雨が止むまで、君はここにいて
第一章 雨の夜に見つけた店
第一章 雨の夜に見つけた店
雨が降るたびに、朝倉悠人は自分の人生が少しずつ色を失っていくような気がしていた。
濡れたアスファルトに街灯の光が滲み、行き交う人々が色とりどりの傘を差しながら足早に駅へ向かっていく中、悠人だけは傘を持たず、肩から背中へと染み込んでくる冷たい雨を気にすることもなく歩いていた。
十月の終わりにしては随分と冷たい雨だったが、今さらコンビニへ寄って傘を買う気にもなれず、かといって急いで帰りたいと思えるような場所があるわけでもなかった。
二十七歳。
社会人になって五年目を迎えた朝倉悠人の人生は、少なくとも本人が思い描いていたものとは大きく違っていた。
大学を卒業した頃は、努力さえ続けていれば仕事でも結果を残せるし、いつかは大切な人と家庭を築き、休日には友人たちと笑い合えるような、ごく普通の幸せを手に入れられるものだと信じていた。
けれど現実は、そんな悠人の期待を少しずつ裏切っていった。
入社した会社では何年経っても思うような成果を出せず、同期が次々と昇進していく中で自分だけが取り残され、ようやく任された大きな仕事も、たった一つの確認不足が原因で取引先との契約を失う結果になってしまった。
もちろん失敗したのは自分であり、誰かのせいにするつもりはなかったが、上司から会議室へ呼び出され、これまでの働き方を見直した方がいいと告げられた時には、もう何を言い返す気力も残っていなかった。
その日の午後、悠人は五年間勤めた会社を辞めた。
正確には、退職届を提出するよう勧められたのだが、どちらにしても結果は同じだった。
会社を出る時、受付にいた女性がいつもと変わらない声で「お疲れさまでした」と言ってくれたことが、なぜかひどく胸に残っていた。
お疲れさまでした。
たったそれだけの言葉が、自分の五年間を締めくくる最後の挨拶になるとは思っていなかった。
スマートフォンを取り出すと、画面には未読の通知が一件だけ表示されていた。
送り主は、三か月前に別れた恋人の名前だった。
別れたあとも何度か連絡を取っていたが、最近では返事が来るまでに数日かかるようになり、最後に会った時には、もう以前のような関係には戻れないとはっきり告げられていた。
通知を開くと、短い文章が表示された。
『荷物、今日送ったから。今までありがとう』
悠人はしばらく画面を見つめていたが、何も返信せずにスマートフォンをポケットへ戻した。
これで本当に終わったのだろう。
仕事も、恋人も、かつて当たり前のように続いていくと思っていた日常も、気づけば自分の手の中から少しずつこぼれ落ちていた。
学生時代から親しくしていた友人とも、金銭的な行き違いをきっかけに疎遠になっており、今夜の出来事を誰かに話そうと思っても、真っ先に浮かぶ名前が一つもなかった。
それが何よりも寂しかった。
誰かに慰めてもらいたいわけではない。
ただ、今日こんなことがあったと話した時に、そうだったのかと聞いてくれる相手が一人でもいれば、少しは違ったのかもしれないと思った。
雨脚が強くなり、悠人は商店街の古いアーケードへ足を向けた。
駅前の賑やかな通りから一本外れたその場所には、昔ながらの個人商店がいくつか並んでいたが、再開発が進んだ影響で閉店する店も増え、夜になると人通りはほとんどなくなっていた。
悠人はこの街に三年ほど住んでいるものの、普段は駅と自宅を往復するばかりで、商店街の奥まで歩いたことはほとんどなかった。
そのため、自分がどこを歩いているのか分からなくなったのも、最初はそれほど不思議には思わなかった。
ただ、しばらく進んだところで、妙なことに気がついた。
アーケードの屋根が途切れた先に、見覚えのない細い路地が伸びていたのである。
左右を古い建物に挟まれたその道は、車が一台通れるかどうかというほど狭く、街灯も少ないため、奥の方は雨に煙ってよく見えなかった。
普段なら絶対に入らないような場所だったが、その夜の悠人には、いつもと違う道を歩くことをためらう理由もなかった。
どうせ急いで帰る必要などないのだから、少しくらい遠回りをしても構わないだろう。
そんなことを考えながら路地へ足を踏み入れた時、どこからか珈琲の香りが漂ってきた。
雨に濡れた土や古い木材の匂いに混じって届く、深く香ばしい香りだった。
