ファーストキスは無味だけど
次の日、午後の授業を終えた慎二は図書館に向かった。
部活動がないので、放課後の時間は、基本的にすべて勉強時間だ。大学進学をしない生徒はアルバイトをしている者もいるが、慎二は進学を考えており、大学受験が控えている。運良く進学クラスにも入れたので、受験に使う予定の教科をとにかく勉強しなければならない。
(はー……運動していれば、勉強のことは考えなくていいのになあ)
友人の佐竹を誘って遊びに行こうかとも思ったが、頭脳明晰な彼は今日も予備校に行って勉強するとのことで、あっさりと断られてしまった。
仕方ないので、自分も彼に倣って勉強するかと思って図書館に着いた慎二は、ひとまず空いている椅子にスクールバッグを置いた。中から問題集と筆記具を取り出してみるものの、学習への意欲はゴマ粒サイズも湧き出てこない。
(なんか……やる気出ねぇ)
大学受験はする予定だ。だが、就きたい職業があるわけではないので、行けるレベルのところに行ければいいなー、という程度である。
本当は、体を動かしたい。運動をしたい。そう、バスケをしたい。ダン、ダンッというボールが跳ねる音を聞きながら、キュ、キュッとシューズが床の上で躍動する音で敵味方の位置を把握して動き、ゴールネットへボールを投げ入れて沈めたい。
だが、バスケ部はもう引退した身だ。受験生らしく、今はとにかく勉強をしなければ。
(あー……駄目だ)
そう頭で理解しているものの、どれだけ待ってもやる気は湧いてこない。
慎二は問題集も筆記具もバッグもそのままにして立ち上がった。そしてふらふらと書棚に向かう。勉強をする気にはならないのだが、図書館に来たのなら勉強らしいことはしないといけないと思うので、せめて何か本でも読むかと思い、蔵書の背表紙に目を走らせる。
「あれ、日暮くん?」
その時、視界の外から声をかけられて、慎二ははっとした。すると有紀奈が、隣の書棚のほうからひょっこりと顔をのぞかせてはにかんだ。
「珍しいね、図書館にいるなんて」
「えっ……ああ、まあ……受験生だし、勉強しなきゃって……」
「日暮くん、偏差値の高いところを受験するクラスだもんね。私も受験するけど、ほどほどの偏差値の、行けるところに行ければいいやーって感じだよ」
有紀奈はそんな自分に苦笑する。
そのあどけない表情がかわいくて、慎二の胸はほっこりとあたたまる。
「野川も勉強?」
「うん、そのつもりだったんだけど……なんか集中できなくて、気分転換中です」
有紀奈は手に持っていた、『十五分で作れる主菜・副菜』というタイトルの料理本の表紙を、慎二によく見えるように持ち上げた。
「料理……するんだ?」
「ううん、全然……お母さんの手伝いをする程度だよー」
「手伝うだけ偉いじゃん。俺なんか、手伝いもしないから怒られる。よく食べるくせに、って」
「ふふっ、そうだね。日暮くん、バスケ部だけあって背も高いし、いっぱい食べるんだろうね」
そう言って笑う有紀奈は女子の平均身長くらいなので、慎二に比べると頭一つ分以上は小さい。
そんなところもやっぱりかわいいなーと思い始めた慎二の脳裏に、昨日陽葵たちと話していた時の有紀奈の言葉がよみがえる。
ほかの女子たちと同じように、友人の恋愛事に関心があり、興味津々な声でファーストキスはどんな感じか、と尋ねていた有紀奈。今はのほほんと、自分に笑顔を向けてくれている。
(野川の……)
慎二の視線は、有紀奈のやわらかそうな唇へと、無意識のうちに引き寄せられた。きちんとリップクリームを塗って保湿しているようで、光を反射して輝くその唇は、とてもやわらかそうに見える。そして心なしか、美味しそうにも。
「日暮くんは何が好き?」
「……えっ?」
「食べ物。好き嫌いとか、あまりなさそうだけど」
有紀奈は料理本を書棚に戻しながら尋ねる。慎二から、その唇を奪ってしまいたいなどと、狙われているとも知らずに。
「……い、もの」
「え?」
「やわらかい、もの……とか?」
「やわらかいもの? うーん……お豆腐とか?」
慎二のぼんやりとした答えを訝しがりながらも、有紀奈は具体例を挙げる。しかし、どうも慎二が豆腐好きであるようには見えず、不思議そうに小首をかしげた。
「お豆腐料理だと……うーん、麻婆豆腐とか」
(キスは……)
「揚げ出し豆腐とか?」
有紀奈の唇が動く。ただ言葉を紡いでいるだけだというのに、妙にその動きがなまめかしく感じる。
「もう夏は終わっちゃったけど、冷や奴もいいよね」
(ファーストキスの味は……)
「上に載せる薬味を工夫すると、結構いろんな味で楽しめるんだよね」
かわいい。とてもかわいい女の子。
ここには誰もいない。カウンターに司書が一人、テーブル席に生徒が一人、二人いたが、黙々と読書か勉強をしていたはずだ。この書庫付近にはいま、有紀奈と自分しかいない。
(知りたい……したい……)
もう一度何か別の本を取ろうとした有紀奈の腕を、慎二は無意識のうちに強く掴んで止めた。そして決壊したダムから流れ出てくるような欲望を抑えきれず、有紀奈の唇に自分の唇を重ね合わせた。突然のことで反応に遅れた小柄な有紀奈に顔を近付けることは、とても簡単だった。
