さよならを言うために、君がくれた七日間
 動物病院の待合室は、消毒液の匂いがした。

 千夏は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめていた。

 隣には秋斗が座っている。

 足元には、ソラのリードが伸びていた。

 診察室の扉は閉じたままだった。

「……大丈夫かな」

 思わず口にすると、秋斗がこちらを見た。

「先生がちゃんと診てくれてる。今は待とう」

「でも……」

 千夏は唇を噛んだ。

 七日前。

 ソラがまだ元気だった時間に戻ってきたのだから、今度こそ何かを変えられると思っていた。

 早く病院へ連れていけばいい。

 体調を細かく確認すればいい。

 ソラのそばにいて、異変を見逃さなければいい。

 そうすれば、きっと未来は変わる。

 そう信じたかった。

 けれど、もしも。

 もしも、どれだけ頑張っても結果が変わらなかったら?

 もしも、ソラがいなくなる未来だけは、どうしても変えられなかったら?

「千夏」

 秋斗の声に、千夏は顔を上げた。

「今、悪いことばっかり考えてるだろ」

「……どうしてわかるの?」

「昔から、わかりやすいんだよ」

 秋斗は少し困ったように笑った。

「お前、心配なことがあると、すぐ手を握りしめるから」

 千夏は自分の手を見た。

 指先が白くなるほど、強く握っていた。

「……だって、怖いんだもん」

 ぽつりとこぼれた本音に、秋斗は黙って耳を傾けた。

「ソラがいなくなるのが怖い。もう一度、あの日が来るのが怖い。私が何をしても、結局、同じことになるんじゃないかって……」

 最後まで言えなかった。

 言葉にしてしまえば、本当になってしまう気がした。

 秋斗はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。

「未来がどうなるかは、俺にもわからない」

「……うん」

「でも、今ここにいるソラは、まだ生きてる。俺たちにできることだって、きっとある」

 秋斗は、千夏の手元に目を落とした。

「だから、今はその一つずつをやろう」

 千夏は、ゆっくりと息を吸った。

 すぐに不安が消えたわけではない。

 それでも、秋斗の言葉は、千夏の胸に小さな明かりを灯してくれた。

 そのとき、診察室の扉が開いた。

「水瀬さん」

 獣医師が二人を呼んだ。

 千夏は勢いよく立ち上がった。

「ソラは……?」

「ひとまず、落ち着いていますよ。こちらへどうぞ」

 千夏は、祈るような気持ちで診察室へ入った。

     *

 診察台の上で、ソラは少し疲れた様子で伏せていた。

 千夏を見ると、顔を上げて尻尾を振る。

「ソラ……」

 千夏はそばに駆け寄り、そっと頭を撫でた。

 獣医師は検査結果を確認しながら、丁寧に説明してくれた。

 年齢による体の衰えもあり、いくつか注意すべき症状が見られること。

 今の段階では、詳しい検査を重ねなければ原因を特定できないこと。

 そして、これからは食事や水分、歩き方などをよく観察していく必要があること。

「早めに連れてきていただいたのは、よかったと思います」

 その言葉に、千夏は胸を撫で下ろした。

 少なくとも、何もせずにいるよりはいい。

「先生、ソラは治りますか?」

 千夏は、思い切って尋ねた。

 獣医師はすぐには答えなかった。

「今の情報だけでは、はっきりしたことは言えません。ただ、検査でわかることもありますし、体への負担を減らすためにできることもあります。一緒に考えていきましょう」

「……はい」

 千夏は頷いた。

 できることがある。

 まだ、何も終わっていない。

 診察が終わり、ソラを連れて病院を出たころには、外はすっかり暗くなっていた。

 秋斗がリードを持ち、千夏はソラの歩調に合わせて隣を歩いた。

「ねえ、秋斗」

「ん?」

「今日、病院に来てよかった」

「そうだな」

