結婚しちゃおうか
結婚しちゃおうか
駅前の大通りを少し外れ、いくらか人通りが少なくなった道を、貴臣はマフラーに口元を埋めながらゆったりとした足取りで歩いていた。街路樹は肌を見せ、僅かに残った草葉が風に揺れている。吐く息は白くなり、空気に晒された耳がやけに冷たい。つい数週間前までは早く冬が来るようにと祈るほどに暑い日が続いていたというのに、気が付けばもう冬だった。
一年前の今頃、彼女と出会った時の事を思い出す。
『俺達、気が合うと思わない?』
あの時、どうにかして彼女を繋ぎ止めなくては二度と会えないような気がして、年甲斐も余裕もなく放ったひねくれた告白の言葉と、彼女の赤くなった顔を思い出した。きっとあの時、自分も同じような顔をしていたに違いない。思わず唇から笑い声が漏れそうになって、貴臣は誤魔化すようにマフラーの位置を直してみせた。
ふと視界に入ったショーウィンドウに、貴臣は足を止めた。マネキンに着せられている純白のドレスは簡素ながらウェディングドレスを想起させた。その胸元はハートの形をしたシルバーのネックレスが飾られていた。視線を右下に移動させると、赤やピンク、色とりどりのパンプスや指輪、ネックレスがケースと共に並べられている。以前彼女の誕生日にこういったアクセサリーを贈った事があるが、困った顔をされたのをよく覚えている。その理由を、彼女は語ろうとはしなかった。デザインが好みではなかったのか、ブランドにこだわりがあるだとか、貴臣なりに思い当たる理由を考えてみたが、どれも正解ではなさそうだ。デザインやプレゼントを選ぶセンスは悪くはないと思うのだが――。
不意に視線を感じて振り返った。視界に広がるのはコンクリートに固められた歩道と脇に停められた自動車があり、変わった事と言えば先ほどよりも人気が増えてきた事くらいだ。貴臣は少しずれたサングラスの位置を直すと、コートのポケットに入れていたコードレスのイヤホンの片耳を装着すると、そのまま片手でスマートフォンのロックを解除して歩き始めた。すぐに連絡を取れるようにと電話帳のお気に入りに登録してある何番目かの項目を選択するとすぐに発信音が流れた。
「……はい」
何度目かのコールのあと、聴き慣れた声に口元が緩みそうになるのを堪えて歩みを進めた。
「俺だよ。君の愛しの……」
「はいはい、貴臣さん。ご用件は何ですか?」
「相変わらずクールだね……まあいいや。ちょっと寄りたいところがあってさ。少し遅くなるよ」
雑踏に紛れて声が掻き消され、彼女にだけ声が届くように、人通りの多い大きな道へと足を踏み入れた。目元はサングラスで、口元はマフラーで隠し長い髪を下ろしてしまえば一般市民は貴臣の存在に気が付く事はない。
一瞬気を抜いた途端、通行人と肩を掠める。その程度でよろける程貧弱ではないはずだが、貴臣は思わずぶつかった方とは反対に身体をよろめいた。そんな心の動揺を悟ったのかは分からないが、彼女はいつもと変わらぬ落ち着いたトーンで切り出した。
「……何かあった?」
貴臣は何でもないよ、といつもの癖で笑って誤魔化そうとした。けれど、無意味な隠し事をしても仕方がない。マフラーを更に口元へと寄せると、貴臣は声をひそめてマイク部分に声を吹き込んだ。
「後を着けられてる。前にも見た事あるパパラッチ」
言い終わると、電話越しに息を呑む気配を感じた。貴臣が次の言葉を口にしようとして、彼女はそれを遮るようにして再び口を開いた。
「貴臣さん、しばらく会うのはやめにしない?」
「え」
「連絡も、緊急性がない場合は控えるようにした方がいいと思う」
「ちょっと待って、そこまでしなくても……」
「ダメ。どこから情報が漏れるか分からないから。念の為、今までのやりとりも消しておいて」
その声からは彼女の真意は読み取れることは出来なかった。ただ毅然と、貴臣自身よりも貴臣の身を案じていることだけは伝わる。
「……分かった。落ち着いたら、また連絡するから」
「はい」
まるで恋人同士の会話とは思えないような淡々としたやりとりは、無機質な電子音によって終わりを告げられた。
* * *
それから彼女と電話は愚かメッセージでのやりとりすらなくなり、一週間、二週間と過ぎ気が付いた時には二ヶ月が経っていた。