悠人は思わず立ち止まった。
周囲を見渡すと、路地の奥に小さな明かりが灯っている。
近づくにつれて、その明かりが一軒の店から漏れていることが分かった。
古びたレンガ造りの外壁に、濃い茶色の木製扉。
入口の両側には背の高い植木鉢が置かれ、雨に濡れた葉が街灯の光を受けて静かに揺れていた。
窓から漏れるオレンジ色の照明は、周囲の冷たい雨景色とは対照的に温かく、まるでその店だけが別の季節に取り残されているようだった。
扉の上には、小さな真鍮の看板が掛けられている。
『喫茶 雨宿り』
悠人はその文字を見上げた。
随分と古い店のようだったが、不思議なことに、こんな場所に喫茶店があるという話を聞いたことはなかった。
窓際には一冊の本と白い珈琲カップが置かれており、店内には数人の客がいるようだった。
普段なら知らない店へ一人で入ることなどほとんどない悠人だったが、その時だけは、窓の向こうに広がる穏やかな光景から目を離すことができなかった。
雨がさらに強くなり、冷たい雫が首筋を伝った。
悠人は少し迷ったあと、木製の扉へ手を伸ばした。
その瞬間、扉の横に掛けられていた小さな札が目に入った。
『本日は営業しております』
その下には、手書きの文字で一文が添えられていた。
『雨が止むまで、どうぞごゆっくり』
悠人は何となくその言葉が気になったものの、深く考えることなく扉を開いた。
小さなベルが、澄んだ音を立てた。
*
店内へ足を踏み入れた瞬間、悠人は外の雨音が急に遠くなったように感じた。
完全に聞こえなくなったわけではなく、窓を叩く雨粒の音は確かに残っているのだが、不思議と耳障りには感じられず、むしろ静かな音楽の一部のように店内へ溶け込んでいた。
天井から吊るされた琥珀色の照明が木製のテーブルを柔らかく照らし、壁には古い時計や額縁に入った写真が飾られている。
店の奥には小さな本棚があり、背表紙の色褪せた小説や随筆集が、誰かに何度も読まれてきたことを物語るように並んでいた。
カウンターの向こうでは、白いシャツに黒いベストを着た男性が珈琲を淹れていた。
年齢は五十代半ばほどだろうか。
短く整えられた白髪と、穏やかな目元が印象的で、初めて会ったはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる雰囲気をまとっていた。
男性は悠人の姿を見ると、作業の手を止めて静かに微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声だった。
悠人は軽く頭を下げた。
「すみません、まだ営業してますか」
「もちろんです。今日は随分と強い雨ですから、どうぞゆっくりしていってください」
男性はそう言うと、カウンターの端に置かれていた清潔なタオルを差し出した。
「かなり濡れていますね。よろしければ、こちらをお使いください」
「あ、ありがとうございます」
悠人は少し戸惑いながらタオルを受け取り、髪や顔についた雨を拭った。
たったそれだけのことだったが、見知らぬ人から自然に気遣われたのが久しぶりで、どう反応すればいいのか分からなくなってしまった。
「お好きな席へどうぞ。窓際は少し冷えますから、奥の席の方がよろしいかもしれませんね」
悠人は店内を見渡した。
入口から見て右側には二人掛けのテーブルが三つ並び、そのうち一つには年配の男性が座って新聞を読んでいる。
左側の壁際では、三十代くらいの女性が手帳へ何かを書き込んでおり、窓際の一番奥には、制服姿の少女が一冊の本を読んでいた。
少女は高校生くらいに見えたが、こんな時間に一人で喫茶店にいることを気にしている様子はなく、時折窓の外へ目を向けながら、ゆっくりページをめくっていた。
悠人は入口に近い二人掛けの席へ腰を下ろした。
男性がメニューを運んでくる。
「何になさいますか」
メニューには珈琲や紅茶、軽食などが並んでいたが、どれも今どきの喫茶店にしては随分と控えめな価格だった。
「じゃあ、ブレンド珈琲をお願いします」
「かしこまりました」
男性は頷いたあと、ふと思い出したように尋ねた。
「お砂糖とミルクはいかがなさいますか」
「ブラックで大丈夫です」
「承知しました。それでは、少々お待ちください」
男性がカウンターへ戻っていくと、悠人はようやく肩の力を抜いた。
店内には古いジャズが小さな音で流れており、壁の時計が規則正しく時を刻んでいる。