「私、何もわかってなかったんだね。ソラのこと、ずっと一緒にいたのに」

 千夏はうつむいた。

「元気なときは、ずっと元気でいてくれるって思ってた。ちょっと年を取ったなって思っても、それだけで……」

 言葉が詰まる。

「もっとちゃんと見ていればよかった」

「千夏」

 秋斗は歩みを緩めた。

「ソラと一緒にいた時間、全部を後悔にしなくていいんじゃないか」

「……でも」

「今まで気づけなかったことがあるなら、これから気づけばいい。今日だって、ちゃんと病院に連れてきたじゃん」

 千夏は、足元を歩くソラを見た。

 ソラは時折立ち止まり、秋斗と千夏を交互に見上げる。

 昔からそうだった。

 二人の歩く速度が違うと、間に入って待っていてくれた。

 まるで、二人が一緒にいることを確かめているみたいに。

「……ありがとう、秋斗」

「どういたしまして」

「私、頑張るね」

 秋斗は頷いた。

「一緒にな」

     *

 翌朝。

 千夏は目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。

 最初にしたことは、ソラの様子を確かめることだった。

 ベッドから降りて、部屋の扉を開ける。

 廊下の向こうから、爪が床を叩く音が聞こえた。

 ととと、と軽い足音。

 ソラがやってきた。

「おはよう、ソラ」

 千夏はしゃがみ込んだ。

 ソラは尻尾を振り、千夏の手に鼻先を押しつけた。

「今日も元気?」

 千夏は、ソラの様子をゆっくり確認した。

 歩き方。

 呼吸。

 目の様子。

 いつもと違うところはないだろうか。

 昨日、獣医師に教えてもらったことを思い出しながら、一つずつ確認していく。

 そのあと、ソラの朝ごはんを用意した。

「はい、どうぞ」

 ソラは器に顔を近づけ、ゆっくりと食べ始めた。

 千夏はほっと息を吐く。

 食べてくれた。

 それだけで、嬉しかった。

 食事を終えると、千夏はノートを取り出した。

 表紙には、太いペンでこう書いた。

『ソラの記録』

 日付、食べた量、飲んだ水の量、散歩の様子。

 小さな変化も見逃さないように、毎日記録していこうと決めた。

 ノートの最初のページに、千夏は今日の日付を書いた。

 十月十九日。

 あと六日。

 その数字を見た瞬間、ペンを持つ手が止まった。

 六日後には、十月二十五日がやってくる。

 千夏はノートを閉じた。

「……今は、考えない」

 未来のことばかり考えていたら、今日のソラを見失ってしまう。

 今、目の前にいるソラを大切にする。

 それが、今の自分にできることだ。

     *

 学校では、千夏の変化に美咲が気づいた。

「ねえ、千夏。昨日、何かあった?」

「え?」

「なんか、今日はずっとスマホ見てるし、休み時間になるとノートに何か書いてるし」

 千夏は慌ててノートを閉じた。

「ちょっと、家のことでね」

「ソラのこと?」

 千夏は頷いた。

「昨日、病院に連れていったの。これから、ちゃんと様子を見ていこうと思って」

「そっか……」

 美咲は少し考えてから言った。

「千夏がソラのこと大切にしてるの、知ってるよ」

「……うん」

「だから、無理しすぎないでね。千夏が倒れちゃったら、ソラだって心配すると思う」

 千夏は目を瞬いた。

 秋斗にも、似たようなことを言われた。

 自分が頑張りすぎていることを、二人とも心配してくれている。

「ありがとう、美咲」

 千夏は、今度は無理に笑うのではなく、自然に笑うことができた。

 美咲も嬉しそうに笑った。

「よし。じゃあ今日の数学、一緒に頑張ろう!」

「それは別の意味で頑張らなきゃ……」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 ほんの短い時間だったけれど、千夏は久しぶりに、いつもの高校生活に戻れた気がした。

