雨が止むまで、君はここにいて
第二章 冷めない珈琲
第二章 冷めない珈琲
三日後の金曜日、朝倉悠人は朝から何度も窓の外を眺めていた。
天気予報では午後から雨になると言っていたものの、午前中の空には薄い雲が広がっているだけで、時折その隙間から差し込む陽射しが、ベランダに干した洗濯物を静かに照らしていた。
以前の悠人なら、せっかく洗濯した日に雨が降ると聞けば、それだけで少し憂鬱になっていたはずだが、今日は違っていた。
雨が降るのを待っている。
そんな自分が何だかおかしくて、悠人は窓際に立ったまま小さく笑った。
あの喫茶店へ行った夜から、生活が劇的に変わったわけではなかった。
相変わらず仕事は見つかっていないし、通帳に残された貯金を確認すれば、これから先の生活をどうするべきかという現実的な不安が胸の奥へ重く沈んでくる。
昨日も求人サイトを開いては閉じることを繰り返し、履歴書の職歴欄に以前の会社名を入力したところで手が止まってしまった。
五年間働いた会社を辞めた理由を、次の面接ではどう説明すればいいのだろう。
自分の失敗を正直に話せば採用されないかもしれないし、かといって都合のいい言葉で取り繕うことにも抵抗があった。
結局、履歴書は途中までしか完成せず、パソコンの画面には保存されていない入力欄がそのまま残っている。
それでも、以前とは一つだけ違うことがあった。
朝になると、悠人は必ず台所へ立つようになっていた。
目玉焼きとトーストだけの日もあれば、冷凍していたご飯を温め、即席の味噌汁を作るだけの日もあったが、どんなに簡単なものでも朝食を用意し、テーブルへ座って食べることを続けていた。
たった三日間のことなのに、それだけで生活の輪郭が少しずつ戻ってくるような気がしていた。
もちろん、朝食を食べたからといって失業した事実が消えるわけではない。
けれど、自分で決めた小さな約束を守れたという感覚は、何もできないと思い込んでいた悠人にとって、思いのほか大きな意味を持っていた。
あの夜、喫茶店で書いた言葉を思い出すたび、悠人は不思議と少しだけ気持ちが軽くなるのだった。
午後三時を過ぎた頃、窓ガラスに小さな雨粒が当たった。
最初は気のせいかと思うほど弱い雨だったが、やがて細かな雫がいくつも窓を伝い始め、向かいのマンションの輪郭が薄く霞んでいく。
悠人は読みかけの求人情報から顔を上げ、しばらくその光景を眺めていた。
雨が降ってきた。
それだけのことなのに、胸の奥がわずかに弾んだ。
自分でも単純だと思いながら、悠人はクローゼットから薄手のコートを取り出し、玄関に置いてあった紺色の傘を手に取った。
今度は、きちんと傘を持っていこう。
そんなことを考えて部屋を出た時、スマートフォンが短く震えた。
画面には、以前勤めていた会社の同期からメッセージが届いていた。
『お疲れ。急に辞めたって聞いたけど大丈夫か? 落ち着いたら飯でも行こう』
悠人は足を止めた。
同期の名前は、佐久間亮介。
入社した頃から何かと気にかけてくれていた相手で、仕事で失敗した時にも何度か相談に乗ってもらったことがあった。
返信しようとして、指が止まる。
大丈夫だと答えるのは嘘になるし、大丈夫ではないと伝えたところで、相手を困らせてしまうだけかもしれない。
結局、悠人は画面を閉じた。
返信は、もう少し考えてからにしよう。
そう自分に言い聞かせ、雨の降る街へ歩き出した。
*
商店街へ着いた頃には、雨脚が少し強くなっていた。
アーケードの屋根を叩く雨音が響き、買い物袋を提げた人々が足早に通り過ぎていく中、悠人は三日前に立ち寄った時計店の前で足を止めた。
ショーウィンドウには古い懐中時計や腕時計が並んでおり、奥にはあの日と同じ白髪の男性が座っている。
店の前を通り過ぎようとした時、男性がふと顔を上げ、ガラス越しに悠人の姿を見つけた。
男性は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに小さく頷いた。
悠人も軽く頭を下げ、そのまま商店街の奥へ進んだ。
そして、あの場所へ差しかかった瞬間、思わず息を呑んだ。
三日前には二軒の建物が隙間なく並んでいたはずの場所に、細い路地が伸びていたのである。
雨に濡れた石畳。
古いレンガの壁。
路地の奥から漏れる、柔らかなオレンジ色の光。
すべてが、あの夜と同じだった。
悠人は傘を差したまま、しばらくその光景を見つめていた。
頭では理解できない。
建物の間に道が現れたり消えたりするなど、普通に考えればあり得ないことだったし、もし誰かに話したところで、疲れて見間違えたのだろうと言われるのが関の山だろう。
けれど、今こうして目の前に存在している以上、見間違いだったと片づけることもできなかった。
悠人はゆっくり路地へ足を踏み入れた。
石畳を踏む靴音が雨音に混じり、奥へ進むにつれて、あの懐かしい珈琲の香りが漂ってくる。
そして、ほどなくして見えてきた木製の看板には、三日前と変わらない文字が記されていた。
『喫茶 雨宿り』
悠人は思わず笑った。
「……本当にあった」
誰に聞かせるでもなく呟き、入口の前で傘を畳んだ。
扉の横には、以前と同じ小さな札が掛けられている。
『本日は営業しております』
その下には、やはり手書きで一文が添えられていた。
『雨が止むまで、どうぞごゆっくり』
悠人はその言葉を見つめながら、時計店の男性から聞いた話を思い出した。
雨が止む前に店を出てはいけない。
あの老人は、確かにそう言っていた。
しかし、前回の自分は雨が止む前に帰っているし、今のところ何かおかしなことが起きた様子もない。
それに、あの店主が客を困らせるようなことをする人物には、どうしても思えなかった。
悠人は少しだけ迷ったあと、木製の扉を開いた。
澄んだベルの音が響く。
店内には三日前と同じ温かな光が満ちており、古いジャズの旋律と珈琲の香りが、まるで悠人の帰りを待っていたかのように迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、穏やかな声が聞こえた。
白いシャツに黒いベストを着た雨宮が、いつものように珈琲を淹れている。
悠人の姿を見ると、雨宮は少しだけ目を細めた。
「またお会いできましたね、朝倉さん」
その言葉が妙に嬉しくて、悠人は自然と笑みを浮かべた。
「こんにちは。覚えててくれたんですね」
「もちろんです。三日前にいらしたばかりですから」
雨宮はそう言うと、カウンターの端に置かれた布巾を整えた。
「今日は傘をお持ちなんですね」
「前回、かなり濡れましたから」
「それはよかった。風邪など引かれませんでしたか」
「大丈夫でした。あの時はタオル、ありがとうございました」
雨宮は穏やかに頷き、店内の席を示した。
「どうぞ、お好きなところへ」
悠人は店内を見渡した。
年配の男性が新聞を読んでいた席は空いており、壁際のテーブルにも客の姿はない。
ただ、窓際の一番奥には、あの少女が座っていた。
三日前と同じように一冊の本を開き、時折窓の外へ目を向けている。
制服姿も、肩にかかる黒髪も、ほとんど変わっていなかった。
悠人は何となく安心し、前回と同じ入口近くの席へ腰を下ろした。
すると、窓際から小さな声が聞こえた。
「……また来たんですね」
悠人は顔を上げた。
少女が本から目を離し、こちらを見ていた。
「覚えててくれたの?」
「三日前ですから」
雨宮とまったく同じ答えだった。
悠人が思わず笑うと、少女は少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしかったですか」
「いや、店長さんと同じこと言うなと思って」
少女はカウンターへ視線を向けた。
雨宮は聞こえていたのか、小さく笑いながら珈琲豆を挽いている。
少女は再び悠人を見た。
「今日は、ちゃんと傘を持ってきたんですね」
「それも店長さんに言われたよ」
「そうですか」
少女は少しだけ口元を緩めた。
その笑顔を見た時、悠人は彼女が初めて年相応の少女に見えたような気がした。
*
「今日は何になさいますか」
雨宮がメニューを持ってきた。
悠人は少し考えたあと、前回と同じブレンド珈琲を注文した。
「かしこまりました。少々お待ちください」
雨宮がカウンターへ戻ろうとした時、悠人は思い切って声をかけた。
「あの、雨宮さん」
「はい」
「ちょっと聞いてもいいですか」
「もちろんです」
悠人は窓の外を見た。
雨に濡れた石畳が、街灯の光を柔らかく反射している。
「この店って、本当に雨の日しかないんですか」
雨宮は少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
あまりにも自然な返事だったため、悠人はかえって戸惑ってしまった。
「いや、営業してないって意味じゃなくて、建物ごと消えてるというか……三日前に来た時、路地そのものがなくなってたんです」
「ええ」
「ええ、って……」
悠人は思わず身を乗り出した。
「普通、おかしいと思いませんか」
雨宮は少し考えたあと、穏やかに答えた。
「朝倉さんにとっては、不思議なことかもしれませんね」
「雨宮さんにとっては違うんですか」
「私にとっては、昔からこういう店ですから」
悠人は言葉を失った。
何十年も前から営業しているという話を聞いてはいたが、まさか店主本人がここまで当たり前のように受け止めているとは思わなかった。
「……どうして雨の日だけなんですか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、カウンターの奥に置かれた古い珈琲ミルへ視線を向けた。
「雨の日には、晴れた日とは違う気持ちになることがありませんか」
悠人は眉を寄せた。
「違う気持ち?」
「ええ。普段なら気にしないことを思い出したり、忘れていた出来事が急に懐かしくなったり、誰かの言葉がいつもより深く胸に残ったり」
雨宮は穏やかな声で続けた。
「雨音を聞いていると、少しだけ自分の心と向き合いやすくなるのかもしれません」
悠人は黙って聞いていた。
「この店は、そういう時間を必要としている方が、ほんの少し休める場所であればいいと思っています」
「……それで雨の日だけ?」
「そういうことにしておきましょうか」
雨宮は微笑んだ。
悠人は思わず苦笑した。
「絶対、何か隠してますよね」
「喫茶店ですから、珈琲の淹れ方くらいは秘密にしておきたいですね」
雨宮は冗談めかして答え、カウンターへ戻っていった。