何も考えずに座っていられる場所というのは、こんなにも落ち着くものだっただろうか。
悠人はテーブルへ肘をつき、窓の外へ目を向けた。
雨は相変わらず強く降っている。
濡れた石畳に街灯の光が反射し、路地の奥には誰の姿も見えなかった。
その時、カウンターから男性の声が聞こえた。
「今日は、どんな雨に降られましたか」
悠人は最初、自分に話しかけられたのだと気づかなかった。
顔を上げると、男性が珈琲を淹れながらこちらを見ている。
「……え?」
「失礼しました。少し変わった聞き方でしたね」
男性は穏やかに笑った。
「この店では、初めていらしたお客様に、いつも同じことをお尋ねしているんです」
「どんな雨に降られたか、ですか」
「ええ。雨の日にここへ来る方は、皆さんそれぞれ違う雨を抱えていらっしゃいますから」
悠人は意味が分からず、曖昧に笑った。
「普通の雨ですよ。外、かなり降ってますし」
「そうですね。今夜は少し冷たい雨です」
男性はそれ以上尋ねなかった。
ただ、どこか納得したように頷くと、ゆっくりと珈琲を注ぎ始めた。
悠人はその背中を眺めながら、妙な質問をする店だと思った。
しかし不思議と、不快ではなかった。
むしろ、答えを急かされなかったことに少し安心していた。
*
珈琲が運ばれてきたのは、それから五分ほど経った頃だった。
白いカップから立ち上る湯気とともに、深く香ばしい匂いが広がり、悠人は思わず顔を近づけた。
「熱いので、お気をつけください」
「ありがとうございます」
カップを持ち上げ、一口飲んだ瞬間、悠人は思わず目を見開いた。
特別に高価な豆を使っているのかどうかは分からなかったが、苦味の奥にほんのりとした甘さがあり、冷えきった身体へゆっくり温かさが広がっていく。
会社で飲んでいた缶珈琲とも、休日に立ち寄っていたチェーン店の珈琲とも違う、どこか懐かしい味だった。
「……おいしいですね」
思わず口にすると、男性は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
そのままカウンターへ戻るのかと思ったが、男性は少しだけ迷ったように悠人を見つめた。
「差し支えなければ、一つだけお尋ねしてもよろしいですか」
「何でしょう」
「今日は、何か嫌なことがありましたか」
悠人はカップを持つ手を止めた。
あまりにも唐突な質問だった。
「……どうしてですか」
「いえ、少し疲れていらっしゃるように見えたものですから」
男性は慌てて付け加えた。
「もちろん、お話しになりたくなければ、何も聞きませんよ」
悠人はしばらく黙っていた。
知らない相手に仕事を辞めたことを話す理由などないし、まして初めて入った喫茶店の店主に、自分の情けない事情を打ち明けるつもりもなかった。
けれど、男性がそれ以上何も聞こうとせず、静かに立っている姿を見ているうちに、なぜか少しだけ話してもいいような気がしてきた。
「……今日、仕事を辞めたんです」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。
男性は表情を変えず、静かに頷いた。
「そうでしたか」
「五年も働いたんですけど、結局何もできなくて。大きな仕事で失敗して、会社にも迷惑をかけて……もう自分には向いてないんだろうなって」
悠人は苦笑した。
「別に、誰かに慰めてもらいたいわけじゃないんです。ただ、何をやっても駄目だったなって思って」
男性は何も言わなかった。
悠人はカップの中へ視線を落とした。
「昔は、もう少しちゃんとした大人になれると思ってたんですけどね」
自分で口にしてみると、随分と情けない言葉に聞こえた。
二十七歳にもなって、知らない喫茶店で初対面の店主に愚痴をこぼしている。
こんなことをしているから、何もうまくいかないのかもしれない。
悠人は話を終わらせようと顔を上げたが、その時、男性が静かに口を開いた。
「朝倉さん」
悠人は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……はい?」
「少し、難しいことをお尋ねしてもよろしいでしょうか」
男性は穏やかに続けた。
「五年間、何もできなかったとおっしゃいましたが、本当にそうだったのでしょうか」