彼女に言われた通り、メッセージでのやりとりから通話履歴の全て消去した。まるで彼女の存在そのものが消えてしまうようで、今までに感じた事のない寂しさと不安を覚えた。それでも、自身の置かれている立場を考えるといつかこういう日が来るのも分かっていた。もしかしたら、このまま築き上げた思い出も感情も、全てが無に返されてしまうのかもしれない。いや、もう既にそうなっていたら。
「……眠れない」
自室のベッドの上で何度目かの寝返りを打っていた貴臣は、ついに重たい身体を起こした。
今までなら、一方的に別れを告げられても、いつの間にか疎遠になっていても気にも留めず日常に戻っていたはずなのに、彼女の事が頭から離れない。「何となく」で始まった恋人関係だったが、気が付けば貴臣の生活になくてはならないものになっていたと、今になって思い知らされた。
枕元に伏せて置いてあるスマートフォンをひっくり返してロックを解除すると、新着メッセージが数件通知された。その中に彼女の名前がないことを確認して、貴臣は深いため息をついた。
彼女の声が聴きたい。ただそれだけの願望で、貴臣はぼんやりした頭のままで通話ボタンをタップした。時刻は午前零時を過ぎている。長い呼び出し音が続き、淡い期待は次第に不安に変わった。
「……女々しいなぁ」
くしゃりと自身の前髪を軽く掴んで、貴臣は折り曲げた膝の上に額を乗せた。もうダメかと思いスマートフォンを耳から離した次の瞬間、呼び出し音突然途切れた。
「はい、こんな夜中に電話してくる非常識な方は誰ですか」
少しだけ怒ったようなおどけた声が聴こえてきて、貴臣は慌ててスマートフォンを再び耳に当てた。
「あっ、えっと……貴臣です……」
「知ってます」
「ごめんね。寝てた?」
「いいえ?」
受話器越しにカチャカチャと聞き覚えのある音がする。きっと、ネイルでもしていたのだろう。
「声が聴きたくなっただけ、って言ったら怒る?」
貴臣は顔を上げて、いるはずのない彼女を目の前にしている時のように眉を下げてみせた。数秒の沈黙の後、彼女が大きく息を吸う音が聞こえた。
「……私も」
吐き出された言葉は短く、そして震えていた。
その一言だけめ彼女は自分に愛想を尽かしたわけではないことを確認でき、貴臣は込み上げてくる歓喜の声を押し殺して、再び口を開いた。
「俺達、結婚しちゃおっか」
「は?」
「ああ、えっと……違うな。俺で良ければ結婚してくれませんか?」
貴臣はベッドの上で正座をし、息を呑んで返事を待った。長い沈黙に、勢い任せの電話でのプロポーズの失敗を悟った。きっと彼女にとっても思い描いていた理想とは全く違うものだったろう。どっと襲い来る後悔と不安に、貴臣はどうにか取り繕う言葉を考えた。けれど、カメラが回っている時のようには上手く頭は働いてくれない。彼女相手になると、どうにも普段の貴臣"らしく"振る舞えなくなる。
「はあ。夜景の見えるディナーで完璧なスパダリプロポーズしてた人とは思えない……」
「ドラマの話ね」
いつか自身が出演した恋愛ドラマを思い出して、貴臣は苦笑いをした。演技では甘いセリフもキザな演出も難なくこなせるのに、やはりプライベートとなるとそうはいかないようだ。
「怒られちゃう。ファンにも社長にも」
「そこは、土下座でも何でもするから安心して?」
「寺島貴臣の土下座……。週刊誌に売れるかな」
「こら」
週刊誌に追われていることを皮肉った冗談に思わず吹き出してしまうと、彼女もつられたのか小さく笑い声を漏らした。
「私で良ければもらってください。返品不可です」
彼女の言葉に、貴臣は笑うのをやめて、ベッドの上で一人姿勢を正した。
「生涯大切にします」
* * *
真夜中の都市高速は思ったよりも寂れていた。平日というのもあってか、走っているのは貨物トラックだけだ。新車特有の接着剤や皮の匂いのするレンタカーの車内が気になって、貴臣は横目で助手席に座る彼女を見た。
「窓、開けてもいい?」
貴臣が口にする前に、彼女は窓の外の景色から目を離さずに言った。
「俺も同じ事言おうとしてたとこ」
彼女といると時々思考を全て読まれているような錯覚に陥る。勿論そんな事はないのだろうが、少しだけ焦る時もある。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならない。
貴臣は視線は前に向け、運転に集中したままでヘッドレストに掛けていた自身の上着を彼女の膝へと放り投げた。
「空調は?」
「大丈夫。このままで」
彼女が言い終わると同時に、冷たい風が貴臣の頬を撫でた。彼女が好んで使っている香水の微かな匂いがする。いつか貴臣はプレゼントした、ホワイトムスクとジャスミンがベースとなったもの。微かにグレープフルーツの香りが混ざった、甘い香水だ。
