幼すぎた君との別れから
2話
一人きりの学習室。
シーリアはフランス語の本を閉じて、窓の外を眺めた。
赤い夕日が地平線に沈んでゆく。
やけに胸に迫るのは、ナサニエルが帰ってきているからに違いない。
ドアが小さくノックされた。
あわてて髪を撫でつける。
「ど、どうぞ」
入ってきたメイドを見て、なんだか体の力が抜けた。
「レディ・シーリア。ナサニエル様からのお土産だそうです。こちらに置いておきますね」
メイドがテーブルの上に、金文字で店の名前が書かれた小さな紙箱を置いた。
「ありがとう」
ランプに火をつけて、メイドは部屋を出ていった。
シーリアは紙箱のふたを開けた。艶のあるチョコレートの詰め合わせ。
十二歳の頃、大喜びして以来お決まりの手土産。
それを見ながら、シーリアはテーブルに頬をのせた。
甘いチョコレートの香り。
こういう優しさに、希望を捨てられなくなる。
泣きたくなった。
ドアが開いた。チョコレートの香りが強い香水の香りにかき消された。
「あら、まだいたのね」
家庭教師のミス・バークリーだった。
シーリアは彼女に目が釘付けになった。
令嬢が着るような、真っ白なサテンのドレスを身にまとっている。
ピアノの前に座ると、ミス・バークリーは仰向けになって目薬をさした。
「それは何?」
「……ベラドンナの目薬よ」
ぶすっとしながら、ミス・バークリーは答えた。
聞いたことがある。目がきらきらとする薬だ。
ミス・バークリーは楽譜を置いて、ピアノを弾き始めた。
シーリアは何度も瞬きをした。ミス・バークリーがピアノを弾くのは、フローレンスが学習室を出て以来初めてだ。
久しぶりなせいかミスが多い。
「ああもう!」
ミス・バークリーが、両手で乱暴に鍵盤を叩きつけた。
シーリアは椅子から飛び上がりそうになった。
「シーリア、さっきの音は何事?」
フローレンスがドアから顔を覗かせた。
ミス・バークリーがきまり悪そうに咳払いをして立ち上がった。
「あら、レディ・フローレンス……ここに来るなら前もって伝えていただきたいわ」
「ミス・バークリー?」
フローレンスが、大きく目を見開いて、バークリーをまじまじと見つめた。
「あなた。今夜はダンスの伴奏をするだけよね?」
ミス・バークリーはつんと顔をそらして、何も言わずに学習室を出ていった。
「あの姿、ガヴァネスの分際で何のつもり?いよいよ手段を選ばなくなってきたわね」
「何のこと?」
フローレンスは口をひん曲げた。
「シーリア……気づいてなかったの?彼女絶対ネイトお兄様を狙ってるわ」
シーリアはがたっと椅子から立ち上がった。
うそ……どうしよう……
ミス・バークリーは、顔は綺麗だ。
彼女に言い寄られたら、ナサニエルお兄様は、悪い気はしないかもしれない……
ごく淡いピンク色のイブニングドレスを着たフローレンス。何層にも重なったスカートを巧みにさばいて、さっきまでシーリアが座っていた椅子に座った。
白い長手袋を脱いで、テーブルの上に放り投げる。
「お父様は、あんなドレスを買えるお給金をミス・バークリーに渡してないはずよ。ツケでもしてるのかしら」
シーリアは両手を固く組んで、その場をうろうろと歩き回った。
ミス・バークリーがナサニエルを狙っている。
さっきの話が気になって、フローレンスに受け答えをすることができない。
テーブルの上の地球儀。そのホコリを指でぬぐいながら、フローレンスは顔をしかめた。
「ミス・バークリーは相変わらず仕事をしてないのね。お父様にそろそろ伝えようかしら。ねえ、シーリア?」
「え?」
「もう!ミス・バークリーがあなたをほったらかしていることを、お父様に伝えてあげようかって言ってるの」
「う、うーん……」
自分と同じ、もともと恵まれた立場から孤児になったバークリー。仕事をなくして生きていけるだろうか……
「はっきりしないわね。シーリアがこのままでいいなら、私は別にかまわないけど」
そのまましばらく、フローレンスの惚気話を聞いた。
フローレンスは机の上のチョコレートに目をつけて、貝殻型の一つを口に入れた。
「あ、フロー!やめてよ!」