悠人はその背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
どうやら、この店の秘密を簡単に教えてもらうことはできそうにない。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、次に何を聞けばいいのか考えている自分が、少しだけ楽しかった。
*
珈琲が運ばれてくるまでの間、悠人はスマートフォンを取り出した。
佐久間からのメッセージには、まだ返信していない。
画面を開くと、朝に届いた文章がそのまま表示されていた。
『落ち着いたら飯でも行こう』
悠人はしばらくその言葉を眺めた。
以前なら、こうした誘いにはすぐに返事をしていた。
しかし仕事を辞めてからというもの、誰かと会うことに妙な抵抗を感じるようになっていた。
相手が悪いわけではない。
ただ、自分だけが何も持っていないような気がして、以前と同じように笑える自信がなかった。
スマートフォンを伏せようとした時、窓際の少女が声をかけてきた。
「返事、しないんですか」
悠人は驚いて顔を上げた。
「……え?」
「さっきから、ずっと同じ画面を見てるので」
少女は本を閉じ、こちらを見つめていた。
悠人は苦笑した。
「そんなに見てた?」
「はい」
「ちょっと、返事に困る相手でさ」
少女は少し考えたあと、静かに尋ねた。
「嫌いな人なんですか」
「いや、全然。むしろ、いいやつだよ」
「じゃあ、どうして困るんですか」
悠人は答えに詰まった。
どうしてだろう。
相手が嫌いなわけでも、会いたくないわけでもない。
ただ、今の自分を見られたくない。
そう考えていることに気づき、悠人は小さく息を吐いた。
「……情けないところ、見せたくないんだと思う」
少女は首を傾げた。
「情けないところ?」
「仕事を辞めたばっかりで、次も決まってないし。会ったら、何してるのって聞かれるだろうから」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「その人は、仕事をしているあなたに会いたいんですか」
悠人は眉を寄せた。
「どういう意味?」
「仕事をしているから友達なんですか。それとも、仕事とは関係なく友達なんですか」
悠人は何も言えなかった。
少女は特別なことを言ったつもりもないようで、再び本を開こうとしている。
けれど、その何気ない問いかけは、悠人の胸の奥に静かに残った。
佐久間とは、入社して間もない頃から仲がよかった。
仕事で失敗した時には一緒に残業してくれたし、休日にはくだらない話をしながら食事をしたこともある。
昇進した時には自分のことのように喜んでくれたし、悠人が失敗した時にも、必要以上に責めることはなかった。
そんな相手が、仕事を辞めたという理由だけで自分を見下すだろうか。
悠人はスマートフォンへ視線を落とした。
そして、ゆっくり文字を入力し始めた。
『連絡ありがとう。正直まだ整理できてないけど、少し落ち着いたら飯行こう』
送信ボタンを押すまでに少し時間がかかったが、いざ送ってしまうと、思っていたほど怖くはなかった。
悠人は小さく息を吐いた。
「……送れた」
窓際の少女が顔を上げた。
「よかったですね」
「ありがとう」
「私は何もしてませんよ」
少女はそう言って、少しだけ笑った。
悠人はその笑顔を見ながら、ふと気になって尋ねた。
「そういえば、名前聞いてなかったね」
少女は一瞬だけ動きを止めた。
それから、ゆっくり本を閉じた。
「……私の名前ですか」
「うん。俺は朝倉悠人」
「知ってます」
悠人は目を丸くした。
「え、何で?」
「この前、本に書いてたでしょう」
そう言われて、悠人はようやく思い出した。
店内の本に、自分の名前と小さな約束を書き残したことを。
「ああ、そっか」
少女は少しだけ笑った。
「私は、雨宮雫です」
「雨宮……?」
悠人は思わずカウンターへ視線を向けた。
雨宮はちょうど珈琲を注いでいるところだった。
「店長さんと同じ名字なんだ」
「はい」
「もしかして、娘さん?」
雫は少しだけ考えたあと、静かに首を横に振った。
「……違います」
「じゃあ、親戚とか?」
雫は答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
「名前が同じだからって、必ず家族とは限らないでしょう」
その声には、ほんのわずかに寂しさが混じっていた。
悠人はそれ以上尋ねるのをやめた。
初対面に近い相手へ、少し踏み込みすぎたのかもしれない。
「ごめん、変なこと聞いたね」
雫は首を横に振った。
「大丈夫です」
そして、少しだけ微笑んだ。
「名前、覚えてくださいね」
「もちろん。雨宮雫さん」
「雫でいいです」
悠人は笑った。
「じゃあ、俺も悠人でいいよ」
雫は一瞬だけ目を見開いた。
その表情があまりにも意外そうだったため、悠人は少し戸惑った。
「……どうかした?」
雫はゆっくり首を横に振った。
「いいえ」
それから、ほとんど聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……やっぱり、同じなんですね」
悠人は聞き返そうとしたが、その時、雨宮が珈琲を運んできた。
「お待たせしました」
白いカップがテーブルへ置かれる。
立ち上る湯気とともに、深く香ばしい匂いが広がった。
悠人は礼を言い、カップへ手を伸ばした。
*
二度目に飲む珈琲も、やはり不思議なほどおいしかった。
苦味の奥にある柔らかな甘さが舌に残り、飲み込むたびに身体の奥へ温かさが広がっていく。
悠人はゆっくり味わいながら、カウンターの雨宮へ声をかけた。
「ここの珈琲、本当においしいですね」
「ありがとうございます」
「豆が特別なんですか」
雨宮は少し考えたあと、穏やかに答えた。
「豆も大切ですが、それだけではありませんね」
「淹れ方ですか」
「それもあります」
雨宮は笑った。
「ただ、珈琲は飲む時の気持ちによって、随分と味が変わるものだと思っています」
悠人はカップを見つめた。
「気持ちで味が変わる?」
「ええ。忙しい朝に急いで飲む珈琲と、休日にゆっくり味わう珈琲では、同じ豆を使っていても違って感じることがあるでしょう」
確かに、その通りかもしれない。
会社に勤めていた頃、悠人は毎朝駅前のコンビニで珈琲を買い、電車を待つ間に急いで飲んでいた。
味を楽しむ余裕などなく、ただ眠気を覚ますための習慣になっていた。
けれど今は、窓の外の雨を眺めながら、一口ずつゆっくり珈琲を飲んでいる。
同じ飲み物でも、こんなに違って感じるのかと不思議に思った。
「……なるほど」
悠人が頷くと、雨宮は嬉しそうに微笑んだ。
「それに、珈琲は不思議な飲み物ですからね」
「不思議?」
「ええ。冷めてしまうと、最初とは違う味になります」
悠人は笑った。
「それは普通じゃないですか」
「そうですね」
雨宮も笑った。
しかし、そのあとに続いた言葉は、悠人の予想とは少し違っていた。
「だからこそ、温かいうちに飲んでいただきたいんです」
雨宮は静かに続けた。
「いつまでも温かいままのものなんて、普通はありませんから」
悠人はカップを見つめた。
何気ない言葉だったが、なぜか少しだけ寂しく聞こえた。
その時、窓際の雫が小さく呟いた。
「……でも、ここの珈琲は冷めませんよ」
悠人は顔を上げた。
「え?」
雫は本から目を離さず、静かに続けた。
「少なくとも、まだ帰りたくない人の珈琲は」
悠人は思わず笑った。
「そんなわけないでしょ」
雫は答えなかった。
ただ、少しだけ意味ありげに微笑んだ。
悠人はカップへ視線を戻した。
そういえば、さっきから随分と時間が経っているはずなのに、珈琲はまだ十分に温かい。
もちろん、厚手のカップを使っているのかもしれないし、店内が暖かいせいかもしれない。
悠人はそう考えながら、もう一口飲んだ。
しかし、その時だった。
カップの表面に、小さな波紋が広がった。
誰かがテーブルを揺らしたわけでもない。
悠人自身も、カップへ触れていなかった。
それなのに、珈琲の表面には細かな波紋がいくつも広がり、まるで見えない雨粒が落ちているかのように揺れていた。
悠人は思わず息を止めた。
「……何だ、これ」
波紋はすぐに消えた。
気のせいだったのだろうか。
そう思って顔を上げると、雫がこちらを見つめていた。
「……見えました?」
悠人は眉を寄せた。
「今の、何?」
雫は答えなかった。
代わりに、カウンターの雨宮へ視線を向けた。
雨宮はしばらく悠人のカップを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「朝倉さん」
「はい」
「もしよろしければ、少しだけ昔の話をしてもいいでしょうか」
悠人は戸惑いながら頷いた。
「……昔の話?」
「ええ。この店が、まだ普通の喫茶店だった頃の話です」
*
雨宮はカウンターの奥から一枚の古い写真を取り出した。
写真には、若い頃の雨宮と思われる男性が写っていた。
今よりも髪が黒く、表情にもどこか若々しさが残っている。
その隣には、優しそうな笑顔の女性が立っていた。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、淡い色のワンピースを着た女性は、カメラに向かって少し照れくさそうに微笑んでいる。
「……奥さんですか」
悠人が尋ねると、雨宮は静かに頷いた。
「ええ。妻の千尋です」
その名前を口にした時、雨宮の表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
「この店は、もともと妻と二人で始めたんです」
「そうだったんですね」
「ええ。若い頃から、いつか小さな喫茶店を開きたいと話していましてね。大きな店でなくてもいいから、雨の日にふらっと立ち寄れるような、温かい場所を作りたかったんです」
雨宮は写真を見つめながら続けた。
「妻は、雨の日が好きでした」
「雨の日が?」
「ええ。晴れた日には皆さん急いでどこかへ向かいますが、雨の日には少しだけ歩く速度が遅くなるでしょう。傘を差して立ち止まったり、軒先で雨宿りをしたり、普段なら気づかない景色に目を向けたり」
雨宮は小さく笑った。
「妻は、そういう時間が好きだったんです」
悠人は黙って聞いていた。
「だから店の名前も、妻が決めました。雨の日にしか来られない店ではなく、雨の日にも来たくなる店にしたいと言っていましたね」
悠人は写真を見つめた。
