君の隣は、予約済み。
第三話 君の隣は、予約済み。
土曜日、午前十時。
待ち合わせ場所の駅前に、私は十五分も早く着いてしまった。
別に、楽しみだったわけじゃない。
いや、楽しみだったけど。
初めてのデートなのだから、少しくらい早く着いたっていいじゃないか。
そう自分に言い聞かせながら、スマホの画面を何度も確認する。
午前九時四十七分。
『着いたよ』
柊真からのメッセージだった。
……は?
『どこ?』
『小春の後ろ』
振り返った瞬間。
「おはよ、彼女さん」
「っ……!」
そこには、白いシャツに薄手の黒いジャケットを羽織った柊真が立っていた。
いつも大学で見る服装より、少しだけ大人っぽい。
髪もいつもよりきれいに整えられている。
……待って。
今日、顔がいい。
いや、いつも顔はいいのだけれど。
今日は何だか、いつも以上に。
「……何?」
柊真が首を傾げた。
「さっきから、めっちゃ見てるけど」
「見てない!」
「そっか。俺は見てたけど」
「……え?」
「小春、今日かわいいなって」
朝から心臓に悪い。
私は慌てて歩き出した。
「ほ、ほら! 映画の時間、あるんでしょ!」
「うん。十時半からね」
「じゃあ早く行こう!」
「はいはい」
隣に並んだ柊真が、私の手元をちらりと見た。
「……手、繋がないの?」
「…………」
「彼氏なんだけど、俺」
「知ってるよ!」
「じゃあ、繋ごうよ」
そう言って、彼は手を差し出した。
私は少し迷ってから、その手を取った。
指が触れて、手のひらが重なる。
昨日まで何度も想像していたことなのに。
実際に恋人として手を繋ぐと、何もかもが違って感じられた。
「……小春」
「なに?」
「嬉しい」
彼は、私の手を握り直した。
「こうやって普通に手を繋げるの、ずっと夢だったから」
私は、彼の横顔を見上げた。
「……一年も?」
「うん。一年も」
「……ばか」
「うん。小春のことになると、ほんとにばか」
そう言って笑う柊真の手を、私は少しだけ強く握った。
今日くらいは。
素直になっても、いい気がした。
映画館に着くと、私たちは上映までの時間をつぶすため、売店に並んだ。
「何飲む?」
「オレンジジュース」
「子どもみたい」
「うるさいな!」
「俺も同じのにしよ」
「何で!?」
「おそろい」
…………。
この男、彼氏になってから甘さの出力がおかしい。
「……柊真って、付き合ったらこんな感じなの?」
「こんな感じって?」
「……その、甘いっていうか」
「うーん」
柊真は少し考えたあと、私の顔を覗き込んだ。
「小春限定じゃない?」
「…………」
「だって、好きな子には甘やかしたいじゃん」
「……っ、もういい!」
私は財布を取り出し、自分の分の代金を払った。
これ以上聞いていたら、映画が始まる前に心臓がもたない。
上映が始まって三十分。
私は、映画の内容に集中できずにいた。
理由は明白である。
隣にいる柊真が、近い。
映画館の座席なんだから当たり前だろう、と言われたらそれまでなのだけれど。
普段、大学の講義で隣に座るのとはわけが違う。
恋人なのだ。
今の私たちは、正真正銘の恋人なのだ。
そう考えると、肩が触れるだけで落ち着かなくなる。
そして、映画が中盤に差しかかった頃。
柊真の手が、そっと私の手に触れた。
私はびくっと肩を揺らした。
彼がこちらを向く。
暗がりの中で、目が合った。
柊真は声を出さずに、口だけを動かした。
『手、繋ぐ?』
……ずるい。
そんなの、断れるわけがない。
私は小さく頷いた。
すると、彼の指がゆっくりと私の指に絡んだ。
恋人繋ぎ。
初めてだった。
映画の中では主人公たちが涙の再会を果たしているらしいけれど、私の意識はもう、隣の男に全部持っていかれていた。
エンドロールが流れ始めても、柊真は手を離さなかった。
「……柊真」
「ん?」
「……映画、終わったよ」
「知ってる」
「……手」
「うん」
「……離さないの?」
柊真は、私の顔を見て笑った。
「もうちょっとだけ」
その声が優しくて。
私は結局、何も言えなかった。
映画館を出たあと、私たちは駅ビルの中にあるカフェに入った。