もう一度、横目で彼女を盗み見る。少しだけ眠たそうに瞼を下ろしかけている彼女の姿を確認して、貴臣はカーナビへと視線を向けた。時刻は一時を過ぎている。
「疲れた?」
「……大丈夫」
「東京まであと一時間半はかかるよ」
貴臣がそう言うと、今日――正確には、昨日の事を思い出したのか彼女はパッと顔を上げて貴臣の方を向いた。
「思ったより皆さん受け入れてくれたね」
「……正直誰かしらに一発はもらうかなって思ってたんだけど」
事務所への報告を一通り済ませ、その足で互いの実家へと挨拶をしてきた。貴臣の立場上、猛反発を喰らうものかと思っていたが、二人の予想に反して返ってきた返事は穏やかなものだった。祝福する者、苦そうな顔をしながらも好きにするように伝えてきた者、さして興味がなさそうな者――反応は様々だった。
彼女か仕事か。究極の選択を迫られたらどうするべきかと悩んでいたが、存外現実はあっさりとしたものだった。社長やマネージャーが驚きつつも受け入れてくれたのは、貴臣の年齢やそれまでの実績の事もあったのだろう。世間へ公表するかどうかは、分からない。改めて会議の上で決定するという事になった。不便ではあるだろうが、今までのように二人で日陰の生活をする事で一緒に居られるなら、それはそれでいい。
「これからの事、改めてまた話さないとな」
「うん」
今にも夢の世界に行ってしまいそうな蕩けた返事に、貴臣は肩をすくめた。
「次で高速を下りて、泊まるとこ探そうか」
「でも……」
「有給取ってるんだろ?」
「私はいいけど、貴臣さんが……」
「そんなに朝早くないから平気」
貴臣はそう言って、彼女の膝の上に置かれた手の上に自分の手を重ねた。驚いて肩を震わせた彼女は、握りしめてくる大きな手を払って、膝にかけていた貴臣の上着の下に手を差し込んだ。
「運転に集中してください」
「はーい」
怒ってそっぽを向いた彼女の耳が赤くなっていたのを見逃さず、貴臣は上機嫌でハンドルを切った。
高速を下り、二十分ほど車を走らせると民家に混じってビルが建ち並ぶ大通りへと出た。都会と比べてしまうと随分と寂しい景色だったが、駅の近くには居酒屋もコンビニも、ビジネスホテルもあった。運良くその一軒目のホテルに宿泊出来る事になり、二人は備え付けの寝間着に身を包んでそれぞれベッドの上へと身を投げ出していた。
「バスローブが良かったんだけどな」
「普通のビジネスホテルだし、仕方ないよ」
「まあねぇ」
貴臣は自身の寝間着の胸元をつまみ上げて、苦笑いを零した。男女共用の上下ブラウンのそれは、貴臣にはちょうどいいが彼女にはいささか大きすぎたようだ。彼女がベッドの上で起き上がると、居心地悪そうにずり下がってくる袖をまくり上げた。
「貴臣さん」
「何?」
寝返りを打つようにして身体ごと彼女の方に向くと、彼女は貴臣寝転がるベッドに身を乗り出していた。
「好き、です」
掛けたられた言葉の意味を理解するのに数秒かかって、貴臣は息を呑んだ。
「……誘ってる?」
「すぐふざける」
「痛ッ」
彼女の方へと伸ばした手は、ぺちんと音を立てて叩き落とされた。貴臣は大袈裟に痛がってみせるように手の甲をさするが、彼女にはそれも全て演技である事はお見通しとでも言うようにジト目で貴臣を睨みつけるだけだった。
「ね、こっち来てよ。今日は一緒に寝よう」
「……変な事しない?」
恐る恐る彼女が貴臣のベッドへと移動すると、突然腕を掴まれた。
「……貴臣!」
「ごめんごめん」
そのまま腕を引っ張られたかと思うと、彼女はバランスを崩して貴臣の胸へと飛び込む形となった。突然の行動に驚きと苛立ちの混じった声を上げると、彼女は貴臣の胸元を小突いて貴臣の上から退こうと身じろいた。けれど、すぐに貴臣の腕が背中に回ってきて、それは叶わなかった。
どうしたらいいか分からず顔を上げ、貴臣を見つめると彼は愛おしそうに目を細めた。背中に回された手が、次第に上り後頭部を優しく撫で上げた。そのまま身を委ねるようにしていると、貴臣は彼女の耳元に唇を寄せた。
「愛してる」
掠れた低い声が、鼓膜を揺らす。
くすぐったさと、気恥しさとで彼女は呻き声を上げて貴臣の肩口へと顔を埋めた。
「……軽々しく言わないの」
「本気だって」
いつの間にか彼女の身体はベッドの上へと下ろされ、視界には真剣な表情をした貴臣が映っている。見つめているのも恥ずかしくて、そっと目をそらすと同時に貴臣が吹き出した。
