真夜中の校則
 『夜の校舎のことは、声では話せない』
 十月、学校の七十周年展示でその一文を見つけたとき、おれはずいぶん手のこんだ怪談だと思った。

「朝日、そこ押さえてて」

 後ろから声をかけられ、おれは掲示板に伸ばしかけた指を引っ込めた。栞が抱えていた大きな紙の端をつかむ。市立宵野中学校、創立七十周年。銀色の文字が蛍光灯に光り、古い校舎の写真が並んでいた。

「これ、生徒会の仕事?」
「展示委員の手伝い。今日中に貼ってって頼まれたから」
「断ればいいのに」
「手を離さないで」

 栞は片手で画びょうを取り出した。昼休みが半分つぶれても、文句ひとつない。おれなら、あと三回は言う。

 貼り終えた紙の中央に、白黒の集合写真があった。「第一期生 記念集合写真」とある。制服も髪形も古めかしい。隣には、前列右から何番目が誰、といった名前の対照表。右下の一部が破れ、細かな字が途中で切れていた。

 古い資料をそのまま複写したらしく、紙の白い余白まで一緒に写っている。

「七十年前か。ここにいる全員、もうおじいちゃんかおばあちゃんだよな」
「元気ならね」
「そっか」

 下に貼られた黄色い学校新聞の複写には、『宵野中に残る七不思議』という見出しがあった。昔の卒業生の手記を転載した記事だ。

『夜の校舎のことは、声では話せない。忘れないうちに、こうして書き残す』

 記者は、本当にそんな出来事があったか確かめられなかった、と添えている。手記を書いた人の名前は印刷がかすれて読みにくい。噂話なら口で広めたほうが早いのに、わざわざ新聞に残しているのが、妙に気にかかった。

「七不思議か。夜中に出てくるの、足のない先生とか?」
「元の記事は噂を紹介してるだけ。証拠とは書いてないよ」
「その言い方がいちばん怖いんだけど」

 階段の方から大河がやってきて、新聞をのぞき込む。

「またその話か。旧校舎なんか、夜は鍵かかってるだろ」
「じゃあ、お前が試してこいよ」
「なんでおれが」
「怖い?」
「めんどくさいだけだ」

 大河は鼻を鳴らして行った。栞は次の資料を広げている。

「朝日、もう一枚だけ頼んでいい?」
「昼休み、終わるって」
「あと一枚」

 その言葉に弱いのは、たぶん栞のほうだ。


 晩ご飯は焼き魚だった。
 居間の時計は七時前。父さんは帰っていて、テレビで天気予報を見ていた。

「奏太、お箸、持っていって」
「はーい」

 母さんは引き出しから箸を四膳取り出した。いつものことなので、おれは一本指を立てる。

「三人だよ」
「あら」

 母さんは四膳をひと膳ずつ数え、一膳を戻した。数える手つきはしっかりしているのに、引き出しを閉めるまで妙に時間がかかった。

「疲れてるんじゃないか」

 父さんがテレビの音量を下げた。

「そうねえ。三人なのに、どうしていつも四人分出すのかしら」
「食いしん坊がいるから」
「それ、おれ?」
「ほかに誰がいる」

 父さんが笑い、おれも笑った。母さんは食器棚を開けている。母さんは茶碗まで四つ取り出した。三つにご飯をよそい、青い線の入った一つが余ったところで、手を止める。

「それ、おれが戻すよ」

 差し出した手の前で、母さんは茶碗の縁を親指でなぞった。

「……お願い」

 あの茶碗はずっと家にある。前に理由を尋ねたら、母さんは「ずっと前からあるのよ」と答えた。父さんはそのとき、箸を持ったまま黙ってしまった。おれが洗って棚にしまうと、母さんはちゃんとしまったか確かめに来た。


 寝る前、おれは机の奥から薄い封筒を取り出した。中には、母子手帳の写真を印刷した紙と、古い家族写真が入っている。家で見つけた母子手帳は二冊あった。自分のものと、表紙に母さんの字で「朝日一真」と書かれたもの。朝日一真。おれより十歳上の、兄だったらしい人。

 母さんはその名前を読めるし、手帳が赤ん坊の記録だということもわかる。でも、一真がどんな子だったかと聞くと、困ったように首をかしげる。父さんも同じだった。家族写真には、四歳くらいのおれと、制服を着た少年が写っている。

 少年はおれの肩に手を置いていた。写真を見れば、誰かがそこにいたことはわかる。それなのに、その手の重さも声も思い出せなかった。

 四歳の記憶なんて、そんなものかもしれない。けれど父さんも母さんも覚えていないのはおかしい。母さんにまた尋ねようとして、やめた。写真を見るとき、母さんはいつも、何か落とし物を探すような顔になる。

 封筒をしまい、いつも使う小さなメモ帳と短い鉛筆を、翌日着る制服の胸ポケットへ入れた。展示の古い新聞について、栞に質問しておこうと思ったからだ。

 パジャマに着替え、目覚ましをセットして布団に入った。


 次に目を開けたとき、頭の上に蛍光灯があった。おれは机に突っ伏していた。冷たい木の感触が頬にくっついている。起き上がると、椅子が大きな音を立てた。

「うわっ」

 誰かが叫んだ。ここは、おれの部屋じゃない。教室だ。黒板。窓際の掃除用具入れ。見慣れた宵野中の教室なのに、外は真っ暗だった。時計の針は十二時を指し、秒針だけが動いている。針が一目盛り進む音まで聞こえた。

 おれは制服を着ていた。さっきまでパジャマだったはずなのに、足元は学校の上履きだ。

「どうなってんだよ、これ」

 教室には、おれのほかに七人いた。

 栞と大河。委員長の環と、理科の話になると長い恭平もいる。あとの三人は知らない。小柄な男子が一人、ポケットを握る女子が一人、それから教室の後ろに立つ細身の男子が一人。机の上には木の札があった。

