溺愛は契約違反です!

始まりは契約結婚

 私はこれから仕事を辞めようと思っている。
 高校を卒業してすぐ、運良く御堂グループの支社に事務員として拾ってもらえて、真面目に仕事をこなしてきたつもりだ。入社してから六年、これもまた運良く本社の人事の目に留まり、本社で働かせてもらえるようになり三年が経過した。仕事の出来る上司の元で多くのことを学ばせてもらって、本当に感謝している。仕事が好きだし、この会社のことも好きだ。出来ることなら仕事は辞めたくなかったのだけど、そうも言っていられなくなった。
 先日、父が亡くなったことを知った。事故だったらしい。父は生前、酒とギャンブルに溺れ多額の借金を抱えていたそうだ。母はそんな父に呆れ、愛想を尽かして蒸発。私も連絡先も知らない。父の死と借金の存在を知ったのは私の元へ督促状が来た時。相続放棄の期間はとうに過ぎていた。まともに働いて返せる額ではない。だから、私は決断した。
「それで、話とは何だ?」
 仕事の面でも人間性でも一番私が信頼を置いている上司に先に話すことにした。御堂さんは書類から顔を上げて、真っ直ぐに私を見ている。
「仕事を辞めようと思いまして」
 私がそう言うと、御堂さんは整った眉をぴくりと動かして、静かな声で続けた。
「理由を聞いても?」
 私は全てを嘘を偽りなく話した。父の死、借金、自分に返済義務があること。そして、仕事を辞めて身体を売ろうと思っていること。御堂さんは口を挟むことなく、静かに私の言葉が終わるのを待った。私が言いたいことを全て言い終わると、御堂さんは数拍置いてから口を開いた。
「自己破産という道もあるだろう。弁護士には相談していないのか?」
「それも考えましたけど……それは本当に最終手段だと思っています。自分で稼げる方法があるなら、それを試してからと思って。それに、やっぱり自己破産するとなっても、会社に迷惑をかける可能性もあるので、どのみち仕事は辞めます」
「そうか。辞める意思は固いのか」
「はい」
 御堂さんは御堂グループの次期代表取締役社長だ。私の自己破産が直接的に会社に影響はなくても、どこでその話が漏れて、御堂さんの足を引っ張りたいと思っている人がいないとも限らない。私が会社に籍を置いたまま自己破産したとなれば「御堂慧は部下の管理も出来ない」と後ろ指を指される原因にもなる。それだけは避けたかった。
「……これは一つ、提案なんだが」
「はい?」
 喉の奥がツン、と痛くなって、涙が溢れそうになるのを何とか堪えながら返事をすると、御堂さんは本当に何でもないことのように言った。
「君の借金は俺が肩代わりしよう。その代わり、俺と結婚して欲しい」
 御堂さんは私から目を逸らさなかった。その視線があまりにも真剣で、冗談ではないのだと理解してしまった。
「……はい!?」
 思わず驚いて、私は自分の口から素っ頓狂な声を出してしまった。
「俺ももういい歳だ。そろそろ結婚を、と思っていたのでちょうど良かった」
「いやいやいや……そんなことで結婚なんて、ダメでしょう」
「何故? お互い知らない同士でもない。むしろ君の人柄や仕事ぶりを評価している。君にとっても悪くない取引だと思うが?」
「取引って……」
 悪くない取引――そう言われて、何故か胸の奥がちくりと痛んだ。
 ああ、そうだ。この人は御堂慧。冷静沈着で非常に合理的、言動には無駄がない。本当に利害の一致で提案しているんだ。
「……あの、先に一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「他の人が同じ状況になった時、御堂さんは同じ提案をしていましたか」
 私の言葉に御堂さんが僅かに目を見開いた。それからふっと柔らかく笑って、御堂さんは緩く首を横に振った。
「いいや。君だから持ち掛けた提案だ」
 それはどういう意味ですか、と聞いてしまいたかったけど、「これ以上は踏み込むな」と言う、御堂さんの空気が一瞬ヒリついたものに変わったのが肌で感じられて、私は何も言えなかった。
「そうだな。条件を明確にしよう。まず、俺は君の借金を肩代わりする。その代わりに君は俺と結婚する。ここまでは良いな?」
「……はい」
 何も良くはないけど、とりあえず最後まで話を聞いてみようと私は深く頷いた。
「結婚したら君には仕事を辞めて、家庭に入ってもらう。内側から俺のサポートを頼みたい。生活費の心配は要らない。当然俺が養う。それから、俺は君には触れない。もちろん夜の営みもしない。――まあ、君がしたいというのなら話は別だが」
