溺愛は契約違反です!

妻としての自覚と役割

 慧さんと住むようになって、私は思っていた以上に「夜」を意識するようになった。
 お手伝いさんは常駐、住み込みではないらしい。大体朝食から夕飯までを作ってくれて、片付けが終わったら帰ってしまう。つまり、夜は完全に二人きりになる。私はまだ慧さんとの距離感を測りかねていて、慧さんが提案してきた「同衾しても良いと言うなら一緒に寝よう」は未だに実行されていない。慧さんが忙しくて不在にしがち、と言うこともあるけど、慧さんが家にいる夜も私は就寝時刻が近づくと「おやすみなさい」とだけ言って自室に引っ込むようにしているからだ。慧さんもそれについて何か言ってくることも、言いたいこともないようで淡々と「おやすみ」と返して私を送り出してくれる。
 慧さんの触れない宣言は徹底していて、必要がなければ近づいてくることすらない。リビングで、同じ空間で時間を共に過ごしていても隣には座って来ない。頭を撫でられることもない。手も触れない。呼び止める時に肩に触れて来ることもない。本当に徹底しすぎていて、逆に怖いくらいだ。同時に、妻として本当にこれで良いのか、という疑念も湧いてくる。
 家のことは大抵お手伝いさんがやってくれてしまうし、手伝おうとしたら「奥様にそんなことをさせるなんて!」と盛大に恐縮され強く断られてしまった。今はまだ、昼間は仕事をしているから良いけれど、仕事を辞める時が来て一日中私が家に居るようになった時。私は「何もしない自分」に耐えられる自信がない。せめて、何か妻としてやることを与えてくれたら良いのに、慧さんにそれとなく話しても「君は何もしなくてもいい」で会話を打ち切られてしまう。このまま慧さんに守られて与えられるだけではダメだと思い、私は仕事が終わって帰ってきた慧さんに恐る恐る声をかけた。
「あの、お話があります」
 私の話の切り出し方が不穏だった自覚はある。ソファに身体を投げ出してネクタイを緩めていた慧さんが、ピリッとした空気を纏って姿勢を正した。
「何だ?」
 慧さんの声は堅かった。私が不満や文句、わがままを言うと思っていたのだろうか。それでも私はあえて訂正はせずに、思ったままのことを口にした。
「せめて、朝食や夕飯は私に作らせていただけないでしょうか」
 重い沈黙が流れる。そんなことを言い出すとは思っていなかったのか、慧さんは珍しく表情を変えて目を丸くしていた。
「……どうした? 食事が口に合わないのか?」
「違います。佐倉さんのお料理はとても美味しいです。でも、その……妻として、本当に何もしないと言うのは、私が耐えられなくて」
 尻すぼみになりながらそう言うと、慧さんは納得したように頷いて、緩めかけていたネクタイを完全に解いた。
「なるほど。君は役割があった方が落ち着くんだな。それは俺が失念していた。気付かなくてすまない」
「いえ……慧さんが謝ることではないです。わがままを言ってすみません……」
「わがままだなんてとんでもない。俺としては君の手料理が食べられるなんて願ったり叶ったりだ」
 慧さんの言葉に顔を上げる。慧さんはしまったとでも言うように口元に手を当てて、次の瞬間に気まずそうに咳払いをした。
「今の言葉は忘れてくれ」
「は、はい……」
 恐らく私を気遣って出た言葉だということは理解出来る。でも私はそれを自分の都合の良いように解釈することにした。慧さんも楽しみにしてくれているなら頑張らなくては。
「では、早速だが明日の朝食からお願いしても良いか?」
「はい。もちろんです。おやすみなさい」
「おやすみ。暖かくして寝るんだぞ」
「ふふ、子どもじゃないんだから」
 こんな軽口も言えるくらいになれたのは嬉しい。私は明日の朝食は何にしよう。和食派か洋食派かだけでも聞いておくべきだったなと少しだけ後悔を胸にしながら自室に戻った。

