君の隣は、予約済み。
第一話 同じ講義、違う心拍数。
大学生になれば、恋愛だってもっと簡単になると思っていた。
高校生の頃みたいに、クラスが同じだから毎日会えるわけじゃない。大学には必修科目と選択科目があって、空きコマがあって、サークルがあって、バイトがある。
会いたい人に会うためには、自分で時間を作らなきゃいけない。
だからこそ。
「小春、おはよ」
朝八時四十分。
一限の講義が行われる三号館の前で、私の名前を呼ぶこの男は、相当たちが悪いと思う。
「……おはよう、谷津くん」
「何その距離感」
「何が?」
「同じ学部の友達に対する挨拶じゃん、それ」
「友達でしょ?」
「えー、俺、結構傷ついたんだけど」
谷津柊真。
大学二年生。経済学部。身長はたぶん百八十センチくらい。黒髪で、目が少し垂れていて、笑うとやたらと人懐っこい。
そして、大学に入学してからというもの、女子学生の間で何度も話題になっている男である。
本人は自覚しているのか、していないのか。
「ねえ、小春。今日、何限まで?」
「四限まで」
「じゃあ、昼一緒に食べよ」
「……なんで?」
「一緒に食べたいから」
「友達と食べればいいじゃん」
「友達って、今ここにいるけど」
そう言って、柊真は自分の胸を指さした。
ああ、そうですか。
あなたは友達とお昼を食べたいんですね。
私という友達と。
……いや、だから。
そういう言い方をするな。
「……別にいいけど」
「よっしゃ」
「そんな喜ぶこと?」
「小春と学食行くの、久しぶりじゃん」
「先週も行ったけど」
「先週は美月もいた」
「それが?」
「二人で行きたい」
…………。
朝のキャンパスは、やけに騒がしい。
自転車のブレーキ音。学生たちの笑い声。遠くから聞こえるサークルの勧誘。
その全部が、急に遠くなった気がした。
「……っ、講義、遅れる!」
「まだ二十分あるけど?」
「いいから!」
私は柊真を置いて、三号館へと歩き出した。
背後から、楽しそうな声が追いかけてくる。
「小春ー! 隣、空けといてね!」
空けといてね、じゃない。
こっちの心の準備というものを考えてほしい。
一限は、現代社会と経済についての講義だった。
教授の声は眠気を誘うほど穏やかで、スクリーンには難しそうなグラフが映し出されている。
私は必死にノートを取っていた。
隣の席では、柊真がシャーペンをくるくる回している。
「……谷津くん」
小声で呼ぶと、彼がこちらを向いた。
「ん?」
「ちゃんと聞きなよ」
「聞いてるよ」
「じゃあ、今、先生なんて言った?」
「えーっと……市場の……なんか……」
「ほら!」
「いや、待って。今のは小春の顔見てたから」
「は!?」
声が大きくなりかけて、慌てて口を押さえる。
前の席の学生が振り返った。
私は頭を下げ、柊真のノートを覗き込む。
そこには、講義内容とは関係のない落書きがあった。
小さな猫。
その下に、丸っこい文字で。
『小春、怒ってる』
「……何これ」
「観察記録」
「大学のノートに何書いてんの!?」
「あとでレポートにまとめようかな」
「単位落とせばいいのに!」
柊真は声を殺して笑った。
その横顔を見て、私は一瞬だけ、言葉を失う。
こういうところが、ずるい。
ふざけているくせに、講義が終われば私のノートを見せてほしいと言う。課題の提出期限を忘れたときは、誰よりも早く教えてくれる。
私が苦手な統計学の問題を解けずに困っていたら、図書館で一緒に勉強してくれた。
しかも、教え方が上手い。
「ここは公式を丸暗記するより、何を求めてるか考えたほうがいいよ」
そう言って、私が理解するまで何度でも説明してくれる。
普段はあんなに適当なのに。
「……小春?」
「え?」
「また俺のこと見てた?」
「見てない!」
「そっか。残念」
……本当に、腹が立つ。
こんな男を好きになったら、絶対に苦労する。
そう思っているのに。
私は今日も、彼の隣の席を選んでしまった。
十二時十五分。
講義が終わると同時に、私は柊真に腕を引かれそうになった。
「学食、行こ」
「ちょっと待って。美月に連絡する」
「……美月も来るの?」