悠人は眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「五年間、毎日会社へ通われていたんですよね」
「まあ、そうですけど」
「仕事を覚えようとした日もあれば、誰かの代わりに残業した日もあったでしょうし、失敗したあとに何とか取り返そうと努力した日もあったのではありませんか」
悠人は何も答えられなかった。
確かに、そういう日もあった。
入社したばかりの頃は毎晩遅くまで勉強していたし、取引先から感謝されたことも、後輩の相談に乗ったこともあった。
しかし、今日の失敗を境に、そうした記憶はすべて意味のないものになってしまったような気がしていた。
「でも、結果が出なかったら意味ないじゃないですか」
悠人がそう言うと、男性は静かに頷いた。
「結果が大切な場面は、確かにありますね」
そして少し間を置いてから、こう続けた。
「ただ、結果が出なかったことと、そこまでの時間に意味がなかったことは、同じではないと思うんです」
悠人はカップを見つめた。
男性の言葉は、どこかで聞いたことのあるような、ごく当たり前のものだった。
けれど、今日の悠人には、その当たり前の言葉が妙に胸へ残った。
「……そういう考え方もあるんですかね」
「あると思いますよ。少なくとも、私はそう考えています」
男性は穏やかに微笑んだ。
「それに、今日仕事を辞めたということは、明日から何もできなくなるという意味ではありませんから」
悠人は小さく笑った。
「そう簡単に切り替えられたらいいんですけどね」
「ええ。簡単ではないでしょうね」
男性は頷いた。
「ですから、今夜くらいは無理に切り替えなくてもいいんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、悠人は思わず顔を上げた。
これまで誰かに相談するたび、もっと頑張れとか、気持ちを切り替えろとか、次を探せばいいといった言葉をかけられてきた。
どれも間違ってはいなかったが、疲れきっている時には、その前向きな言葉さえ重く感じられることがあった。
しかし目の前の男性は、悠人に頑張れとも、元気を出せとも言わなかった。
ただ、今夜はそのままでいいと言ってくれた。
それが不思議なほど嬉しかった。
「……ありがとうございます」
悠人が小さく頭を下げると、男性は静かに微笑んだ。
「どういたしまして」
*
それからしばらく、悠人は何も考えずに珈琲を飲んでいた。
店内では年配の男性が新聞を畳み、壁際の女性が手帳を閉じている。
窓際の少女は相変わらず本を読んでいたが、時折こちらへ視線を向けているような気がした。
悠人が顔を上げると、少女はすぐに本へ目を戻した。
何となく気になったものの、話しかける理由もなかったため、悠人は再び窓の外へ視線を向けた。
雨は少し弱まっている。
さっきまで激しく石畳を叩いていた雨粒が、今では細い糸のように街灯の下を落ちていた。
その時、窓際の少女が突然口を開いた。
「まだ帰らない方がいいですよ」
悠人は驚いて振り返った。
少女は本から顔を上げず、静かに続けた。
「もう少ししたら、雨が強くなりますから」
悠人は窓の外を見た。
空は相変わらず暗かったが、雨脚は明らかに弱まっている。
「そうなの?」
思わず尋ねると、少女はようやく顔を上げた。
肩にかかるほどの黒髪と、透き通るような白い肌。
年齢は十七歳くらいだろうか。
整った顔立ちをしているものの、その表情には年齢に似合わない落ち着きがあり、まるでずっと昔からこの店に座っているような、不思議な雰囲気をまとっていた。
「はい。今日は、まだ止みません」
少女はそう言うと、再び本へ視線を落とした。
悠人は少し戸惑いながら笑った。
「天気予報でも見たの?」
少女は首を横に振った。
「見てません」
「じゃあ、どうして分かるの?」
少女は少し考えたあと、窓の外へ視線を向けた。
「……この店にいると、分かるんです」
悠人は眉を寄せた。
「どういうこと?」
少女は答えなかった。
代わりに、カウンターの男性が穏やかな声で話しかけてきた。
「彼女は雨の音を聞くのが得意なんですよ」
悠人は笑った。
「そんな特技があるんですね」
「ええ。私よりもずっと上手です」
男性はそう言うと、少女へ小さく微笑んだ。
少女は少しだけ頬を緩めたが、すぐに本へ目を戻してしまった。