 おれが「1」、栞が「2」、後ろの男子が「3」、小柄な男子が「4」、環が「5」、大河が「6」、女子が「7」、恭平が「8」。

「誰かが運んだってこと?」

 環は教室の扉を開いた。

「出られる。でも、勝手にばらばらにならないで」

 大河はスマートフォンを探してポケットをたたく。おれも手をやったが、眠る前、机の充電器につないだままだった。かわりに胸ポケットには、メモ帳と鉛筆が残っていた。中身もそのままだ。

「警備の人を探そう」

 恭平がそう言い、みんなで廊下へ出た。非常口の緑色だけが遠くに光っている。
 歩き出したとき、右の肩がむずむずした。
 誰かに、そこを押さえられている。

 おれは振り返った。後ろの男子とは、二歩ぶん離れていた。頭に浮かんだのは、低いところから見上げた玄関だった。靴を履こうとしてよろけたおれを、制服の袖から出た手が支えている。もう片方の手には、赤いボール。

『先に出るなよ、奏太』

 兄の声だ。
 そんなことが、本当にあった。玄関のたたきの冷たさまで覚えている。さっき家族写真を見たときには、何も思い出せなかったのに。

「一番?」

 栞に呼ばれ、おれは立ち止まっていたことに気づいた。

「どうしたの?」
「いや……」

 もう一度、後ろの男子を見る。暗い廊下では、前髪の下の顔がよく見えなかった。写真の兄に、似ている気がした。けれど、今浮かんだ記憶でも、見上げた兄の顔は玄関の光に重なっていた。声を聞けばわかるだろうか。

 渡り廊下の先、使われていない別棟の窓に、明かりが見えた。一つ、二つ、三つ。人の形をした影が立っている。こちらが見ていると、一つがゆっくり窓へ近づいた。

「向こう、誰かいるぞ」

 環が窓を開けようとしたとき、三番の男子が言った。

「やめたほうがいい」
「なんでだよ」

 大河が聞く。三番は暗い窓を見たまま答えた。

「……向こうへは行けない」

 おれはその声を聞いた。さっき思い出した声より低く、かすれている。もっと話してほしかったが、三番は黙ってしまった。別棟へ続くガラス扉には、鍵がかかっていた。環が取っ手を引いても動かない。

 大河が肩で押しかけ、栞が「ガラスが割れる」と止める。向こうの窓にいる人たちは、こっちが騒いでも動かなかった。戻ろうとすると、廊下の奥から、こつ、と音がした。

「誰かいますか」

 環が呼んだ。返事はない。暗がりで何かが動いた気がしたが、教室で恭平が声を上げた。

「黒板、見て!」

 さっきまで何もなかった黒板に、白い文字が並んでいた。
 先頭に『夜の校則』とある。

 一、七つの不思議がすべて解き明かされたとき、夜の校舎は閉じ、ここに在るすべての者は、夜の生徒も含め、昼へ帰り、この校則から解かれる。
 二、不思議は七夜のあいだ、一夜にひとつ目を覚ます。三時五十分に投票を始め、四時の鐘までに、その夜の不思議が解けなければ、集められた者の投票で一人を選ぶ。選ぶのは、まだ別室へ移されていない者一人。最多票の者を夜の生徒とし、その七夜が終わるまで別室に留める。白紙は数えない。最多票が同じ者はともに選ぶ。有効票がないとき、または投票を出さない者がいるときは、まだ別室へ移されていない者すべてを選ぶ。
 三、旧校舎の階段で、十三段目を踏んではならない。
 四、夜の校舎で、自分の名を、声や文字で人に伝えてはならない。
 五、夜の校舎のことを、昼の世界で口にしてはならない。
 六、校則を破った者は夜の生徒となる。夜の生徒のことは、昼の世界の誰も思い出せない。
 七、この校則は、夜の校舎に在るすべての者を縛る。

「投票ってなんだよ」

 大河が黒板の二番目の校則を指さした。

「四時までに解けなければ、一人を選ぶ?」

 四番の声が震える。環が「誰も選ばなければ」と言いかけ、栞が首を振った。

「出さない人が一人でもいたら、全員だって」
「じゃあ、全員白紙なら?」
「有効票がないから、それも全員」

 文字の意味が、少しずつ頭に入ってくる。四時までにはまだ時間がある。でも、その間に何をどう解けばいいのか、誰も知らない。七番の女子は、胸ポケットから小さなスケッチ帳を出して、自分の番号札を描いていた。

「だいたい、何なんだよ、これ。うちじゃ母さんが四人目の茶碗を出すし、学校じゃ八人まとめてさらわれるし。数が合わないのは家だけで十分だって」

 おれは笑いながら言ったつもりだった。声が変なところで裏返った。
 後ろにいた三番の男子が顔を上げた。
 おれは右の袖口を折り返していた。落ち着かないとき、よくやる癖だ。三番はその手を見て、それからおれの顔を見る。

「……何?」
「いや」

 三番は首を振った。

「何でもない」

 おれは袖口から手を離した。聞きたいことがあるのに、何から聞けばいいかわからなかった。そのとき、天井のスピーカーが、きん、と鳴った。全員が顔を上げる。

『ようこそ、夜の校舎へ。私は、この学校の校長です』

 男とも女ともつかない、平らな声だった。

『帰りたければ、七つとも答えろ』

 教室の蛍光灯が消え、続いて廊下の照明も消えた。窓の向こうの別棟も暗くなる。誰かが叫び、環が扉をつかむ。そのとき、廊下の一番奥で、ひと部屋だけぱっと明かりがついた。

 音楽室だった。


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