「うん。今日、一緒に食べる約束してたから」
柊真は、あからさまに肩を落とした。
「えー……」
「何その反応」
「いや、何でもない」
「柊真って美月と仲悪かったっけ?」
「いや、全然。むしろいい奴だと思うよ」
「じゃあいいじゃん」
「……小春は、俺と二人で食べるの嫌?」
その聞き方は反則だ。
さっきまで冗談ばかり言っていたくせに、急にそんな顔をする。
「……嫌じゃないけど」
「じゃあ、今度二人で行こうね」
「…………うん」
柊真は満足そうに笑った。
そのとき、後ろから明るい声がした。
「おっまたせー!」
美月だ。
肩までの茶色い髪を揺らしながら、私たちのところへ駆け寄ってくる。
「ごめん、先生に捕まってた! ……って、あれ? 何か二人とも変な顔してない?」
「してない!」
「してないよ」
声が重なった。
美月は私と柊真を交互に見て、にんまりと笑った。
「ふーん?」
やめて。
その顔をしないで。
絶対、何か察している。
学食は、昼休みの学生でいっぱいだった。
トレーを持ったまま席を探していると、窓際に三人分の空席を見つけた。
「小春、そこ座って」
柊真が椅子を引いてくれる。
「……自分で座れるんだけど」
「知ってる」
「じゃあ、何で?」
「やりたいから」
また、それだ。
美月が隣で吹き出した。
「谷津くんって、ほんと小春に甘いよね」
「そう?」
「そうだよ。私にもそのくらい優しくしてくれていいんだよ?」
「美月には自分で椅子引いてもらおうかな」
「ひどっ!」
三人で笑う。
大学生活は楽しい。
高校とは違う友達ができて、自分で履修を組んで、好きな講義を選んで、バイトをして、サークルの新歓に行ったりする。
だけど、私の大学生活がこんなにも楽しい理由をひとつ挙げろと言われたら。
たぶん、私は答えられない。
だって、それは。
隣に座る男の子が、私にとって特別だからだ。
「小春」
「ん?」
「それ、食べないの?」
私の皿に残っていた唐揚げを指さす柊真。
「食べるよ」
「じゃあ、食べ終わるまで待つ」
「何で?」
「午後、図書館行くんでしょ?」
「あ、うん。レポートやらなきゃ」
「俺も行く」
「柊真、バイトは?」
「今日は夕方から」
「……そっか」
彼は何でもないことみたいに言う。
一緒に図書館へ行くことも。
私の帰る時間を気にすることも。
当たり前みたいに、私の隣にいることも。
その全部が。
私にとっては、当たり前じゃない。
午後二時。
大学図書館の三階。
窓際の席に向かい合って座り、私はパソコンでレポートを書いていた。
柊真は隣で参考文献を読んでいる。
時折、キーボードを叩く音が聞こえる。
静かで、穏やかな時間だった。
「……小春」
「んー?」
「ここ、参考になりそう」
彼が画面をこちらに向ける。
肩が触れた。
たったそれだけで、私は文字を打つ手を止めてしまった。
「……どうした?」
「な、何でもない」
「眠い?」
「眠くない」
「じゃあ、疲れた?」
「疲れてない!」
「……そっか」
柊真は少し考えたあと、机の上に置いてあった自分のスマホを手に取った。
「じゃあ、休憩しよ」
「え?」
「コーヒー買ってくる。小春、何飲む?」
「……カフェラテ」
「了解」
彼が立ち上がる。
その背中を見送りながら、私は大きく息を吐いた。
心臓に悪い。
本当に、心臓に悪い。
数分後、柊真はカフェラテとブラックコーヒーを持って戻ってきた。
「はい」
「ありがとう。お金払うね」
「いいよ」
「いや、払うって」
「じゃあ、今度ジュース奢って」
「……それなら」
私はカフェラテを受け取った。
すると柊真は、自分の席に座る前に、私の顔を覗き込んだ。
「小春」
「何?」
「今日、ずっと顔赤くない?」
「……っ!」
「熱ある?」
彼の手が、私の額に伸びてくる。
触れる直前、私は慌てて身を引いた。
「な、ないから!」
柊真の手が止まる。
数秒の沈黙。
それから彼は、困ったように笑った。
「……そっか」
少しだけ、寂しそうな顔だった。
「ごめん。嫌だった?」
「……違う」
思わず、声が出た。
柊真がこちらを見る。
私はカフェラテのカップを両手で握りしめた。
