君の隣は、予約済み。

第二話 「彼女じゃない」が、一番ずるい。

大学二年生、五月。
新緑の季節。
キャンパスの中庭では、新入生らしき学生たちがサークルの勧誘を受けていて、講義棟の前には課題の締め切りに追われる学生たちが座り込んでいた。
そんな、いつもと変わらない朝。
私、小春にはひとつだけ、いつもと違うことがあった。
「小春、おはよ」
「……おはよう」
「今日もかわいいね」
「朝からうるさい」
「えー、挨拶しただけなのに」
隣を歩く谷津柊真。
例の、私の心を一年間も振り回し続けていた男である。
あの日、図書館で名前を呼んでからというもの、柊真はますます遠慮がなくなった。
講義前に飲み物を買ってきてくれる。
私が眠そうにしていると、ノートの端に猫の落書きをしてくる。
帰りが遅くなれば、駅まで一緒に歩いてくれる。
そして、何より。
「小春、今日の昼も一緒に食べよ」
「……毎日一緒に食べてるじゃん」
「うん。だから今日も」
「柊真って、友達少ないの?」
「いるよ。小春が一番だけど」
……だから。
そういうところだってば。
「……ほんと、そういうのやめて」
「何で?」
「何でも!」
柊真は楽しそうに笑った。
その笑顔を見るたび、私は思う。
この人は、私のことが好きなのだ。
少なくとも、そう言ってくれた。
それなのに。
いざ自分の気持ちを伝えようとすると、どうしても怖くなる。
もし、私が好きだと言ったら。
今までみたいに笑い合えなくなったら。
そんなことばかり考えてしまうのだ。
「小春?」
「……何?」
「また難しい顔してる」
「してない」
「じゃあ、今日の昼、学食の新メニュー食べに行こう」
「話聞いてた?」
「聞いてたよ。小春がかわいいって話でしょ?」
「一言も言ってない!!」
朝のキャンパスに、私の声が響いた。
柊真は、声を立てて笑った。
……絶対、いつか仕返ししてやる。
そう思いながらも、私は彼の隣を歩く速度を、ほんの少しだけ速めた。
彼に追いついてほしかったから。
昼休み。
私たちは学食の窓際の席を確保した。
トレーの上には、日替わり定食とカフェラテ。
向かいには、柊真。
そして隣には、美月。
「ねえ、小春」
美月が箸を止めた。
「最近、谷津くんとどうなの?」
「どうって?」
「いや、毎日一緒にいるじゃん」
「同じ学部だし」
「昨日も一緒に図書館いたよね?」
「課題があったから」
「一昨日も駅まで一緒に帰ってたよね?」
「……帰る方向が途中まで同じだから」
美月は、じっと私を見つめた。
「小春って、言い訳するの下手だよね」
「うるさいな!」
そのやり取りを聞いていた柊真が、唐揚げをひとつ口に運びながら言った。
「美月、もっと言ってやって」
「谷津くんも黙って!」
「はいはい」
まったく反省していない。
美月はため息をつき、それから柊真に視線を向けた。
「そういえばさ、谷津くんって彼女いないの?」
「いないよ」
「好きな人は?」
「いる」
即答だった。
私は危うく味噌汁をこぼしかけた。
美月が目を輝かせる。
「えっ、誰!? 同じ大学?」
「うん」
「同じ学部?」
「うん」
「え、誰、誰!?」
美月が身を乗り出す。
私は、定食の小鉢を意味もなくつついた。
聞きたい。
でも、聞きたくない。
もし私じゃなかったら。
そんな考えが頭をよぎった、そのとき。
「……内緒」
柊真が笑った。
「本人には、ちゃんと伝えるつもりだから」
その声があまりに自然だったから。
私は、胸の奥が少しだけ痛くなった。
もう伝えてくれたじゃないか。
好きだって。
なのに、どうして。
どうして私は、こんなにも不安なのだろう。
午後の講義が終わったあと、私は美月と一緒に駅前のカフェに寄った。
課題を進めるつもりだったのだけれど、パソコンを開く前に、美月に捕まった。
「小春、正直に答えて」
「……何?」
「谷津くんのこと、好きでしょ?」
「…………」
「沈黙は肯定とみなします」