シーリアは慌てて箱に蓋をして抱きしめた。
フローレンスはニヤニヤと笑いながら頬張っている。
とてもおしとやかな美人と評判の令嬢には見えない。
フローレンスは椅子を動かして、シーリアの正面に向いた。
「ねえ、さっきお兄様と会ったんだけど、わが兄ながらあの姿はなかなか……あれは今夜、女性陣の視線を独り占めしてしまうわね」
「え、ど、どんな?」
フローレンスは金髪のおくれ毛を指に巻きつけた。
「気になる?」
シーリアは両手をブラブラと動かした。
「べ、別に……」
「あら……そう」
面白くなさそうに肩をすくめると、フローレンスは長手袋をつけて立ち上がった。
「もうこんな時間だわ。行かないと」
シーリアは彼女の背中を前のめりになりながらじっと目で追った。
フローレンスは鼻歌を歌っている。
ドアの前で急に振り返った彼女が、シーリアを見て噴き出した。
「シーリア、ビリヤードルームよ」
ミス・バークリーに負けないドレスを着なければ……
シーリアは寝室に入ると、ベルの引き紐を強く引いて、メイドを呼んだ。
「ちょっとフローレンスにドレスを借りてきてくれる?」
メイドは手を重ねて、目をパチパチとさせている。
「でも、レディ・シーリア。夜会にはまだ出られないのでは?」
「いいから!」
メイドがフローレンスから借りてきたイブニングドレス。サイドは淡い若草色で中央のパーツは白いモスリンのギャザーとレースで覆われている。少し大きい所はメイドがピンでつめてくれた。
立鏡の前で首に結んだビロードのリボンを何度も整え直すと、シーリアは大きく深呼吸をした。
髪も、無理を言ってアップにしてもらった。
綺麗だと思ってくれるだろうか。
鏡に映る落ち着きのない緑色の目が、こちらを見返している。
シーリアは年代物の書き物机に近づくと、引き出しの中からロケットを取り出し、開いた。
行商から買ったロケット。その中には写真館の見習いの子に撮ってもらったポートレートが入れてある。
──こっそりと用意していたナサニエルへのプレゼント。
シーリアはそれを襟元からコルセットの隙間にしまい込んだ。
シーリアはフランス語の本を閉じて、窓の外を眺めた。
赤い夕日が地平線に沈んでゆく。
やけに胸に迫るのは、ナサニエルが帰ってきているからに違いない。
ドアが小さくノックされた。
あわてて髪を撫でつける。
「ど、どうぞ」
入ってきたメイドを見て、なんだか体の力が抜けた。
「レディ・シーリア。ナサニエル様からのお土産だそうです。こちらに置いておきますね」
メイドがテーブルの上に、金文字で店の名前が書かれた小さな紙箱を置いた。
「ありがとう」
ランプに火をつけて、メイドは部屋を出ていった。
シーリアは紙箱のふたを開けた。艶のあるチョコレートの詰め合わせ。
十二歳の頃、大喜びして以来お決まりの手土産。
それを見ながら、シーリアはテーブルに頬をのせた。
甘いチョコレートの香り。
こういう優しさに、希望を捨てられなくなる。
泣きたくなった。
ドアが開いた。チョコレートの香りが強い香水の香りにかき消された。
「あら、まだいたのね」
家庭教師のミス・バークリーだった。
シーリアは彼女に目が釘付けになった。
令嬢が着るような、真っ白なサテンのドレスを身にまとっている。
ピアノの前に座ると、ミス・バークリーは仰向けになって目薬をさした。
「それは何?」
「……ベラドンナの目薬よ」
ぶすっとしながら、ミス・バークリーは答えた。
聞いたことがある。目がきらきらとする薬だ。
ミス・バークリーは楽譜を置いて、ピアノを弾き始めた。
シーリアは何度も瞬きをした。ミス・バークリーがピアノを弾くのは、フローレンスが学習室を出て以来初めてだ。
久しぶりなせいかミスが多い。
「ああもう!」
ミス・バークリーが、両手で乱暴に鍵盤を叩きつけた。
シーリアは椅子から飛び上がりそうになった。
「シーリア、さっきの音は何事?」
フローレンスがドアから顔を覗かせた。
ミス・バークリーがきまり悪そうに咳払いをして立ち上がった。
「あら、レディ・フローレンス……ここに来るなら前もって伝えていただきたいわ」
「ミス・バークリー?」