「……嫌じゃ、ない」
言ってから、顔を上げられなくなった。
何を言っているんだ、私は。
図書館だぞ。
大学の図書館。
周りには勉強している学生が何人もいる。
なのに、私の頭の中は、柊真のことでいっぱいだった。
「……小春」
いつもより少し低い声。
「それ、期待していい?」
「…………え?」
「嫌じゃないってやつ」
彼は笑っていなかった。
真剣な目で、私を見ていた。
「俺、結構我慢してるんだけど」
「……何を?」
「小春に触りたいとか。もっと一緒にいたいとか」
息が止まった。
「……友達なのに、そんなこと思うの、変だよな」
柊真は視線を落とした。
「だから、なるべく普通にしてるつもりなんだけどさ」
そこで、彼は小さく笑った。
「……全然、うまくいかない」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
この人は、いつも余裕があると思っていた。
私の反応を見て笑って、甘い言葉をさらっと口にして、何でもない顔で隣にいる人だと思っていた。
でも。
違ったんだ。
私が知らないだけで、柊真もずっと、同じように悩んでいたのかもしれない。
「……柊真」
初めて、苗字じゃなくて名前を呼んだ。
彼が顔を上げる。
少し驚いたような顔をしていた。
「……今、もう一回呼んで」
「え?」
「名前」
「……と、柊真」
彼は片手で口元を覆った。
「……やば」
「な、何が!?」
「いや、ちょっと待って」
耳が赤い。
さっきまで真剣な顔をしていたくせに、今度は彼が目をそらしている。
「……小春、それ、反則」
「……知らないよ、そんなの」
私はカフェラテをひと口飲んだ。
甘い。
いつもより、ずっと甘く感じた。
午後四時半。
図書館を出ると、キャンパスは夕暮れに染まっていた。
柊真はバイト先へ向かうため、駅の反対側へ歩いていく。
「じゃあ、また明日」
「……うん」
「レポート、頑張ってね」
「柊真もバイト頑張って」
「ありがと」
彼は数歩進んでから、振り返った。
「小春!」
「何?」
「明日、一限ある?」
「あるけど」
「じゃあ、迎えに行く」
「……わざわざ?」
「うん」
「駅、逆方向じゃん」
「知ってる」
「……ばかじゃないの」
柊真は笑った。
「うん。小春のことになると、ばかになるみたい」
そう言って、今度こそ歩き出した。
私は、その背中が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
その夜。
自宅のベッドに寝転がり、私はスマホを見つめていた。
午後九時四十七分。
柊真からメッセージが届いた。
『バイト終わったー』
『お疲れさま』
『小春、レポート終わった?』
『まだ』
『えらい』
『終わってないのに?』
『頑張ってるから』
思わず、笑ってしまった。
その直後、もう一件。
『今日さ』
『うん?』
『名前で呼んでくれたの、嬉しかった』
……やめて。
今日一日で、どれだけ私を振り回せば気が済むのだろう。
『別に、深い意味はないから』
送信。
すぐに既読がついた。
『そっか』
……あれ。
いつもなら、ここで何か言い返してくるのに。
少しだけ、寂しくなった。
すると。
『じゃあ、深い意味ができるまで待ってる』
…………。
『小春の一番近くにいられるなら、今は友達でもいいよ』
スマホを握る手が止まった。
画面を見つめたまま、私は動けなかった。
ずるい。
本当に、ずるい。
そんなことを言われたら。
友達のままでいいなんて、思えなくなるじゃないか。
私は、ゆっくりと文字を打った。
『……明日も、隣の席に座っていいよ』
送信。
数秒後。
『それ、予約ってことでいい?』
『何の?』
『小春の隣』
私は枕に顔を埋めた。
もう駄目だ。
この恋、絶対に勝てない。
『……予約済みです』
そう送ると、すぐに返信が来た。
『よっしゃ。一生分、予約しとこ』
……一生分。
たった一言なのに。
私の胸は、どうしようもないくらい、きゅんとした。
恋人じゃない。
まだ、好きだとも言えていない。
それでも。
明日の朝、彼に会えるのが楽しみで仕方なかった。