「……それだけ?」
 こんな提案をするくらいだから、てっきりついでに慰み者にされるのかと警戒していたから拍子抜けだ。
「最低半年一緒に暮らして、俺のことが嫌になったらすぐに離婚してもいい。俺からの条件は以上だが、君から何か言っておきたいことや条件はあるか?」
 あまりに私に都合の良すぎる条件に目眩がしてくる。
「……条件は分かりました。私のことを最大限尊重してくださっていることも伝わりました。ありがとうございます」
「それで、返事は?」
 御堂さんが意思の強い瞳で私を見つめる。私は言葉に詰まらないように深呼吸をしてから、再び口を開いた。
「せっかくの提案なんですけど、すぐには決められません。私だけじゃなくて、御堂さんの人生にも関わることなので」
「ふむ。それもそうだ。まあ、そういう道もあると言う話だから、じっくり検討するといい」
 話はこれで終わりだと言うように御堂さんが手元の書類に視線を落とした。私は深々とお辞儀をして部屋を出て、扉の前でへたりこんだ。頭が追いつかない。心臓の音だけがやけに大きく耳に響いている。
「……な、何でこんなことに……」
 仕事を辞める話をするだけだったはずだ。それが、借金、結婚、同居、離婚の条件――そんな単語が一気に並べられて、現実感がない。けれど、夢でも冗談でもないことは分かっている。あの人の目は、最初から最後まで一切揺れていなかった。
 ――君だから持ち掛けた提案だ。
 思い出した途端、胸の奥がまたちくりと痛んだ。
 意味を考えようとすると、勝手に期待してしまいそうで怖くて、思考を無理やり止める。私は何度か深呼吸をしてから、立ち上がった。周囲には誰もいない。幸い、こんな情けない姿を見られることもなさそうだ。
 その日の業務は、正直ほとんど覚えていない。パソコンの画面を見つめながら、頭の片隅ではずっと同じ言葉が反芻されていた。
 結婚。
 契約。
 半年。
 触れない。
 どれも現実離れしているのに、私の人生に直結している。定時になり、会社を出た瞬間、携帯電話が震えた。
 見慣れない番号。けれど、表示された市外局番に心当たりがあって、嫌な予感が背筋を走る。
「……はい」
『○○法律事務所ですが、日中お電話が繋がらなかったもので』
 督促だ。やっぱり、現実は待ってくれない。
 電話を切った後、空を見上げた。冬に近づいた夕暮れは、驚くほどあっさり暗くなる。
 自己破産という道。
 身体を売るという決断。
 そして――御堂さんの提案。
 どれも選びたくない。でも、選ばなければならない。
「……じっくり、検討していい、か……」
 そう言われたけれど、私に残されている時間がどれほどあるのかは分からない。借金は、待ってはくれないのだから。歩き出しながら、私は初めてはっきりと理解した。あの提案は、救いでもあり、同時に、私の人生を大きく変える分岐点なのだと。
 その夜、私の頭の中では御堂さんのあの真剣な声が何度もループしてなかなか寝付けなかった。身体を売るとなるともはや人間として扱われなくなるかもしれない。それ以上に酷い状況になるかもしれない。でも、もし御堂さんと結婚したなら。彼は私の存在を、意志を、認めて尊重しようとしてくれている。彼の性格を考えると悪いようにはされないだろうということも分かる。でも借金を肩代わりする対価がそんなことでいいのかという気持ちもある。結局私はろくに寝付けないまま朝を迎えることになってしまった。
 
「結論を、出しました」
 翌朝、業務開始時間に私は再び御堂さんの元に足を運んだ。用件はもちろん、昨日の話の答え。御堂さんは何かを察したように口元を緩めて私の言葉を待っている。
「御堂さんの提案を受け入れます。私と、結婚してください」
「よし。そうと決まれば今日中に婚姻届を書いて提出しよう。俺の分はもう書いてあるから、後は君がサインするだけだ」
 御堂さんは私の出す結論を最初から見透かしていたのか、記入済みの婚姻届を差し出してきた。私はそれを呆然と受け取る。
「あ、あの。結婚する前に一つだけ約束して欲しいことがあります」
「何だ?」
 婚姻届をシワにならないように大事に抱きしめて、私は続けた。
「これは『助けられるだけの結婚』じゃなくて、私が自分で選んだ結婚だって、思わせてください。そして、いつか……御堂さんにとって、『間違いじゃなかった』って思ってもらえる妻になりたいです」
 私がそう言い切ると、御堂さんは耐えきれないと言うように声を出して笑った。