「ダメだ。このパジャマだとカッコつかないから脱いでいい?」
「ど、どうぞ……」
視界から貴臣が消え、聞こえてくる衣擦れの音に居心地が悪くなって、身体ごと彼から視線を逸らした。枕を手繰り寄せて頭の下に置くと、肩に触れる温もりに彼女は反射的に振り向いた。
「……変な事しない?」
先刻と同じ問いかけをすると、貴臣は困ったように肩をすくめてみせた。
「変な事って?」
彼女の言いたい事は全てわかっているであろう貴臣は、ただ彼女を見つめて微笑みを返すだけだった。付き合う前も、付き合ってからものこの表情に勝てた試しがない。彼女は諦めのため息をついて貴臣に背を向けて枕に顔を埋めた。
「……何でもない」
すっかり拗ねてしまった彼女の肩を再び抱き寄せるようにすると、貴臣は今度こそ彼女の背中にぴったりと肌を寄せた。
「嫌がる事はしないよ。こうやって一緒に寝るだけ」
貴臣の腕の中に抱き込まれ、二人の会話が途切れた。背中越しに伝わる互いの体温に少しずつ鼓動が速くなる。居心地が悪くなって身じろぐと、貴臣の腕の力がするりと緩んだ。
「……寝るだけなの?」
振り向いて問いかけると、瞳と視線がぶつかる。しばらく何も言わずに見つめていると、貴臣は目を細めて笑った。
「疲れてるんだろ?」
「私は平気。貴臣さんのせいで眠気が飛んだ」
「相変わらず誘い方が下手だね」
「うるさい」
彼女が顔を赤くして貴臣の胸元を叩くとぺちんと音が鳴って、弾みで彼のネックレスが揺れた。仕事では分からないが、プライベートではアクセサリーの類をあまり好んで着ける人ではない。不思議に思い、ネックレスのチェーン部分を指先に軽く引っ掛けて引っ張ってみると、大きさの違うリングが二つぶら下がっていた。
「……エンゲージリング。渡し損ねたなって思って、どうしようかと思ってた」
貴臣はそう言って、照れ臭そうに笑って彼女の手首を優しく掴んだ。顔を上げると、彼は眉を八の字にして困ったように彼女を見つめていた。
「これ、ちょうだい」
「結婚指輪、二人で選びに行くのに?」
「どっちも着けるから」
もう一度チェーンの部分を引っ張ると、貴臣は観念したのか彼女の手首を放す。そのままゆっくりと貴臣が上体を起こすので、彼女はネックレスから手を放してじっと彼の次の行動を待った。
静かな部屋の中に、シーツの擦れる音とネックレスの留め具を外す小さな金属音だけが響いている。しばらくすると、左手をすくい上げられたので、彼女も身体を起こした。
「左手の薬指は一つしかないよ」
呆れた声を出しながら、貴臣は手に取った彼女の薬指を自身の親指でそっとなぞった。
「貴臣さんが選んだこの指輪が欲しいの」
真っ直ぐに見つめてそう言うと、貴臣は観念したといった様子で肩をすくめ、指先に引っ掛けないよう、丁寧でゆったりとした動作で指輪を嵌めた。ショルダー部分が月の形になり、センターストーンにダイヤモンドが置かれたプラチナの指輪だった。
「ちょっと自己主張が強かったかな」
宝石がはめ込まれた部分をまじまじと眺めていると、貴臣は照れ臭そうに言った。
「すっごく素敵」
彼女は泣きそうになりながら笑って、差し出されたもう一つの指輪を受け取って、貴臣の左手を取った。彼にしてもらったように、男らしく骨張った指に指輪を嵌めるのとほぼ同時に、貴臣に勢い良く抱き着いた。不意な行動だったが、貴臣はしっかりと彼女身体を受け止めてきつく抱きしめ返した。
「結婚式では泣かないようにしないとな」
彼女が涙ぐんでいる事について言っているのかと思い、貴臣の腕の中で返答を考えていると微かなすすり泣く音が聞こえた。彼女が発したものではない。
顔は見えないが、きっと貴臣は泣いているのだろう。
「貴臣さんって、意外と涙脆いよね」
「まあね。子どもが出来たらもっと泣く自信があるよ」
「胸張って言う事じゃないでしょ……」
互いの体温を分け合うようにして身を寄せ合っていると、不意に肩を押されて彼女はそのままベッドに転がされた。驚いて反射的に身体を起こそうとすると、それを押さえ込むようにして唇を塞がれる。何度しても慣れる事のない口付けに戸惑いながらも、彼女は貴臣に身を委ねて身体の力を抜いた。
「子どもはたくさん欲しいな」
唇が離れた一瞬、貴臣は独り言のようにそう呟いたかと思うと、もう一度彼女の唇に吸い付くようにして口付けを落とした。いつの間にか指輪をした左手と左手が絡んでいて、逃がさないとでも言うように彼女の手をぎゅっと包み込んでいる。