高校生の頃みたいに、クラスが同じだから毎日会えるわけじゃない。大学には必修科目と選択科目があって、空きコマがあって、サークルがあって、バイトがある。
会いたい人に会うためには、自分で時間を作らなきゃいけない。
だからこそ。
「小春、おはよ」
朝八時四十分。
一限の講義が行われる三号館の前で、私の名前を呼ぶこの男は、相当たちが悪いと思う。
「……おはよう、谷津くん」
「何その距離感」
「何が?」
「同じ学部の友達に対する挨拶じゃん、それ」
「友達でしょ?」
「えー、俺、結構傷ついたんだけど」
谷津柊真。
大学二年生。経済学部。身長はたぶん百八十センチくらい。黒髪で、目が少し垂れていて、笑うとやたらと人懐っこい。
そして、大学に入学してからというもの、女子学生の間で何度も話題になっている男である。
本人は自覚しているのか、していないのか。
「ねえ、小春。今日、何限まで?」
「四限まで」
「じゃあ、昼一緒に食べよ」
「……なんで?」
「一緒に食べたいから」
「友達と食べればいいじゃん」
「友達って、今ここにいるけど」
そう言って、柊真は自分の胸を指さした。
ああ、そうですか。
あなたは友達とお昼を食べたいんですね。
私という友達と。
……いや、だから。
そういう言い方をするな。
「……別にいいけど」
「よっしゃ」
「そんな喜ぶこと?」
「小春と学食行くの、久しぶりじゃん」
「先週も行ったけど」
「先週は美月もいた」
「それが?」
「二人で行きたい」
…………。
朝のキャンパスは、やけに騒がしい。
自転車のブレーキ音。学生たちの笑い声。遠くから聞こえるサークルの勧誘。
その全部が、急に遠くなった気がした。
「……っ、講義、遅れる!」
「まだ二十分あるけど?」
「いいから!」
私は柊真を置いて、三号館へと歩き出した。
背後から、楽しそうな声が追いかけてくる。
「小春ー! 隣、空けといてね!」
空けといてね、じゃない。
こっちの心の準備というものを考えてほしい。
一限は、現代社会と経済についての講義だった。
教授の声は眠気を誘うほど穏やかで、スクリーンには難しそうなグラフが映し出されている。
私は必死にノートを取っていた。
隣の席では、柊真がシャーペンをくるくる回している。
「……谷津くん」
小声で呼ぶと、彼がこちらを向いた。
「ん?」
「ちゃんと聞きなよ」
「聞いてるよ」
「じゃあ、今、先生なんて言った?」
「えーっと……市場の……なんか……」
「ほら!」
「いや、待って。今のは小春の顔見てたから」
「は!?」
声が大きくなりかけて、慌てて口を押さえる。
前の席の学生が振り返った。
私は頭を下げ、柊真のノートを覗き込む。
そこには、講義内容とは関係のない落書きがあった。
小さな猫。
その下に、丸っこい文字で。
『小春、怒ってる』
「……何これ」
「観察記録」
「大学のノートに何書いてんの!?」
「あとでレポートにまとめようかな」
「単位落とせばいいのに!」
柊真は声を殺して笑った。
その横顔を見て、私は一瞬だけ、言葉を失う。
こういうところが、ずるい。
ふざけているくせに、講義が終われば私のノートを見せてほしいと言う。課題の提出期限を忘れたときは、誰よりも早く教えてくれる。
私が苦手な統計学の問題を解けずに困っていたら、図書館で一緒に勉強してくれた。
しかも、教え方が上手い。
「ここは公式を丸暗記するより、何を求めてるか考えたほうがいいよ」
そう言って、私が理解するまで何度でも説明してくれる。
普段はあんなに適当なのに。
「……小春?」
「え?」
「また俺のこと見てた?」
「見てない!」
「そっか。残念」
……本当に、腹が立つ。
こんな男を好きになったら、絶対に苦労する。
そう思っているのに。
私は今日も、彼の隣の席を選んでしまった。
十二時十五分。
講義が終わると同時に、私は柊真に腕を引かれそうになった。
「学食、行こ」
「ちょっと待って。美月に連絡する」
「……美月も来るの?」
「うん。今日、一緒に食べる約束してたから」
柊真は、あからさまに肩を落とした。
「えー……」
「何その反応」