 ソラのことを考えない時間があってもいい。

 笑ってもいい。

 そのことを、少しだけ許せるようになった。

     *

 放課後、千夏は寄り道をせずに家へ帰った。

 玄関を開けると、母がリビングから顔を出した。

「おかえり、千夏」

「ただいま。ソラは?」

「庭で日向ぼっこしてるわよ」

 千夏は靴を脱ぐと、鞄を置くより先に庭へ向かった。

 ソラは芝生の上で気持ちよさそうに横になっていた。

 秋の日差しが、金色の毛並みを柔らかく照らしている。

「ソラ!」

 呼ぶと、ソラは顔を上げた。

 尻尾が、ぱたぱたと動く。

 千夏は隣に座り、ソラの体をそっと撫でた。

「ただいま」

 その言葉を口にした瞬間、胸がいっぱいになった。

 今までは、毎日当たり前のように言っていた言葉。

 けれど、もう二度と言えないと思っていた。

「……ただいま、ソラ」

 千夏は、ソラの首に腕を回した。

「今日ね、学校で美咲と話したんだよ。秋斗にも会ったよ」

 ソラは、じっと千夏の話を聞いている。

「みんな、優しいね。私、一人で何とかしなきゃって思ってたけど……そうじゃなかったんだね」

 千夏はソラの背中を撫でた。

「だから、これからは、ちゃんとみんなに頼ることにする」

 ソラは、くぅん、と鳴いた。

「うん。約束」

 千夏は小指を差し出した。

 もちろん、ソラには約束の意味なんてわからない。

 それでも、ソラは千夏の指先をぺろりと舐めた。

 千夏は笑った。

「……もう。そういうところ、変わらないね」

 風が吹いた。

 庭の木の葉が揺れ、夕方の光がゆっくりと傾いていく。

 千夏は、この時間がずっと続けばいいと思った。

 ずっと、このまま。

 ソラの温かさを感じながら、何でもない話をしていられたらいいのに。

     *

 その夜。

 千夏はソラの記録をノートに書き込んでいた。

 食事は完食。

 散歩は短め。

 夕方は庭で日向ぼっこ。

 目立った変化はなし。

 書き終えたところで、母が温かいお茶を持ってきた。

「千夏、少し休んだら?」

「うん。もう少しだけ」

 母はノートを見つめた。

「ソラの記録?」

「うん。昨日、先生に言われたことを忘れないように」

「そう……」

 母は千夏の隣に座った。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 やがて母が、静かに口を開いた。

「千夏。昨日はごめんね」

「え?」

「ソラを病院に連れていってって、すごく必死だったでしょう。お母さん、ちょっと驚いちゃって」

 千夏は慌てて首を振った。

「ううん。私こそ、ごめん。急に大きな声を出して」

 母は千夏の顔を見た。

「何か、心配なことがあるの?」

 千夏は言葉に詰まった。

 未来から戻ってきたこと。

 ソラが亡くなる日を知っていること。

 母に話せば、信じてもらえるだろうか。

 いや、きっと困らせてしまう。

 千夏は、しばらく迷ったあと、正直な気持ちだけを伝えることにした。

「……ソラがいなくなるのが、怖いの」

 母の表情が変わった。

「千夏……」

「私、今まで、ずっと一緒にいられると思ってた。ソラが年を取ってることもわかってたのに、ずっと先のことだと思ってた」

 涙が浮かんだ。

「もっと、ちゃんと見ていればよかった。もっと、一緒にいる時間を大切にすればよかった」

 母は、そっと千夏を抱きしめた。

「お母さんも、怖いよ」

 千夏は顔を上げた。

「……お母さんも?」

「当たり前でしょう。ソラは家族だもの」

 母の声も、少し震えていた。

「ずっと元気でいてほしい。でも、どれだけ願っても、どうにもならないことがあるかもしれない。そう考えると、お母さんだって怖いの」

 千夏の目から、涙がこぼれた。

 母も、同じだった。

 自分だけが悲しいのではない。

 家族みんなが、ソラを大切に思っている。

「だからね、千夏」

 母は娘の髪を撫でた。

「ソラのためにできることを、一緒に考えましょう。お母さんも、ちゃんと協力するから」

「……うん」

「それから、千夏自身のことも大切にしてね。ソラのそばにいたい気持ちはわかるけれど、ご飯も食べて、眠って。元気な千夏でいてほしいわ」

 千夏は、母の胸に顔を埋めた。

「……ありがとう」

 その夜、千夏は久しぶりに、母の前で声を上げて泣いた。

 悲しみを隠さなくてもいい。

 怖いときは、怖いと言っていい。

 そう思えたことが、千夏にとって小さな一歩だった。

     *

 深夜。

 千夏は、ふと目を覚ました。

 部屋は暗く、窓の外から月明かりが差し込んでいる。

 何か音がした気がした。

 ちりん。

 小さな鈴の音。

 千夏は布団から起き上がった。

 机の上には、ソラの首輪が置かれている。

 首輪についている銀色の鈴が、月明かりの中で淡く光っていた。

「……また?」

 千夏は、そっと鈴を手に取った。

 表面に入ったひびが、昨日よりも少し長くなっている。

 指先で触れると、鈴がかすかに震えた。

 そして、耳元で声がした。

『千夏』

 懐かしい声。

 優しくて、温かくて、ずっと聞いていたい声。

 千夏は息を止めた。

「……ソラ?」

 返事はない。

 けれど、次の瞬間、千夏の脳裏に光景が浮かんだ。

 小さなソラが、初めて家に来た日のこと。

 玄関でおそるおそる歩いていたソラ。

 千夏が名前を呼ぶと、嬉しそうに駆け寄ってきた。

 その光景は、一瞬で消えた。

 千夏は、呆然と鈴を見つめた。

「今の……何?」

 手の中で、鈴がもう一度鳴った。

 ちりん。

 その音が消えると同時に、千夏の胸に、言葉にならない感情が広がった。

 懐かしさ。

 温かさ。

 そして、どうしようもない切なさ。

 まるで、ソラが何かを伝えようとしているようだった。

 千夏は鈴を胸に抱きしめた。

「ソラ……あなたは、何を伝えたいの?」

 もちろん、答えは返ってこなかった。

 ただ、窓の外では、月が静かに輝いていた。
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