大正恋慕物語

第四章:百合の香りと、引き裂かれる横顔

馨様に抱きしめられたあの夕暮れから、私たちの間には、言葉にせずとも甘く温かい空気が流れていた。
馨様は書斎で二人きりになると、翻訳の手を休めて私をじっと見つめたり、髪に触れたりするようになり、その度に私は心臓が止まるような想いをしていた。
しかし、そんなささやかな幸福は、ある日の一本の電話によって呆気なく揺らぎ始める。
「つむぎ、明日の午後は、お客様がいらっしゃるからお茶の用意をお願いね。それから……粗相のないように」
いつも優しいばあやの顔が、その日ばかりはひどく強張っていた。
尋ねれば、馨様の実家である本家から、お父様と、そして「あるご令嬢」がいらっしゃるのだという。
翌日、蓮見邸の応接室には、どこか冷ややかで重々しい空気が満ちていた。
「初めまして。あなたが、馨様のお手伝いをなさっている神保さん?」
お茶を運んだ私を待ち受けていたのは、抜けるような白い肌に、大輪の百合が描かれた最高級の振袖をまとった麗しいお嬢様――綾小路(あやのこうじ)華子様だった。華族の血筋だという彼女は、私を一瞥すると、哀れむような、けれど冷酷な微笑を浮かべた。
「馨様、お父様もおっしゃっていましたわ。いつまでもこのような没落した家の娘を近くに置いておくのは、蓮見家の外聞に障ると」
カチャ、と私が持っていたお盆が小さく音を立てる。
華子様は私の動揺を見透かしたように、さらに言葉を重ねた。
「今秋には、私と馨様の婚約が正式に発表されますの。その時には、このお屋敷の人間も綺麗に整理しなくてはなりませんわね」
婚約。
頭の芯が真っ白になる。馨様が時代の寵児として生きるためには、私のような後ろ盾のない娘ではなく、彼女のような存在が必要不可欠なのだと、突きつけられた気がした。
「……そこまでにしてください、華子さん」
応接室の扉が開き、馨様が入ってきた。
その顔は凍りついたように冷たく、琥珀色の瞳には激しい怒りの炎がゆらめいている。
「私の家の差配を君たちに口出される筋合いはない。つむぎ、君は下がりなさい」
「ですが、馨様……」
「下がるんだ!」
馨様の張り詰めた声に背中を押されるように、私は這う這うの体で応接室を飛び出した。
奥から聞こえる「君との婚姻など、私は一度も承諾していない!」という馨様の怒声を聞きながら、私は自室にこもり、ただ冷たくなった両手で顔を覆うことしかできなかった。
その日の夜。お屋敷が静まり返った午前二時。
私は一人、身の回りのわずかな荷物を風呂敷に包んでいた。
(私は、馨様の足枷になってしまう……)
昼間の華子様の言葉が、呪いのように胸に突き刺さっていた。彼を愛しているからこそ、彼の輝かしい未来を私の存在で汚したくなかったのだ。
誰にも見つからないよう、抜き足差し足で勝手口へ向かう。
しかし、重い扉を開けて一歩外へ踏み出した瞬間、強い力で手首を掴まれた。
「……どこへ行くつもりだ」
闇の中から現れたのは、外套も羽織らず、白シャツのまま息を切らせた馨様だった。寝付けずに私を見張っていたのだろうか。その琥珀色の瞳は、今にも泣き出しそうなほど歪んでいた。
「離してください、馨様。私は……ここにいてはいけない人間です。あなたには、華子様のような立派な方が……」
「そんなものは関係ない!」
馨様は私の言葉を遮り、掴んだ手首をさらに強く引き寄せた。
「なぜ勝手にいなくなろうとする! なぜ私を置いていくんだ! 君のいない未来など、どれほど富や名声を得ようと、私にとってはただの灰色の世界だ!」
いつも冷静で、私の前で格好をつけようとしていた馨様が、今やプライドもかなぐり捨てて、必死に私に縋っている。その目は赤く潤み、繋いだ手は小刻みに震えていた。
「つむぎ……頼むから、私を一人にしないでくれ。家柄も、親の許嫁も、全て捨てて君と生きると言ったら……君は、私を選んでくれるかい?」
夜の闇の中、馨様の必死の告白が、私の冷え切った心を熱く、熱く溶かしていく。
身分違いの恋の嵐が、いよいよ二人を呑み込もうとしていた。
< 4 / 5 >

この作品をシェア

pagetop