「おはようございます、慧さん」
「ああ、おはよう」
 いつ見ても慧さんは朝から完璧だ。眠い顔も見せないし、髪の毛は寝癖一つなく整えられている。仕立ての良いスーツをきっちりと、でも堅くなりすぎないよう胸元は少しだけ緩めて着こなしている。それが慧さんの端正な顔立ちによく似合っていて、何度見てもつい見蕩れてしまう。私がコーヒーカップを持ったままぼんやりと慧さんを見つめていると、慧さんが不思議そうに私の名前を呼んだ。私はその声に現実に引き戻されて、慌ててコーヒーカップを慧さんの前に置いた。
「朝はコーヒーを飲まれるんですよね?」
「ああ。ありがとう」
 慧さんが椅子を引いて席に着いて、私が用意した朝食に視線を落とした。
 私が朝食を作るのに早起きした時に心配そうに様子を見に来てくれたお手伝いさんが「ご主人様は朝はパンを食べられることが多いようです」と教えてくれたので、その通りに作った。レタスとトマトの簡単なサラダに、目玉焼きとウィンナー。それからトーストした食パン。慧さんの食の好みをまだよく知らないから、バターと何種類かのジャムと、甘い物が苦手だった時のためにマヨネーズとマスタードベースの卵ペーストも用意しておいた。
 慧さんはちらりと卵ペーストに視線を落として、こちらを見ながら口を開いた。
「……これも君が?」
「あ、はい。私が作りました。お口に合わなかったら無理に食べなくても……」
「いや。良い。いただこう」
 そう言って慧さんはバターナイフを手に取って、まだ温かいトーストにバターを塗ってから卵ペーストをすくいとった。慧さんが一口目を食べるのをドキドキしながら横目で観察しつつ、私も自分に用意した甘いカフェオレを口にした。
「……君は」
「へっ!?」
 話しかけられると思っていなかったので、私はびっくりしてカップを落としそうになるのをギリギリで耐えた。
「君は、朝食を食べないのか」
「あ……私は、味見で少しいただきましたので」
「そうか」
 何故か慧さんがしゅんと肩を落としたので私は首を傾げた。
「何かありましたか?」
「いや……出来れば君と一緒に朝食を食べたかったと思っただけだ」
 その言葉に心臓が大きく跳ねる。慧さんは形だけでも夫婦の体裁を保とうとこう言ってくれているだけで、他意はないはず。私は自分にそう言い聞かせて、言葉の意味は追及しないことにした。
「分かりました。明日からは、私も一緒にいただきます」
「君は少し細すぎる。ちゃんと食べているか心配なんだ」
「心配? ……してくれてるんですか?」
 私が顔を上げて慧さんを見ると、慧さんはそっと視線をそらして私と目を合わせないようにしているようだった。
「夫が妻の心配をしたら変か?」
 拗ねているような響きも持つその言葉に、私は思わずふっと頬を緩めた。
「いいえ。お気遣いありがとうございます。嬉しいです」
 食卓に穏やかな空気が流れて、慧さんも少しずつ食べるスピードが上がっていく。慧さんが全て食べ終わる頃には私もカフェオレを飲み終えていた。慧さんがネクタイを締め直して立ち上がる時、小さな声で言ったのを私は聞き逃さなかった。
「ご馳走様。美味かった」
 その一言だけで、少しだけ早起きをして朝食を作った甲斐がある。慧さんが玄関で靴を履くのを見届けて、私は慧さんの背中に向かって声をかけた。
「夕飯は和食でいいですか?」
「君の作ったものなら何でもいい」
 ぶっきらぼうだけど信頼を感じる言葉に、私は彼に気付かれないようにうっすらと微笑んだ。
「行ってらっしゃい、慧さん」
 私がそう言うと、何故か慧さんの手がこちらに伸びてきて、頭に触れる寸前で、止まった。
「……なるべく早く帰る」
 誤魔化すようにそう言って慧さんは手を引っ込めた。
 ――今、慧さんは私の頭を撫でようとした?