「弁護士なの?」
美月は笑った。
けれど、すぐに優しい顔になる。
「ねえ、小春。怖いの?」
私は、カフェラテのストローを指先で回した。
「……うん」
口に出したら、思っていたより簡単だった。
「好きって言ったら、今までみたいに一緒にいられなくなるかもしれないじゃん」
「うん」
「今は、毎日会えるし、話せるし、一緒にご飯も食べられるし……」
そこで、声が小さくなる。
「……それがなくなったら、嫌だなって」
美月は何も言わず、私の話を聞いていた。
「柊真は、私のこと好きって言ってくれた。でも、私が好きって言ったら、何か変わっちゃう気がして」
「小春」
美月が、そっと私の手に触れた。
「変わるよ」
「……え?」
「だって、今までだって変わってきたじゃん」
私は顔を上げた。
「最初はただの友達だったのに、今は柊真くんが隣にいるだけでドキドキするんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、好きって伝えたら、また違う毎日になるんだよ」
美月は微笑んだ。
「怖いのは、それだけ大事だからだと思うよ」
……大事。
そうだ。
私は、柊真との関係が大事なのだ。
友達でいられれば、それでいい。
そう思っていたはずなのに。
いつからだろう。
彼が私以外の女の子に笑いかけるのが嫌になったのは。
彼の隣に、私以外の誰かがいるところを想像したくなくなったのは。
「……私、柊真が好き」
初めて、自分の気持ちを声に出した。
美月は、嬉しそうに笑った。
「うん。知ってた」
「……ばか」
「はいはい」
それから、美月はスマホを取り出した。
「じゃあ、今週末、デートしてきなよ」
「……え?」
「二人で! 大学生らしく! 映画でも買い物でも!」
「ちょ、ちょっと待って!」
「待ちません!」
美月は勝手に盛り上がっている。
私は顔を覆った。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
好きだと自覚した途端、今まで以上に、彼の顔をまともに見られなくなってしまった。
その日の午後七時。
大学近くの駅前。
柊真は、バイト先へ向かう途中の私にメッセージを送ってきた。
『小春、今どこ?』
『駅前』
『俺も今、大学出たとこ』
『バイト?』
『そう。少しだけ会える?』
私は画面を見つめた。
会える?
たったそれだけの言葉が、嬉しかった。
『うん』
返信してから、改札前のベンチに腰を下ろした。
十分ほど待っていると、柊真が小走りでやってきた。
「ごめん、待った?」
「ううん」
「よかった」
彼は私の隣に座った。
いつもより少し息が上がっている。
「……走ってきたの?」
「うん。小春に会いたかったから」
「…………」
もう。
本当に、何なのだろう。
私は膝の上で両手を握りしめた。
「……柊真」
「ん?」
「好きな人って、どんな人?」
自分でも、何を聞いているのか分からなかった。
柊真は少しだけ驚いたあと、空を見上げた。
「そうだなあ」
「……うん」
「意地っ張りで、頑固で」
「……悪口?」
「最後まで聞いてよ」
彼は笑った。
「頑張り屋で、困ってる人がいたら放っておけなくて。自分のことは後回しにするくせに、他人のことはすごく心配する」
胸が、少しずつ熱くなる。
「あと、笑うとかわいい」
「…………」
「俺がくだらないこと言っても、ちゃんと笑ってくれるところが好き」
柊真は、私を見た。
「……小春のことだよ」
分かっていた。
分かっていたのに。
改めて言われると、何も言えなくなってしまう。
「……ずるい」
「何が?」
「……全部」
柊真は一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……小春ってさ」
「何」
「俺のこと、好きになってくれた?」
心臓が跳ねた。
答えなきゃ。
今度こそ。
逃げたくない。