そこに写る女性の笑顔は、どこか温かく、見ているだけで安心するような不思議な魅力があった。
「……素敵な人ですね」
悠人がそう言うと、雨宮は少しだけ目を細めた。
「ええ。私には、もったいないくらいの人でした」
その言葉には、懐かしさとともに、何か深い後悔のようなものが滲んでいた。
悠人は少し迷ったあと、静かに尋ねた。
「奥さんは、今も……」
雨宮は答えるまでに少し時間をかけた。
「……遠いところへ行ってしまいました」
それ以上は聞かなかった。
雨宮の表情を見れば、今は詳しく尋ねるべきではないことが分かったからだ。
しばらくの間、二人の間には静かな沈黙が流れた。
窓の外では雨が降り続いており、店内の時計が規則正しく時を刻んでいる。
やがて雨宮は写真を元の場所へ戻し、穏やかな声で続けた。
「妻はよく、こんなことを言っていました」
悠人は顔を上げた。
「どんなことですか」
「人は、誰かに何かをしてもらった時だけ救われるわけではない、と」
雨宮は少しだけ微笑んだ。
「ただ話を聞いてもらったり、何も言わずに隣へ座ってもらったり、温かい飲み物を一緒に飲んだりするだけで、もう少し頑張ってみようと思えることがあるんだそうです」
悠人は何も言えなかった。
三日前の自分が、まさにそうだったからだ。
雨宮は仕事を紹介してくれたわけでも、失敗をなかったことにしてくれたわけでもない。
ただ、話を聞いてくれた。
そして、無理に元気を出さなくてもいいと言ってくれた。
それだけで、あの夜の悠人は少しだけ救われた気がしていた。
「……奥さんの言ってたこと、何となく分かる気がします」
悠人がそう言うと、雨宮は嬉しそうに微笑んだ。
「そうですか」
「はい。俺も、ここに来てから少しだけ変わったので」
雨宮は静かに頷いた。
「それなら、妻も喜ぶと思います」
*
それからしばらく、悠人は雨宮と他愛のない話をして過ごした。
珈琲の淹れ方や昔の商店街の様子、雨の日に訪れる客のことなど、特別な話題ではなかったが、どれも不思議と興味深かった。
雨宮は客の話をする時、決して名前や詳しい事情を明かさなかった。
ただ、何十年も前にこの店へ来た人が、久しぶりに訪ねてきてくれたことや、長い間悩んでいた人が、ある日ふっと明るい顔になったことなどを、懐かしそうに話してくれた。
悠人はその話を聞きながら、三日前に見つけた本のことを思い出した。
あの本には、たくさんの人の小さな約束が記されていた。
誰かに謝る。
夢をもう一度追いかける。
家族へ電話をかける。
そして、自分が書いた朝食の約束。
もしかすると、この店には、自分と同じように何かにつまずいた人たちが、長い年月をかけて訪れてきたのかもしれない。
そう考えると、何となく胸が温かくなった。
その時、スマートフォンが短く震えた。
画面には佐久間からの返信が表示されていた。
『無理に話さなくていいよ。飯食ってくだらない話するだけでもいいし。来週あたり空いてたら連絡して』
悠人はしばらくその文章を見つめた。
そして、自然と笑みがこぼれた。
やっぱり、佐久間は昔から変わらない。
自分が勝手に距離を置こうとしていただけで、相手は何も変わっていなかったのかもしれない。
悠人は短く返信した。
『ありがとう。来週、連絡する』
送信ボタンを押すと、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
「いいことがありましたか」
雨宮が尋ねた。
悠人は顔を上げた。
「……友達から連絡が来たんです」
「それはよかったですね」
「はい。ちょっと、会ってみようかなって思って」
雨宮は嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、お友達も喜ばれると思いますよ」
悠人は小さく頷いた。
窓際の雫が、こちらを見ていた。
目が合うと、雫は少しだけ笑った。
悠人も笑い返した。
その時、ふと気づいた。
店へ入ってから、もう二時間近く経っている。
それなのに、テーブルの上に置かれた珈琲からは、まだ細い湯気が立ち上っていた。
悠人は思わずカップへ手を伸ばした。
指先に伝わる温かさは、淹れたばかりの時とほとんど変わっていない。
さすがにおかしい。
厚手のカップだからという理由だけでは、説明できない気がした。
「……雨宮さん」
「はい」
「この珈琲、本当に冷めないんですか」
雨宮は少しだけ目を細めた。
そして、静かに答えた。
「朝倉さんは、どう思われますか」
悠人はカップを見つめた。
「……普通じゃないと思います」
「そうですね」
雨宮は穏やかに頷いた。
「ただ、冷めないことが大切なのではありません」
「どういう意味ですか」
雨宮は窓の外へ視線を向けた。
「温かいうちに、何を思い出すかが大切なんです」
悠人は眉を寄せた。
「……思い出す?」
雨宮は答えなかった。
代わりに、カップの中を見つめるよう促した。
「少しだけ、珈琲の香りを確かめてみてください」
悠人は戸惑いながらも、カップを持ち上げた。
深く息を吸い込む。
香ばしい珈琲の匂いが鼻をくすぐった。
その瞬間だった。
胸の奥に、何か懐かしい感覚が広がった。
遠い昔、どこかで嗅いだことのある匂い。
それは、珈琲の香りだけではなかった。
雨に濡れた木の匂い。
温かいミルクの甘い匂い。
そして、誰かが焼いてくれたパンの香り。
悠人は思わず目を閉じた。
すると、まぶたの裏に一つの光景が浮かんだ。
古い木製のテーブル。
小さな白いカップ。
窓の外で降り続く雨。
そして、誰かの優しい声。
『悠人、こっちにおいで』
悠人は息を止めた。
聞き覚えのある声だった。
しかし、誰の声なのか思い出せない。
『今日は雨だから、ここで少し休んでいこうね』
女性の声。
柔らかく、どこか懐かしい声。
その声を聞いた瞬間、悠人の胸が強く締めつけられた。
懐かしい。
どうしようもなく懐かしい。
けれど、どれだけ思い出そうとしても、声の主の顔だけが浮かんでこなかった。
「……朝倉さん」
雨宮の声が聞こえた。
悠人ははっとして目を開けた。
目の前には、いつもの喫茶店が広がっていた。
窓の外では雨が降り続き、古いジャズが静かに流れている。
悠人はしばらく言葉を失っていた。
「……今の、何だったんですか」
雨宮は静かに尋ねた。
「何か、思い出されましたか」
悠人はゆっくり頷いた。
「……子供の頃の記憶みたいなものが」
「そうですか」
「でも、変なんです。俺、こんな場所に来たことないはずなのに」
雨宮は何も言わなかった。
悠人はカップを見つめた。
「誰かが俺の名前を呼んでたんです。女の人の声で……」
そこで、悠人は言葉を止めた。
何かが引っかかった。
今の記憶の中で、女性は自分を呼んでいた。
悠人。
確かに、そう呼んでいた。
けれど、もう一つだけ、どうしても気になることがあった。
あの声は、自分を呼ぶ前に、誰か別の人へ話しかけていたような気がする。
誰だったのだろう。
思い出そうとすると、記憶の輪郭が少しずつ薄れていく。
悠人は額に手を当てた。
「……駄目だ。思い出せない」
雨宮は静かに頷いた。
「無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
「記憶というものは、不思議なものです。忘れていたと思っていたことが、ある日突然、何でもないきっかけで戻ってくることがありますから」
悠人は黙って聞いていた。
「それに、今すぐ思い出す必要があるとは限りません」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「思い出せる時が来たら、きっと自然に思い出せますよ」
悠人は小さく頷いた。
しかし、胸の奥には、先ほどの女性の声がいつまでも残っていた。
*
午後七時を過ぎた頃、店内には新しい客が一人入ってきた。
年齢は六十代後半ほどだろうか。
灰色のコートを着た男性は、濡れた傘を入口の傘立てへ入れると、慣れた様子でカウンター席へ腰を下ろした。
「こんばんは、雨宮さん」
「いらっしゃいませ、佐伯さん」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「今日は随分とお久しぶりですね」
「ええ。ようやく来られました」
男性はそう言って、小さく笑った。
悠人は何気なくその会話を聞いていたが、佐伯という名前に覚えがあるような気がした。
どこで聞いたのだろう。
少し考えて、思い出した。
三日前に見た、あの本だ。
『六月十二日 佐伯和夫』
『四十年間、謝れなかった人に、ようやく謝ることができた』
もしかすると、目の前の男性がその本人なのだろうか。
悠人がそんなことを考えていると、佐伯と呼ばれた男性がこちらへ視線を向けた。
「おや、初めて見る顔ですね」
悠人は軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「こんばんは。若い方がいらっしゃるのは珍しいですね」
佐伯は穏やかに笑った。
「私も、最初にこの店へ来た時は、あなたくらいの年齢でしたよ」
悠人は驚いた。
「そんな昔から来てるんですか」
「ええ。もう四十年以上になりますかね」
佐伯は懐かしそうに店内を見渡した。
「不思議なもので、この店は昔から何も変わらないんです」
悠人は思わず雨宮へ視線を向けた。
雨宮は何も言わず、静かに珈琲を淹れている。
佐伯はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「雨宮さんも、昔から変わりませんね」
悠人は思わず聞き返した。
「……昔から?」
「ええ。初めて会った頃から、ほとんど同じ顔をしていらっしゃる」
佐伯は冗談めかして笑った。
「私ばかり年を取ってしまいました」
悠人は雨宮を見つめた。
雨宮は困ったように微笑んだ。
「佐伯さん、それは少し大げさですよ」
「そうですかね」
佐伯は楽しそうに笑った。
しかし、悠人は笑えなかった。
四十年以上前から、ほとんど変わらない店主。
雨の日だけ現れる喫茶店。
そして、冷めない珈琲。
どれも普通ではない。
けれど、目の前の人々は、その不思議さを当然のこととして受け入れているようだった。
悠人はもう一度、カップへ視線を落とした。
珈琲はまだ温かかった。
*
佐伯が帰ったのは、それから一時間ほど経った頃だった。
雨は少しずつ弱まり、窓の外には細かな霧雨が漂っている。
悠人は時計を確認した。
午後八時二十分。