悠人はそれ以上気にすることなく、残りの珈琲を飲み干した。
そろそろ帰ろうかと思い、財布を取り出した時だった。
窓の外で、突然大きな雨音が響き始めた。
悠人は思わず顔を上げた。
さっきまで弱まっていた雨が、まるで空の底が抜けたかのように激しく降り始めていた。
街灯の光が雨粒に遮られ、路地の向こう側が見えなくなるほどだった。
「……本当だ」
悠人が呟くと、少女は静かにページをめくった。
「言ったでしょう」
その声には、少しだけ得意そうな響きが混じっていた。
悠人は思わず笑ってしまった。
今日初めて、何も考えずに笑えた気がした。
*
雨が弱まるのを待っている間、悠人は店内の本棚を眺めることにした。
古い小説や詩集、旅の随筆などが並んでおり、どれも長い年月を経て大切に扱われてきたことが分かる。
その中に、一冊だけ背表紙のない薄い本が挟まっていた。
表紙には題名がなく、淡い青色の紙に小さな雨粒の模様が描かれている。
悠人が何気なく手に取ると、最初のページに手書きの文字が記されていた。
『雨の日に出会った人のことを、忘れないでください』
随分と変わった言葉だと思った。
次のページを開くと、そこには日付と名前、そして短い文章が書かれていた。
『六月十二日 佐伯和夫』
『四十年間、謝れなかった人に、ようやく謝ることができた』
さらにページをめくる。
『七月二十三日 藤崎真奈』
『もう一度、絵を描いてみようと思う』
『九月八日 田辺修』
『明日は、父に電話をかける』
どのページにも、誰かの名前と日付、そしてその人が決めた小さな約束のような言葉が記されていた。
悠人はしばらくページをめくっていたが、途中で一つのことに気づいた。
どの文章も、何か大きな成功を収めたという話ではない。
誰かに謝る。
昔好きだったことを再開する。
家族へ電話をかける。
どれも、少し勇気を出せばできそうな、ごく小さな行動ばかりだった。
しかし、その言葉には不思議な重みがあった。
きっと、書いた本人にとっては、簡単なことではなかったのだろう。
「それが気になりますか」
背後から声がして、悠人は振り返った。
店主が静かに立っていた。
「あ、すみません。勝手に見ちゃって」
「構いませんよ。お客様に読んでいただくための本ですから」
男性は悠人の手元を見つめ、懐かしそうに微笑んだ。
「その本には、この店へいらした方々が残してくださった言葉が書かれているんです」
「日記みたいなものですか」
「そうですね。ただ、過去の出来事を書くというよりは、これから先の自分へ向けた手紙に近いかもしれません」
悠人は本を見つめた。
「みんな、何か決めて帰るんですね」
「そういう方もいらっしゃいます」
店主は頷いた。
「もちろん、何も決めずに帰る方もいますよ。それでも構わないんです」
「そうなんですか」
「ええ。この店は、何かを変えなければいけない場所ではありませんから」
男性は少しだけ微笑んだ。
「ただ、雨が止むまで休んでいただく場所なんです」
悠人はその言葉を聞いて、入口に掛けられていた札を思い出した。
雨が止むまで、どうぞごゆっくり。
何でもない言葉のはずなのに、今では少し違った意味に聞こえた。
「……俺も、何か書いていいんですか」
気づけば、そんなことを尋ねていた。
男性は嬉しそうに頷いた。
「もちろんです」
悠人は本を持って席へ戻り、店主から借りた万年筆を手に取った。
何を書こうか、しばらく考えた。
仕事を見つける。
もう一度頑張る。
人生をやり直す。
そんな言葉がいくつも浮かんだが、どれも今の自分には少し大きすぎるような気がした。
結局、悠人が書いたのは、たった一つの小さな約束だった。
『十月二十八日 朝倉悠人』
『明日は、ちゃんと朝ごはんを食べようと思う』
書き終えたあと、悠人は思わず苦笑した。
他の人たちが書いた言葉と比べると、随分と情けない内容に思えたからだ。
しかし、店主はそのページを見ると、静かに頷いた。
「いいですね」
悠人は顔を上げた。
「こんなのでいいんですか」
「もちろんです。明日の朝が少し楽しみになる約束なら、それで十分ですよ」
悠人は自分の書いた文字を見つめた。
明日は、ちゃんと朝ごはんを食べようと思う。
たったそれだけのことなのに、なぜか明日という日が、今までより少しだけ近く感じられた。
*
時計の針が午後十一時を回った頃、ようやく雨が弱まり始めた。