「あ、あの……?」
「はは、すまない。まさかそんなことを言い出すとは思わなくてな」
 御堂さんはそう言いながら、珍しく少しだけ困ったように目を細めた。いつもの冷静沈着な表情とは違う。ほんの一瞬だけ、感情が素で漏れたように見えた。
「だが……いいだろう」
 そう言って、彼は私をまっすぐ見た。
「君がそう思えるように努める。それは、約束しよう」
「……ありがとうございます」
 胸の奥が、じんわりと温かくなる。条件でも、取引でもない部分に、確かに触れた気がした。
「ただし」
 御堂さんはいつもの調子に戻り、淡々と続ける。
「今日から忙しくなる。住む場所の手配、身の回りの整理、必要な書類も多い」
「……はい」
「覚悟はいいか?」
 私は小さく息を吸ってから、しっかりと頷いた。
「大丈夫です。……私が選んだ結婚ですから」
 その言葉に、御堂さんは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。けれどすぐに口元を引き締めて、静かに言う。
「そうか。では――これからよろしく頼む、俺の妻」
 その呼び方に、心臓が跳ねた。

 仕事を辞めるのには引き継ぎもあるから、一ヶ月は御堂さんと結婚生活を続けながら働くことになる。それは良いんだけど、何がどうなっているのか、私は目の前の光景に卒倒しそうになりながら何とか意識を保って御堂さんに問いかけた。
「……何ですか、このお家」
「俺が所有する別荘の一つだ。ここを二人の仮住まいにしよう。気に入ったならこれからここで暮らしてもいい」
 現代でこの表現が的確か分からないけど、お城と呼んでも過言ではない外装。中に入るとゲームに出てくるような洋館が広がっていた。私はこの家に“住む”というより、“置かれる”のではないか、そんな錯覚を覚えた。
「……ここで暮らすんですか!?」
「何か問題が?」
「……いや、あの、問題と言うか、もっとこう、質素なマンションみたいなのを想像していたので、びっくりして」
「君がその方がいいと言うなら手配するが」
「いや、良いです。御堂さん、そんなこと言ったらマンション丸ごと買っちゃいますよね?」
 私がそう問いを投げかけると、御堂さんは本当に不思議そうな顔をして「それの何が問題なんだ?」と言い放った。お金持ちって何を考えてるのか分からない。
「ところで、小春」
「へっ」
 今までずっと「白石さん」と呼ばれていたから、突然名前を呼ばれて私の心臓は大きく跳ねた。ついでに変な声も出た。
「その"御堂さん"と呼ぶのはやめないか? 俺達はもう夫婦だ。名前で呼んで欲しい」
「あ……は、はい。け、けいさん」
「何だ?」
「呼んだだけです」
 恥ずかしくなってそっけなくそう返すと、御堂さん……いや、慧さんは珍しくくすくすと笑った。
「大丈夫だ。すぐに慣れる」
 ぎこちない呼び方がツボにハマったのか、慧さんは心底楽しそうに口角を上げている。
「さて。部屋を案内しようか」
「あ……でも、私、引っ越し作業が……」
「その必要はない。君の部屋の物は全てこの家に移してある。退去の手続きも済んでいる。不要な物は後日まとめて教えてくれ」
「……行動が早すぎませんか!?」
「? 普通だろう」
「いやいや……」
 この場合は仕事が早いと褒めるべきなのか、せっかちだと咎めるべきなのか。どちらにせよ私は頭を抱えずには居られなかった。
 君の部屋だと案内された一室は、私が元住んでいた部屋と比べてもかなり広く、私一人では持て余してしまいそうだった。何気なくクローゼットを開けると、そこはウォークインクローゼットになっているらしくて、そこには上質そうな服が何着も並んでいた。
「……これは?」
「俺が用意したものだ。俺の妻になるからには相応の物を身に付けてもらう」
 流行りのファッションから、普段着、ちょっとしたパーティーにも着て行けそうなドレス達を見て、私はもう考えるのをやめた。まさかと思って部屋の隅に置いてあるアンティーク調のドレッサーの引き出しを開けてみると、そこにはダイヤモンド、ルビー、サファイア……様々な宝石を埋め込まれた、どう見ても高級そうなアクセサリーが入っていて悲鳴を上げそうになった。ドレッサーの上に置かれている化粧品も、どれも一度は耳にしたことはあるが、実際に手に取ったことはない有名なブランドのものばかり。
「こ、こんなにいただけません……それに、私には分不相応です」
「価値を決めるのは君じゃない。俺が君に似合いそうだと思ったから用意した。それで十分だろう」