息つく間もない激しい口付けの雨の中、彼女は言葉の代わりに貴臣の大きな手をぎゅっと握り返した。
一年前の今頃、彼女と出会った時の事を思い出す。
『俺達、気が合うと思わない?』
あの時、どうにかして彼女を繋ぎ止めなくては二度と会えないような気がして、年甲斐も余裕もなく放ったひねくれた告白の言葉と、彼女の赤くなった顔を思い出した。きっとあの時、自分も同じような顔をしていたに違いない。思わず唇から笑い声が漏れそうになって、貴臣は誤魔化すようにマフラーの位置を直してみせた。
ふと視界に入ったショーウィンドウに、貴臣は足を止めた。マネキンに着せられている純白のドレスは簡素ながらウェディングドレスを想起させた。その胸元はハートの形をしたシルバーのネックレスが飾られていた。視線を右下に移動させると、赤やピンク、色とりどりのパンプスや指輪、ネックレスがケースと共に並べられている。以前彼女の誕生日にこういったアクセサリーを贈った事があるが、困った顔をされたのをよく覚えている。その理由を、彼女は語ろうとはしなかった。デザインが好みではなかったのか、ブランドにこだわりがあるだとか、貴臣なりに思い当たる理由を考えてみたが、どれも正解ではなさそうだ。デザインやプレゼントを選ぶセンスは悪くはないと思うのだが――。
不意に視線を感じて振り返った。視界に広がるのはコンクリートに固められた歩道と脇に停められた自動車があり、変わった事と言えば先ほどよりも人気が増えてきた事くらいだ。貴臣は少しずれたサングラスの位置を直すと、コートのポケットに入れていたコードレスのイヤホンの片耳を装着すると、そのまま片手でスマートフォンのロックを解除して歩き始めた。すぐに連絡を取れるようにと電話帳のお気に入りに登録してある何番目かの項目を選択するとすぐに発信音が流れた。
「……はい」
何度目かのコールのあと、聴き慣れた声に口元が緩みそうになるのを堪えて歩みを進めた。
「俺だよ。君の愛しの……」
「はいはい、貴臣さん。ご用件は何ですか?」
「相変わらずクールだね……まあいいや。ちょっと寄りたいところがあってさ。少し遅くなるよ」
雑踏に紛れて声が掻き消され、彼女にだけ声が届くように、人通りの多い大きな道へと足を踏み入れた。目元はサングラスで、口元はマフラーで隠し長い髪を下ろしてしまえば一般市民は貴臣の存在に気が付く事はない。
一瞬気を抜いた途端、通行人と肩を掠める。その程度でよろける程貧弱ではないはずだが、貴臣は思わずぶつかった方とは反対に身体をよろめいた。そんな心の動揺を悟ったのかは分からないが、彼女はいつもと変わらぬ落ち着いたトーンで切り出した。
「……何かあった?」
貴臣は何でもないよ、といつもの癖で笑って誤魔化そうとした。けれど、無意味な隠し事をしても仕方がない。マフラーを更に口元へと寄せると、貴臣は声をひそめてマイク部分に声を吹き込んだ。
「後を着けられてる。前にも見た事あるパパラッチ」
言い終わると、電話越しに息を呑む気配を感じた。貴臣が次の言葉を口にしようとして、彼女はそれを遮るようにして再び口を開いた。
「貴臣さん、しばらく会うのはやめにしない?」
「え」
「連絡も、緊急性がない場合は控えるようにした方がいいと思う」
「ちょっと待って、そこまでしなくても……」
「ダメ。どこから情報が漏れるか分からないから。念の為、今までのやりとりも消しておいて」
その声からは彼女の真意は読み取れることは出来なかった。ただ毅然と、貴臣自身よりも貴臣の身を案じていることだけは伝わる。
「……分かった。落ち着いたら、また連絡するから」
「はい」
まるで恋人同士の会話とは思えないような淡々としたやりとりは、無機質な電子音によって終わりを告げられた。
* * *
それから彼女と電話は愚かメッセージでのやりとりすらなくなり、一週間、二週間と過ぎ気が付いた時には二ヶ月が経っていた。
彼女に言われた通り、メッセージでのやりとりから通話履歴の全て消去した。まるで彼女の存在そのものが消えてしまうようで、今までに感じた事のない寂しさと不安を覚えた。それでも、自身の置かれている立場を考えるといつかこういう日が来るのも分かっていた。もしかしたら、このまま築き上げた思い出も感情も、全てが無に返されてしまうのかもしれない。いや、もう既にそうなっていたら。
