あえかなる君へ 心からの愛を
災難な一夜
「一名様でご一泊ですね。少々お待ちくださいませ」

フロントスタッフの男性がにこやかに端末を操作し始めて、乙葉(おとは)はホッとする。

(よかった、なんとか間に合ったみたい)

九月の末日、時刻はもうじき深夜の零時。
激しいゲリラ豪雨が都心を襲い、電車は終電を待たずに打ち切られ、タクシーも捕まらない。

考えることは皆同じらしく、ビジネスホテルを片っ端から検索してみたが、空室ありと表示されたのはここだけだった。

(あー、早くお風呂で温まりたい)

傘を差しても全く役に立たず、会社から徒歩五分の距離だったが全身ずぶ濡れだった。

(ここが空いてなかったらマンガ喫茶かカラオケに行くしかなかったわね。こうもびしょ濡れだと風邪引いちゃう。よかった、空いてて)

その時、それまで口元に笑みを浮かべていたスタッフが急に表情を変えた。

「お客さま、大変申し訳ございません。たった今、最後のダブルルームが満室となってしまい……」
「えっ!?」

一瞬で天国から地獄へと突き落とされ、目の前が真っ暗になった。
身体に悪寒が走り、泣きそうになる。

と、すぐ隣で女性スタッフが別の男性客に対応する明るい声が聞こえてきた。

「こちらがお部屋のカードキーでございます。どうぞごゆっくり温まってくださいね」
「ありがとう、助かりました」

乙葉が極寒地獄なら、あちらは温泉天国だ。

(くーっ、あの人が最後の部屋をタッチの差で私から奪ったのね)

悔しさを噛みしめながら様子をうかがっていると、男性がふとこちらを見た。

「あ……」
「げっ……」

二人同時に小さく呟く。
相手は乙葉と同じ会社の同期、システムエンジニアの森住(もりずみ)柊(しゅう)だった。

「なんだ、堀井(ほりい)も帰りそこねたのか? 会社から早退勧告出てただろ」
「仕事が終わらなかったんだから仕方ないでしょ。そっちこそ、どうして帰らなかったのよ?」
「んー、まさか地下鉄まで浸水で止まるとは思わなくてさ。俺、あんまり天気予報信じないタイプだから。けど、結果オーライだよな。途中で電車止まってタクシーも捕まらないってよりは、ここでぬくぬく温まった方がいい」
「……そうね。どうぞ私の分までぬくぬくなさってください。それでは」

くるりと踵を返すと、後ろから「えっ?」と驚いたような声がした。

「待てよ。堀井、もしかして部屋取れなかったのか?」
「ええ。最後のひと部屋を誰かさんに取られてしまいましたので。じゃあね」
「ちょっと待てって」

柊はグイッと乙葉の腕を引く。

「髪も服も濡れてるじゃないか。そんな格好でどうするんだよ?」
「マンガ喫茶にでも行きますから、ご心配なく」
「おいこら!とにかくちょっと待ってろ」

そう言い残してフロントに戻ると、先ほどのスタッフに何やら話したあと、乙葉の元に戻って来た。

「ん、ルームキー」
「どういうこと?」
「俺が別のところに行く。お前はここに泊まれ。じゃあな」

乙葉の手にカードキーを握らせ、大きなストライドでエントランスに向かう柊を、今度は乙葉が「ちょっと待って」と呼び止めた。
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