悠人は窓の外を確認し、そろそろ帰ろうと席を立った。
店主はカウンターで会計を済ませると、入口まで見送りに来てくれた。
「今日はありがとうございました」
悠人が頭を下げると、男性は穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「また来てもいいですか」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
男性は少しだけ嬉しそうな表情を浮かべた。
「もちろんです。雨の日でしたら、いつでも」
悠人は首を傾げた。
「雨の日?」
「ええ。当店は、雨の日だけ営業しておりますので」
悠人は思わず笑った。
「随分と変わった営業時間ですね」
「よく言われます」
男性も笑った。
悠人は扉へ手を伸ばしたが、その時、ふと気になって振り返った。
「そういえば、店長さんのお名前を聞いてませんでしたね」
男性は少しだけ目を細めた。
「私は、雨宮と申します」
「雨宮さんですか。名前まで雨に関係してるんですね」
「そうですね。昔から、雨とは縁があるようです」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「朝倉さん、またお会いできるのを楽しみにしています」
悠人は軽く頭を下げ、店の外へ出た。
雨はまだ細かく降っていたが、先ほどまでの冷たさはそれほど感じられなかった。
振り返ると、窓から漏れるオレンジ色の光が、濡れた石畳を優しく照らしている。
その光景をしばらく眺めたあと、悠人はゆっくり歩き始めた。
家へ帰ったら、まず温かいシャワーを浴びよう。
それから冷蔵庫を確認して、明日の朝食に必要なものがなければ、帰りにコンビニへ寄ればいい。
そんな何でもないことを考えている自分に気づき、悠人は少しだけ笑った。
数時間前まで、明日のことなど考えたくもなかったのに。
たった一杯の珈琲と、見知らぬ店主との会話だけで、人生が大きく変わったわけではない。
仕事を失った現実も、恋人と別れた事実も、何一つ変わっていない。
それでも、明日を迎えることが少しだけ嫌ではなくなっていた。
今夜は、それだけで十分な気がした。
*
翌朝、悠人はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が部屋を明るく照らしており、窓の外には久しぶりの青空が広がっていた。
昨日の雨が嘘のような、気持ちのいい朝だった。
悠人はベッドから起き上がると、冷蔵庫を開けた。
卵が二つ。
食パンが三枚。
少し古くなった牛乳。
それだけしか入っていなかったが、今朝はそれで十分だった。
フライパンで目玉焼きを作り、トースターでパンを焼く。
普段なら面倒に感じる作業だったが、今日は不思議と苦にならなかった。
テーブルへ朝食を並べ、温かい珈琲を淹れる。
そして、最初の一口を食べた時、悠人は昨夜の喫茶店で書いた言葉を思い出した。
明日は、ちゃんと朝ごはんを食べようと思う。
たったそれだけの約束を、守ることができた。
悠人は小さく笑った。
その日、彼は久しぶりに部屋の掃除をし、溜まっていた洗濯物を片づけ、午後には近所の図書館まで散歩に出かけた。
仕事探しについては、まだ何も決められていない。
それでも、昨日までのように一日中ベッドで過ごすことはなかった。
夕方になり、図書館から帰る途中、悠人はふと昨夜の喫茶店を思い出した。
あの店の珈琲を、もう一度飲んでみたい。
そう思った瞬間、自然と足が商店街へ向かっていた。
昨日と同じ道を歩き、古いアーケードを抜ける。
そして、あの細い路地へ入ろうとした時だった。
悠人は思わず足を止めた。
昨日、確かにそこにあったはずの路地が、見当たらなかったのである。
目の前には古い建物が二軒並んでおり、その間には人が通れるような隙間すらなかった。
悠人は周囲を見渡した。
商店街の看板。
角にある古い時計店。
向かい側の閉店した洋品店。
どれも昨夜見たものと同じだった。
しかし、その奥に続いていたはずの細い路地だけが、どこにも存在していない。
「……あれ?」
悠人は思わず声を漏らした。
道を間違えたのだろうか。
そう思って何度も周辺を歩き回ったが、どこを探しても、あのレンガ造りの喫茶店へ続く道は見つからなかった。
不思議に思った悠人は、近くの時計店へ入った。
