大正恋慕物語
第一章:帝都の雨と、琥珀色の瞳
カツン、カツン、と私の履く古びた下駄が、雨に濡れたアスファルトの路面に寂しい音を響かせていた。
大正十五年、初夏。
帝都・東京は、西洋の文化と日本の伝統が美しく混ざり合い、活気に満ちあふれている。ガス灯の仄明かり、華やかな銘仙の着物を着たモダンガァル、街角から聞こえる蓄音機の音。けれど、そんな華やかさは、今の私には遠い世界の出来事のようだった。
「……これから、どうなってしまうんだろう」
手配された住所が書かれた紙切れを、私は濡らさないように固く握りしめる。
私の実家である神保(じんぼう)家は、ほんの数ヶ月前まで細々とではあるが織物問屋を営んでいた。しかし、時代の急流に呑まれるようにして破産。向学の心の強かった私は、なんとか女学校の最終学年まで通わせてもらったものの、卒業を待たずして、こうして住み込みの働き口を探す身となったのだ。
辿り着いたのは、麻布の閑静な住宅街に佇む、白壁の美しい洋館だった。
門柱には『蓮見(はすみ)』と、新時代を象徴するような、新しくも堂々とした表札が掲げられている。
「失礼いたします……。本日よりお世話になります、神保つむぎと申します」
緊張で声が震えてしまった。
重厚な木製の扉を開けて現れたのは、仕立ての良い三つ揃えの背広を身にまとった、一人の若い男性だった。
年齢は二十代半ば、といったところだろうか。
艶やかな黒髪を綺麗に横分けにし、西洋人のように筋の通った鼻梁。そして何より目を引いたのは、ガラス玉のように澄んだ、綺麗な琥珀色の瞳だった。
「君が、今日から手伝いに来てくれるという神保さんだね。……ずいぶんと濡れてしまっているじゃないか」
彼の声は、低く、けれどベルベットのように滑らかで優しかった。
「あ、いえ! このくらい平気です。お召し物を汚してしまいますので、どうぞお構いなく……!」
「構うさ。これからは私の家で暮らすのだから。……さあ、中へ」
彼――この若さで西洋との貿易商を営む一世風靡の主、蓮見 馨(はすみ かおる)様は、困ったように眉を下げて微笑むと、私の小さな荷物をひょいと取り上げてくれた。
その手がほんの一瞬、私の指先に触れる。
――熱い。
なぜだか、雨で冷え切っていたはずの身体の芯が、じわりと熱くなるのを感じて、私は慌てて俯いた。
蓮見邸での私の仕事は、馨様の書斎の整理や、簡単な食事の給仕、そして彼が持ち帰る英語の文献の翻訳の手伝いだった。女学校で英語を学んでいたことが、思わぬところで役に立ったのだ。
馨様は、時代の最先端を走る人だった。
いつも机に向かっては、まだ見ぬ異国の技術や文化について熱心に書類をめくっている。その横顔は冷徹な知識人のようにも見えるけれど、ふとした時に見せる仕草は、驚くほど温かい。
ある日の夕暮れ。
書斎に珈琲を運んだ時のことだ。
「つむぎ、いつも見事な翻訳をありがとう。君の選ぶ日本語は、とても繊細で美しい」
不意に名前を呼ばれ、真っ直ぐに褒められて、私は持っていたお盆を危うく落としそうになった。
「そ、そんな、滅相もございません! 私はただ、学校で習った拙い知識を並べているだけで……」
「いや、言葉にはその人の心が映る。君の翻訳からは、誠実さが伝わってくるんだ」
馨様は珈琲カップに手を伸ばし、ふう、と息を吹きかける。
茜色の夕日が窓から差し込み、彼の琥珀色の瞳をより一層、黄金色に輝かせていた。
私はその美しさに息を呑み、自分がただの使用人であることを忘れそうになる。
胸の奥が、トクトクと不規則な音を立ててうるさい。
(だめよ、つむぎ。私は家を失い、ここに置いていただいているだけの身。馨様は、雲の上の御方なのだから……)
ぎゅっと着物の袖を握りしめ、私はただ「恐れ入ります」と、深く頭を下げることしかできなかった。
それから数週間が経った、ある日の午後。
私はお遣いのために、銀座の街まで足を延ばしていた。
