幼すぎた君との別れから

1話

 ナサニエルはベッドに仰向けになった。軍服の懐からロケットを取り出し、蓋を開く。
 中にはめ込まれた十四歳の頃のシーリアの写真。

 胸を震わせながら、セピア色のポートレートに口づけをした。



1879年、インド

 やっと結ばれた講和条約。

 ほかの将校同様、戦争から解放され、ナサニエルは久しぶりに息をつくことができた。

 窓の開け放たれた白い塗り壁の官舎。ひさしの長いベランダの向こうには、インドのじりじりとした強い日差しが照りつけている。


 勢いをつけてベッドから起き上がると、ナサニエルはデスクに着いた。ロケットの写真を時折見つめながら彼女に手紙を書く。

 宛名は、レディ・シーリア・デ・レイシー

 引き出しを開けた。

 中から取り出した、先日少し無理をして買った、旅客船の一等客室のチケット。
 それを日焼けした両手に持ち、高く掲げる。
 
 ロンドン発──インド・ボンベイ行き。
 出発日はシーリアが十八歳になる、1880年2月14日。


 十歳の年の差はいつまでも変わらないが、彼女は大人の女性に育っているはずだ。

 来てくれるだろうか……

 封筒に手紙とチケットを入れ、封をした。

「デ・レイシー大尉。お手紙でしたら出してきましょうか?」

 紅茶を運んできたインド人の従僕が尋ねた。

「いや、構わない。大事な手紙なんだ。自分で出してくるよ」

「恋人へのお手紙ですか?大尉」

 ナサニエルは大きく息を吸い込むと、従僕に笑ってごまかした。



1876年、イングランド

 昼下がり。
 フォーチェスター・ホールの前庭に、また馬車が入ってきた。

 シーリアは三階にある学習室の窓に顔を押しつけて、馬車を見下ろした。

 降りてきたのはハウスパーティの客らしき、フロックコートの男性と、デイ・ドレスの女性。

 また、ナサニエルではなかった……

 シーリアは力の抜けた腕をだらりと下ろして、ため息をついた。

『ネイトお兄様?昼前には帰ってくるはずよ』

 フローレンスは今朝、そう言っていたのに。


 今週末のハウスパーティのために、駐屯地からナサニエルが帰ってくる。
 はとこの彼とは、八ヶ月前のクリスマスに、ここで会ったきりだった。


 シーリアはほんのり色づいた頬をそわそわと撫でながら、後ろを振り返った。

「あの、ミス・バークリー?庭園を散歩してきても?」

 家庭教師のミス・バークリーは手鏡を覗き込みながら、眉毛を整えている。

「お好きに。伯爵とお客様の前に、姿を見せないならね」

 シーリアは口をきゅっと結んでうなずくと、静かに部屋を出て裏階段を下りた。


 通用口を開けると広がる芝生。遠くに見える深い森。新鮮な屋外の空気には、学習室には無い青々とした香りが混ざっている。


 また、馬車の車輪と蹄の音が聞こえた。
 シーリアは屋敷の影に隠れて、馬車を覗き見た。

 若い紳士。

 ナサニエルの妹・フローレンスが玄関から飛び出してきた。
 フローレンスの手に、彼はうやうやしく口づけをした。

 あの人がフローレンスの言っていた意中の人、アンブローズ卿だろうか。

 彼がフローレンスにプロポーズするのは、今日かしら、明日かしら……

 シーリアは晴れた空を見上げて何となく唇を噛むと、屋敷の外壁の白い切石を手でなぞりながら、とぼとぼと歩いた。

 ドローイング・ルームの格子窓に映る自分の姿。シーリアはふと足を止めた。

 八ヶ月前よりは、少しは大人っぽくなれただろうか。

 一つに結んで垂らしただけの、明るい茶色の髪。両手で束ねて上げてみる。

 まだ社交界デビュー前の十四歳。髪をアップにすることはミス・バークリーに許されていない。


 犬の鳴き声が聞こえた。

 ドレイクがほえながら弾丸のように駆けてくる。

 シーリアは飛びついてきたドレイクを、尻もちをつきながらぎゅっと抱きしめた。
 狩猟番がホイッスルを吹きながら走ってきた。

「申し訳ありません、レディ・シーリア!ああもう!あなたを見つけると、こいつはいつもこうだ」

 狩猟番はドレイクの首輪を掴んで、大げさに肩を落とした。

 シーリアは朗らかに笑った。

「ねぇ、ドレイクを借りてもいい?少し歩いてくるだけだから」

 狩猟番は頭を掻くと、気さくに頷いて犬の群れに戻っていった。

 ポインターのドレイクは、彼女の父──亡くなった先代伯爵のお気に入りの一匹だった。


 地面や空気、あちこちの匂いを嗅ぐドレイクと近づいたり離れたりを繰り返しながら、庭園の奥に向かう。

 芝生の丘を越えた向こうの窪地にある、大きな湖。ほとりを歩いていると、ドレイクが急に立ち止まり、ピンと尾を伸ばした。

「ドレイク?」

 走っては止まって振り返り、ドレイクはシーリアを呼んでいる。
 首をかしげながら追いかけると、湖のなかで泳ぐ人の姿が見えた。

 ネイトだ。

 無意識に胸に両手をあてた。心臓が早鐘を打っている。

 力強く平泳ぎするナサニエルは彼女に気づいていない。

 彼を見つめながら、ドレイクの耳の後ろをそっと撫でた。

 ドレイクが大きく一度吠えた。
 泳ぎを止めて振り向いたナサニエルは、なぜか湖の中に潜ってしまった。

「ナサニエルお兄様?」

