大正初恋浪漫譚ー突然、陸軍少尉の婚約者になりましたが、どうやら彼は私に恋をしていたようですー
今、顔を合わせるのは、何だか気恥ずかしかった。
どうしてだろう。
ほんの少し前までは、また会うのが億劫だと思っていたのに。
彼がばあやに向けた、あの穏やかな声。
さりげなく盆を受け取った手つき。
そして、何でもないことのように微笑んだ横顔。
そんなものばかりが、頭から離れない。
「……変な人」
小春は、小さくつぶやいた。
けれど、その声には、昨日までのような戸惑いだけではないものが混じっていた。
千紘は、思っていたような人ではないのかもしれない。
少なくとも、まだ、自分の知らない一面がある。
そう思うと、何だか少しだけ、彼のことが気になった。
そのとき、千紘が兄に呼ばれ、客間の方へと戻っていった。
小春は、彼の後ろ姿を見送った。
軍服に包まれた背筋は、相変わらず真っすぐで、隙がない。
けれど、今はもう、それだけの人には見えなかった。
まだ知らないことばかりだ。
彼がどんなことを考え、何を大切にしているのか。
どんなときに怒り、どんなときに心から笑うのか。
小春は、何一つ知らない。
けれど――。
「……もう少しだけ、少尉のことを知ってみたい」
口にした途端、頬がほんのり熱くなった。
慌てて辺りを見回す。
幸い、誰も聞いてはいなかった。
小春は胸元に手を当て、そっと息を吐いた。
春の風が、庭の木々を揺らしている。
その風は、昨日までと何一つ変わらないはずなのに。
小春には、ほんの少しだけ違って感じられた。