窓際の席に座り、私はアイスカフェラテを、柊真はホットコーヒーを注文した。
「映画、どうだった?」
「……面白かったよ」
「ほんとに?」
「ほんと!」
「途中から全然スクリーン見てなかったけど」
「見てたよ!?」
「俺の手、ずっと見てたじゃん」
「……っ!」
柊真は楽しそうに笑った。
「かわい」
「……それ、禁止」
「えー、何で」
「心臓に悪いから」
言ってしまった。
あまりにも自然に。
柊真が、ぴたりと動きを止めた。
「……え?」
「……あ」
やってしまった。
顔が熱くなる。
もう、今日はずっとこれだ。
柊真はコーヒーカップを置いて、ゆっくりと私のほうを向いた。
「……小春」
「……何」
「今の、もう一回言って」
「絶対嫌!」
「お願い」
「……嫌!」
「彼氏のお願いなんだけど」
「その権利、まだ発生してない!」
「いつ発生するの?」
「知らない!」
彼は声を殺して笑った。
そして、笑い終えたあと。
少しだけ真面目な顔で、私に尋ねた。
「……ねえ、小春」
「……うん?」
「俺の、どこが好き?」
心臓が跳ねた。
その質問は、ずっと私が聞きたかったことでもあった。
「……何で急に?」
「いや、聞きたくなった」
柊真は、テーブルの上で指を組んだ。
「俺さ、結構自信なかったんだよね」
「……え?」
「小春って、誰にでも優しいじゃん。困ってる人がいたら助けるし、友達の話もちゃんと聞くし」
彼は小さく笑った。
「だから、俺だけ特別って思えなくて」
私は、黙って彼の話を聞いていた。
「一年間、ずっと好きだったけどさ。告白して、もし気まずくなったらどうしようって思ってた」
「……柊真でも、そんなこと考えるんだ」
「考えるよ」
彼は、少しだけ照れたように目を伏せた。
「好きな子に嫌われるのって、怖いから」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ああ。
この人も、同じだったんだ。
私と同じように、怖かったんだ。
私はカップを置き、彼を見つめた。
「……私ね」
「うん」
「柊真の、優しいところが好き」
彼は黙って聞いていた。
「私が課題で困ってたら、一緒に考えてくれるところ。私が落ち込んでたら、くだらないこと言って笑わせてくれるところ」
少しずつ、言葉があふれてくる。
「私が何気なく話したこと、ちゃんと覚えててくれるところ。私の好きな飲み物も、苦手な食べ物も、覚えててくれるところ」
柊真の目が、少しだけ見開かれた。
「……あと」
私は、恥ずかしさをこらえて笑った。
「私の隣を、ずっと予約してくれてたところ」
一瞬。
柊真が、何も言わなくなった。
それから、片手で顔を覆った。
「……ちょっと待って」
「え、何?」
「……無理」
「何が!?」
「小春がかわいすぎて、無理」
「……っ、もう!」
彼は笑っていた。
でも、耳が真っ赤だった。
「……俺、今すごく幸せ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思った。
好きになってよかった。
この人を好きになって、本当によかった。
午後四時。
私たちは大学のキャンパスに戻ってきた。
休日の大学は、平日よりずっと静かだった。
中庭のベンチには誰もいなくて、講義棟の窓から差し込む光が、長い影を地面に落としている。
「……大学、戻ってきちゃったね」
私が言うと、柊真が笑った。
「何で?」
「何か、デートって感じがしない」
「えー、映画見て、カフェ行って、手も繋いだのに?」
「……そうだけど」
「じゃあ、何したらデートっぽい?」
私は少し考えた。
「……分かんない」
「じゃあ、俺が決めていい?」
「……うん」
柊真は、私の手を取った。
そして、ゆっくりと歩き出す。
向かった先は、いつもの三号館だった。
「……ここ?」
「うん」
「何で?」
「初めて小春と話した場所だから」
私は、思わず足を止めた。
大学一年生の春。
新入生向けのオリエンテーションが終わったあと、私は教室の場所が分からなくなっていた。
困り果てていた私に、声をかけてくれたのが柊真だった。
『迷った?』
『……うん』