そろそろ帰らなければと思ったが、まだ店を出る気にはなれなかった。
あの時計店の老人が言っていたことも気になっている。
雨が止む前に店を出てはいけない。
しかし、前回は雨が降っている間に帰ってしまった。
そのことを雨宮へ尋ねようか迷っていると、窓際の雫が静かに口を開いた。
「悠人さん」
初めて名前で呼ばれたことに、悠人は少し驚いた。
「……何?」
「今日は、もう少しゆっくりしていってください」
悠人は窓の外を見た。
「雨、もうすぐ止みそうだけど」
「だからです」
雫は静かに答えた。
悠人は眉を寄せた。
「どういうこと?」
雫は少しだけ迷ったあと、ゆっくり口を開いた。
「……前に来た時、雨が止む前に帰りましたよね」
悠人は息を止めた。
「何で分かるの?」
「見ていたからです」
「でも、別に何もなかったよ」
雫は答えなかった。
ただ、悠人をじっと見つめていた。
その表情には、これまで見せたことのない真剣さがあった。
「……本当に、何もありませんでしたか」
悠人は戸惑った。
「どういう意味?」
雫は視線を落とした。
「帰ったあと、何か忘れたことはありませんでしたか」
悠人は考えた。
店を出たあと、普通に帰宅した。
翌朝は朝食を作り、昼には散歩へ出かけた。
そして、晴れた日に喫茶店を探しに行った。
特に変わったことはなかったはずだ。
しかし、その時、悠人はふと一つのことに気づいた。
三日前の夜。
喫茶店を出てから、自宅へ帰るまでの道のりを、ほとんど思い出せない。
どの道を通ったのか。
途中でコンビニへ寄ったのか。
誰かとすれ違ったのか。
その記憶が、妙に曖昧だった。
「……そういえば」
悠人が呟くと、雫は静かに顔を上げた。
「思い出しましたか」
「いや、思い出せないっていうか……」
悠人は額に手を当てた。
「店を出てから家に帰るまで、何してたかあんまり覚えてないんだ」
雫の表情がわずかに変わった。
その様子を見て、悠人は胸の奥に冷たいものを感じた。
「……何か知ってるの?」
雫は答えなかった。
代わりに、カウンターの雨宮へ視線を向けた。
雨宮は静かに頷いた。
「朝倉さん」
悠人は振り返った。
「はい」
「少しだけ、お話ししておいた方がいいことがあります」
雨宮はゆっくりカウンターから出てきた。
「この店には、一つだけ大切な決まりがあるんです」
悠人は息を止めた。
雨宮は窓の外へ視線を向けた。
「雨が止むまでは、できるだけ店内でお過ごしください」
悠人は眉を寄せた。
「……どうしてですか」
雨宮は少しだけ目を細めた。
「この店は、雨が降っている間だけ、こちらの世界とつながっています」
悠人は何も言えなかった。
「雨が止めば、店は元の場所へ戻ります。けれど、雨が降っている途中で外へ出ると、まれに道が少しだけずれてしまうことがあるんです」
「……道が、ずれる?」
「ええ」
雨宮は静かに頷いた。
「ほとんどの場合は、少し遠回りをして帰るだけで済みます。ただ、ごくまれに、帰り道の記憶が曖昧になる方もいらっしゃいます」
悠人は言葉を失った。
自分が経験したことと、あまりにもよく似ていたからだ。
「……じゃあ、俺は」
「ご心配なさらないでください」
雨宮は穏やかに続けた。
「朝倉さんは、ちゃんと元の場所へ戻れていますから」
悠人は小さく息を吐いた。
しかし、疑問は次々と浮かんでくる。
「そもそも、元の場所って何ですか。この店は、どこにあるんですか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
「……いつか、きちんとお話しします」
悠人は眉を寄せた。
「今じゃ駄目なんですか」
「今は、まだ」
その言葉を聞いた瞬間、悠人は昼間の雫の言葉を思い出した。
やっぱり、同じなんですね。
そして、雨宮が写真を見つめながら言った言葉。
思い出せる時が来たら、きっと自然に思い出せますよ。
悠人は二人を交互に見つめた。
何かを知っている。
自分だけが知らない、何かを。
その確信が、胸の奥で少しずつ強くなっていった。
*
午後九時を過ぎた頃、雨が止んだ。
窓ガラスを伝っていた雫がゆっくり落ち、路地の奥に広がっていた雨の幕が静かに消えていく。
その瞬間、店内の照明がほんのわずかに揺れた。
悠人は顔を上げた。
雨宮はカウンターの時計を確認し、穏やかに微笑んだ。
「……止みましたね」
雫も本を閉じた。
悠人は窓の外を見た。
濡れた石畳には街灯の光が反射しているものの、空から落ちてくる雨粒はもう見えなかった。
「これで、帰っても大丈夫なんですか」
悠人が尋ねると、雨宮は静かに頷いた。
「ええ。今夜は、もう大丈夫です」
悠人は小さく息を吐いた。
何となく安心したような、それでいて少し名残惜しいような気持ちだった。
会計を済ませ、コートを羽織る。
入口へ向かう途中、悠人はふと窓際の雫へ声をかけた。
「雫」
少女が顔を上げた。
「……はい」
「今日はありがとう」
雫は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「何もしてませんよ」
「いや、友達に返信できたし。それに、いろいろ教えてくれたから」
雫は少しだけ微笑んだ。
「……また来てくださいね」
「うん。また雨が降ったら」
悠人がそう答えると、雫は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた。
しかし、すぐにいつもの穏やかな顔へ戻った。
「待ってます」
その声が妙に胸に残った。
悠人は雨宮へ頭を下げた。
「今日もありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「朝倉さん」
「はい」
「今日、何か一つでも、持ち帰れるものはありましたか」
悠人は少し考えた。
冷めない珈琲。
懐かしい女性の声。
雨の日だけ現れる喫茶店の秘密。
そして、佐久間へ送ったメッセージ。
どれも不思議で、まだ整理できないことばかりだった。
けれど、その中で一つだけ、はっきりしていることがあった。
「……明日、履歴書の続きを書こうと思います」
雨宮は静かに微笑んだ。
「それは、いいですね」
「まだ何をしたいか分からないし、次の仕事が見つかるかも分からないですけど」
悠人は少しだけ笑った。
「とりあえず、途中で止まってるものを、ちゃんと終わらせてみようかなって」
雨宮は嬉しそうに頷いた。
「ええ。それで十分だと思います」
悠人は小さく頭を下げ、扉を開いた。
外には、雨上がりの静かな夜が広がっていた。
濡れた石畳に街灯の光が映り込み、遠くから車の走る音が聞こえてくる。
悠人は傘を持ったまま、ゆっくり路地を歩き始めた。
そして、商店街へ出たところで振り返った。
細い路地は、まだそこにあった。
けれど、奥に見えていたはずの喫茶店の灯りが、少しずつ薄くなっていく。
悠人は目を凝らした。
すると、まるで遠くの景色が霧に包まれていくように、レンガ造りの建物がゆっくり霞み始めた。
看板の文字が見えなくなり、窓から漏れるオレンジ色の光が消え、最後には路地そのものが静かに閉じていった。
悠人は息を止めたまま、その光景を見つめていた。
数秒後。
目の前には、二軒の古い建物が隙間なく並んでいた。
三日前と同じだった。
悠人はしばらく動けなかった。
しかし、不思議と怖くはなかった。
あの店は、確かに存在している。
雨が降れば、また会える。
そう思えたからだ。
悠人は小さく笑い、帰り道を歩き始めた。
*
その夜、喫茶「雨宿り」の店内では、雨宮が一人でカウンターを拭いていた。
窓の外には、見慣れた雨の景色が広がっている。
こちらの世界では、まだ雨が降り続いていた。
雫は窓際の席に座り、閉じた本を膝の上へ置いている。
「……思い出しかけていましたね」
雫が静かに呟いた。
雨宮は手を止めた。
「ええ」
「珈琲を飲んだ時、あの人の声が聞こえたんでしょう」
「そうでしょうね」
雨宮は穏やかに答えた。
雫は少しだけ眉を寄せた。
「……本当に、これでいいんですか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、カウンターの奥に飾られた古い写真へ視線を向けた。
若い頃の雨宮。
優しく微笑む妻の千尋。
そして、その腕に抱かれた小さな男の子。
雨宮は写真を手に取ると、静かに指先で表面をなぞった。
「……あの子は、まだ何も知りません」
雫は黙って聞いていた。
「自分がここへ来たことも、あの日に何があったのかも、そして千尋が何を願っていたのかも」
雨宮の声には、深い懐かしさが滲んでいた。
「でも、少しずつ思い出している」
雫が呟いた。
雨宮は頷いた。
「ええ。だからこそ、急いではいけないんです」
雫は写真を見つめた。
「……あの人が全部思い出したら、どうなるんでしょう」
雨宮はしばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「その時は、私たちも決めなければなりません」
「……何を?」
雨宮は写真を元の場所へ戻した。
そして、窓の外で降り続く雨を見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「この店を、いつまで続けるのかを」
雫は何も言えなかった。
雨宮は静かに微笑んだ。
「長い間、待ちましたからね」
その言葉には、何十年という時間の重みが込められていた。
雫は膝の上の本を開いた。
その本の最初のページには、古い文字で一つの文章が記されていた。
『雨が止んだあとも、忘れないでいてください』
雫はその文字を指先でなぞり、静かに目を閉じた。
「……悠人さん」
誰にも聞こえないほど小さな声で、名前を呼んだ。
その時、カウンターの奥に置かれていた一つの白い珈琲カップから、細い湯気が立ち上った。
誰も座っていない席。
誰も口をつけていない珈琲。
それなのに、カップの中には温かな珈琲が満たされていた。
雨宮はそのカップを見つめ、静かに呟いた。
「……まだ、冷めませんね」
雫は小さく頷いた。
「はい」
雨宮はしばらくカップを見つめていたが、やがて穏やかな声で続けた。
「それなら、まだ大丈夫です」
窓の外では、雨が降り続いていた。
何十年も前から、誰かの帰りを待ち続けるように。
そして、カウンターの奥に置かれた古い写真の裏側には、悠人がまだ知らない、もう一つの言葉が記されていた。
『この子が自分の人生を好きになれた時、どうか本当のことを話してあげてください』