「……眠れない」
自室のベッドの上で何度目かの寝返りを打っていた貴臣は、ついに重たい身体を起こした。
今までなら、一方的に別れを告げられても、いつの間にか疎遠になっていても気にも留めず日常に戻っていたはずなのに、彼女の事が頭から離れない。「何となく」で始まった恋人関係だったが、気が付けば貴臣の生活になくてはならないものになっていたと、今になって思い知らされた。
枕元に伏せて置いてあるスマートフォンをひっくり返してロックを解除すると、新着メッセージが数件通知された。その中に彼女の名前がないことを確認して、貴臣は深いため息をついた。
彼女の声が聴きたい。ただそれだけの願望で、貴臣はぼんやりした頭のままで通話ボタンをタップした。時刻は午前零時を過ぎている。長い呼び出し音が続き、淡い期待は次第に不安に変わった。
「……女々しいなぁ」
くしゃりと自身の前髪を軽く掴んで、貴臣は折り曲げた膝の上に額を乗せた。もうダメかと思いスマートフォンを耳から離した次の瞬間、呼び出し音突然途切れた。
「はい、こんな夜中に電話してくる非常識な方は誰ですか」
少しだけ怒ったようなおどけた声が聴こえてきて、貴臣は慌ててスマートフォンを再び耳に当てた。
「あっ、えっと……貴臣です……」
「知ってます」
「ごめんね。寝てた?」
「いいえ?」
受話器越しにカチャカチャと聞き覚えのある音がする。きっと、ネイルでもしていたのだろう。
「声が聴きたくなっただけ、って言ったら怒る?」
貴臣は顔を上げて、いるはずのない彼女を目の前にしている時のように眉を下げてみせた。数秒の沈黙の後、彼女が大きく息を吸う音が聞こえた。
「……私も」
吐き出された言葉は短く、そして震えていた。
その一言だけめ彼女は自分に愛想を尽かしたわけではないことを確認でき、貴臣は込み上げてくる歓喜の声を押し殺して、再び口を開いた。
「俺達、結婚しちゃおっか」
「は?」
「ああ、えっと……違うな。俺で良ければ結婚してくれませんか?」
貴臣はベッドの上で正座をし、息を呑んで返事を待った。長い沈黙に、勢い任せの電話でのプロポーズの失敗を悟った。きっと彼女にとっても思い描いていた理想とは全く違うものだったろう。どっと襲い来る後悔と不安に、貴臣はどうにか取り繕う言葉を考えた。けれど、カメラが回っている時のようには上手く頭は働いてくれない。彼女相手になると、どうにも普段の貴臣"らしく"振る舞えなくなる。
「はあ。夜景の見えるディナーで完璧なスパダリプロポーズしてた人とは思えない……」
「ドラマの話ね」
いつか自身が出演した恋愛ドラマを思い出して、貴臣は苦笑いをした。演技では甘いセリフもキザな演出も難なくこなせるのに、やはりプライベートとなるとそうはいかないようだ。
「怒られちゃう。ファンにも社長にも」
「そこは、土下座でも何でもするから安心して?」
「寺島貴臣の土下座……。週刊誌に売れるかな」
「こら」
週刊誌に追われていることを皮肉った冗談に思わず吹き出してしまうと、彼女もつられたのか小さく笑い声を漏らした。
「私で良ければもらってください。返品不可です」
彼女の言葉に、貴臣は笑うのをやめて、ベッドの上で一人姿勢を正した。
「生涯大切にします」
* * *
真夜中の都市高速は思ったよりも寂れていた。平日というのもあってか、走っているのは貨物トラックだけだ。新車特有の接着剤や皮の匂いのするレンタカーの車内が気になって、貴臣は横目で助手席に座る彼女を見た。
「窓、開けてもいい?」
貴臣が口にする前に、彼女は窓の外の景色から目を離さずに言った。
「俺も同じ事言おうとしてたとこ」
彼女といると時々思考を全て読まれているような錯覚に陥る。勿論そんな事はないのだろうが、少しだけ焦る時もある。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならない。
貴臣は視線は前に向け、運転に集中したままでヘッドレストに掛けていた自身の上着を彼女の膝へと放り投げた。
「空調は?」
「大丈夫。このままで」
彼女が言い終わると同時に、冷たい風が貴臣の頬を撫でた。彼女が好んで使っている香水の微かな匂いがする。いつか貴臣はプレゼントした、ホワイトムスクとジャスミンがベースとなったもの。微かにグレープフルーツの香りが混ざった、甘い香水だ。
もう一度、横目で彼女を盗み見る。少しだけ眠たそうに瞼を下ろしかけている彼女の姿を確認して、貴臣はカーナビへと視線を向けた。時刻は一時を過ぎている。