『じゃあ、一緒に行こ』
それだけのことだった。
けれど、あの日から、私の大学生活は少しずつ変わっていった。
「……覚えてたんだ」
「当たり前じゃん」
柊真は笑った。
「俺にとっては、忘れられない日だから」
夕方の風が吹いた。
彼の黒髪が、少しだけ揺れる。
「……小春」
「……何?」
「俺さ、これからも小春と、こういう時間を過ごしたい」
彼は、私の手を握った。
「大学で一緒に講義受けて、学食でご飯食べて、図書館で課題やって。たまには映画見たり、旅行したり、くだらないことで喧嘩したり」
少しだけ、笑う。
「……卒業しても、一緒にいたい」
胸が、いっぱいになった。
大学生活は、まだ二年も残っている。
卒業なんて、ずっと先の話だ。
それなのに。
彼は、私との未来を考えてくれている。
「……柊真」
「うん?」
「……私も」
声が震えた。
「私も、ずっと一緒にいたい」
柊真は、ゆっくりと目を細めた。
「……ほんと?」
「……うん」
「……そっか」
彼は嬉しそうに笑った。
それから、私の手を両手で包み込んだ。
「……じゃあ、ひとつお願いしていい?」
「……何?」
「小春」
彼は、真っ直ぐに私を見つめた。
「これから、俺のこと、柊真って呼んで」
「……え?」
「大学でも、二人のときでも。ずっと」
私は、目を瞬いた。
「……今までも呼んでるじゃん」
「もっと呼んでほしい」
彼は、少しだけ照れたように笑った。
「小春に名前呼ばれるの、好きなんだよね」
……本当に。
この人は。
私は、笑ってしまった。
「……柊真」
「うん」
「……柊真」
「うん」
「……柊真」
「……っ、待って」
彼が顔を覆った。
「……何回も呼ばれると、ほんとに無理」
「何それ!」
「いや、だって!」
柊真は、顔を赤くしたまま笑った。
「好きな子に名前呼ばれるの、こんなに嬉しいんだって、初めて知った」
私は、そっと彼の手を握り返した。
「……じゃあ、これからいっぱい呼ぶね」
「……うん」
「柊真」
「……うん」
「大好き」
彼が、完全に固まった。
そして。
「……小春」
「……何?」
「……それは、反則」
私は声を立てて笑った。
今まで、ずっと彼に振り回されてきた。
甘い言葉にドキドキして、何気ない優しさに期待して、好きだと自覚してからは、毎日が落ち着かなかった。
でも、これからは。
私も、彼をドキドキさせてやろうと思う。
だって、恋人なのだから。
帰り道。
駅の改札前で、私たちは立ち止まった。
「……じゃあ、また明日」
「うん。明日は二限からだっけ?」
「そう」
「じゃあ、朝はゆっくりできるね」
「……そうだね」
柊真は、少しだけ迷ったあと、私の手を握り直した。
「……小春」
「……ん?」
「帰りたくない」
その一言に、胸がきゅっとなった。
「……私も」
自然に、そう答えていた。
柊真は嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、あと五分だけ」
「……うん」
私たちは改札の脇で、手を繋いだまま立っていた。
通り過ぎる人たち。
電車の到着を知らせるアナウンス。
遠くから聞こえる、友達同士の笑い声。
何でもない、いつもの駅。
でも、私にとっては。
今日という日は、きっと一生忘れられない日になる。
「……ねえ、柊真」
「ん?」
「……私、ずっと不安だったんだ」
彼は、黙って私を見た。
「柊真って、優しいし、かっこいいし。私以外にも、好きになる人がいっぱいいるんじゃないかって」
言ってしまうと、少し恥ずかしかった。
「……だから、好きって言うのも怖かった」
柊真は、しばらく黙っていた。
それから、私の手をぎゅっと握った。
「……小春」
「……うん」
「俺が好きなのは、小春だよ」
真っ直ぐな声だった。
「ほかの誰かじゃなくて、小春」
彼は、少しだけ笑った。
「……俺、そんなに器用じゃないからさ。一人のこと好きになるだけで、いっぱいいっぱいなんだよね」
私は、目を伏せた。
嬉しくて。
恥ずかしくて。
泣きそうなくらい、幸せだった。
「……ありがとう」
「うん」
「……私も、柊真だけだよ」
そう言うと、彼は一瞬だけ目を見開いた。