雨宮はその言葉を見つめながら、静かに目を閉じた。
あの日から、長い年月が過ぎていた。
それでも、約束はまだ終わっていなかった。
第二章 冷めない珈琲 完
――第三章「窓際の少女」へ続く。
三日後の金曜日、朝倉悠人は朝から何度も窓の外を眺めていた。
天気予報では午後から雨になると言っていたものの、午前中の空には薄い雲が広がっているだけで、時折その隙間から差し込む陽射しが、ベランダに干した洗濯物を静かに照らしていた。
以前の悠人なら、せっかく洗濯した日に雨が降ると聞けば、それだけで少し憂鬱になっていたはずだが、今日は違っていた。
雨が降るのを待っている。
そんな自分が何だかおかしくて、悠人は窓際に立ったまま小さく笑った。
あの喫茶店へ行った夜から、生活が劇的に変わったわけではなかった。
相変わらず仕事は見つかっていないし、通帳に残された貯金を確認すれば、これから先の生活をどうするべきかという現実的な不安が胸の奥へ重く沈んでくる。
昨日も求人サイトを開いては閉じることを繰り返し、履歴書の職歴欄に以前の会社名を入力したところで手が止まってしまった。
五年間働いた会社を辞めた理由を、次の面接ではどう説明すればいいのだろう。
自分の失敗を正直に話せば採用されないかもしれないし、かといって都合のいい言葉で取り繕うことにも抵抗があった。
結局、履歴書は途中までしか完成せず、パソコンの画面には保存されていない入力欄がそのまま残っている。
それでも、以前とは一つだけ違うことがあった。
朝になると、悠人は必ず台所へ立つようになっていた。
目玉焼きとトーストだけの日もあれば、冷凍していたご飯を温め、即席の味噌汁を作るだけの日もあったが、どんなに簡単なものでも朝食を用意し、テーブルへ座って食べることを続けていた。
たった三日間のことなのに、それだけで生活の輪郭が少しずつ戻ってくるような気がしていた。
もちろん、朝食を食べたからといって失業した事実が消えるわけではない。
けれど、自分で決めた小さな約束を守れたという感覚は、何もできないと思い込んでいた悠人にとって、思いのほか大きな意味を持っていた。
あの夜、喫茶店で書いた言葉を思い出すたび、悠人は不思議と少しだけ気持ちが軽くなるのだった。
午後三時を過ぎた頃、窓ガラスに小さな雨粒が当たった。
最初は気のせいかと思うほど弱い雨だったが、やがて細かな雫がいくつも窓を伝い始め、向かいのマンションの輪郭が薄く霞んでいく。
悠人は読みかけの求人情報から顔を上げ、しばらくその光景を眺めていた。
雨が降ってきた。
それだけのことなのに、胸の奥がわずかに弾んだ。
自分でも単純だと思いながら、悠人はクローゼットから薄手のコートを取り出し、玄関に置いてあった紺色の傘を手に取った。
今度は、きちんと傘を持っていこう。
そんなことを考えて部屋を出た時、スマートフォンが短く震えた。
画面には、以前勤めていた会社の同期からメッセージが届いていた。
『お疲れ。急に辞めたって聞いたけど大丈夫か? 落ち着いたら飯でも行こう』
悠人は足を止めた。
同期の名前は、佐久間亮介。
入社した頃から何かと気にかけてくれていた相手で、仕事で失敗した時にも何度か相談に乗ってもらったことがあった。
返信しようとして、指が止まる。
大丈夫だと答えるのは嘘になるし、大丈夫ではないと伝えたところで、相手を困らせてしまうだけかもしれない。
結局、悠人は画面を閉じた。
返信は、もう少し考えてからにしよう。
そう自分に言い聞かせ、雨の降る街へ歩き出した。
*
商店街へ着いた頃には、雨脚が少し強くなっていた。
アーケードの屋根を叩く雨音が響き、買い物袋を提げた人々が足早に通り過ぎていく中、悠人は三日前に立ち寄った時計店の前で足を止めた。
ショーウィンドウには古い懐中時計や腕時計が並んでおり、奥にはあの日と同じ白髪の男性が座っている。
店の前を通り過ぎようとした時、男性がふと顔を上げ、ガラス越しに悠人の姿を見つけた。
男性は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに小さく頷いた。
悠人も軽く頭を下げ、そのまま商店街の奥へ進んだ。
そして、あの場所へ差しかかった瞬間、思わず息を呑んだ。
三日前には二軒の建物が隙間なく並んでいたはずの場所に、細い路地が伸びていたのである。
雨に濡れた石畳。
古いレンガの壁。
路地の奥から漏れる、柔らかなオレンジ色の光。
すべてが、あの夜と同じだった。
悠人は傘を差したまま、しばらくその光景を見つめていた。
頭では理解できない。
建物の間に道が現れたり消えたりするなど、普通に考えればあり得ないことだったし、もし誰かに話したところで、疲れて見間違えたのだろうと言われるのが関の山だろう。
けれど、今こうして目の前に存在している以上、見間違いだったと片づけることもできなかった。
悠人はゆっくり路地へ足を踏み入れた。
石畳を踏む靴音が雨音に混じり、奥へ進むにつれて、あの懐かしい珈琲の香りが漂ってくる。
そして、ほどなくして見えてきた木製の看板には、三日前と変わらない文字が記されていた。
『喫茶 雨宿り』
悠人は思わず笑った。
「……本当にあった」
誰に聞かせるでもなく呟き、入口の前で傘を畳んだ。
扉の横には、以前と同じ小さな札が掛けられている。
『本日は営業しております』
その下には、やはり手書きで一文が添えられていた。
『雨が止むまで、どうぞごゆっくり』
悠人はその言葉を見つめながら、時計店の男性から聞いた話を思い出した。
雨が止む前に店を出てはいけない。
あの老人は、確かにそう言っていた。
しかし、前回の自分は雨が止む前に帰っているし、今のところ何かおかしなことが起きた様子もない。
それに、あの店主が客を困らせるようなことをする人物には、どうしても思えなかった。
悠人は少しだけ迷ったあと、木製の扉を開いた。
澄んだベルの音が響く。
店内には三日前と同じ温かな光が満ちており、古いジャズの旋律と珈琲の香りが、まるで悠人の帰りを待っていたかのように迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、穏やかな声が聞こえた。
白いシャツに黒いベストを着た雨宮が、いつものように珈琲を淹れている。
悠人の姿を見ると、雨宮は少しだけ目を細めた。
「またお会いできましたね、朝倉さん」
その言葉が妙に嬉しくて、悠人は自然と笑みを浮かべた。
「こんにちは。覚えててくれたんですね」
「もちろんです。三日前にいらしたばかりですから」
雨宮はそう言うと、カウンターの端に置かれた布巾を整えた。
「今日は傘をお持ちなんですね」
「前回、かなり濡れましたから」
「それはよかった。風邪など引かれませんでしたか」
「大丈夫でした。あの時はタオル、ありがとうございました」
雨宮は穏やかに頷き、店内の席を示した。
「どうぞ、お好きなところへ」
悠人は店内を見渡した。
年配の男性が新聞を読んでいた席は空いており、壁際のテーブルにも客の姿はない。
ただ、窓際の一番奥には、あの少女が座っていた。
三日前と同じように一冊の本を開き、時折窓の外へ目を向けている。
制服姿も、肩にかかる黒髪も、ほとんど変わっていなかった。
悠人は何となく安心し、前回と同じ入口近くの席へ腰を下ろした。
すると、窓際から小さな声が聞こえた。
「……また来たんですね」
悠人は顔を上げた。
少女が本から目を離し、こちらを見ていた。
「覚えててくれたの?」
「三日前ですから」
雨宮とまったく同じ答えだった。
悠人が思わず笑うと、少女は少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしかったですか」
「いや、店長さんと同じこと言うなと思って」
少女はカウンターへ視線を向けた。
雨宮は聞こえていたのか、小さく笑いながら珈琲豆を挽いている。
少女は再び悠人を見た。
「今日は、ちゃんと傘を持ってきたんですね」
「それも店長さんに言われたよ」
「そうですか」
少女は少しだけ口元を緩めた。
その笑顔を見た時、悠人は彼女が初めて年相応の少女に見えたような気がした。
*
「今日は何になさいますか」
雨宮がメニューを持ってきた。
悠人は少し考えたあと、前回と同じブレンド珈琲を注文した。
「かしこまりました。少々お待ちください」
雨宮がカウンターへ戻ろうとした時、悠人は思い切って声をかけた。
「あの、雨宮さん」
「はい」
「ちょっと聞いてもいいですか」
「もちろんです」
悠人は窓の外を見た。
雨に濡れた石畳が、街灯の光を柔らかく反射している。
「この店って、本当に雨の日しかないんですか」
雨宮は少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
あまりにも自然な返事だったため、悠人はかえって戸惑ってしまった。
「いや、営業してないって意味じゃなくて、建物ごと消えてるというか……三日前に来た時、路地そのものがなくなってたんです」
「ええ」
「ええ、って……」
悠人は思わず身を乗り出した。
「普通、おかしいと思いませんか」
雨宮は少し考えたあと、穏やかに答えた。
「朝倉さんにとっては、不思議なことかもしれませんね」
「雨宮さんにとっては違うんですか」
「私にとっては、昔からこういう店ですから」
悠人は言葉を失った。
何十年も前から営業しているという話を聞いてはいたが、まさか店主本人がここまで当たり前のように受け止めているとは思わなかった。
「……どうして雨の日だけなんですか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、カウンターの奥に置かれた古い珈琲ミルへ視線を向けた。
「雨の日には、晴れた日とは違う気持ちになることがありませんか」
悠人は眉を寄せた。
「違う気持ち?」
「ええ。普段なら気にしないことを思い出したり、忘れていた出来事が急に懐かしくなったり、誰かの言葉がいつもより深く胸に残ったり」
雨宮は穏やかな声で続けた。
「雨音を聞いていると、少しだけ自分の心と向き合いやすくなるのかもしれません」
悠人は黙って聞いていた。
「この店は、そういう時間を必要としている方が、ほんの少し休める場所であればいいと思っています」
「……それで雨の日だけ?」
「そういうことにしておきましょうか」
雨宮は微笑んだ。
悠人は思わず苦笑した。
「絶対、何か隠してますよね」