 なかなか、出てこない。

 時間がじりじりと過ぎた。

 シーリアは、顔をこわばらせて桟橋に走った。

「ネイト!」

 ようやく水面から顔を出したナサニエルが、何事もなさそうに頭を振り水を散らした。

 ナサニエルに心酔するドレイクが、デッキの上で高く飛び跳ねる。
 シーリアはうめきながら、大きく息を吐き出した。

 ナサニエルは泳いで桟橋に近づき、彼女からだいぶ離れた杭につかまった。

「……ヤング・レディ。少しは大きくなったかい?」
 ドレイクとぎこちなく戯れながら、ナサニエルは言った。

 ヤング・レディ

 シーリアはその言葉を噛み締めた。リトル・ガール呼びから一歩、前進できた。

「一インチも背が伸びたわ」

 胸を張って顎を上げると、ナサニエルが一瞬だけ目線をよこして笑った。

 水面から出ている彼の裸の肩と腕。
 まずいところに来てしまったかもしれない。

 シーリアは僅かに気後れしてうつむいた。
 フォーチェスター・ホールの玄関にある、アポロン神の彫刻を思い出した。

「どうして、早く屋敷に入って来ないの?」
 ナサニエルは答えずに肩をすくめる。

 ずっと、帰らなかったのは、あのクリスマスのせい?

 シーリアはナサニエルの表情を探った。
 彼の体が少しこわばった気がした。


──ヤドリギ飾りの下にいる女の子は、キスを求められたら、拒んではいけないのよ──

 フローレンスからその話を聞いたクリスマスの日。シーリアは大階段のヤドリギ飾りの下で、ずっとナサニエルを待ち構えていた。

 やっと現れた彼は、上目遣いで見つめるシーリアとヤドリギ飾りを見て、苦い顔をして去って行った。


 シーリアは何度もまばたきをしながら、ベージュ色のドレスのスカートをなで下ろした。

 ドレイクは二人の間を行ったり来たりしている。

「フローレンスの相手にはもう会った?」
「いや……」

 今回のハウスパーティは、フローレンスと、彼女がロンドンのシーズンで知り合った婚約者候補、アンブローズ卿──二人のダメ押しの為に開かれる。

「いい人そうだった……私もいつか……あと三年、ううん、二年もしたら……」

 シーリアは指先をもじもじと弄りながら、熱い眼差しでナサニエルを見つめた。

 早く、大人になりたい……


 急に、ナサニエルが水をかけてきたので、シーリアは短い叫び声をあげた。

「シーリア。いつまでそこにいるつもりだい?ミス・バークリーはまさか、覗きの仕方を生徒に教えているわけじゃないだろうね?」

 シーリアは唇を噛んで、どこか不機嫌な彼から目をそらした。
 視線の先、少し離れたところに、彼の従卒がいた。ナサニエルのものらしき軍服を持って気まずそうに待機している。

 顔に火照りを感じた。

「いい子だからドレイクと遊んでおいで、リトル・ガール」

 また、リトル・ガール。

 シーリアはナサニエルに背を向けて、駆け足でドレイクと湖を離れた。



 ドレイクを犬舎に返し、背中を丸めて屋敷の前まで戻った。

 前庭に止まった馬車から、フィリップと彼の両親がおりてきた。

 笑顔のフィリップが目をまっすぐに合わせながら近づいてきた。

「シーリア!」

 久しぶりに会ったフィリップは、頬の丸みがなくなってずいぶん大人びて見えた。

「フィリップ。元気にしてた?学校生活は──」
 思いがけず、フィリップが彼女の手を握った。

「君は本当にあのおてんばなシーリアかい?すごく綺麗になったね」

 反応に困り口ごもるシーリアの耳に、拍車の金属音が聞こえた。
 軽騎兵隊のショートジャケットと、側章の入ったトラウザーズを着たナサニエルがこちらに歩いてくる。

 ナサニエルは、手をつなぐ二人を見ながら眉を上げ、真横を通り過ぎて行った。
 シーリアは慌ててフィリップの手を離した。

「少尉が帰ってきているんだね」

 フィリップは、ナサニエルの広い背中を細めた目で見ている。

「当然よ。フローレンスの結婚がかかっているんだもの」

 フィリップが鼻を鳴らした。

「……シーリア、知っているかい?軽騎兵隊の将校は、遊び人ばかりだそうだよ」

 シーリアは眉をひそめて、フィリップから一歩離れた。

「お客様の前に出ないように言われてたんだった。もう戻らないと」

「あの傲慢な態度、本当に父親そっくりだ」

 シーリアは鋭く息を吸い込んだ。
 彼の悪口を聞かされるのは、自分の悪口を聞かされるのと、同じことだ。

「……シーリア、肩身の狭い思いをしているんだろう?少尉の父親が奪うまでは、ここは君の屋敷だったのに」

「やめて、フィリップ。おじ様がお父様の跡を継ぐことは初めから決まっていたわ。私は女だもの」

 父が雷に当たったせいで、それが早まってしまっただけ。


「フィリップ」
 フィリップの父の太く低い声。彼の体がびくりと震えた。

「小作の倅のようにはしゃぐな。無作法者が」

 押し黙ったフィリップ。背筋を伸ばして、急に畏まった態度になった。

「レディ・シーリア。では、また後で」

 無表情でそう言うと、彼は両親と共に屋敷に入って行った。

 シーリアはほっと息をついた。
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