それから、今まで見たことがないくらい、優しい顔で笑った。
「……そっか」
そして、少しだけ身をかがめて、私の耳元で囁いた。
「……じゃあ、これからもずっと、俺の隣にいてね」
私は、彼の手を握り返した。
「……うん」
そのとき。
柊真が、ふと思い出したように言った。
「そうだ、小春」
「何?」
「俺、ひとつだけ訂正したいことがあるんだけど」
「……何?」
彼は、にっこり笑った。
「前に、小春の隣を一生分予約しとこって言ったじゃん?」
「……うん」
「……あれ、訂正」
「え?」
「一生分じゃ足りないから」
私は、思わず笑ってしまった。
「……何それ」
「だってさ」
柊真は、私の手を握りながら言った。
「来世の分も、予約しときたいじゃん」
…………。
………………。
「……ばか!!」
駅前に、私の声が響いた。
柊真は、声を立てて笑った。
私は真っ赤になりながら、彼の肩を軽く叩いた。
「……ほんと、ばか!」
「うん。小春の彼氏だからね」
「関係ないでしょ!」
「あるよ」
彼は、繋いだ手を持ち上げた。
「……小春のこと、世界で一番好きな男だから」
もう、駄目だった。
私は、彼の肩に額を寄せた。
顔を見られたくなかった。
こんなに幸せで、こんなに好きで、どうしたらいいのか分からなかった。
柊真は、何も言わずに、私の手を握っていてくれた。
その温かさが、何よりも嬉しかった。
その夜。
私はベッドの上で、今日撮った写真を見返していた。
カフェで撮ったカップの写真。
映画館のチケット。
大学の中庭で、柊真が撮ってくれた私の写真。
そして。
駅前で、こっそり撮った、繋いだ手の写真。
画面の中の自分は、驚くほど嬉しそうな顔をしていた。
こんな顔、できるんだ。
自分でも、びっくりした。
スマホが震える。
柊真からだった。
『小春、今日はありがとう』
『こちらこそ!』
『めっちゃ楽しかった』
『私も』
少し間が空いて、もう一件。
『……ねえ、小春』
『なに?』
『俺、今までずっと、小春の隣を予約してたじゃん』
私は笑った。
『うん』
『これからはさ』
『うん?』
『小春の隣、俺の指定席にしてもいい?』
私は、画面を見つめた。
それから、ゆっくりと文字を打った。
『……いいよ』
送信。
すぐに返信が来た。
『やった』
『ただし』
『ん?』
『私の隣にいるなら、いっぱい大事にしてね』
少しだけ、緊張した。
けれど、返事はすぐに届いた。
『もちろん』
そして、もう一件。
『大事にするだけじゃなくて、いっぱい幸せにする』
私は、スマホを胸に抱えた。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
明日になれば、また大学がある。
講義を受けて、課題をして、学食でご飯を食べて。
いつもと変わらない日常が始まる。
でも、ひとつだけ違う。
明日からは、隣にいる彼の手を、当たり前みたいに握っていい。
名前を呼んでいい。
好きだと伝えていい。
そして。
彼の隣にいる自分を、もう、不安に思わなくていい。
私は、スマホを開いて、最後にひとこと送った。
『……私も、柊真を幸せにするね』
返事が届く。
『じゃあ、お互い幸せにしようね』
その言葉を見つめながら、私は目を閉じた。
恋をするのは、怖いことだと思っていた。
好きになればなるほど、不安になって。
相手の何気ない言葉に一喜一憂して。
自分ばかりが好きなのではないかと、何度も考えてしまう。
でも。
そんな不安も、こんなふうに誰かと分け合えるのなら。
恋をするのも、悪くない。
私は、明日の朝が待ち遠しかった。
大好きな人に会えるから。
大好きな人が、私の彼氏だから。
そして何より。
私の隣は、もう。
予約済みなのだから。
待ち合わせ場所の駅前に、私は十五分も早く着いてしまった。
別に、楽しみだったわけじゃない。
いや、楽しみだったけど。
初めてのデートなのだから、少しくらい早く着いたっていいじゃないか。
そう自分に言い聞かせながら、スマホの画面を何度も確認する。
午前九時四十七分。
『着いたよ』
柊真からのメッセージだった。
……は?
