さよならを言うために、君がくれた七日間
「ソラ、そこにいてね!」

 制服に着替えながら、千夏は何度も振り返った。

 ソラはベッドの上で丸くなり、眠たそうに目を細めている。

 いつもと同じ光景。

 昨日までなら、何でもない朝だった。

 けれど、今の千夏にとっては違う。

 ソラが生きている。

 自分の手が届くところに、ちゃんといる。

 それだけで、胸がいっぱいになった。

「千夏ー! 早くしないと遅刻するわよ!」

「わかってる!」

 階下から母の声が飛んでくる。

 千夏は鞄を肩にかけ、部屋を出ようとした。

 そのとき、足元にソラがやってきた。

 大きな尻尾を振りながら、千夏を見上げている。

「……どうしたの?」

 ソラは、くぅん、と小さく鳴いた。

 千夏はその場にしゃがみ込む。

 いつもなら、頭をひと撫でして「行ってきます」と言うだけだった。

 でも、今日は違う。

 千夏は両腕を伸ばし、ソラの首にそっと回した。

「ソラ。行ってくるね」

 頬をふわふわの毛に埋める。

「絶対、帰ってくるから」

 ソラは千夏の頬を舐めた。

 その温かさに、また涙がこぼれそうになる。

 けれど、千夏は笑った。

「待っててね」

 玄関を出る直前、もう一度だけ振り返った。

 ソラは、いつもの場所で千夏を見送っていた。

 千夏は胸の中で、何度も繰り返した。

 ――今度こそ、絶対に守る。

     *

 学校へ向かう道は、何も変わっていなかった。

 通学路の角にあるコンビニ。

 横断歩道の向こうに見える小さな公園。

 自転車で追い越していく同級生。

 すべてが、七日前と同じだった。

 千夏は歩きながら、何度もスマートフォンの日付を確かめた。

 十月十八日。

 間違いない。

 どうして時間が戻ったのかはわからない。

 あの鈴に、何か秘密があるのだろうか。

 それとも、ソラに会いたいと願ったから?

 考えても答えは出なかった。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 ソラが亡くなるまで、あと七日。

 千夏は足を止めた。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 あと七日しかない。

 七日後には、またあの悲しみがやってくるのかもしれない。

 今度こそ助けると決めたのに、急に不安が押し寄せてきた。

 もし、何をしても未来が変わらなかったら?

 もし、もう一度、ソラを失ってしまったら?