私は、彼の顔を見た。
「……うん」
小さな声だった。
それでも、柊真にはちゃんと届いたらしい。
彼は目を見開いた。
「……え?」
「……好き、だよ」
言った。
言ってしまった。
顔が熱い。
恥ずかしくて、今すぐ帰りたい。
けれど。
「……っ、やば」
柊真が、片手で顔を覆った。
「え、ちょっと待って。俺、今、めちゃくちゃ嬉しいんだけど」
「……そんなに?」
「そんなにだよ!」
彼は笑っているのに、耳まで真っ赤だった。
「……一年だよ?」
「……うん」
「一年間、ずっと好きだったんだよ、俺」
「……うん」
「なのに、今まで友達って顔して隣にいるの、結構大変だったんだから」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「……私だって、柊真のせいで大変だったよ」
「え、俺のせい?」
「そうだよ!」
「じゃあ、お互いさまだね」
柊真はそう言って、私の手元を見た。
「……小春」
「……何?」
「手、繋いでいい?」
前にも聞かれた言葉。
でも、今は少し違う。
私は、ゆっくり頷いた。
「……うん」
彼の手が、私の手を包み込む。
温かい。
指先が少しだけ震えているのは、私のせいだろうか。
それとも。
柊真も、同じくらい緊張しているのだろうか。
「……ねえ、小春」
「……ん?」
「俺たち、両思いってことでいいんだよね?」
「……そう、だけど」
「じゃあさ」
彼は、繋いだ手を少しだけ持ち上げた。
「俺、そろそろ彼氏になりたいんだけど」
…………。
「…………え?」
「いや、だから。小春の彼氏」
「……っ、ちょっと!」
「だめ?」
柊真が、私を見つめる。
いつもの余裕そうな顔ではなかった。
少し不安そうで、でも、期待しているような顔。
私は、その顔がたまらなく好きだと思った。
「……だめじゃ、ない」
「……ほんと?」
「……うん」
柊真は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
「……よかった」
その声が、あまりにも嬉しそうだったから。
私は思わず、彼の肩に額を寄せてしまった。
「……小春?」
「……今、顔見ないで」
「えー、何で?」
「恥ずかしいから!」
「……かわいい」
「言わないで!」
「無理」
彼は笑いながら、繋いだ手を離さなかった。
その夜。
家に帰ると、美月からメッセージが届いていた。
『どうだった!?』
私は、ベッドに座り込んだまま返信した。
『……付き合うことになった』
送信。
三秒後。
『ぎゃああああああああ!!!!!!』
スマホが震え続ける。
『おめでとう!!!!!!』
『ねえ、何!? 何があったの!?』
『詳しく!!!』
私は笑ってしまった。
『……柊真が、彼氏になった』
その文字を見つめていると、何だか不思議な気持ちになった。
彼氏。
谷津柊真が、私の彼氏。
まだ実感が湧かない。
けれど。
スマホが、もう一度震えた。
今度は、柊真からだった。
『小春』
『なに?』
『彼女』
『……何』
『俺の彼女』
『…………』
『やばい。嬉しい』
私は、枕に顔を埋めた。
……本当に。
この人には、一生勝てない気がする。
でも。
『……私も、嬉しいよ』
そう送ると、すぐに返事が来た。
『明日、迎えに行くね』
『一限あるもんね』
『うん』
『……寝坊しないでよ』
『小春に会えるなら起きる』
私は、スマホを胸元に抱えた。
明日の朝。
いつものキャンパスで、いつものように彼に会う。
でも、今までとは違う。
だって。
明日からは、友達じゃない。
恋人として、隣を歩けるのだ。
そう思うだけで、胸がいっぱいになった。
そして、ふと思う。
友達だった頃から、彼はずっと私の隣を予約していた。
ならば。
これからは、私も。
彼の隣を、予約しておこう。
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