 その事実に気が付いて、嬉しさと同時に慧さんが約束を守ろうとしてくれていることを改めて思い知らされた。

 職場での慧さんの態度は今までと変わらない。あくまで上司と部下。呼び方も今まで通り「白石さん」。私も慧さんを呼ぶ時は「御堂さん」。それが少しだけ寂しいような気もした。慧さんより先に仕事を終えて帰ってきて、夕飯の支度をするために私は気合を入れてエプロンを結んだ。帰るついでにスーパーに寄って材料を買ってきた。ちなみに費用は慧さん持ち。一緒に暮らすことになって、初日に「好きに使え」とブラックカードを渡されてひっくり返りそうになったのはここだけの話だ。絶対になくしてはいけないという緊張感の中でカードで決済するのは本当に肝が冷えた。
 包丁の音が一定のリズムを刻む。
 今日は慧さんのリクエスト通り、和食にした。肉じゃがに、ほうれん草のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁。派手さはないけれど、毎日食べても困らない献立を意識したつもりだ。鍋から立ち上る湯気を眺めながら、私は少しだけ深呼吸をした。
 ――妻として、出来ること。
 その答えが料理だけだなんて、きっと慧さんは思っていない。でも、今の私にはこれが精一杯だった。玄関の扉が開く音がして、反射的に背筋が伸びる。
「おかえりなさい、慧さん」
「……ああ。ただいま」
 スーツ姿の慧さんは朝と同じく疲れを見せない顔をしていたけれど、ネクタイを外す指先がわずかに緩んでいるのを私は見逃さなかった。
「もうすぐ出来ますので、先に手を洗ってきてください」
「分かった」
 短いやり取りなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 台所とリビングを行き来する気配が、こんなにも落ち着くものだとは思わなかった。食卓に並んだ料理を前に、慧さんは一瞬だけ動きを止めた。
「……全部、君が?」
「はい。お昼はちゃんと食べられましたか?」
「問題ない」
 そう答えながら、慧さんは箸を取る。
 一口食べて、何も言わない。二口目、三口目。
 私は落ち着かなくて、つい味噌汁の蓋を開け直したり、箸の向きを揃えたりしてしまう。
「……美味い」
 ぽつりと落とされたその一言に、肩の力が一気に抜けた。
「良かったです」
「毎日、無理はするな」
 突然そんなことを言われて、私は箸を止めた。
「え?」
「役割が欲しいと言ったのは君だが、義務にする必要はない。出来ない日は出来ないと言え」
 慧さんは私を見ないまま、淡々と続ける。
「俺は、君が笑っている方が……その、落ち着く」
 最後の方は少しだけ声が小さくなっていた。
 それでも、確かに届いた。
「……はい」
 短く返事をすると、慧さんはそれ以上何も言わなかったけれど、食事のペースは朝と同じように、少しだけ早くなっていた。
 食後、慧さんはソファに腰を下ろし、私は食器を片付ける。ふと背後に気配を感じて振り返ると、慧さんが少し離れた場所に立っていた。
「手伝おうか」
「大丈夫です。すぐ終わりますから」
「そうか」
 そう言って引き下がるのも、近づかないのも、相変わらずだ。それでも、さっきより距離が縮まった気がして、私は小さく微笑んだ。
 片付けを終えてお風呂も済ませてリビングに戻ると、慧さんがノートパソコンを触っていた。仕事の連絡でもしているんだろうか。家に帰っても仕事だなんて、ちゃんと休めているのか心配になるけれど口には出さなかった。私はそっと自分から慧さんの隣に座って、慧さんが私の存在に気が付いて手を止めて視線だけをこちらに向けた。
「もう寝るのか?」
「はい。でも、少しだけ慧さんとお話がしたいと思って。お仕事があるなら――」
「いや。問題ない」
 私の言葉を遮って、慧さんはそう言い切ってパソコンを閉じた。私は肩と肩が触れないギリギリの距離まで慧さんに近付いて、そっと息を吐いた。
「……ありがとうございます。慧さん」
「何に対する礼だ?」
「全部です。私を救ってくれたこと、妻にしてくれたこと。こうしてそばに置いてくれていること。全部全部、私にとっては幸せです」
 私がそう言うと、慧さんは安心したように眉を下げた。
「……そうか。君がそう感じてくれているなら、俺はとても嬉しい」
 静かに放たれた、突き放したりもしない、甘やかしすぎない、過不足ない慧さんの言葉に安心感を覚える。
「その、慧さん」
「ん?」
 私が声を小さくして名前を呼ぶと、慧さんは私の声を聞き逃さないように前のめりになって耳を傾けてくれる。
「慧さんさえ良ければ……今夜は、一緒に寝ませんか……?」
 ここには他に誰も居ないのに、声をひそめるように、慧さんだけに聞こえる小さな声で言った。慧さんが息を呑んだのが空気で分かる。私はナイトウェアのスカートの端をぎゅっと握りしめて、慧さんの答えを待った。慧さんはしばらく押し黙ったまま落ち着かなさそうにあちこちに視線を巡らせて、最後は覚悟を決めたように私の顔を覗き込んできた。
「それは、どういう意味で言っている?」
 本当に、確認するだけの意味合いで言っているのは分かっているけれど、慧さんの言葉に私はとんでもなく大胆なお誘いをしてしまったことに気が付いて一気に顔が熱くなる。