用事を済ませて帰路につこうとしたその時、バタバタと大きな音を立てて、にわか雨が降り出した。
「困ったわ……。傘を持ってこなかった」
路地裏のカフェの軒下で、私は途方に暮れていた。
お気に入りの単衣(ひとえ)の着物が濡れてしまうことよりも、馨様に頼まれた大切な書類を濡らしてしまうことが怖かった。
胸に書類を抱え、雨が止むのを祈るように目を閉じた、その時。
「――やっぱり、ここにいた」
聞き馴染んだ、けれど、今一番会いたくて、会ってはいけないような気がしていた声。
目を開けると、そこには一本の大きな黒傘を差し、少し息を切らせた馨様が立っていた。
背広の肩が、激しい雨で少し濡れている。
「馨、様……? どうして、ここに……」
「君が傘を持たずに出かけたから。……ばあやから聞いて、気が気じゃなくてね」
馨様は少し荒くなった呼吸を整えながら、私の元へ一歩近づいた。
差し出された黒傘が、私を雨から完全に遮る。世界が急に、彼と私の二人きりになったような錯覚に陥った。
「書類は、無事かい?」
「はい……! 胸に抱えていたので、一枚も濡れていません!」
「よかった。……でも、それ以上に」
馨様はそっと自由な方の手を伸ばし、私の頬に触れた。
冷たい雨の空気の中で、彼の指先だけが、あの出会った日のように温かい。
「君が濡れていなくて、本当によかった」
その琥珀色の瞳に、愛おしそうな、そしてどこか切なげな光が揺れているのが見えた。
私の心臓は、今度こそ破裂してしまうのではないかと思うほどに大きく跳ねた。
「馨様……私は……」
言いたい言葉はたくさんあった。
お礼の言葉、身分違いの恋心、胸を焦がすこの熱の正体。
けれど、純白の女学生のプライドと、使用人としての理性が、それ以上の言葉を私の喉に縫い付けてしまう。
「……帰ろう、つむぎ。私と一緒に」
馨様は優しく微笑み、私に寄り添うようにして歩き出した。
一つの傘の下、肩が触れ合いそうなほど近い距離。
雨の音に紛れて、私の小さな恋心が、静かに、けれど確かに燃え上がっていくのを、私はただじっと感じていた。
大正十五年、初夏。
帝都・東京は、西洋の文化と日本の伝統が美しく混ざり合い、活気に満ちあふれている。ガス灯の仄明かり、華やかな銘仙の着物を着たモダンガァル、街角から聞こえる蓄音機の音。けれど、そんな華やかさは、今の私には遠い世界の出来事のようだった。
「……これから、どうなってしまうんだろう」
手配された住所が書かれた紙切れを、私は濡らさないように固く握りしめる。
私の実家である神保(じんぼう)家は、ほんの数ヶ月前まで細々とではあるが織物問屋を営んでいた。しかし、時代の急流に呑まれるようにして破産。向学の心の強かった私は、なんとか女学校の最終学年まで通わせてもらったものの、卒業を待たずして、こうして住み込みの働き口を探す身となったのだ。
辿り着いたのは、麻布の閑静な住宅街に佇む、白壁の美しい洋館だった。
門柱には『蓮見(はすみ)』と、新時代を象徴するような、新しくも堂々とした表札が掲げられている。
「失礼いたします……。本日よりお世話になります、神保つむぎと申します」
緊張で声が震えてしまった。
重厚な木製の扉を開けて現れたのは、仕立ての良い三つ揃えの背広を身にまとった、一人の若い男性だった。
年齢は二十代半ば、といったところだろうか。
艶やかな黒髪を綺麗に横分けにし、西洋人のように筋の通った鼻梁。そして何より目を引いたのは、ガラス玉のように澄んだ、綺麗な琥珀色の瞳だった。
「君が、今日から手伝いに来てくれるという神保さんだね。……ずいぶんと濡れてしまっているじゃないか」
彼の声は、低く、けれどベルベットのように滑らかで優しかった。
「あ、いえ! このくらい平気です。お召し物を汚してしまいますので、どうぞお構いなく……!」
「構うさ。これからは私の家で暮らすのだから。……さあ、中へ」