「喫茶店ですから、珈琲の淹れ方くらいは秘密にしておきたいですね」
雨宮は冗談めかして答え、カウンターへ戻っていった。
悠人はその背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
どうやら、この店の秘密を簡単に教えてもらうことはできそうにない。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、次に何を聞けばいいのか考えている自分が、少しだけ楽しかった。
*
珈琲が運ばれてくるまでの間、悠人はスマートフォンを取り出した。
佐久間からのメッセージには、まだ返信していない。
画面を開くと、朝に届いた文章がそのまま表示されていた。
『落ち着いたら飯でも行こう』
悠人はしばらくその言葉を眺めた。
以前なら、こうした誘いにはすぐに返事をしていた。
しかし仕事を辞めてからというもの、誰かと会うことに妙な抵抗を感じるようになっていた。
相手が悪いわけではない。
ただ、自分だけが何も持っていないような気がして、以前と同じように笑える自信がなかった。
スマートフォンを伏せようとした時、窓際の少女が声をかけてきた。
「返事、しないんですか」
悠人は驚いて顔を上げた。
「……え?」
「さっきから、ずっと同じ画面を見てるので」
少女は本を閉じ、こちらを見つめていた。
悠人は苦笑した。
「そんなに見てた?」
「はい」
「ちょっと、返事に困る相手でさ」
少女は少し考えたあと、静かに尋ねた。
「嫌いな人なんですか」
「いや、全然。むしろ、いいやつだよ」
「じゃあ、どうして困るんですか」
悠人は答えに詰まった。
どうしてだろう。
相手が嫌いなわけでも、会いたくないわけでもない。
ただ、今の自分を見られたくない。
そう考えていることに気づき、悠人は小さく息を吐いた。
「……情けないところ、見せたくないんだと思う」
少女は首を傾げた。
「情けないところ?」
「仕事を辞めたばっかりで、次も決まってないし。会ったら、何してるのって聞かれるだろうから」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「その人は、仕事をしているあなたに会いたいんですか」
悠人は眉を寄せた。
「どういう意味?」
「仕事をしているから友達なんですか。それとも、仕事とは関係なく友達なんですか」
悠人は何も言えなかった。
少女は特別なことを言ったつもりもないようで、再び本を開こうとしている。
けれど、その何気ない問いかけは、悠人の胸の奥に静かに残った。
佐久間とは、入社して間もない頃から仲がよかった。
仕事で失敗した時には一緒に残業してくれたし、休日にはくだらない話をしながら食事をしたこともある。
昇進した時には自分のことのように喜んでくれたし、悠人が失敗した時にも、必要以上に責めることはなかった。
そんな相手が、仕事を辞めたという理由だけで自分を見下すだろうか。
悠人はスマートフォンへ視線を落とした。
そして、ゆっくり文字を入力し始めた。
『連絡ありがとう。正直まだ整理できてないけど、少し落ち着いたら飯行こう』
送信ボタンを押すまでに少し時間がかかったが、いざ送ってしまうと、思っていたほど怖くはなかった。
悠人は小さく息を吐いた。
「……送れた」
窓際の少女が顔を上げた。
「よかったですね」
「ありがとう」
「私は何もしてませんよ」
少女はそう言って、少しだけ笑った。
悠人はその笑顔を見ながら、ふと気になって尋ねた。
「そういえば、名前聞いてなかったね」
少女は一瞬だけ動きを止めた。
それから、ゆっくり本を閉じた。
「……私の名前ですか」
「うん。俺は朝倉悠人」
「知ってます」
悠人は目を丸くした。
「え、何で?」
「この前、本に書いてたでしょう」
そう言われて、悠人はようやく思い出した。
店内の本に、自分の名前と小さな約束を書き残したことを。
「ああ、そっか」
少女は少しだけ笑った。
「私は、雨宮雫です」
「雨宮……?」
悠人は思わずカウンターへ視線を向けた。
雨宮はちょうど珈琲を注いでいるところだった。
「店長さんと同じ名字なんだ」
「はい」
「もしかして、娘さん?」
雫は少しだけ考えたあと、静かに首を横に振った。
「……違います」
「じゃあ、親戚とか?」
雫は答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
「名前が同じだからって、必ず家族とは限らないでしょう」
その声には、ほんのわずかに寂しさが混じっていた。
悠人はそれ以上尋ねるのをやめた。
初対面に近い相手へ、少し踏み込みすぎたのかもしれない。
「ごめん、変なこと聞いたね」
雫は首を横に振った。
「大丈夫です」
そして、少しだけ微笑んだ。
「名前、覚えてくださいね」
「もちろん。雨宮雫さん」
「雫でいいです」
悠人は笑った。
「じゃあ、俺も悠人でいいよ」
雫は一瞬だけ目を見開いた。
その表情があまりにも意外そうだったため、悠人は少し戸惑った。
「……どうかした?」
雫はゆっくり首を横に振った。
「いいえ」
それから、ほとんど聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……やっぱり、同じなんですね」
悠人は聞き返そうとしたが、その時、雨宮が珈琲を運んできた。
「お待たせしました」
白いカップがテーブルへ置かれる。
立ち上る湯気とともに、深く香ばしい匂いが広がった。
悠人は礼を言い、カップへ手を伸ばした。
*
二度目に飲む珈琲も、やはり不思議なほどおいしかった。
苦味の奥にある柔らかな甘さが舌に残り、飲み込むたびに身体の奥へ温かさが広がっていく。
悠人はゆっくり味わいながら、カウンターの雨宮へ声をかけた。
「ここの珈琲、本当においしいですね」
「ありがとうございます」
「豆が特別なんですか」
雨宮は少し考えたあと、穏やかに答えた。
「豆も大切ですが、それだけではありませんね」
「淹れ方ですか」
「それもあります」
雨宮は笑った。
「ただ、珈琲は飲む時の気持ちによって、随分と味が変わるものだと思っています」
悠人はカップを見つめた。
「気持ちで味が変わる?」
「ええ。忙しい朝に急いで飲む珈琲と、休日にゆっくり味わう珈琲では、同じ豆を使っていても違って感じることがあるでしょう」
確かに、その通りかもしれない。
会社に勤めていた頃、悠人は毎朝駅前のコンビニで珈琲を買い、電車を待つ間に急いで飲んでいた。
味を楽しむ余裕などなく、ただ眠気を覚ますための習慣になっていた。
けれど今は、窓の外の雨を眺めながら、一口ずつゆっくり珈琲を飲んでいる。
同じ飲み物でも、こんなに違って感じるのかと不思議に思った。
「……なるほど」
悠人が頷くと、雨宮は嬉しそうに微笑んだ。
「それに、珈琲は不思議な飲み物ですからね」
「不思議?」
「ええ。冷めてしまうと、最初とは違う味になります」
悠人は笑った。
「それは普通じゃないですか」
「そうですね」
雨宮も笑った。
しかし、そのあとに続いた言葉は、悠人の予想とは少し違っていた。
「だからこそ、温かいうちに飲んでいただきたいんです」
雨宮は静かに続けた。
「いつまでも温かいままのものなんて、普通はありませんから」
悠人はカップを見つめた。
何気ない言葉だったが、なぜか少しだけ寂しく聞こえた。
その時、窓際の雫が小さく呟いた。
「……でも、ここの珈琲は冷めませんよ」
悠人は顔を上げた。
「え?」
雫は本から目を離さず、静かに続けた。
「少なくとも、まだ帰りたくない人の珈琲は」
悠人は思わず笑った。
「そんなわけないでしょ」
雫は答えなかった。
ただ、少しだけ意味ありげに微笑んだ。
悠人はカップへ視線を戻した。
そういえば、さっきから随分と時間が経っているはずなのに、珈琲はまだ十分に温かい。
もちろん、厚手のカップを使っているのかもしれないし、店内が暖かいせいかもしれない。
悠人はそう考えながら、もう一口飲んだ。
しかし、その時だった。
カップの表面に、小さな波紋が広がった。
誰かがテーブルを揺らしたわけでもない。
悠人自身も、カップへ触れていなかった。
それなのに、珈琲の表面には細かな波紋がいくつも広がり、まるで見えない雨粒が落ちているかのように揺れていた。
悠人は思わず息を止めた。
「……何だ、これ」
波紋はすぐに消えた。
気のせいだったのだろうか。
そう思って顔を上げると、雫がこちらを見つめていた。
「……見えました?」
悠人は眉を寄せた。
「今の、何?」
雫は答えなかった。
代わりに、カウンターの雨宮へ視線を向けた。
雨宮はしばらく悠人のカップを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「朝倉さん」
「はい」
「もしよろしければ、少しだけ昔の話をしてもいいでしょうか」
悠人は戸惑いながら頷いた。
「……昔の話?」
「ええ。この店が、まだ普通の喫茶店だった頃の話です」
*
雨宮はカウンターの奥から一枚の古い写真を取り出した。
写真には、若い頃の雨宮と思われる男性が写っていた。
今よりも髪が黒く、表情にもどこか若々しさが残っている。
その隣には、優しそうな笑顔の女性が立っていた。
肩まで伸びた髪を後ろでまとめ、淡い色のワンピースを着た女性は、カメラに向かって少し照れくさそうに微笑んでいる。
「……奥さんですか」
悠人が尋ねると、雨宮は静かに頷いた。
「ええ。妻の千尋です」
その名前を口にした時、雨宮の表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
「この店は、もともと妻と二人で始めたんです」
「そうだったんですね」
「ええ。若い頃から、いつか小さな喫茶店を開きたいと話していましてね。大きな店でなくてもいいから、雨の日にふらっと立ち寄れるような、温かい場所を作りたかったんです」
雨宮は写真を見つめながら続けた。
「妻は、雨の日が好きでした」
「雨の日が?」
「ええ。晴れた日には皆さん急いでどこかへ向かいますが、雨の日には少しだけ歩く速度が遅くなるでしょう。傘を差して立ち止まったり、軒先で雨宿りをしたり、普段なら気づかない景色に目を向けたり」
雨宮は小さく笑った。
「妻は、そういう時間が好きだったんです」
悠人は黙って聞いていた。
「だから店の名前も、妻が決めました。雨の日にしか来られない店ではなく、雨の日にも来たくなる店にしたいと言っていましたね」