フローレンスが、大きく目を見開いて、バークリーをまじまじと見つめた。
「あなた。今夜はダンスの伴奏をするだけよね?」
ミス・バークリーはつんと顔をそらして、何も言わずに学習室を出ていった。
「あの姿、ガヴァネスの分際で何のつもり?いよいよ手段を選ばなくなってきたわね」
「何のこと?」
フローレンスは口をひん曲げた。
「シーリア……気づいてなかったの?彼女絶対ネイトお兄様を狙ってるわ」
シーリアはがたっと椅子から立ち上がった。
うそ……どうしよう……
ミス・バークリーは、顔は綺麗だ。
彼女に言い寄られたら、ナサニエルお兄様は、悪い気はしないかもしれない……
ごく淡いピンク色のイブニングドレスを着たフローレンス。何層にも重なったスカートを巧みにさばいて、さっきまでシーリアが座っていた椅子に座った。
白い長手袋を脱いで、テーブルの上に放り投げる。
「お父様は、あんなドレスを買えるお給金をミス・バークリーに渡してないはずよ。ツケでもしてるのかしら」
シーリアは両手を固く組んで、その場をうろうろと歩き回った。
ミス・バークリーがナサニエルを狙っている。
さっきの話が気になって、フローレンスに受け答えをすることができない。
テーブルの上の地球儀。そのホコリを指でぬぐいながら、フローレンスは顔をしかめた。
「ミス・バークリーは相変わらず仕事をしてないのね。お父様にそろそろ伝えようかしら。ねえ、シーリア?」
「え?」
「もう!ミス・バークリーがあなたをほったらかしていることを、お父様に伝えてあげようかって言ってるの」
「う、うーん……」
自分と同じ、もともと恵まれた立場から孤児になったバークリー。仕事をなくして生きていけるだろうか……
「はっきりしないわね。シーリアがこのままでいいなら、私は別にかまわないけど」
そのまましばらく、フローレンスの惚気話を聞いた。
フローレンスは机の上のチョコレートに目をつけて、貝殻型の一つを口に入れた。
「あ、フロー!やめてよ!」
シーリアは慌てて箱に蓋をして抱きしめた。
フローレンスはニヤニヤと笑いながら頬張っている。
とてもおしとやかな美人と評判の令嬢には見えない。
フローレンスは椅子を動かして、シーリアの正面に向いた。
「ねえ、さっきお兄様と会ったんだけど、わが兄ながらあの姿はなかなか……あれは今夜、女性陣の視線を独り占めしてしまうわね」
「え、ど、どんな?」
フローレンスは金髪のおくれ毛を指に巻きつけた。
「気になる?」
シーリアは両手をブラブラと動かした。
「べ、別に……」
「あら……そう」
面白くなさそうに肩をすくめると、フローレンスは長手袋をつけて立ち上がった。
「もうこんな時間だわ。行かないと」
シーリアは彼女の背中を前のめりになりながらじっと目で追った。
フローレンスは鼻歌を歌っている。
ドアの前で急に振り返った彼女が、シーリアを見て噴き出した。
「シーリア、ビリヤードルームよ」
ミス・バークリーに負けないドレスを着なければ……
シーリアは寝室に入ると、ベルの引き紐を強く引いて、メイドを呼んだ。
「ちょっとフローレンスにドレスを借りてきてくれる?」
メイドは手を重ねて、目をパチパチとさせている。
「でも、レディ・シーリア。夜会にはまだ出られないのでは?」
「いいから!」
メイドがフローレンスから借りてきたイブニングドレス。サイドは淡い若草色で中央のパーツは白いモスリンのギャザーとレースで覆われている。少し大きい所はメイドがピンでつめてくれた。
立鏡の前で首に結んだビロードのリボンを何度も整え直すと、シーリアは大きく深呼吸をした。
髪も、無理を言ってアップにしてもらった。
綺麗だと思ってくれるだろうか。
鏡に映る落ち着きのない緑色の目が、こちらを見返している。
シーリアは年代物の書き物机に近づくと、引き出しの中からロケットを取り出し、開いた。
行商から買ったロケット。その中には写真館の見習いの子に撮ってもらったポートレートが入れてある。
──こっそりと用意していたナサニエルへのプレゼント。
シーリアはそれを襟元からコルセットの隙間にしまい込んだ。