「……駄目」

 千夏は首を振った。

 弱気になっている場合じゃない。

 できることは、全部やる。

 ソラの体調を気にかける。食事を確認する。必要なら、すぐに病院へ連れていく。

 そして、今度こそ、最後までそばにいる。

 そう決めて、千夏は再び歩き出した。

     *

「千夏、おはよう!」

 教室に入ると、美咲が手を振った。

 昨日と同じ笑顔。

 昨日と同じ声。

 千夏は思わず、目を見開いた。

「……美咲」

「なに? そんなに驚いた顔して」

「ううん。なんでもない」

 千夏は笑って、自分の席に座った。

 机も、椅子も、窓から見える景色も変わらない。

 黒板の端には、今日の日付が書かれている。

 十月十八日。

 千夏は、そっと机の下で手を握りしめた。

 本当に戻ってきたのだ。

 ソラがまだ元気だった、あの時間に。

「ねえ、千夏」

 美咲が身を乗り出してきた。

「今日の放課後、時間ある? 駅前に新しいカフェができたんだって。行ってみない?」

 千夏は一瞬、返事に迷った。

 七日間しかない。

 ソラと一緒にいる時間を、少しでも増やしたい。

 けれど、学校生活をすべて捨ててしまえばいいのだろうか。

 ふと、以前の自分を思い出した。

 ソラが亡くなる前の千夏は、毎日を当たり前のように過ごしていた。

 明日も、来週も、その先も、ソラがいると思っていた。

 だからこそ、何でもない時間を大切にしようとしなかった。

 千夏は美咲に向き直った。

「ごめん。今日は家に帰りたいんだ」

「そっか。じゃあ、また今度ね」

「うん。誘ってくれてありがとう」

 美咲は少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。

 千夏は窓の外を見た。

 空は青く澄み渡っていた。

 今日という日は、もう二度と来ないかもしれない。

 そう思うと、何でもない一日が、ひどく大切なものに感じられた。

     *

 昼休み。

 千夏がスマートフォンを確認すると、母からメッセージが届いていた。

『ソラ、朝ごはん全部食べたよ。今は庭で日向ぼっこしてます』

 千夏は、ほっと息を吐いた。

 よかった。

 ちゃんと食べている。

 元気に過ごしている。

 けれど、そこで安心してはいけない。

 千夏は、ソラが亡くなる前の数日間を思い出そうとした。

 食欲が落ちたのは、いつだっただろう。

 散歩の途中で立ち止まることが増えたのは?

 最初に異変に気づいたのは、母だっただろうか。それとも、自分だっただろうか。

 記憶をたどろうとするほど、頭の中が混乱していく。

 ソラが亡くなった悲しみばかりが大きくて、その前に何があったのか、はっきりと思い出せなかった。

「……もっと、ちゃんと見ていればよかった」

 呟いたとき、スマートフォンが震えた。

 今度は、秋斗からだった。

『今日、帰り一緒に帰れる?』

 千夏は画面を見つめた。

 秋斗。

 ソラのことを、千夏と同じくらい大切に思っていた幼なじみ。

 昨日、秋斗が言ってくれた言葉が蘇る。

『俺も、忘れたくないんだ。あいつのこと』

 千夏は、すぐに返信した。

『うん。帰れるよ』

 送信したあと、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 一人で抱え込まなくてもいいのかもしれない。