「疲れた?」
「……大丈夫」
「東京まであと一時間半はかかるよ」
貴臣がそう言うと、今日――正確には、昨日の事を思い出したのか彼女はパッと顔を上げて貴臣の方を向いた。
「思ったより皆さん受け入れてくれたね」
「……正直誰かしらに一発はもらうかなって思ってたんだけど」
事務所への報告を一通り済ませ、その足で互いの実家へと挨拶をしてきた。貴臣の立場上、猛反発を喰らうものかと思っていたが、二人の予想に反して返ってきた返事は穏やかなものだった。祝福する者、苦そうな顔をしながらも好きにするように伝えてきた者、さして興味がなさそうな者――反応は様々だった。
彼女か仕事か。究極の選択を迫られたらどうするべきかと悩んでいたが、存外現実はあっさりとしたものだった。社長やマネージャーが驚きつつも受け入れてくれたのは、貴臣の年齢やそれまでの実績の事もあったのだろう。世間へ公表するかどうかは、分からない。改めて会議の上で決定するという事になった。不便ではあるだろうが、今までのように二人で日陰の生活をする事で一緒に居られるなら、それはそれでいい。
「これからの事、改めてまた話さないとな」
「うん」
今にも夢の世界に行ってしまいそうな蕩けた返事に、貴臣は肩をすくめた。
「次で高速を下りて、泊まるとこ探そうか」
「でも……」
「有給取ってるんだろ?」
「私はいいけど、貴臣さんが……」
「そんなに朝早くないから平気」
貴臣はそう言って、彼女の膝の上に置かれた手の上に自分の手を重ねた。驚いて肩を震わせた彼女は、握りしめてくる大きな手を払って、膝にかけていた貴臣の上着の下に手を差し込んだ。
「運転に集中してください」
「はーい」
怒ってそっぽを向いた彼女の耳が赤くなっていたのを見逃さず、貴臣は上機嫌でハンドルを切った。
高速を下り、二十分ほど車を走らせると民家に混じってビルが建ち並ぶ大通りへと出た。都会と比べてしまうと随分と寂しい景色だったが、駅の近くには居酒屋もコンビニも、ビジネスホテルもあった。運良くその一軒目のホテルに宿泊出来る事になり、二人は備え付けの寝間着に身を包んでそれぞれベッドの上へと身を投げ出していた。
「バスローブが良かったんだけどな」
「普通のビジネスホテルだし、仕方ないよ」
「まあねぇ」
貴臣は自身の寝間着の胸元をつまみ上げて、苦笑いを零した。男女共用の上下ブラウンのそれは、貴臣にはちょうどいいが彼女にはいささか大きすぎたようだ。彼女がベッドの上で起き上がると、居心地悪そうにずり下がってくる袖をまくり上げた。
「貴臣さん」
「何?」
寝返りを打つようにして身体ごと彼女の方に向くと、彼女は貴臣寝転がるベッドに身を乗り出していた。
「好き、です」
掛けたられた言葉の意味を理解するのに数秒かかって、貴臣は息を呑んだ。
「……誘ってる?」
「すぐふざける」
「痛ッ」
彼女の方へと伸ばした手は、ぺちんと音を立てて叩き落とされた。貴臣は大袈裟に痛がってみせるように手の甲をさするが、彼女にはそれも全て演技である事はお見通しとでも言うようにジト目で貴臣を睨みつけるだけだった。
「ね、こっち来てよ。今日は一緒に寝よう」
「……変な事しない?」
恐る恐る彼女が貴臣のベッドへと移動すると、突然腕を掴まれた。
「……貴臣!」
「ごめんごめん」
そのまま腕を引っ張られたかと思うと、彼女はバランスを崩して貴臣の胸へと飛び込む形となった。突然の行動に驚きと苛立ちの混じった声を上げると、彼女は貴臣の胸元を小突いて貴臣の上から退こうと身じろいた。けれど、すぐに貴臣の腕が背中に回ってきて、それは叶わなかった。
どうしたらいいか分からず顔を上げ、貴臣を見つめると彼は愛おしそうに目を細めた。背中に回された手が、次第に上り後頭部を優しく撫で上げた。そのまま身を委ねるようにしていると、貴臣は彼女の耳元に唇を寄せた。
「愛してる」
掠れた低い声が、鼓膜を揺らす。
くすぐったさと、気恥しさとで彼女は呻き声を上げて貴臣の肩口へと顔を埋めた。
「……軽々しく言わないの」
「本気だって」
いつの間にか彼女の身体はベッドの上へと下ろされ、視界には真剣な表情をした貴臣が映っている。見つめているのも恥ずかしくて、そっと目をそらすと同時に貴臣が吹き出した。
「ダメだ。このパジャマだとカッコつかないから脱いでいい?」
「ど、どうぞ……」