部活動がないので、放課後の時間は、基本的にすべて勉強時間だ。大学進学をしない生徒はアルバイトをしている者もいるが、慎二は進学を考えており、大学受験が控えている。運良く進学クラスにも入れたので、受験に使う予定の教科をとにかく勉強しなければならない。
(はー……運動していれば、勉強のことは考えなくていいのになあ)
友人の佐竹を誘って遊びに行こうかとも思ったが、頭脳明晰な彼は今日も予備校に行って勉強するとのことで、あっさりと断られてしまった。
仕方ないので、自分も彼に倣って勉強するかと思って図書館に着いた慎二は、ひとまず空いている椅子にスクールバッグを置いた。中から問題集と筆記具を取り出してみるものの、学習への意欲はゴマ粒サイズも湧き出てこない。
(なんか……やる気出ねぇ)
大学受験はする予定だ。だが、就きたい職業があるわけではないので、行けるレベルのところに行ければいいなー、という程度である。
本当は、体を動かしたい。運動をしたい。そう、バスケをしたい。ダン、ダンッというボールが跳ねる音を聞きながら、キュ、キュッとシューズが床の上で躍動する音で敵味方の位置を把握して動き、ゴールネットへボールを投げ入れて沈めたい。
だが、バスケ部はもう引退した身だ。受験生らしく、今はとにかく勉強をしなければ。
(あー……駄目だ)
そう頭で理解しているものの、どれだけ待ってもやる気は湧いてこない。
慎二は問題集も筆記具もバッグもそのままにして立ち上がった。そしてふらふらと書棚に向かう。勉強をする気にはならないのだが、図書館に来たのなら勉強らしいことはしないといけないと思うので、せめて何か本でも読むかと思い、蔵書の背表紙に目を走らせる。
「あれ、日暮くん?」
その時、視界の外から声をかけられて、慎二ははっとした。すると有紀奈が、隣の書棚のほうからひょっこりと顔をのぞかせてはにかんだ。
「珍しいね、図書館にいるなんて」
「えっ……ああ、まあ……受験生だし、勉強しなきゃって……」
「日暮くん、偏差値の高いところを受験するクラスだもんね。私も受験するけど、ほどほどの偏差値の、行けるところに行ければいいやーって感じだよ」
有紀奈はそんな自分に苦笑する。
そのあどけない表情がかわいくて、慎二の胸はほっこりとあたたまる。
「野川も勉強?」
「うん、そのつもりだったんだけど……なんか集中できなくて、気分転換中です」
有紀奈は手に持っていた、『十五分で作れる主菜・副菜』というタイトルの料理本の表紙を、慎二によく見えるように持ち上げた。
「料理……するんだ?」
「ううん、全然……お母さんの手伝いをする程度だよー」
「手伝うだけ偉いじゃん。俺なんか、手伝いもしないから怒られる。よく食べるくせに、って」
「ふふっ、そうだね。日暮くん、バスケ部だけあって背も高いし、いっぱい食べるんだろうね」
そう言って笑う有紀奈は女子の平均身長くらいなので、慎二に比べると頭一つ分以上は小さい。
そんなところもやっぱりかわいいなーと思い始めた慎二の脳裏に、昨日陽葵たちと話していた時の有紀奈の言葉がよみがえる。
ほかの女子たちと同じように、友人の恋愛事に関心があり、興味津々な声でファーストキスはどんな感じか、と尋ねていた有紀奈。今はのほほんと、自分に笑顔を向けてくれている。
(野川の……)
慎二の視線は、有紀奈のやわらかそうな唇へと、無意識のうちに引き寄せられた。きちんとリップクリームを塗って保湿しているようで、光を反射して輝くその唇は、とてもやわらかそうに見える。そして心なしか、美味しそうにも。
「日暮くんは何が好き?」
「……えっ?」
「食べ物。好き嫌いとか、あまりなさそうだけど」
有紀奈は料理本を書棚に戻しながら尋ねる。慎二から、その唇を奪ってしまいたいなどと、狙われているとも知らずに。
「……い、もの」
「え?」
「やわらかい、もの……とか?」
「やわらかいもの? うーん……お豆腐とか?」
慎二のぼんやりとした答えを訝しがりながらも、有紀奈は具体例を挙げる。しかし、どうも慎二が豆腐好きであるようには見えず、不思議そうに小首をかしげた。
「お豆腐料理だと……うーん、麻婆豆腐とか」
(キスは……)
「揚げ出し豆腐とか?」
有紀奈の唇が動く。ただ言葉を紡いでいるだけだというのに、妙にその動きがなまめかしく感じる。
「もう夏は終わっちゃったけど、冷や奴もいいよね」
(ファーストキスの味は……)
「上に載せる薬味を工夫すると、結構いろんな味で楽しめるんだよね」
かわいい。とてもかわいい女の子。
ここには誰もいない。カウンターに司書が一人、テーブル席に生徒が一人、二人いたが、黙々と読書か勉強をしていたはずだ。この書庫付近にはいま、有紀奈と自分しかいない。
(知りたい……したい……)
もう一度何か別の本を取ろうとした有紀奈の腕を、慎二は無意識のうちに強く掴んで止めた。そして決壊したダムから流れ出てくるような欲望を抑えきれず、有紀奈の唇に自分の唇を重ね合わせた。突然のことで反応に遅れた小柄な有紀奈に顔を近付けることは、とても簡単だった。