 そう言われたら私は何も言い返せなくて、黙るしかなかった。
「そうだ。君の部屋にもベッドを用意してあるが、それとは別に夫婦の寝室もある。一人で寝たければ自室に行けばいいし、同衾しても良いと言うのなら一緒に寝よう」
「い、いっしょに……」
 一瞬はしたない想像をしてしまいそうになって、私は慌ててそれをかき消した。
「心配するな。最初に約束した通り、俺からは君に触れない。それだけは絶対に守る」
 迷いも淀みもなくそう言い切った慧さんに、何故だか胸の奥がざわざわした。だけどその違和感も一瞬で、慧さんが浴室を案内すると言うのでさっさと部屋を出て行って、私もその後に続いた。

 お部屋紹介が終わり、慧さんは「これから仕事がある」と言って車に乗って行ってしまった。広い家に一人残された私はすることもないまま、一人用にしては大きすぎるベッドに身体を投げ出して天井を見つめていた。目を閉じたらこのまま眠れてしまいそうな疲労感に襲われている。だけど眠る気は起きなくて、私は何となくスマートフォンを取り出してすることもなく画面を見つめた。全てが急だったこともあるが、私はこの結婚をまだ誰にも話していない。友人と呼べる存在もいるにはいるけれど、今まで彼氏がいたことも男の人の話をしたこともない私が、突然「結婚しました」なんて言ったら驚かれるだろうし、何より馴れ初めを聞かれたら困ってしまう。だからまだ何も言っていない。
 どれくらいそうしていただろう。天井の装飾をぼんやり眺めていると、遠くで控えめな足音がして、軽くノックの音が響いた。
「……はい?」
 返事をすると、扉が静かに開く。
「失礼いたします、奥様」
 入ってきたのは、五十代くらいだろうか。背筋の伸びた女性で、落ち着いたグレーのワンピースにエプロンを身に着けていた。穏やかな微笑みを浮かべているけれど、その所作一つ一つが洗練されていて、只者じゃない雰囲気がある。
「え、あ……」
「私はこの家の管理を任されております、佐倉と申します。本日から身の回りのお世話をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 そう言って、深々と頭を下げられる。
「えっ、あ、あの……こちらこそ……」
 反射的に身体を起こして頭を下げ返したけれど、どうしていいか分からなくて動きがぎこちなくなる。
 ――奥様。
 その呼び方が、胸の奥で小さく跳ねた。
「何かご不便なことはございませんか? お荷物の整理や、お食事のご希望など」
「あ……いえ、大丈夫です。まだ何も……」
「かしこまりました。では、何かございましたらいつでもお声がけくださいませ」
 佐倉さんはそれ以上踏み込むことなく、必要最低限のことだけを告げて静かに部屋を出て行った。扉が閉まった後、私はベッドに座ったまましばらく動けなかった。
「……奥様、か……」
 頭では理解している。婚姻届も出したし、法律上は間違いなく私は御堂慧の妻だ。でも、誰かにそう呼ばれると、急に現実が輪郭を持って迫ってくる。
 この家には使用人がいる。
 私は何もしなくても生活は回る。
 じゃあ、私は――ここで何をする人なんだろう。
 慧さんは「家庭に入ってサポートを」と言った。でも、具体的に何を、どこまで、どうやって?役割が与えられていないことが、こんなにも不安になるなんて思わなかった。
 その時、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、思わず息を呑む。
「……慧さん」
 メッセージは短い。
『無事に落ち着いたか?
 夕食は家で取る。無理に待たなくていい』
 たったそれだけなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
『はい。お気を付けて』
 そう返してから、送信ボタンを押した指を見つめる。
 ――私は、選んだ。
 助けられるだけじゃなく、自分で選んだ結婚。まだ実感は追いつかないし、正直怖い。でも。
「……少しずつで、いいよね」
 誰に言うでもなく呟いて、私はベッドから立ち上がった。
 とりあえず、家の中をもう一度見て回ろう。ここが、これから暮らす場所なのだから。
 その時はまだ知らなかった。この家での何気ない日常が、少しずつ、確実に、私と慧さんの距離を変えていくことを。
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