大正恋慕物語
第二章:金魚すくいと、触れた指先
雨の銀座から数週間が過ぎ、季節は本格的な夏へと移り変わっていた。
帝都の夜を彩るのは、あちこちの神社で催される夏祭りだ。
「つむぎ、今夜は少し出かけようか」
夕食の片付けを終えた私に、馨様がそう声をかけてくださったのは、本当に突然のことだった。
いつも三つ揃えの背広を完璧に着こなしている馨様が、今夜は涼しげな紺色の浴衣を召している。そのいつもと違う佇まいに、私はどぎまぎしてしまう。
「出かける、と言いますと……?」
「近くの神社で縁日が出ているんだ。いつも働き詰めの君に、少し息抜きをしてほしくてね。ばあやにも許可は取ってあるよ」
馨様は悪戯っぽく微笑み、手元にある小さな包みを私に差し出した。
「これを、君に着てほしいと思って」
恐る恐る包みを開くと、そこには鮮やかな波紋模様があしらわれた、美しい水色の浴衣が入っていた。
「こんな上等なもの、私にはもったいなすぎます……!」
「君に似合うと思って選んだんだ。突き返されたら、私の立場がないな」
そう言って困ったように笑う琥珀色の瞳に見つめられると、もう断ることなんてできなかった。
神社へ続く参道は、溢れんばかりの人波と、夜店から漂う香ばしい匂いで活気に満ちていた。
赤提灯の灯りがパチパチと揺れ、浴衣姿の私を照らす。馨様からいただいた浴衣を着ているというだけで、背筋が伸びるような、それでいてどこか宙に浮いているような心地だった。
「凄い人出だね。はぐれないように」
馨様が私を気遣うように、一歩前を歩いてくれる。
人混みに押され、私の身体がふっとよろめいたその時だった。
「っと……危ない」
馨様の大きな手が、私の手首をそっと掴んだ。
驚いて顔を上げると、すぐ近くに彼の顔があった。提灯の淡い光に照らされた馨様の横顔が、いつも以上に大人びて、そして妖艶に見えて胸が跳ねる。
「……このまま、手を繋いでいてもいいかい? 君を見失いたくないんだ」
「あ、は、はい……」
消え入るような声で答えるのが精一杯だった。
馨様の手のひらは大きくて、驚くほど温かい。彼の長い指が、私の指の隙間にそっと滑り込んでくる。恋人同士のような繋ぎ方に、私の顔はきっと、お祭りの提灯よりも赤くなっていたに違いない。
私たちは、賑やかな金魚すくいの屋台の前で足を止めた。
水槽の中でひらひらと泳ぐ赤い金魚たちを、子供のように夢中で見つめる私を見て、馨様が可笑しそうに目元を和ませる。
「つむぎ、やってみるといい。私が特等席で見届けるよ」
「では……無作法ですが、挑戦いたします!」
袖をまくり、ポイを受け取って水面に狙いを定める。けれど、金魚たちはすばしっこく、私の差し出した紙はあっさりと破れてしまった。
「ああっ、惜しい……!」
「ふふ、つむぎは少し焦りすぎだ。金魚の動きをよく見て、こう……後ろからそっとすくうんだよ」
馨様が私の背後に回り込み、破れたポイを持つ私の手の上から、そっと自分の手を重ねた。
背中越しに伝わる馨様の体温と、耳元で囁かれる低い声。
心臓がドクドクと激しく鐘を鳴らし、金魚どころではなくなってしまう。
「ほら、捕まえた」
馨様が手際よく手を動かすと、一匹の小さな金魚がお椀の中で跳ねた。
「やりましたね!」と振り返った瞬間、私たちの鼻先が触れ合いそうなほど距離が縮まる。
馨様の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を映していた。
そこにあるのは、からかいなどふざけたようなことではなく、胸が苦しくなるほどの真剣な眼差しだった。
「つむぎ……」
私の名前を呼ぶ彼の声が、かすかに震えているような気がした。
お祭りの喧騒が、遠く遠くへ遠ざかっていく。私はただ、彼の瞳の中に吸い込まれそうになりながら、ぎゅっと浴衣の裾を握りしめていた。