悠人は写真を見つめた。
そこに写る女性の笑顔は、どこか温かく、見ているだけで安心するような不思議な魅力があった。
「……素敵な人ですね」
悠人がそう言うと、雨宮は少しだけ目を細めた。
「ええ。私には、もったいないくらいの人でした」
その言葉には、懐かしさとともに、何か深い後悔のようなものが滲んでいた。
悠人は少し迷ったあと、静かに尋ねた。
「奥さんは、今も……」
雨宮は答えるまでに少し時間をかけた。
「……遠いところへ行ってしまいました」
それ以上は聞かなかった。
雨宮の表情を見れば、今は詳しく尋ねるべきではないことが分かったからだ。
しばらくの間、二人の間には静かな沈黙が流れた。
窓の外では雨が降り続いており、店内の時計が規則正しく時を刻んでいる。
やがて雨宮は写真を元の場所へ戻し、穏やかな声で続けた。
「妻はよく、こんなことを言っていました」
悠人は顔を上げた。
「どんなことですか」
「人は、誰かに何かをしてもらった時だけ救われるわけではない、と」
雨宮は少しだけ微笑んだ。
「ただ話を聞いてもらったり、何も言わずに隣へ座ってもらったり、温かい飲み物を一緒に飲んだりするだけで、もう少し頑張ってみようと思えることがあるんだそうです」
悠人は何も言えなかった。
三日前の自分が、まさにそうだったからだ。
雨宮は仕事を紹介してくれたわけでも、失敗をなかったことにしてくれたわけでもない。
ただ、話を聞いてくれた。
そして、無理に元気を出さなくてもいいと言ってくれた。
それだけで、あの夜の悠人は少しだけ救われた気がしていた。
「……奥さんの言ってたこと、何となく分かる気がします」
悠人がそう言うと、雨宮は嬉しそうに微笑んだ。
「そうですか」
「はい。俺も、ここに来てから少しだけ変わったので」
雨宮は静かに頷いた。
「それなら、妻も喜ぶと思います」
*
それからしばらく、悠人は雨宮と他愛のない話をして過ごした。
珈琲の淹れ方や昔の商店街の様子、雨の日に訪れる客のことなど、特別な話題ではなかったが、どれも不思議と興味深かった。
雨宮は客の話をする時、決して名前や詳しい事情を明かさなかった。
ただ、何十年も前にこの店へ来た人が、久しぶりに訪ねてきてくれたことや、長い間悩んでいた人が、ある日ふっと明るい顔になったことなどを、懐かしそうに話してくれた。
悠人はその話を聞きながら、三日前に見つけた本のことを思い出した。
あの本には、たくさんの人の小さな約束が記されていた。
誰かに謝る。
夢をもう一度追いかける。
家族へ電話をかける。
そして、自分が書いた朝食の約束。
もしかすると、この店には、自分と同じように何かにつまずいた人たちが、長い年月をかけて訪れてきたのかもしれない。
そう考えると、何となく胸が温かくなった。
その時、スマートフォンが短く震えた。
画面には佐久間からの返信が表示されていた。
『無理に話さなくていいよ。飯食ってくだらない話するだけでもいいし。来週あたり空いてたら連絡して』
悠人はしばらくその文章を見つめた。
そして、自然と笑みがこぼれた。
やっぱり、佐久間は昔から変わらない。
自分が勝手に距離を置こうとしていただけで、相手は何も変わっていなかったのかもしれない。
悠人は短く返信した。
『ありがとう。来週、連絡する』
送信ボタンを押すと、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
「いいことがありましたか」
雨宮が尋ねた。
悠人は顔を上げた。
「……友達から連絡が来たんです」
「それはよかったですね」
「はい。ちょっと、会ってみようかなって思って」
雨宮は嬉しそうに微笑んだ。
「きっと、お友達も喜ばれると思いますよ」
悠人は小さく頷いた。
窓際の雫が、こちらを見ていた。
目が合うと、雫は少しだけ笑った。
悠人も笑い返した。
その時、ふと気づいた。
店へ入ってから、もう二時間近く経っている。
それなのに、テーブルの上に置かれた珈琲からは、まだ細い湯気が立ち上っていた。
悠人は思わずカップへ手を伸ばした。
指先に伝わる温かさは、淹れたばかりの時とほとんど変わっていない。
さすがにおかしい。
厚手のカップだからという理由だけでは、説明できない気がした。
「……雨宮さん」
「はい」
「この珈琲、本当に冷めないんですか」
雨宮は少しだけ目を細めた。
そして、静かに答えた。
「朝倉さんは、どう思われますか」
悠人はカップを見つめた。
「……普通じゃないと思います」
「そうですね」
雨宮は穏やかに頷いた。
「ただ、冷めないことが大切なのではありません」
「どういう意味ですか」
雨宮は窓の外へ視線を向けた。
「温かいうちに、何を思い出すかが大切なんです」
悠人は眉を寄せた。
「……思い出す?」
雨宮は答えなかった。
代わりに、カップの中を見つめるよう促した。
「少しだけ、珈琲の香りを確かめてみてください」
悠人は戸惑いながらも、カップを持ち上げた。
深く息を吸い込む。
香ばしい珈琲の匂いが鼻をくすぐった。
その瞬間だった。
胸の奥に、何か懐かしい感覚が広がった。
遠い昔、どこかで嗅いだことのある匂い。
それは、珈琲の香りだけではなかった。
雨に濡れた木の匂い。
温かいミルクの甘い匂い。
そして、誰かが焼いてくれたパンの香り。
悠人は思わず目を閉じた。
すると、まぶたの裏に一つの光景が浮かんだ。
古い木製のテーブル。
小さな白いカップ。
窓の外で降り続く雨。
そして、誰かの優しい声。
『悠人、こっちにおいで』
悠人は息を止めた。
聞き覚えのある声だった。
しかし、誰の声なのか思い出せない。
『今日は雨だから、ここで少し休んでいこうね』
女性の声。
柔らかく、どこか懐かしい声。
その声を聞いた瞬間、悠人の胸が強く締めつけられた。
懐かしい。
どうしようもなく懐かしい。
けれど、どれだけ思い出そうとしても、声の主の顔だけが浮かんでこなかった。
「……朝倉さん」
雨宮の声が聞こえた。
悠人ははっとして目を開けた。
目の前には、いつもの喫茶店が広がっていた。
窓の外では雨が降り続き、古いジャズが静かに流れている。
悠人はしばらく言葉を失っていた。
「……今の、何だったんですか」
雨宮は静かに尋ねた。
「何か、思い出されましたか」
悠人はゆっくり頷いた。
「……子供の頃の記憶みたいなものが」
「そうですか」
「でも、変なんです。俺、こんな場所に来たことないはずなのに」
雨宮は何も言わなかった。
悠人はカップを見つめた。
「誰かが俺の名前を呼んでたんです。女の人の声で……」
そこで、悠人は言葉を止めた。
何かが引っかかった。
今の記憶の中で、女性は自分を呼んでいた。
悠人。
確かに、そう呼んでいた。
けれど、もう一つだけ、どうしても気になることがあった。
あの声は、自分を呼ぶ前に、誰か別の人へ話しかけていたような気がする。
誰だったのだろう。
思い出そうとすると、記憶の輪郭が少しずつ薄れていく。
悠人は額に手を当てた。
「……駄目だ。思い出せない」
雨宮は静かに頷いた。
「無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですよ」
「でも……」
「記憶というものは、不思議なものです。忘れていたと思っていたことが、ある日突然、何でもないきっかけで戻ってくることがありますから」
悠人は黙って聞いていた。
「それに、今すぐ思い出す必要があるとは限りません」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「思い出せる時が来たら、きっと自然に思い出せますよ」
悠人は小さく頷いた。
しかし、胸の奥には、先ほどの女性の声がいつまでも残っていた。
*
午後七時を過ぎた頃、店内には新しい客が一人入ってきた。
年齢は六十代後半ほどだろうか。
灰色のコートを着た男性は、濡れた傘を入口の傘立てへ入れると、慣れた様子でカウンター席へ腰を下ろした。
「こんばんは、雨宮さん」
「いらっしゃいませ、佐伯さん」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「今日は随分とお久しぶりですね」
「ええ。ようやく来られました」
男性はそう言って、小さく笑った。
悠人は何気なくその会話を聞いていたが、佐伯という名前に覚えがあるような気がした。
どこで聞いたのだろう。
少し考えて、思い出した。
三日前に見た、あの本だ。
『六月十二日 佐伯和夫』
『四十年間、謝れなかった人に、ようやく謝ることができた』
もしかすると、目の前の男性がその本人なのだろうか。
悠人がそんなことを考えていると、佐伯と呼ばれた男性がこちらへ視線を向けた。
「おや、初めて見る顔ですね」
悠人は軽く頭を下げた。
「こんばんは」
「こんばんは。若い方がいらっしゃるのは珍しいですね」
佐伯は穏やかに笑った。
「私も、最初にこの店へ来た時は、あなたくらいの年齢でしたよ」
悠人は驚いた。
「そんな昔から来てるんですか」
「ええ。もう四十年以上になりますかね」
佐伯は懐かしそうに店内を見渡した。
「不思議なもので、この店は昔から何も変わらないんです」
悠人は思わず雨宮へ視線を向けた。
雨宮は何も言わず、静かに珈琲を淹れている。
佐伯はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
「雨宮さんも、昔から変わりませんね」
悠人は思わず聞き返した。
「……昔から?」
「ええ。初めて会った頃から、ほとんど同じ顔をしていらっしゃる」
佐伯は冗談めかして笑った。
「私ばかり年を取ってしまいました」
悠人は雨宮を見つめた。
雨宮は困ったように微笑んだ。
「佐伯さん、それは少し大げさですよ」
「そうですかね」
佐伯は楽しそうに笑った。
しかし、悠人は笑えなかった。
四十年以上前から、ほとんど変わらない店主。
雨の日だけ現れる喫茶店。
そして、冷めない珈琲。
どれも普通ではない。
けれど、目の前の人々は、その不思議さを当然のこととして受け入れているようだった。
悠人はもう一度、カップへ視線を落とした。
珈琲はまだ温かかった。
*
佐伯が帰ったのは、それから一時間ほど経った頃だった。
雨は少しずつ弱まり、窓の外には細かな霧雨が漂っている。
悠人は時計を確認した。
午後八時二十分。
そろそろ帰らなければと思ったが、まだ店を出る気にはなれなかった。
あの時計店の老人が言っていたことも気になっている。
