大正初恋浪漫譚ー陸軍少尉と婚約は突然にー
千紘が帰ったのは、午後の日差しが傾き始めた頃だった。
玄関先で兄と挨拶を交わし、迎えの馬車へと向かう後ろ姿を、小春は二階の窓からそっと見送っていた。
軍服の背筋は、最後まで真っすぐだった。
やがて馬車が門を出て、蹄の音が遠ざかっていく。
小春は、ようやく窓から離れた。
「……やっとお帰りになったわ」
ほっとしたように息をついたものの、胸の内には、どこか落ち着かないものが残っていた。
先ほどの光景が、何度も頭に浮かんでくる。
ばあやの手から、自然な仕草で盆を受け取ったこと。
怪我はないかと、真っ先に尋ねたこと。
そして、恐縮するばあやに、少しも偉ぶることなく微笑んだこと。
どれも、ほんの些細な出来事にすぎない。
それなのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。
「……もう、考えるのはおしまい!」
小春は自分に言い聞かせるように声を上げると、机の上に置いてあった本を手に取った。
けれど、開いた頁の文字は、どうにも頭に入ってこなかった。