帝都の夜を彩るのは、あちこちの神社で催される夏祭りだ。
「つむぎ、今夜は少し出かけようか」
夕食の片付けを終えた私に、馨様がそう声をかけてくださったのは、本当に突然のことだった。
いつも三つ揃えの背広を完璧に着こなしている馨様が、今夜は涼しげな紺色の浴衣を召している。そのいつもと違う佇まいに、私はどぎまぎしてしまう。
「出かける、と言いますと……?」
「近くの神社で縁日が出ているんだ。いつも働き詰めの君に、少し息抜きをしてほしくてね。ばあやにも許可は取ってあるよ」
馨様は悪戯っぽく微笑み、手元にある小さな包みを私に差し出した。
「これを、君に着てほしいと思って」
恐る恐る包みを開くと、そこには鮮やかな波紋模様があしらわれた、美しい水色の浴衣が入っていた。
「こんな上等なもの、私にはもったいなすぎます……!」
「君に似合うと思って選んだんだ。突き返されたら、私の立場がないな」
そう言って困ったように笑う琥珀色の瞳に見つめられると、もう断ることなんてできなかった。
神社へ続く参道は、溢れんばかりの人波と、夜店から漂う香ばしい匂いで活気に満ちていた。
赤提灯の灯りがパチパチと揺れ、浴衣姿の私を照らす。馨様からいただいた浴衣を着ているというだけで、背筋が伸びるような、それでいてどこか宙に浮いているような心地だった。
「凄い人出だね。はぐれないように」
馨様が私を気遣うように、一歩前を歩いてくれる。
人混みに押され、私の身体がふっとよろめいたその時だった。
「っと……危ない」
馨様の大きな手が、私の手首をそっと掴んだ。
驚いて顔を上げると、すぐ近くに彼の顔があった。提灯の淡い光に照らされた馨様の横顔が、いつも以上に大人びて、そして妖艶に見えて胸が跳ねる。
「……このまま、手を繋いでいてもいいかい? 君を見失いたくないんだ」
「あ、は、はい……」
消え入るような声で答えるのが精一杯だった。
馨様の手のひらは大きくて、驚くほど温かい。彼の長い指が、私の指の隙間にそっと滑り込んでくる。恋人同士のような繋ぎ方に、私の顔はきっと、お祭りの提灯よりも赤くなっていたに違いない。
私たちは、賑やかな金魚すくいの屋台の前で足を止めた。
水槽の中でひらひらと泳ぐ赤い金魚たちを、子供のように夢中で見つめる私を見て、馨様が可笑しそうに目元を和ませる。
「つむぎ、やってみるといい。私が特等席で見届けるよ」
「では……無作法ですが、挑戦いたします!」
袖をまくり、ポイを受け取って水面に狙いを定める。けれど、金魚たちはすばしっこく、私の差し出した紙はあっさりと破れてしまった。
「ああっ、惜しい……!」
「ふふ、つむぎは少し焦りすぎだ。金魚の動きをよく見て、こう……後ろからそっとすくうんだよ」
馨様が私の背後に回り込み、破れたポイを持つ私の手の上から、そっと自分の手を重ねた。
背中越しに伝わる馨様の体温と、耳元で囁かれる低い声。
心臓がドクドクと激しく鐘を鳴らし、金魚どころではなくなってしまう。
「ほら、捕まえた」
馨様が手際よく手を動かすと、一匹の小さな金魚がお椀の中で跳ねた。
「やりましたね!」と振り返った瞬間、私たちの鼻先が触れ合いそうなほど距離が縮まる。
馨様の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに私を映していた。
そこにあるのは、からかいなどふざけたようなことではなく、胸が苦しくなるほどの真剣な眼差しだった。
「つむぎ……」
私の名前を呼ぶ彼の声が、かすかに震えているような気がした。
お祭りの喧騒が、遠く遠くへ遠ざかっていく。私はただ、彼の瞳の中に吸い込まれそうになりながら、ぎゅっと浴衣の裾を握りしめていた。