天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
終章 追伸

第15話



 翌年の春、二人は婚姻届を出した。証人欄には、紬の母と、律の事務所の古い仲間が名前を書いてくれた。
 役所の窓口で受理印が押されたとき、律は真顔で「ありがとうございました」と深々と頭を下げて、職員を困らせた。

 紬は、隣で、笑いをこらえるのに必死だった。

(先に、目が笑ってしまう)

 横目で見ると、律も、ほんのわずかに目元をゆるめていた。暮らしは、仕事の都合に合わせて、二つの拠点を行き来するかたちになった。紬は、遠方の資料館のそばの小さな部屋。

 律は、事務所のある街。月の半分は、どちらかの部屋で、一緒に過ごす。もちろん、はじめから、うまくいったわけではない。

 春先のこと。律が、紬の休みに合わせて、先に新幹線の切符を買ってしまった。喜ぶだろうと思ったらしい。

「……先に、聞いてほしかったです」

 紬は、できるだけ、穏やかに伝えた。

「その週は、校正の締め切りがあって。予定が、まだ、はっきりしなくて」

 律は、切符を手にしたまま、固まった。それから、深く頭を下げた。

「すみません。……次から、先に聞きます」
「はい。お願いします」

 怒ったのでは、ない。ただ、伝えたかっただけだ。伝えられたこと自体が、紬には、小さな進歩だった。

 その数週間後には、逆のことも起きた。
 忙しさのあまり、紬は電話で「大丈夫」と言い続けてしまった。
 大丈夫だと、平気だと……そんな言葉を、三日続けて。そして、四日目の夜に、ぽろりと、こぼした。

「……本当は、少し、助けてほしかったです」

 電話の向こうで、律が、長い息を吐く音がした。

「……もっと早く、聞けばよかった」
「ううん。私が、言えばよかったの」
「明日、行きます」
「え。お仕事は」
「調整します。……その前に、紬さんの都合を聞くべきでしたね。行ってもいいですか」

 思わず、笑った。

「はい。来てください。お願いします」

 不器用な二人だ。それでも、少しずつ、わかってきた。相手が黙ったとき、勝手に結論を出さない。怒っているのかも、呆れているのかもと、決めつけない。
 聞き直せばいい。今、どう思っているのかと。

 そう思えるようになったことが、二人の暮らしの、いちばん大きな収穫かもしれなかった。父への報告は、結婚の少し前に済ませていた。

 三崎の家の客間。あの日、律が初めて訪れたのと同じ部屋で、紬は、父の前に、まっすぐ座った。
 隣には、律。けれど、先に口を開いたのは、紬だった。

「お父さま。私、律さんと、結婚します」

 父は、静かに、紬を見つめた。

「仕事は、続けます。住まいは、しばらく、遠方と、律さんの街の二か所になります。行事には、できるだけ戻りますが、全部は難しいです」

 手が、少し震えた。でも、逃げなかった。

「それでも、二人で決めたことです。反対されても、私の気持ちは、変わりません。……でも、できれば、わかってほしいです」

 沈黙が、長く続いた。父は、しばらく膝の上の手を見つめていた。やがて、息を吐く。

「……紬は、昔から、何も言わない子だった」

 独り言のような声だった。

「言わないから、意見がないのだと、思っていた」
「お父さま」
「私が、聞いてこなかったのだな。聞かなければ、わからないことを」

 顔を上げた父は、少し、疲れたような、けれど、穏やかな顔をしていた。

「……おめでとう、紬」

 紬の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。父が、ぎこちなく、続ける。

「これからは、聞く。……紬も、言ってくれ。遠慮しなくていい」
「……はい」

 それが、父が少しずつ、変わろうとしている証だと、紬には、わかった。離れの修復は、計画どおり、必要な部分から進んでいた。

 東側の屋根は、すっかり葺き替わった。床下の補強も終わり、雨の日も、しっかり乾いている。文書の一部は、虫干しを終えて、整理された棚に、ゆったりと収まっていた。

 来年には、小さな公開の場として、近所の人たちに、扉を開く予定だ。その準備のために、紬と律は、久しぶりに、そろって離れを訪れた。

 庭に出ると、梅の古木が、白い花を、ほころばせていた。

「……あ」

紬は、思わず足を止めた。満開は、とうに過ぎていた。枝の先では、花びらが、風にはらはらと散りはじめている。

「……少し、遅かったですね」

律が、隣で、静かに呟いた。

「はい。少し、遅かった」

紬は、くすっと笑った。来年の梅も、一緒に見てくれませんか。そう書いてあった源次の言葉を、思い出す。

(私たちは、今年の梅に、間に合わなかったけれど)

 縁側に腰を下ろして、二人で、お茶を飲んだ。湯呑みから、やわらかな湯気が立ちのぼる。風が吹くたび、白い花びらが、湯呑みの縁に、ひらりと落ちた。風が、庭の梅を、ふわりと揺らした。

 散りかけの花びらが、縁側の二人の上に、静かに降る。来年の梅も、きっと、一緒に……。




終


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