『どこ?』
『小春の後ろ』
振り返った瞬間。
「おはよ、彼女さん」
「っ……!」
そこには、白いシャツに薄手の黒いジャケットを羽織った柊真が立っていた。
いつも大学で見る服装より、少しだけ大人っぽい。
髪もいつもよりきれいに整えられている。
……待って。
今日、顔がいい。
いや、いつも顔はいいのだけれど。
今日は何だか、いつも以上に。
「……何?」
柊真が首を傾げた。
「さっきから、めっちゃ見てるけど」
「見てない!」
「そっか。俺は見てたけど」
「……え?」
「小春、今日かわいいなって」
朝から心臓に悪い。
私は慌てて歩き出した。
「ほ、ほら! 映画の時間、あるんでしょ!」
「うん。十時半からね」
「じゃあ早く行こう!」
「はいはい」
隣に並んだ柊真が、私の手元をちらりと見た。
「……手、繋がないの?」
「…………」
「彼氏なんだけど、俺」
「知ってるよ!」
「じゃあ、繋ごうよ」
そう言って、彼は手を差し出した。
私は少し迷ってから、その手を取った。
指が触れて、手のひらが重なる。
昨日まで何度も想像していたことなのに。
実際に恋人として手を繋ぐと、何もかもが違って感じられた。
「……小春」
「なに?」
「嬉しい」
彼は、私の手を握り直した。
「こうやって普通に手を繋げるの、ずっと夢だったから」
私は、彼の横顔を見上げた。
「……一年も?」
「うん。一年も」
「……ばか」
「うん。小春のことになると、ほんとにばか」
そう言って笑う柊真の手を、私は少しだけ強く握った。
今日くらいは。
素直になっても、いい気がした。
映画館に着くと、私たちは上映までの時間をつぶすため、売店に並んだ。
「何飲む?」
「オレンジジュース」
「子どもみたい」
「うるさいな!」
「俺も同じのにしよ」
「何で!?」
「おそろい」
…………。
この男、彼氏になってから甘さの出力がおかしい。
「……柊真って、付き合ったらこんな感じなの?」
「こんな感じって?」
「……その、甘いっていうか」
「うーん」
柊真は少し考えたあと、私の顔を覗き込んだ。
「小春限定じゃない?」
「…………」
「だって、好きな子には甘やかしたいじゃん」
「……っ、もういい!」
私は財布を取り出し、自分の分の代金を払った。
これ以上聞いていたら、映画が始まる前に心臓がもたない。
上映が始まって三十分。
私は、映画の内容に集中できずにいた。
理由は明白である。
隣にいる柊真が、近い。
映画館の座席なんだから当たり前だろう、と言われたらそれまでなのだけれど。
普段、大学の講義で隣に座るのとはわけが違う。
恋人なのだ。
今の私たちは、正真正銘の恋人なのだ。
そう考えると、肩が触れるだけで落ち着かなくなる。
そして、映画が中盤に差しかかった頃。
柊真の手が、そっと私の手に触れた。
私はびくっと肩を揺らした。
彼がこちらを向く。
暗がりの中で、目が合った。
柊真は声を出さずに、口だけを動かした。
『手、繋ぐ?』
……ずるい。
そんなの、断れるわけがない。
私は小さく頷いた。
すると、彼の指がゆっくりと私の指に絡んだ。
恋人繋ぎ。
初めてだった。
映画の中では主人公たちが涙の再会を果たしているらしいけれど、私の意識はもう、隣の男に全部持っていかれていた。
エンドロールが流れ始めても、柊真は手を離さなかった。
「……柊真」
「ん?」
「……映画、終わったよ」
「知ってる」
「……手」
「うん」
「……離さないの?」
柊真は、私の顔を見て笑った。
「もうちょっとだけ」
その声が優しくて。
私は結局、何も言えなかった。
映画館を出たあと、私たちは駅ビルの中にあるカフェに入った。
窓際の席に座り、私はアイスカフェラテを、柊真はホットコーヒーを注文した。
「映画、どうだった?」
「……面白かったよ」
「ほんとに?」
「ほんと!」
「途中から全然スクリーン見てなかったけど」
「見てたよ!?」
