天才建築家の不器用な求婚――仕事のはずが、一途に愛されていました
第14話
律は、しばらくして、顔を上げた。目元が、少し赤い。
「……指輪を、つけても、いいですか」
「はい」
紬が、左手を差し出す。律は、箱を開けた。小さな石が、夕日を受けて、淡く光る。細い、やさしいかたちの指輪だった。指輪を取り出す指先が、小刻みに震えている。古い金具を扱うときは、あんなに、慎重で、揺るがない人が。
紬は、思わず、自分の右手を伸ばして、彼の手に、そっと添えた。律が、はっと、顔を上げる。
「……大丈夫です」
囁くように言う。守られるだけの人に、なりたくない。この人が、誰にも見せない震えを、隣で、支えられる人になりたい。
律は、一瞬、泣きそうな顔をして、それから、小さく頷いた。二人の手が、重なったまま、指輪が、紬の薬指に収まる。
ピッタリだった。
「きつくありませんか」
「はい。何故だかちょうど、いいです」
「良かったです」
顔を見合わせて、二人とも、少しだけ、笑った。けれど、律は、指輪をはめ終えても、手を離さなかった。大きな手が、紬の左手を、そっと包み込んだまま。
「紬さん」
「……はい」
「僕を」
一度、言葉が途切れた。律は紬の手を握り直した。
「あなたの家族にしてください」
その響きが、胸の奥に、ゆっくり染み込んでいく。
「……はい」
声が、涙で、揺れた。
「はい。なってください。律さんとなりたいです」
言い終えるより先に、紬は、自分から、彼の方へ身を寄せていた。次の瞬間、腕が、背中に回る。強すぎず、けれど、離さないというように、しっかりと。
律の胸は、あたたかくて、少し、速い鼓動が聞こえる。彼のシャツから、ほのかに、木と墨と、お茶の香りがした。
目を閉じる。長い間、息を詰めていた体が、ゆっくり、ほどけていく。どれくらい、そうしていただろう。
紬が、そっと顔を上げると、すぐそばに、律の顔があった。息がかかるほどの、近さ。律の瞳が、わずかに揺れている。迷っているのが、わかった。
ためらいながら、距離が縮まる。
(……この人は、私に、聞いてくれている)
言葉にしなくても、そう思った。紬は、小さく、頷いた。目を閉じる。唇に、やわらかくあたたかいものが、触れた。
一瞬だった。けれど、世界が、ぜんぶ、止まったような、長い一瞬だった。離れたあとも、額が、こつんと触れ合ったまま。二人とも、しばらく、動けなかった。
「……紬さん」
「はい」
「顔、真っ赤です」
「り、律さんだって」
囁き合って、二人で、くすくすと笑った。窓の外が、藍色に変わるころ。ようやく、落ち着いた二人は、冷めてしまったお茶を、並んで飲んでいた。
「あの、律さん」
「はい」
「さっきの、仕事のことですけれど。私、遠くへ行きます。最初は慣れなくて、余裕をなくして、返事が素っ気なくなる日もあると思います」
「僕にも、帰れない時期があります。現場に入れば、何日も連絡が取れませんし、疲れて何も話せない日もあります」
否定も、安請け合いもしない声だった。
「お互い様です。足りない日があるのは、当たり前だと思っています。そのたびに、話せばいい」
「……はい」
「住む場所も、いつまでにどうする、とは決めなくていいです。少しずつ、二人の形を探しましょう」
紬は、湯呑みを両手で包んだ。全部を一度に決めなくていい。そう言われるだけで、胸の奥が、ふっと軽くなった。
「紬さん」
「はい」
「ご両親に、ご挨拶をさせてください」
紬は、湯呑みを持つ手を、止めた。
「近いうちに。……ただ」
律は、少し、言葉を選ぶように間を置いた。
「先に、許しをもらいに行くのではなく。二人で決めたことを、二人で、お伝えしたいんです」
紬は、はっとして、律を見た。父の前に、「娘さんを、ください」と頭を下げる人ではなく。二人の決断を、二人の言葉で、差し出す人。
(この人は、最後まで、私の意思を、待ってくれる)
胸が、じんわり、熱くなる。不安が、完全に消えたわけではなかった。父や母は、どんな顔をするだろう。親戚は。
“三崎の娘”としての、これまでの役割は。考えると、指先が、冷たくなる。そのとき、左手の薬指で、小さな石が、きらりと光った。
(……大丈夫)
今度は、違う。黙って飲み込むのではなく。相手の顔色を、先に読むのでもなく。
自分の言葉で、話せる。紬は、律を見て、微笑んだ。
「はい。二人で、お話ししましょう」
律が、ほっとしたように、目を細める。窓の外では、いつのまにか、星が、ひとつ、ふたつ、瞬いていた。
梅の枯れ枝が、風に揺れている。来年の春には、この枝に、花がつく。
【来年の梅も、一緒に】
あの日記の一行が、静かに、胸の奥に灯った。