開けると、ひんやりとした空気が流れ出た。畳の匂い。古い紙の匂い。一年ぶりの、祖母の家の匂いだ。
律は靴を脱ぐと、まず床を軽く踏み、それから柱を撫で、天井を見上げた。ひとつひとつ、確かめるような動きだった。
「床下を見ます。汚れますから、紬さんはここで」
「いえ、私も見たいです」
思わず言うと、律がわずかに目を見開いた。それから、「では、これを」と、懐中電灯を差し出してくれる。
床板を一枚外し、ふたりで下を覗き込む。
至近距離に、律の横顔があった。
(ちっ、近い……!)
ひとりで勝手に緊張している紬をよそに、律は淡々と説明しはじめた。
「ここ、束石が沈んでいます。放っておくと、床がさらに傾きます。ただ、構造の主な部材は、思ったより健全です」
「そうなんですか?」
「はい。傷んでいるのは、水が回る一部だけです。あの梁は、危ないので交換が必要です。でも、こちらの柱は、手を入れれば百年は持ちます」
三崎の家だからと、持ち上げることもしない。傷みを、大げさにも小さくも言わない。
できることと、できないこと。それをそのまま、まっすぐ教えてくれる。
(……この人、嘘をつかない人なんだ)
理由もなく、そう思った。床下から這い出したとき、律のシャツの背中は、すっかり埃まみれになっていた。本人はまるで頓着せず金具だけを、ハンカチでそっと拭っている。紬は、とうとう笑ってしまった。
「あの、久世さん。背中が」
「背中?」
「真っ白です。あと、肩にも、最初からついていました」
律は自分の肩を見下ろして、不思議そうに首を傾げた。
「ああ。……いつからですか」
「たぶん、お会いしたときからです」
「それは、失礼しました」
真顔で言うので、余計におかしい。ふふ、と声が漏れて、紬は慌てて口元を押さえた。律は、その様子を少しのあいだ見つめていた。けれど何も言わず、ただ、静かに目を細めた気がした。
(今の、何だろう)
問い返す前に、律は居間へ向き直っていた。調査は、夕方まで続いた。最後に二階の階段下の柱の前を通ったとき、律がふと足を止めた。
「これは」
柱に、細い刃物で刻んだ線がいくつも並んでいる。横に、小さな文字。
「……背丈の印です」
紬は、思わず声を落とした。
「下のほうが、私で。上の、少し太い線が父です。祖母が、お正月のたびに測ってくれて」
十歳。十二歳。十五歳。
線は、ある年を境に止まっている。大人になった紬は、もうここで測られなくなった。
「家を出たわけではないのに、こんなに前から、止まっていたんですね」
そう言ってから、自分でも驚いた。そんなことを、他人に話すつもりはなかったのに。律は何も言わずに、胸ポケットから図面を取り出した。鉛筆を走らせ、柱のあたりに、小さな丸を描く。
「ここは、残せる方法を考えます」
短い言葉だった。慰めでも、励ましでもない。決意を告げる、仕事の言葉。なのに、紬の胸の奥に、ぽっと灯りがともった。
(この人になら、話してもいいかもしれない)
残したい理由を。祖母のこと。あの午後のこと。うまく言葉にならない、自分のこと。ただ、ずっと息を詰めていた部屋の窓が、ひとつ開いたような。夕日が差し込む離れの中で、紬はそっと、柱の印を見上げた。
「……久世さん」
「はい」
「調べて、くださいますか。最後まで」
律が、ゆっくりと紬を見た。
「もちろんです」
律が落ち着いた声で答えると、その声は離れの静けさに、やさしく溶けた。