大正恋慕物語
最終章:新世界の汽笛と、薬指の誓い
「つむぎ……頼むから、私を一人にしないでくれ」
夜の闇の中、震える声で私に縋る馨様の姿を見て、私の胸の迷いは綺麗さっぱりと消え去っていた。
身分がどうとか、足枷になるだとか、そんな理由でこの人を置いていくことの方が、よっぽど残酷で、私自身も耐えられない。
私は風呂敷包みを床に落とし、馨様の震える手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「……はい。私も、馨様と一緒なら、どこへでも参ります。たとえすべてを失うことになっても」
私の言葉を聞いた瞬間、馨様は心底安心したように崩れ落ち、私を壊れ物のように優しく、けれど二度と離さないと言わんばかりに強く抱きしめた。彼の流した一筋の涙が、私の首筋に熱く触れた。
それからの馨様の行動は、驚くほど迅速だった。
本家からの勘当、貿易商としての日本での地位や資産の大部分の手放し――彼は本当に、私を選ぶために全てを投げ打ったのだ。
けれど、馨様は決して絶望していなかった。その琥珀色の瞳は、むしろ今まで以上に力強く、未来を見据えて輝いていた。
「日本の蓮見家は捨てたよ。でもね、つむぎ。私には、異国の友人たちと築いてきた信頼と、これまでの経験がある。アメリカへ渡ろう。あそこなら、家柄なんて関係ない。私たちの実力と、愛だけで生きていける」
旅立ちの朝、私たちは横浜の港にいた。目の前には、大海原へと向かう巨大な蒸気船がそびえ立っている。
私は、馨様が贈ってくれた、新生活にふさわしいモダンな洋装(仕立ての良いワンピース)を身にまとっていた。
「つむぎ、忘れ物はないかい?」
背広姿の馨様が、私の荷物を持って微笑む。その表情は、お屋敷にいた頃のどんよりとした重圧から解き放たれ、まるで少年のように晴れやかだった。
「はい。大切なものは、もうすべてここにありますから」
私が胸に手を当てて微笑むと、馨様は「そうだね」と愛おしそうに目を細めた。
汽笛がゴォォ、と港に響き渡り、船がゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく帝都の街並みをデッキから眺めていると、馨様が私の隣に並び、そっと私の左手を引き寄せた。
「つむぎ、これを」
彼の手のひらにあったのは、小さな、けれど光り輝く銀の指輪だった。西洋の文化に倣った、誓いの指輪。
「向こうに着いたら、すぐに正式な夫婦になろう。君を生涯、私の妻として、一人の女性として愛し、守り抜くと誓う。……だから、もう二度と、私の前からいなくならないでくれよ?」
少しだけ悪戯っぽく、けれどどこかまだ不器用な甘えを含んだ声で囁かれ、私は胸がいっぱいになる。
「はい……! ずっと、ずっとお傍にいさせてください、馨さん」
初めて「様」を外してその名前を呼ぶと、彼の琥珀色の瞳が驚きで丸くなり、それから今日一番の、とびきり幸せそうな笑顔に変わった。
馨様の手によって、私の左手の薬指に指輪が滑り込む。
そのまま引き寄せられ、重なったお互いの唇からは、異国の潮風の香りと、これから始まる新しい世界の味がした。
水平線の向こうから差し込む朝日が、私たちの未来を黄金色に照らしている。もう二人の手を阻むものは、何一つとしてなかった。
夜の闇の中、震える声で私に縋る馨様の姿を見て、私の胸の迷いは綺麗さっぱりと消え去っていた。
身分がどうとか、足枷になるだとか、そんな理由でこの人を置いていくことの方が、よっぽど残酷で、私自身も耐えられない。
私は風呂敷包みを床に落とし、馨様の震える手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「……はい。私も、馨様と一緒なら、どこへでも参ります。たとえすべてを失うことになっても」
私の言葉を聞いた瞬間、馨様は心底安心したように崩れ落ち、私を壊れ物のように優しく、けれど二度と離さないと言わんばかりに強く抱きしめた。彼の流した一筋の涙が、私の首筋に熱く触れた。
それからの馨様の行動は、驚くほど迅速だった。
本家からの勘当、貿易商としての日本での地位や資産の大部分の手放し――彼は本当に、私を選ぶために全てを投げ打ったのだ。
けれど、馨様は決して絶望していなかった。その琥珀色の瞳は、むしろ今まで以上に力強く、未来を見据えて輝いていた。
「日本の蓮見家は捨てたよ。でもね、つむぎ。私には、異国の友人たちと築いてきた信頼と、これまでの経験がある。アメリカへ渡ろう。あそこなら、家柄なんて関係ない。私たちの実力と、愛だけで生きていける」
旅立ちの朝、私たちは横浜の港にいた。目の前には、大海原へと向かう巨大な蒸気船がそびえ立っている。
私は、馨様が贈ってくれた、新生活にふさわしいモダンな洋装(仕立ての良いワンピース)を身にまとっていた。
「つむぎ、忘れ物はないかい?」
背広姿の馨様が、私の荷物を持って微笑む。その表情は、お屋敷にいた頃のどんよりとした重圧から解き放たれ、まるで少年のように晴れやかだった。
「はい。大切なものは、もうすべてここにありますから」
私が胸に手を当てて微笑むと、馨様は「そうだね」と愛おしそうに目を細めた。
汽笛がゴォォ、と港に響き渡り、船がゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく帝都の街並みをデッキから眺めていると、馨様が私の隣に並び、そっと私の左手を引き寄せた。
「つむぎ、これを」
彼の手のひらにあったのは、小さな、けれど光り輝く銀の指輪だった。西洋の文化に倣った、誓いの指輪。
「向こうに着いたら、すぐに正式な夫婦になろう。君を生涯、私の妻として、一人の女性として愛し、守り抜くと誓う。……だから、もう二度と、私の前からいなくならないでくれよ?」
少しだけ悪戯っぽく、けれどどこかまだ不器用な甘えを含んだ声で囁かれ、私は胸がいっぱいになる。
「はい……! ずっと、ずっとお傍にいさせてください、馨さん」
初めて「様」を外してその名前を呼ぶと、彼の琥珀色の瞳が驚きで丸くなり、それから今日一番の、とびきり幸せそうな笑顔に変わった。
馨様の手によって、私の左手の薬指に指輪が滑り込む。
そのまま引き寄せられ、重なったお互いの唇からは、異国の潮風の香りと、これから始まる新しい世界の味がした。
水平線の向こうから差し込む朝日が、私たちの未来を黄金色に照らしている。もう二人の手を阻むものは、何一つとしてなかった。