「俺の手、ずっと見てたじゃん」
「……っ!」
柊真は楽しそうに笑った。
「かわい」
「……それ、禁止」
「えー、何で」
「心臓に悪いから」
言ってしまった。
あまりにも自然に。
柊真が、ぴたりと動きを止めた。
「……え?」
「……あ」
やってしまった。
顔が熱くなる。
もう、今日はずっとこれだ。
柊真はコーヒーカップを置いて、ゆっくりと私のほうを向いた。
「……小春」
「……何」
「今の、もう一回言って」
「絶対嫌!」
「お願い」
「……嫌!」
「彼氏のお願いなんだけど」
「その権利、まだ発生してない!」
「いつ発生するの?」
「知らない!」
彼は声を殺して笑った。
そして、笑い終えたあと。
少しだけ真面目な顔で、私に尋ねた。
「……ねえ、小春」
「……うん?」
「俺の、どこが好き?」
心臓が跳ねた。
その質問は、ずっと私が聞きたかったことでもあった。
「……何で急に?」
「いや、聞きたくなった」
柊真は、テーブルの上で指を組んだ。
「俺さ、結構自信なかったんだよね」
「……え?」
「小春って、誰にでも優しいじゃん。困ってる人がいたら助けるし、友達の話もちゃんと聞くし」
彼は小さく笑った。
「だから、俺だけ特別って思えなくて」
私は、黙って彼の話を聞いていた。
「一年間、ずっと好きだったけどさ。告白して、もし気まずくなったらどうしようって思ってた」
「……柊真でも、そんなこと考えるんだ」
「考えるよ」
彼は、少しだけ照れたように目を伏せた。
「好きな子に嫌われるのって、怖いから」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ああ。
この人も、同じだったんだ。
私と同じように、怖かったんだ。
私はカップを置き、彼を見つめた。
「……私ね」
「うん」
「柊真の、優しいところが好き」
彼は黙って聞いていた。
「私が課題で困ってたら、一緒に考えてくれるところ。私が落ち込んでたら、くだらないこと言って笑わせてくれるところ」
少しずつ、言葉があふれてくる。
「私が何気なく話したこと、ちゃんと覚えててくれるところ。私の好きな飲み物も、苦手な食べ物も、覚えててくれるところ」
柊真の目が、少しだけ見開かれた。
「……あと」
私は、恥ずかしさをこらえて笑った。
「私の隣を、ずっと予約してくれてたところ」
一瞬。
柊真が、何も言わなくなった。
それから、片手で顔を覆った。
「……ちょっと待って」
「え、何?」
「……無理」
「何が!?」
「小春がかわいすぎて、無理」
「……っ、もう!」
彼は笑っていた。
でも、耳が真っ赤だった。
「……俺、今すごく幸せ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思った。
好きになってよかった。
この人を好きになって、本当によかった。
午後四時。
私たちは大学のキャンパスに戻ってきた。
休日の大学は、平日よりずっと静かだった。
中庭のベンチには誰もいなくて、講義棟の窓から差し込む光が、長い影を地面に落としている。
「……大学、戻ってきちゃったね」
私が言うと、柊真が笑った。
「何で?」
「何か、デートって感じがしない」
「えー、映画見て、カフェ行って、手も繋いだのに?」
「……そうだけど」
「じゃあ、何したらデートっぽい?」
私は少し考えた。
「……分かんない」
「じゃあ、俺が決めていい?」
「……うん」
柊真は、私の手を取った。
そして、ゆっくりと歩き出す。
向かった先は、いつもの三号館だった。
「……ここ?」
「うん」
「何で?」
「初めて小春と話した場所だから」
私は、思わず足を止めた。
大学一年生の春。
新入生向けのオリエンテーションが終わったあと、私は教室の場所が分からなくなっていた。
困り果てていた私に、声をかけてくれたのが柊真だった。
『迷った?』
『……うん』