店内には古い柱時計がいくつも並び、奥の椅子には白髪の男性が座っていた。
「すみません、ちょっとお聞きしたいんですけど」
男性が顔を上げる。
「はい、何でしょう」
「この近くに、雨宿りっていう喫茶店ありませんか」
その瞬間、男性の表情がわずかに変わった。
「……雨宿り?」
「はい。昨日の夜、たまたま入ったんですけど、場所が分からなくなっちゃって」
男性はしばらく悠人を見つめていたが、やがて静かに尋ねた。
「昨日は、雨が降っていましたか」
悠人は眉を寄せた。
「ええ、かなり強く降ってましたけど」
男性は何かを納得したように頷いた。
「……そうですか」
「ご存じなんですか」
男性はすぐには答えなかった。
代わりに、店の奥に掛けられた古い時計へ視線を向けた。
その時計は、午後三時十七分を指したまま止まっていた。
「若い頃に、一度だけ入ったことがあります」
男性はゆっくり口を開いた。
「随分と昔の話ですがね」
悠人は驚いた。
「じゃあ、やっぱりあるんですね」
「ええ。ただし、いつでも入れる店ではありません」
「雨の日だけ営業してるって聞きました」
男性は静かに頷いた。
「それもありますが、もう一つだけ、あの店には決まりがあるんです」
悠人は首を傾げた。
「決まり?」
男性は悠人を見つめた。
「雨が止む前に、店を出てはいけないんですよ」
悠人は思わず笑った。
「そんなこと言われませんでしたけど」
「そうでしょうね。あの店の主人は、初めて来た人にはあまり詳しいことを話しませんから」
男性は少しだけ目を伏せた。
「ただ、昔から言われているんです。雨が止む前に店を出た人は、二度と同じ場所へ戻れなくなると」
悠人は何も言えなかった。
昨日、自分が店を出た時には、まだ雨が降っていた。
細かい雨ではあったが、確かに止んではいなかった。
「……でも、俺は普通に帰れましたよ」
悠人がそう言うと、男性は少しだけ驚いたように顔を上げた。
「本当ですか」
「はい。何も変わったことはありませんでした」
男性はしばらく悠人を見つめていたが、やがて静かに呟いた。
「……それは、珍しいですね」
悠人は眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
男性は答えなかった。
代わりに、カウンターの引き出しから一枚の古い写真を取り出した。
「これを見てください」
写真には、古い商店街の風景が写っていた。
現在とは建物の形も店の並びも違っていたが、中央には見覚えのある細い路地が伸びている。
そして、その奥には、レンガ造りの小さな喫茶店があった。
『喫茶 雨宿り』
悠人は息を止めた。
「……これです。この店です」
男性は頷いた。
「そうでしょう」
「いつ撮った写真なんですか」
男性は写真の裏を見せた。
そこには、古いインクで日付が記されていた。
昭和六十二年六月十二日。
悠人は驚いて顔を上げた。
「こんな昔からあったんですね」
「ええ」
男性は静かに答えた。
「ただ、不思議なことが一つあるんです」
「何ですか」
「この写真を撮った翌日、喫茶店はなくなっていたんですよ」
悠人は眉を寄せた。
「なくなった?」
「建物ごと、跡形もなくね」
男性は写真を見つめながら続けた。
「それ以来、雨の日になると、時々あの店を見たという人が現れるようになったんです」
悠人は何も言えなかった。
昨日の店主。
窓際の少女。
古い本棚。
そして、あの珈琲の香り。
すべてが、今でもはっきりと思い出せる。
夢だったとは思えなかった。
その時、男性がふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、あなたは昨日、店主に何か聞かれませんでしたか」
悠人は少し考えた。
「……今日は、どんな雨に降られましたかって聞かれました」
その言葉を聞いた瞬間、男性の表情が変わった。
「……そうですか」
「何か意味があるんですか」
男性はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「私も、同じことを聞かれました」
悠人は驚いた。
「何て答えたんですか」
男性は少しだけ笑った。
「当時の私は、人生で一番つらい時期でしたからね。何もかもうまくいかず、毎日が嫌になっていたんです」