視界から貴臣が消え、聞こえてくる衣擦れの音に居心地が悪くなって、身体ごと彼から視線を逸らした。枕を手繰り寄せて頭の下に置くと、肩に触れる温もりに彼女は反射的に振り向いた。
「……変な事しない?」
先刻と同じ問いかけをすると、貴臣は困ったように肩をすくめてみせた。
「変な事って?」
彼女の言いたい事は全てわかっているであろう貴臣は、ただ彼女を見つめて微笑みを返すだけだった。付き合う前も、付き合ってからものこの表情に勝てた試しがない。彼女は諦めのため息をついて貴臣に背を向けて枕に顔を埋めた。
「……何でもない」
すっかり拗ねてしまった彼女の肩を再び抱き寄せるようにすると、貴臣は今度こそ彼女の背中にぴったりと肌を寄せた。
「嫌がる事はしないよ。こうやって一緒に寝るだけ」
貴臣の腕の中に抱き込まれ、二人の会話が途切れた。背中越しに伝わる互いの体温に少しずつ鼓動が速くなる。居心地が悪くなって身じろぐと、貴臣の腕の力がするりと緩んだ。
「……寝るだけなの?」
振り向いて問いかけると、瞳と視線がぶつかる。しばらく何も言わずに見つめていると、貴臣は目を細めて笑った。
「疲れてるんだろ?」
「私は平気。貴臣さんのせいで眠気が飛んだ」
「相変わらず誘い方が下手だね」
「うるさい」
彼女が顔を赤くして貴臣の胸元を叩くとぺちんと音が鳴って、弾みで彼のネックレスが揺れた。仕事では分からないが、プライベートではアクセサリーの類をあまり好んで着ける人ではない。不思議に思い、ネックレスのチェーン部分を指先に軽く引っ掛けて引っ張ってみると、大きさの違うリングが二つぶら下がっていた。
「……エンゲージリング。渡し損ねたなって思って、どうしようかと思ってた」
貴臣はそう言って、照れ臭そうに笑って彼女の手首を優しく掴んだ。顔を上げると、彼は眉を八の字にして困ったように彼女を見つめていた。
「これ、ちょうだい」
「結婚指輪、二人で選びに行くのに?」
「どっちも着けるから」
もう一度チェーンの部分を引っ張ると、貴臣は観念したのか彼女の手首を放す。そのままゆっくりと貴臣が上体を起こすので、彼女はネックレスから手を放してじっと彼の次の行動を待った。
静かな部屋の中に、シーツの擦れる音とネックレスの留め具を外す小さな金属音だけが響いている。しばらくすると、左手をすくい上げられたので、彼女も身体を起こした。
「左手の薬指は一つしかないよ」
呆れた声を出しながら、貴臣は手に取った彼女の薬指を自身の親指でそっとなぞった。
「貴臣さんが選んだこの指輪が欲しいの」
真っ直ぐに見つめてそう言うと、貴臣は観念したといった様子で肩をすくめ、指先に引っ掛けないよう、丁寧でゆったりとした動作で指輪を嵌めた。ショルダー部分が月の形になり、センターストーンにダイヤモンドが置かれたプラチナの指輪だった。
「ちょっと自己主張が強かったかな」
宝石がはめ込まれた部分をまじまじと眺めていると、貴臣は照れ臭そうに言った。
「すっごく素敵」
彼女は泣きそうになりながら笑って、差し出されたもう一つの指輪を受け取って、貴臣の左手を取った。彼にしてもらったように、男らしく骨張った指に指輪を嵌めるのとほぼ同時に、貴臣に勢い良く抱き着いた。不意な行動だったが、貴臣はしっかりと彼女身体を受け止めてきつく抱きしめ返した。
「結婚式では泣かないようにしないとな」
彼女が涙ぐんでいる事について言っているのかと思い、貴臣の腕の中で返答を考えていると微かなすすり泣く音が聞こえた。彼女が発したものではない。
顔は見えないが、きっと貴臣は泣いているのだろう。
「貴臣さんって、意外と涙脆いよね」
「まあね。子どもが出来たらもっと泣く自信があるよ」
「胸張って言う事じゃないでしょ……」
互いの体温を分け合うようにして身を寄せ合っていると、不意に肩を押されて彼女はそのままベッドに転がされた。驚いて反射的に身体を起こそうとすると、それを押さえ込むようにして唇を塞がれる。何度しても慣れる事のない口付けに戸惑いながらも、彼女は貴臣に身を委ねて身体の力を抜いた。
「子どもはたくさん欲しいな」
唇が離れた一瞬、貴臣は独り言のようにそう呟いたかと思うと、もう一度彼女の唇に吸い付くようにして口付けを落とした。いつの間にか指輪をした左手と左手が絡んでいて、逃がさないとでも言うように彼女の手をぎゅっと包み込んでいる。
息つく間もない激しい口付けの雨の中、彼女は言葉の代わりに貴臣の大きな手をぎゅっと握り返した。