『じゃあ、一緒に行こ』
それだけのことだった。
けれど、あの日から、私の大学生活は少しずつ変わっていった。
「……覚えてたんだ」
「当たり前じゃん」
柊真は笑った。
「俺にとっては、忘れられない日だから」
夕方の風が吹いた。
彼の黒髪が、少しだけ揺れる。
「……小春」
「……何?」
「俺さ、これからも小春と、こういう時間を過ごしたい」
彼は、私の手を握った。
「大学で一緒に講義受けて、学食でご飯食べて、図書館で課題やって。たまには映画見たり、旅行したり、くだらないことで喧嘩したり」
少しだけ、笑う。
「……卒業しても、一緒にいたい」
胸が、いっぱいになった。
大学生活は、まだ二年も残っている。
卒業なんて、ずっと先の話だ。
それなのに。
彼は、私との未来を考えてくれている。
「……柊真」
「うん?」
「……私も」
声が震えた。
「私も、ずっと一緒にいたい」
柊真は、ゆっくりと目を細めた。
「……ほんと?」
「……うん」
「……そっか」
彼は嬉しそうに笑った。
それから、私の手を両手で包み込んだ。
「……じゃあ、ひとつお願いしていい?」
「……何?」
「小春」
彼は、真っ直ぐに私を見つめた。
「これから、俺のこと、柊真って呼んで」
「……え?」
「大学でも、二人のときでも。ずっと」
私は、目を瞬いた。
「……今までも呼んでるじゃん」
「もっと呼んでほしい」
彼は、少しだけ照れたように笑った。
「小春に名前呼ばれるの、好きなんだよね」
……本当に。
この人は。
私は、笑ってしまった。
「……柊真」
「うん」
「……柊真」
「うん」
「……柊真」
「……っ、待って」
彼が顔を覆った。
「……何回も呼ばれると、ほんとに無理」
「何それ!」
「いや、だって!」
柊真は、顔を赤くしたまま笑った。
「好きな子に名前呼ばれるの、こんなに嬉しいんだって、初めて知った」
私は、そっと彼の手を握り返した。
「……じゃあ、これからいっぱい呼ぶね」
「……うん」
「柊真」
「……うん」
「大好き」
彼が、完全に固まった。
そして。
「……小春」
「……何?」
「……それは、反則」
私は声を立てて笑った。
今まで、ずっと彼に振り回されてきた。
甘い言葉にドキドキして、何気ない優しさに期待して、好きだと自覚してからは、毎日が落ち着かなかった。
でも、これからは。
私も、彼をドキドキさせてやろうと思う。
だって、恋人なのだから。
帰り道。
駅の改札前で、私たちは立ち止まった。
「……じゃあ、また明日」
「うん。明日は二限からだっけ?」
「そう」
「じゃあ、朝はゆっくりできるね」
「……そうだね」
柊真は、少しだけ迷ったあと、私の手を握り直した。
「……小春」
「……ん?」
「帰りたくない」
その一言に、胸がきゅっとなった。
「……私も」
自然に、そう答えていた。
柊真は嬉しそうに笑った。
「……じゃあ、あと五分だけ」
「……うん」
私たちは改札の脇で、手を繋いだまま立っていた。
通り過ぎる人たち。
電車の到着を知らせるアナウンス。
遠くから聞こえる、友達同士の笑い声。
何でもない、いつもの駅。
でも、私にとっては。
今日という日は、きっと一生忘れられない日になる。
「……ねえ、柊真」
「ん?」
「……私、ずっと不安だったんだ」
彼は、黙って私を見た。
「柊真って、優しいし、かっこいいし。私以外にも、好きになる人がいっぱいいるんじゃないかって」
言ってしまうと、少し恥ずかしかった。
「……だから、好きって言うのも怖かった」
柊真は、しばらく黙っていた。
それから、私の手をぎゅっと握った。
「……小春」
「……うん」
「俺が好きなのは、小春だよ」
真っ直ぐな声だった。
「ほかの誰かじゃなくて、小春」
彼は、少しだけ笑った。
「……俺、そんなに器用じゃないからさ。一人のこと好きになるだけで、いっぱいいっぱいなんだよね」
私は、目を伏せた。
嬉しくて。
恥ずかしくて。