雨が止む前に店を出てはいけない。
しかし、前回は雨が降っている間に帰ってしまった。
そのことを雨宮へ尋ねようか迷っていると、窓際の雫が静かに口を開いた。
「悠人さん」
初めて名前で呼ばれたことに、悠人は少し驚いた。
「……何?」
「今日は、もう少しゆっくりしていってください」
悠人は窓の外を見た。
「雨、もうすぐ止みそうだけど」
「だからです」
雫は静かに答えた。
悠人は眉を寄せた。
「どういうこと?」
雫は少しだけ迷ったあと、ゆっくり口を開いた。
「……前に来た時、雨が止む前に帰りましたよね」
悠人は息を止めた。
「何で分かるの?」
「見ていたからです」
「でも、別に何もなかったよ」
雫は答えなかった。
ただ、悠人をじっと見つめていた。
その表情には、これまで見せたことのない真剣さがあった。
「……本当に、何もありませんでしたか」
悠人は戸惑った。
「どういう意味?」
雫は視線を落とした。
「帰ったあと、何か忘れたことはありませんでしたか」
悠人は考えた。
店を出たあと、普通に帰宅した。
翌朝は朝食を作り、昼には散歩へ出かけた。
そして、晴れた日に喫茶店を探しに行った。
特に変わったことはなかったはずだ。
しかし、その時、悠人はふと一つのことに気づいた。
三日前の夜。
喫茶店を出てから、自宅へ帰るまでの道のりを、ほとんど思い出せない。
どの道を通ったのか。
途中でコンビニへ寄ったのか。
誰かとすれ違ったのか。
その記憶が、妙に曖昧だった。
「……そういえば」
悠人が呟くと、雫は静かに顔を上げた。
「思い出しましたか」
「いや、思い出せないっていうか……」
悠人は額に手を当てた。
「店を出てから家に帰るまで、何してたかあんまり覚えてないんだ」
雫の表情がわずかに変わった。
その様子を見て、悠人は胸の奥に冷たいものを感じた。
「……何か知ってるの?」
雫は答えなかった。
代わりに、カウンターの雨宮へ視線を向けた。
雨宮は静かに頷いた。
「朝倉さん」
悠人は振り返った。
「はい」
「少しだけ、お話ししておいた方がいいことがあります」
雨宮はゆっくりカウンターから出てきた。
「この店には、一つだけ大切な決まりがあるんです」
悠人は息を止めた。
雨宮は窓の外へ視線を向けた。
「雨が止むまでは、できるだけ店内でお過ごしください」
悠人は眉を寄せた。
「……どうしてですか」
雨宮は少しだけ目を細めた。
「この店は、雨が降っている間だけ、こちらの世界とつながっています」
悠人は何も言えなかった。
「雨が止めば、店は元の場所へ戻ります。けれど、雨が降っている途中で外へ出ると、まれに道が少しだけずれてしまうことがあるんです」
「……道が、ずれる?」
「ええ」
雨宮は静かに頷いた。
「ほとんどの場合は、少し遠回りをして帰るだけで済みます。ただ、ごくまれに、帰り道の記憶が曖昧になる方もいらっしゃいます」
悠人は言葉を失った。
自分が経験したことと、あまりにもよく似ていたからだ。
「……じゃあ、俺は」
「ご心配なさらないでください」
雨宮は穏やかに続けた。
「朝倉さんは、ちゃんと元の場所へ戻れていますから」
悠人は小さく息を吐いた。
しかし、疑問は次々と浮かんでくる。
「そもそも、元の場所って何ですか。この店は、どこにあるんですか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
「……いつか、きちんとお話しします」
悠人は眉を寄せた。
「今じゃ駄目なんですか」
「今は、まだ」
その言葉を聞いた瞬間、悠人は昼間の雫の言葉を思い出した。
やっぱり、同じなんですね。
そして、雨宮が写真を見つめながら言った言葉。
思い出せる時が来たら、きっと自然に思い出せますよ。
悠人は二人を交互に見つめた。
何かを知っている。
自分だけが知らない、何かを。
その確信が、胸の奥で少しずつ強くなっていった。
*
午後九時を過ぎた頃、雨が止んだ。
窓ガラスを伝っていた雫がゆっくり落ち、路地の奥に広がっていた雨の幕が静かに消えていく。
その瞬間、店内の照明がほんのわずかに揺れた。
悠人は顔を上げた。
雨宮はカウンターの時計を確認し、穏やかに微笑んだ。
「……止みましたね」
雫も本を閉じた。
悠人は窓の外を見た。
濡れた石畳には街灯の光が反射しているものの、空から落ちてくる雨粒はもう見えなかった。
「これで、帰っても大丈夫なんですか」
悠人が尋ねると、雨宮は静かに頷いた。
「ええ。今夜は、もう大丈夫です」
悠人は小さく息を吐いた。
何となく安心したような、それでいて少し名残惜しいような気持ちだった。
会計を済ませ、コートを羽織る。
入口へ向かう途中、悠人はふと窓際の雫へ声をかけた。
「雫」
少女が顔を上げた。
「……はい」
「今日はありがとう」
雫は少しだけ驚いたように目を見開いた。
「何もしてませんよ」
「いや、友達に返信できたし。それに、いろいろ教えてくれたから」
雫は少しだけ微笑んだ。
「……また来てくださいね」
「うん。また雨が降ったら」
悠人がそう答えると、雫は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた。
しかし、すぐにいつもの穏やかな顔へ戻った。
「待ってます」
その声が妙に胸に残った。
悠人は雨宮へ頭を下げた。
「今日もありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
雨宮は穏やかに微笑んだ。
「朝倉さん」
「はい」
「今日、何か一つでも、持ち帰れるものはありましたか」
悠人は少し考えた。
冷めない珈琲。
懐かしい女性の声。
雨の日だけ現れる喫茶店の秘密。
そして、佐久間へ送ったメッセージ。
どれも不思議で、まだ整理できないことばかりだった。
けれど、その中で一つだけ、はっきりしていることがあった。
「……明日、履歴書の続きを書こうと思います」
雨宮は静かに微笑んだ。
「それは、いいですね」
「まだ何をしたいか分からないし、次の仕事が見つかるかも分からないですけど」
悠人は少しだけ笑った。
「とりあえず、途中で止まってるものを、ちゃんと終わらせてみようかなって」
雨宮は嬉しそうに頷いた。
「ええ。それで十分だと思います」
悠人は小さく頭を下げ、扉を開いた。
外には、雨上がりの静かな夜が広がっていた。
濡れた石畳に街灯の光が映り込み、遠くから車の走る音が聞こえてくる。
悠人は傘を持ったまま、ゆっくり路地を歩き始めた。
そして、商店街へ出たところで振り返った。
細い路地は、まだそこにあった。
けれど、奥に見えていたはずの喫茶店の灯りが、少しずつ薄くなっていく。
悠人は目を凝らした。
すると、まるで遠くの景色が霧に包まれていくように、レンガ造りの建物がゆっくり霞み始めた。
看板の文字が見えなくなり、窓から漏れるオレンジ色の光が消え、最後には路地そのものが静かに閉じていった。
悠人は息を止めたまま、その光景を見つめていた。
数秒後。
目の前には、二軒の古い建物が隙間なく並んでいた。
三日前と同じだった。
悠人はしばらく動けなかった。
しかし、不思議と怖くはなかった。
あの店は、確かに存在している。
雨が降れば、また会える。
そう思えたからだ。
悠人は小さく笑い、帰り道を歩き始めた。
*
その夜、喫茶「雨宿り」の店内では、雨宮が一人でカウンターを拭いていた。
窓の外には、見慣れた雨の景色が広がっている。
こちらの世界では、まだ雨が降り続いていた。
雫は窓際の席に座り、閉じた本を膝の上へ置いている。
「……思い出しかけていましたね」
雫が静かに呟いた。
雨宮は手を止めた。
「ええ」
「珈琲を飲んだ時、あの人の声が聞こえたんでしょう」
「そうでしょうね」
雨宮は穏やかに答えた。
雫は少しだけ眉を寄せた。
「……本当に、これでいいんですか」
雨宮はすぐには答えなかった。
代わりに、カウンターの奥に飾られた古い写真へ視線を向けた。
若い頃の雨宮。
優しく微笑む妻の千尋。
そして、その腕に抱かれた小さな男の子。
雨宮は写真を手に取ると、静かに指先で表面をなぞった。
「……あの子は、まだ何も知りません」
雫は黙って聞いていた。
「自分がここへ来たことも、あの日に何があったのかも、そして千尋が何を願っていたのかも」
雨宮の声には、深い懐かしさが滲んでいた。
「でも、少しずつ思い出している」
雫が呟いた。
雨宮は頷いた。
「ええ。だからこそ、急いではいけないんです」
雫は写真を見つめた。
「……あの人が全部思い出したら、どうなるんでしょう」
雨宮はしばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「その時は、私たちも決めなければなりません」
「……何を?」
雨宮は写真を元の場所へ戻した。
そして、窓の外で降り続く雨を見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「この店を、いつまで続けるのかを」
雫は何も言えなかった。
雨宮は静かに微笑んだ。
「長い間、待ちましたからね」
その言葉には、何十年という時間の重みが込められていた。
雫は膝の上の本を開いた。
その本の最初のページには、古い文字で一つの文章が記されていた。
『雨が止んだあとも、忘れないでいてください』
雫はその文字を指先でなぞり、静かに目を閉じた。
「……悠人さん」
誰にも聞こえないほど小さな声で、名前を呼んだ。
その時、カウンターの奥に置かれていた一つの白い珈琲カップから、細い湯気が立ち上った。
誰も座っていない席。
誰も口をつけていない珈琲。
それなのに、カップの中には温かな珈琲が満たされていた。
雨宮はそのカップを見つめ、静かに呟いた。
「……まだ、冷めませんね」
雫は小さく頷いた。
「はい」
雨宮はしばらくカップを見つめていたが、やがて穏やかな声で続けた。
「それなら、まだ大丈夫です」
窓の外では、雨が降り続いていた。
何十年も前から、誰かの帰りを待ち続けるように。
そして、カウンターの奥に置かれた古い写真の裏側には、悠人がまだ知らない、もう一つの言葉が記されていた。
『この子が自分の人生を好きになれた時、どうか本当のことを話してあげてください』
雨宮はその言葉を見つめながら、静かに目を閉じた。
あの日から、長い年月が過ぎていた。
それでも、約束はまだ終わっていなかった。
第二章 冷めない珈琲 完
――第三章「窓際の少女」へ続く。