「いや、あの、夫婦として! 一緒に寝るだけって言うか……嫌なら別に、」
「嫌じゃない」
 私が慌てて取り繕う言葉を口にすると、慧さんはそれを遮って真っ直ぐに見つめてきた。
「……少しだけ、君に触れていいか」
「は、え? は、はい……」
 言葉を選ぶように言って、慧さんはナイトウェアを握りしめる私の手にそっと手を重ねた。握りしめることはして来ない。
「君が歩み寄ってくれていることは分かる。だが、無理はしなくていい」
「……無理なんて、してないです。私が、慧さんと一緒に寝たいだけで……」
 そこまで言いかけて、私は首を横に振った。
「言い方を変えます。私は、慧さんのことをもっと知りたいです」
 私から慧さんの指先をきゅっと握りしめると、慧さんも控えめに握り返してくれた。
「分かった。今夜は一緒に寝よう。だが、嫌になったら自室に戻ってもいい。それから、もちろん約束は守る」
「はい」
 約束とは、慧さんから私に触れないという、最初に交わしたあの約束のことだろう。慧さんの誠実さや優しさがここまで来ると面白くて、私はふふ、と小さく声を出して笑ってしまった。

「おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
 夫婦の寝室として用意された部屋に入ったのは初めてだった。部屋の隅で稼働している加湿器からほんのりとオレンジのようなアロマの香りがして心地良い。部屋の真ん中に置かれたキングサイズのベッドの端にそっと寝転がって慧さんに夜の挨拶をすると、慧さんも同じように布団に入った。
「そんなに端に寄っていたら落ちるぞ」
 慧さんの言葉にハッとして、私は頬を赤らめながら「失礼します……」と慧さんの方に寄った。触れ合わない距離で、でも離れすぎない距離で。
「……眠くなるまで、少しお話をしていただいてもよろしいでしょうか」
「何をそんなに改まって。構わない。どんな話をしたい?」
 布団に入ったはいいけれど、慧さんと初めて同じベッドで眠るという緊張感からか、眠気はまだ来ない。私はポツポツと、小さな声で慧さんに問いかけた。
「慧さんはどんな子ども時代を過ごしたんですか?」
「子ども時代か。俺は君も知っての通り、御堂グループの跡取りとして育てられた。君の暇を潰せるような面白いエピソードはないな」
「そう、ですか」
「君はどうだったんだ」
「私……?」
 自分から始めた話なのに、私自身の話を聞き返されて一瞬心臓が跳ねる。その動揺を空気で感じ取ったのか、慧さんは衣擦れの音を立てながらこちらを向いた。
「すまない。踏み込みすぎた。言いづらいなら言わなくていい」
「いえ……慧さんには、聞いてほしいです」
 深呼吸を一つして、私も慧さんに向き直って静かに話し始めた。
「幼少期は、普通の家庭だったと思います。父がいて、母がいて、人並みに愛されて育ったと思います。でも、私が中学生くらいの時に、父がリストラにあったんです」
 慧さんは息をひそめて、私の言葉の続きを待っているようだった。私は続ける。
「父は生活費を稼ぐためと言って、ギャンブルにのめり込むようになりました。そこからは、金銭的なことで父と母の喧嘩が増えました。思春期の私にとってはとても辛くて、悲しい記憶でした」
 自嘲気味になりすぎないように、淡々と事実だけを述べるように努めた。
「定職にも就かず、ギャンブルと酒に溺れた父に呆れ、失望して、母は私が十六の時に出て行きました。どこに行ったのかは分かりません。私は、高校を辞めて働こうかと思っていたんですが、当時の担任の先生に将来のために高校は卒業した方がいいと止められて、何とかアルバイトで生活を繋いで高校は卒業しました。そこで御堂グループに拾っていただいて、私は卒業と同時に父とは縁を切って一人暮らしを始めました。あとは、慧さんが知っての通りの経歴です」
「……そうか」
 慧さんの呼吸が、ほんの一瞬だけ深くなった気がした。
「……すみません。こんな、面白くもない、重い話をしてしまって」
「いや、良い。俺も君のことを知りたいと思っていた」
 慰めの言葉でもない。同情もして来ない。私を可哀想な者として扱わない。そんな慧さんの配慮や距離感が心地良くて、安心する。
「でも、私、自分のことを不幸だなんて思いません」
「……その生い立ちで?」
「はい。全部、慧さんに出会うために必要なことだったと思えば、むしろ父には感謝すらしたいくらいです」
 私の言葉に慧さんが押し黙る。私は慧さんの手にそっと手を重ねて、ふっと息を吐いた。
「慧さん。私は、慧さんと出会えて、今、とても幸せです」
 その言葉を口にした途端、我慢していた涙が一筋、ぽろりと零れた。慧さんは手を伸ばして、私の涙をすくいとるように指先を私の頬に触れさせた。
「もう寝よう。明日も早い」
「……はい。おやすみなさい」
 慧さんの手が離れて、私は慧さんに背を向けて眠る体勢に入った。しばらくすると慧さんの呼吸が眠るためのリズムになったのを確認して、私はこっそり、小さな声で「ありがとうございます」と言って目を瞑った。
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