大正初恋浪漫譚ー陸軍少尉と婚約は突然にー


千紘が帰ったのは、午後の日差しが傾き始めた頃だった。

玄関先で兄と挨拶を交わし、迎えの馬車へと向かう後ろ姿を、小春は二階の窓からそっと見送っていた。

軍服の背筋は、最後まで真っすぐだった。

やがて馬車が門を出て、蹄の音が遠ざかっていく。

小春は、ようやく窓から離れた。


「……やっとお帰りになったわ」


ほっとしたように息をついたものの、胸の内には、どこか落ち着かないものが残っていた。

先ほどの光景が、何度も頭に浮かんでくる。

ばあやの手から、自然な仕草で盆を受け取ったこと。

怪我はないかと、真っ先に尋ねたこと。

そして、恐縮するばあやに、少しも偉ぶることなく微笑んだこと。


どれも、ほんの些細な出来事にすぎない。

それなのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。


「……もう、考えるのはおしまい!」


小春は自分に言い聞かせるように声を上げると、机の上に置いてあった本を手に取った。

けれど、開いた頁の文字は、どうにも頭に入ってこなかった。


< 27 / 231 >

この作品をシェア

pagetop