 ソラを守るために、秋斗にも協力してもらえばいい。

 そう考えたとき、千夏はふと気づいた。

 自分はまだ、秋斗に何も話していない。

 時間が戻ったことも。

 ソラが亡くなる未来を知っていることも。

 信じてもらえるかはわからない。

 それでも、誰かに話さなければ、何も始まらない気がした。

     *

 放課後、校門を出ると、秋斗が待っていた。

「お待たせ」

「いや、今来たところ」

 秋斗は千夏の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。

「今日、なんか雰囲気違わない?」

「え?」

「昨日は、今にも泣きそうな顔してたのに。今日は……」

 彼は言葉を探すように、千夏を見つめた。

「なんか、必死な顔してる」

 千夏は思わず苦笑した。

「そんなにわかりやすい?」

「昔からな」

 秋斗は、いつもの調子で笑った。

 その笑顔を見た瞬間、千夏は決心した。

「ねえ、秋斗。信じられない話をしてもいい?」

「何?」

「笑わないで聞いてほしいの」

 秋斗は、まっすぐ千夏を見た。

「わかった」

 千夏は深く息を吸った。

「私ね、今朝、目が覚めたら……七日前に戻ってたの」

「……え?」

「ソラが亡くなる前の、七日前」

 秋斗は黙っていた。

 千夏は慌てて言葉を続ける。

「昨日の夜、ソラの首輪についてる鈴が光って、それで……気がついたら、ソラが生きてる朝だったの。日付も戻ってて、何もかも、七日前になってた」

 自分で話していても、信じられない。

 こんなことを言われたら、普通は困るだろう。

 けれど、秋斗は笑わなかった。

「……それで?」

「え?」

「それで、千夏はどうしたいんだ?」

 思いがけない質問に、千夏は言葉を失った。

「どうしたいって……」

「ソラを助けたいんだろ?」

 秋斗は、静かに尋ねた。

「だったら、何をすればいい?」

 千夏の目に、涙が浮かんだ。

「……信じてくれるの?」

「正直、時間が戻ったって話は、すぐには信じられない」

 秋斗は正直に言った。

「でも、千夏がソラを助けたいって気持ちは信じられる。俺だって、ソラにいなくなってほしくないから」

 千夏は、唇を噛んだ。

 ずっと一人だった。

 誰にも言えなかった。

 未来を知っているのは、自分だけだと思っていた。

 けれど、秋斗は違った。

 すべてを信じられなくても、千夏の気持ちを信じてくれた。

「……ありがとう」

 千夏は、涙を拭いた。

「一緒に考えてくれる?」

「もちろん」

 秋斗は頷いた。

「まずは、ソラの様子をちゃんと確認しよう。少しでも気になることがあったら、すぐ病院に相談する。それでいい?」

「うん」

「あと、千夏もちゃんと寝ろよ。顔色、悪いから」

「……それは余計」

「はいはい」

 二人は、久しぶりに少しだけ笑った。

 そのとき、千夏のスマートフォンが鳴った。

 母からの電話だった。

「もしもし、お母さん?」

『千夏? 今、どこにいるの?』

「学校の近く。どうしたの?」

 電話の向こうで、母が少し言いよどんだ。

『実はね、ソラのことで……』

 千夏の心臓が跳ねた。

「ソラがどうしたの?」

『さっき、散歩に連れていこうとしたら、途中で座り込んじゃって。少し休んだら歩けたんだけど……』

 千夏の頭が真っ白になった。

 ソラが亡くなるまで、あと七日。

 その未来が、もう動き始めている。

「お母さん。今日、私がソラを病院に連れていく」

『え? でも、今は落ち着いているし……』

「お願い!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 電話の向こうが静かになる。

 千夏は、震える息を整えた。

「ごめんね。でも、お願い。念のために、ちゃんと診てもらいたいの」

『……わかった。先生に相談してみるね』

「ありがとう」

 電話を切ると、千夏はその場に立ち尽くした。

 秋斗が心配そうに覗き込む。

「ソラに何かあった?」

「散歩の途中で座り込んだって……」

「すぐに病院へ行こう」

「うん」

 千夏は走り出した。

 今度こそ、間に合いたい。

 今度こそ、ソラを失いたくない。

     *

 家に帰ると、ソラはリビングの床に寝そべっていた。

「ソラ!」

 千夏が駆け寄ると、ソラは顔を上げた。

 尻尾が、ゆっくりと揺れる。

 いつもと同じように見える。

 けれど、千夏には、その小さな動きさえ怖かった。

「ソラ、大丈夫? 苦しくない?」

 ソラは千夏の手を舐めた。

 千夏は、その場にしゃがみ込んだ。

「よかった……」

 秋斗も、ソラのそばに膝をついた。

「ソラ、久しぶり」

 ソラは秋斗を見ると、少しだけ顔を上げた。

「覚えてるか? 俺だぞ」

 秋斗が頭を撫でると、ソラは嬉しそうに目を細めた。

 その姿を見て、秋斗の表情が変わった。

「……やっぱり、ソラはソラだな」

 千夏は、小さく頷いた。

「うん」

「だから、助けよう」

 秋斗の言葉に、千夏は顔を上げた。

「絶対に」

 二人は、ソラを病院へ連れていく準備を始めた。

 そのときだった。

 ソラの首輪についている銀色の鈴が、かすかに揺れた。

 ちりん。

 千夏は、思わず鈴を見つめた。

 鈴の表面には、昨夜まではなかったはずの細いひびが入っている。

「……どうして?」

 千夏が指先で触れた瞬間、鈴がほんの一瞬だけ光った。

 そして、耳元で声がした気がした。

 ――千夏。

 懐かしくて、優しい声。

 千夏は顔を上げた。

 もちろん、誰も何も言っていない。

 ただ、ソラが千夏を見つめていた。

 まるで、何かを伝えようとするように。

 千夏は、そっとソラを抱きしめた。

「大丈夫だよ、ソラ」

 自分に言い聞かせるように、囁く。

「今度は、絶対に一人にしないから」

 窓の外では、夕日が沈み始めていた。
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