泣きそうなくらい、幸せだった。
「……ありがとう」
「うん」
「……私も、柊真だけだよ」
そう言うと、彼は一瞬だけ目を見開いた。
それから、今まで見たことがないくらい、優しい顔で笑った。
「……そっか」
そして、少しだけ身をかがめて、私の耳元で囁いた。
「……じゃあ、これからもずっと、俺の隣にいてね」
私は、彼の手を握り返した。
「……うん」
そのとき。
柊真が、ふと思い出したように言った。
「そうだ、小春」
「何?」
「俺、ひとつだけ訂正したいことがあるんだけど」
「……何?」
彼は、にっこり笑った。
「前に、小春の隣を一生分予約しとこって言ったじゃん?」
「……うん」
「……あれ、訂正」
「え?」
「一生分じゃ足りないから」
私は、思わず笑ってしまった。
「……何それ」
「だってさ」
柊真は、私の手を握りながら言った。
「来世の分も、予約しときたいじゃん」
…………。
………………。
「……ばか!!」
駅前に、私の声が響いた。
柊真は、声を立てて笑った。
私は真っ赤になりながら、彼の肩を軽く叩いた。
「……ほんと、ばか!」
「うん。小春の彼氏だからね」
「関係ないでしょ!」
「あるよ」
彼は、繋いだ手を持ち上げた。
「……小春のこと、世界で一番好きな男だから」
もう、駄目だった。
私は、彼の肩に額を寄せた。
顔を見られたくなかった。
こんなに幸せで、こんなに好きで、どうしたらいいのか分からなかった。
柊真は、何も言わずに、私の手を握っていてくれた。
その温かさが、何よりも嬉しかった。
その夜。
私はベッドの上で、今日撮った写真を見返していた。
カフェで撮ったカップの写真。
映画館のチケット。
大学の中庭で、柊真が撮ってくれた私の写真。
そして。
駅前で、こっそり撮った、繋いだ手の写真。
画面の中の自分は、驚くほど嬉しそうな顔をしていた。
こんな顔、できるんだ。
自分でも、びっくりした。
スマホが震える。
柊真からだった。
『小春、今日はありがとう』
『こちらこそ!』
『めっちゃ楽しかった』
『私も』
少し間が空いて、もう一件。
『……ねえ、小春』
『なに?』
『俺、今までずっと、小春の隣を予約してたじゃん』
私は笑った。
『うん』
『これからはさ』
『うん?』
『小春の隣、俺の指定席にしてもいい?』
私は、画面を見つめた。
それから、ゆっくりと文字を打った。
『……いいよ』
送信。
すぐに返信が来た。
『やった』
『ただし』
『ん?』
『私の隣にいるなら、いっぱい大事にしてね』
少しだけ、緊張した。
けれど、返事はすぐに届いた。
『もちろん』
そして、もう一件。
『大事にするだけじゃなくて、いっぱい幸せにする』
私は、スマホを胸に抱えた。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。
明日になれば、また大学がある。
講義を受けて、課題をして、学食でご飯を食べて。
いつもと変わらない日常が始まる。
でも、ひとつだけ違う。
明日からは、隣にいる彼の手を、当たり前みたいに握っていい。
名前を呼んでいい。
好きだと伝えていい。
そして。
彼の隣にいる自分を、もう、不安に思わなくていい。
私は、スマホを開いて、最後にひとこと送った。
『……私も、柊真を幸せにするね』
返事が届く。
『じゃあ、お互い幸せにしようね』
その言葉を見つめながら、私は目を閉じた。
恋をするのは、怖いことだと思っていた。
好きになればなるほど、不安になって。
相手の何気ない言葉に一喜一憂して。
自分ばかりが好きなのではないかと、何度も考えてしまう。
でも。
そんな不安も、こんなふうに誰かと分け合えるのなら。
恋をするのも、悪くない。
私は、明日の朝が待ち遠しかった。
大好きな人に会えるから。
大好きな人が、私の彼氏だから。
そして何より。
私の隣は、もう。
予約済みなのだから。