「いや、何でもない」
「柊真って美月と仲悪かったっけ?」
「いや、全然。むしろいい奴だと思うよ」
「じゃあいいじゃん」
「……小春は、俺と二人で食べるの嫌?」
その聞き方は反則だ。
さっきまで冗談ばかり言っていたくせに、急にそんな顔をする。
「……嫌じゃないけど」
「じゃあ、今度二人で行こうね」
「…………うん」
柊真は満足そうに笑った。
そのとき、後ろから明るい声がした。
「おっまたせー!」
美月だ。
肩までの茶色い髪を揺らしながら、私たちのところへ駆け寄ってくる。
「ごめん、先生に捕まってた! ……って、あれ? 何か二人とも変な顔してない?」
「してない!」
「してないよ」
声が重なった。
美月は私と柊真を交互に見て、にんまりと笑った。
「ふーん?」
やめて。
その顔をしないで。
絶対、何か察している。
学食は、昼休みの学生でいっぱいだった。
トレーを持ったまま席を探していると、窓際に三人分の空席を見つけた。
「小春、そこ座って」
柊真が椅子を引いてくれる。
「……自分で座れるんだけど」
「知ってる」
「じゃあ、何で?」
「やりたいから」
また、それだ。
美月が隣で吹き出した。
「谷津くんって、ほんと小春に甘いよね」
「そう?」
「そうだよ。私にもそのくらい優しくしてくれていいんだよ?」
「美月には自分で椅子引いてもらおうかな」
「ひどっ!」
三人で笑う。
大学生活は楽しい。
高校とは違う友達ができて、自分で履修を組んで、好きな講義を選んで、バイトをして、サークルの新歓に行ったりする。
だけど、私の大学生活がこんなにも楽しい理由をひとつ挙げろと言われたら。
たぶん、私は答えられない。
だって、それは。
隣に座る男の子が、私にとって特別だからだ。
「小春」
「ん?」
「それ、食べないの?」
私の皿に残っていた唐揚げを指さす柊真。
「食べるよ」
「じゃあ、食べ終わるまで待つ」
「何で?」
「午後、図書館行くんでしょ?」
「あ、うん。レポートやらなきゃ」
「俺も行く」
「柊真、バイトは?」
「今日は夕方から」
「……そっか」
彼は何でもないことみたいに言う。
一緒に図書館へ行くことも。
私の帰る時間を気にすることも。
当たり前みたいに、私の隣にいることも。
その全部が。
私にとっては、当たり前じゃない。
午後二時。
大学図書館の三階。
窓際の席に向かい合って座り、私はパソコンでレポートを書いていた。
柊真は隣で参考文献を読んでいる。
時折、キーボードを叩く音が聞こえる。
静かで、穏やかな時間だった。
「……小春」
「んー?」
「ここ、参考になりそう」
彼が画面をこちらに向ける。
肩が触れた。
たったそれだけで、私は文字を打つ手を止めてしまった。
「……どうした?」
「な、何でもない」
「眠い?」
「眠くない」
「じゃあ、疲れた?」
「疲れてない!」
「……そっか」
柊真は少し考えたあと、机の上に置いてあった自分のスマホを手に取った。
「じゃあ、休憩しよ」
「え?」
「コーヒー買ってくる。小春、何飲む?」
「……カフェラテ」
「了解」
彼が立ち上がる。
その背中を見送りながら、私は大きく息を吐いた。
心臓に悪い。
本当に、心臓に悪い。
数分後、柊真はカフェラテとブラックコーヒーを持って戻ってきた。
「はい」
「ありがとう。お金払うね」
「いいよ」
「いや、払うって」
「じゃあ、今度ジュース奢って」
「……それなら」
私はカフェラテを受け取った。
すると柊真は、自分の席に座る前に、私の顔を覗き込んだ。
「小春」
「何?」
「今日、ずっと顔赤くない?」
「……っ!」
「熱ある?」
彼の手が、私の額に伸びてくる。
触れる直前、私は慌てて身を引いた。
「な、ないから!」
柊真の手が止まる。
数秒の沈黙。
それから彼は、困ったように笑った。
「……そっか」
少しだけ、寂しそうな顔だった。
「ごめん。嫌だった?」
「……違う」
思わず、声が出た。
柊真がこちらを見る。
私はカフェラテのカップを両手で握りしめた。
「……嫌じゃ、ない」
言ってから、顔を上げられなくなった。
何を言っているんだ、私は。
図書館だぞ。