彼――この若さで西洋との貿易商を営む一世風靡の主、蓮見 馨(はすみ かおる)様は、困ったように眉を下げて微笑むと、私の小さな荷物をひょいと取り上げてくれた。
その手がほんの一瞬、私の指先に触れる。
――熱い。
なぜだか、雨で冷え切っていたはずの身体の芯が、じわりと熱くなるのを感じて、私は慌てて俯いた。
蓮見邸での私の仕事は、馨様の書斎の整理や、簡単な食事の給仕、そして彼が持ち帰る英語の文献の翻訳の手伝いだった。女学校で英語を学んでいたことが、思わぬところで役に立ったのだ。
馨様は、時代の最先端を走る人だった。
いつも机に向かっては、まだ見ぬ異国の技術や文化について熱心に書類をめくっている。その横顔は冷徹な知識人のようにも見えるけれど、ふとした時に見せる仕草は、驚くほど温かい。
ある日の夕暮れ。
書斎に珈琲を運んだ時のことだ。
「つむぎ、いつも見事な翻訳をありがとう。君の選ぶ日本語は、とても繊細で美しい」
不意に名前を呼ばれ、真っ直ぐに褒められて、私は持っていたお盆を危うく落としそうになった。
「そ、そんな、滅相もございません! 私はただ、学校で習った拙い知識を並べているだけで……」
「いや、言葉にはその人の心が映る。君の翻訳からは、誠実さが伝わってくるんだ」
馨様は珈琲カップに手を伸ばし、ふう、と息を吹きかける。
茜色の夕日が窓から差し込み、彼の琥珀色の瞳をより一層、黄金色に輝かせていた。
私はその美しさに息を呑み、自分がただの使用人であることを忘れそうになる。
胸の奥が、トクトクと不規則な音を立ててうるさい。
(だめよ、つむぎ。私は家を失い、ここに置いていただいているだけの身。馨様は、雲の上の御方なのだから……)
ぎゅっと着物の袖を握りしめ、私はただ「恐れ入ります」と、深く頭を下げることしかできなかった。
それから数週間が経った、ある日の午後。
私はお遣いのために、銀座の街まで足を延ばしていた。
用事を済ませて帰路につこうとしたその時、バタバタと大きな音を立てて、にわか雨が降り出した。
「困ったわ……。傘を持ってこなかった」
路地裏のカフェの軒下で、私は途方に暮れていた。
お気に入りの単衣(ひとえ)の着物が濡れてしまうことよりも、馨様に頼まれた大切な書類を濡らしてしまうことが怖かった。
胸に書類を抱え、雨が止むのを祈るように目を閉じた、その時。
「――やっぱり、ここにいた」
聞き馴染んだ、けれど、今一番会いたくて、会ってはいけないような気がしていた声。
目を開けると、そこには一本の大きな黒傘を差し、少し息を切らせた馨様が立っていた。
背広の肩が、激しい雨で少し濡れている。
「馨、様……? どうして、ここに……」
「君が傘を持たずに出かけたから。……ばあやから聞いて、気が気じゃなくてね」
馨様は少し荒くなった呼吸を整えながら、私の元へ一歩近づいた。
差し出された黒傘が、私を雨から完全に遮る。世界が急に、彼と私の二人きりになったような錯覚に陥った。
「書類は、無事かい?」
「はい……! 胸に抱えていたので、一枚も濡れていません!」
「よかった。……でも、それ以上に」
馨様はそっと自由な方の手を伸ばし、私の頬に触れた。
冷たい雨の空気の中で、彼の指先だけが、あの出会った日のように温かい。
「君が濡れていなくて、本当によかった」
その琥珀色の瞳に、愛おしそうな、そしてどこか切なげな光が揺れているのが見えた。
私の心臓は、今度こそ破裂してしまうのではないかと思うほどに大きく跳ねた。
「馨様……私は……」
言いたい言葉はたくさんあった。
お礼の言葉、身分違いの恋心、胸を焦がすこの熱の正体。
けれど、純白の女学生のプライドと、使用人としての理性が、それ以上の言葉を私の喉に縫い付けてしまう。
「……帰ろう、つむぎ。私と一緒に」
馨様は優しく微笑み、私に寄り添うようにして歩き出した。
一つの傘の下、肩が触れ合いそうなほど近い距離。
雨の音に紛れて、私の小さな恋心が、静かに、けれど確かに燃え上がっていくのを、私はただじっと感じていた。