悠人は黙って続きを待った。
「だから、こう答えました。もう二度と晴れないような雨です、と」
男性は写真を見つめながら、懐かしそうに目を細めた。
「すると店主は、こう言ったんです」
悠人は息を止めた。
「何て?」
男性は静かに答えた。
「雨が止まないのなら、止むまでここにいればいいんですよ、と」
悠人は何も言えなかった。
昨日、店主が自分へかけてくれた言葉と、どこか似ている気がした。
男性は写真を引き出しへ戻すと、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「不思議な店でしょう」
「……はい」
「でも、悪い店ではありませんよ」
男性は穏やかに微笑んだ。
「少なくとも、私はあの店に出会えてよかったと思っています」
悠人はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
時計店を出ると、空には夕焼けが広がっていた。
雨の気配はどこにもない。
悠人はもう一度、喫茶店があったはずの場所を振り返った。
そこには古い建物が並んでいるだけで、路地も、看板も、温かなオレンジ色の光も見当たらなかった。
しかし、昨日の夜に飲んだ珈琲の味だけは、今でもはっきりと思い出せた。
悠人はスマートフォンを取り出し、天気予報を確認した。
明日の天気は、晴れ。
明後日も、晴れ。
そして三日後の金曜日には、小さな雨のマークが表示されていた。
悠人はその画面をしばらく見つめたあと、静かに笑った。
「……金曜日か」
昨日まで、雨の日など嫌いだった。
傘を持ち歩くのも面倒で、靴が濡れるのも嫌で、灰色の空を見るだけで気分が沈んでいた。
けれど今は、三日後に雨が降ることを、少しだけ楽しみにしている自分がいた。
悠人はスマートフォンをポケットへしまい、夕暮れの商店街を歩き始めた。
その背後で、時計店の古い柱時計が、ゆっくりと時を刻んでいた。
そして、誰もいないはずの路地の奥から、ほんの一瞬だけ、珈琲の香りが漂ってきた。
まるで、次の雨の日を待っているかのように。
*
その夜。
喫茶「雨宿り」の店内では、雨宮が一冊の古い帳簿を開いていた。
表紙には何も書かれておらず、中には数えきれないほど多くの名前と日付が並んでいる。
雨宮はゆっくりページをめくり、最後の方に記された一つの名前で手を止めた。
『朝倉悠人』
その名前の横には、今日の日付ではなく、随分と古い日付が記されていた。
昭和六十二年六月十二日。
雨宮はしばらくその文字を見つめていたが、やがて静かに帳簿を閉じた。
「……ようやく来てくれましたね」
誰に聞かせるでもなく呟くと、窓際の席から少女の声が返ってきた。
「本当に、あの人なんですか」
雨宮は顔を上げた。
少女は読みかけの本を閉じ、真剣な表情で店主を見つめていた。
「ええ。間違いありません」
「でも、あの人は何も覚えていませんでしたよ」
「それでいいんです」
雨宮は穏やかに答えた。
「今は、まだ」
少女は少しだけ眉を寄せた。
「……また、同じことになるんじゃありませんか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
そこには、昼間には存在しなかった細い路地が伸びており、濡れた石畳の上を静かな雨が流れていた。
「今度は、違うと思います」
雨宮はそう言うと、カウンターの奥に飾られた古い写真へ目を向けた。
そこには、若い頃の雨宮と、一人の女性が写っていた。
女性の腕には、小さな男の子が抱かれている。
まだ二歳にも満たないような、幼い子供だった。
雨宮はその写真を手に取ると、指先でそっと表面をなぞった。
「今度こそ、約束を守らなければなりませんから」
少女は何も言わなかった。
ただ、窓の外で降り続く雨を見つめていた。
そして、雨宮が写真を元の場所へ戻そうとした時、裏側に記された古い文字が、照明の下でわずかに浮かび上がった。
『悠人がもう一度ここへ来るまで、この店を閉めないでください』
その下には、もう一つの文章が添えられていた。
『あの子には、まだ伝えていないことがあります』
雨宮はその文字を見つめながら、静かに目を閉じた。
外では、雨が降り続いていた。
何十年も前から、誰かとの約束を守り続けるように。
第一章 雨の夜に見つけた店 完
――第二章「冷めない珈琲」へ続く。