大学の図書館。
周りには勉強している学生が何人もいる。
なのに、私の頭の中は、柊真のことでいっぱいだった。
「……小春」
いつもより少し低い声。
「それ、期待していい?」
「…………え?」
「嫌じゃないってやつ」
彼は笑っていなかった。
真剣な目で、私を見ていた。
「俺、結構我慢してるんだけど」
「……何を?」
「小春に触りたいとか。もっと一緒にいたいとか」
息が止まった。
「……友達なのに、そんなこと思うの、変だよな」
柊真は視線を落とした。
「だから、なるべく普通にしてるつもりなんだけどさ」
そこで、彼は小さく笑った。
「……全然、うまくいかない」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
この人は、いつも余裕があると思っていた。
私の反応を見て笑って、甘い言葉をさらっと口にして、何でもない顔で隣にいる人だと思っていた。
でも。
違ったんだ。
私が知らないだけで、柊真もずっと、同じように悩んでいたのかもしれない。
「……柊真」
初めて、苗字じゃなくて名前を呼んだ。
彼が顔を上げる。
少し驚いたような顔をしていた。
「……今、もう一回呼んで」
「え?」
「名前」
「……と、柊真」
彼は片手で口元を覆った。
「……やば」
「な、何が!?」
「いや、ちょっと待って」
耳が赤い。
さっきまで真剣な顔をしていたくせに、今度は彼が目をそらしている。
「……小春、それ、反則」
「……知らないよ、そんなの」
私はカフェラテをひと口飲んだ。
甘い。
いつもより、ずっと甘く感じた。
午後四時半。
図書館を出ると、キャンパスは夕暮れに染まっていた。
柊真はバイト先へ向かうため、駅の反対側へ歩いていく。
「じゃあ、また明日」
「……うん」
「レポート、頑張ってね」
「柊真もバイト頑張って」
「ありがと」
彼は数歩進んでから、振り返った。
「小春!」
「何?」
「明日、一限ある?」
「あるけど」
「じゃあ、迎えに行く」
「……わざわざ?」
「うん」
「駅、逆方向じゃん」
「知ってる」
「……ばかじゃないの」
柊真は笑った。
「うん。小春のことになると、ばかになるみたい」
そう言って、今度こそ歩き出した。
私は、その背中が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
その夜。
自宅のベッドに寝転がり、私はスマホを見つめていた。
午後九時四十七分。
柊真からメッセージが届いた。
『バイト終わったー』
『お疲れさま』
『小春、レポート終わった?』
『まだ』
『えらい』
『終わってないのに?』
『頑張ってるから』
思わず、笑ってしまった。
その直後、もう一件。
『今日さ』
『うん?』
『名前で呼んでくれたの、嬉しかった』
……やめて。
今日一日で、どれだけ私を振り回せば気が済むのだろう。
『別に、深い意味はないから』
送信。
すぐに既読がついた。
『そっか』
……あれ。
いつもなら、ここで何か言い返してくるのに。
少しだけ、寂しくなった。
すると。
『じゃあ、深い意味ができるまで待ってる』
…………。
『小春の一番近くにいられるなら、今は友達でもいいよ』
スマホを握る手が止まった。
画面を見つめたまま、私は動けなかった。
ずるい。
本当に、ずるい。
そんなことを言われたら。
友達のままでいいなんて、思えなくなるじゃないか。
私は、ゆっくりと文字を打った。
『……明日も、隣の席に座っていいよ』
送信。
数秒後。
『それ、予約ってことでいい?』
『何の?』
『小春の隣』
私は枕に顔を埋めた。
もう駄目だ。
この恋、絶対に勝てない。
『……予約済みです』
そう送ると、すぐに返信が来た。
『よっしゃ。一生分、予約しとこ』
……一生分。
たった一言なのに。
私の胸は、どうしようもないくらい、きゅんとした。
恋人じゃない。
まだ、好きだとも言えていない。
それでも。
明日の朝、彼に会えるのが楽しみで仕方なかった。
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