嫌いだった課長と恋をするまで
第1章 最悪の課長と、最悪の部下

第01話 東京から来た課長

 九月の朝だというのに、神戸はまだ夏の続きをやっていた。駅から会社まで十分ほど歩いただけで、ワイシャツの背中が汗で張りつき、首筋にも嫌な汗が流れてくる。

 高校生の頃なら、この程度の暑さで息が上がることなんてなかったし、社会人になってからも週に何度か走っていたから、駅の階段を駆け上がるくらいは平気だった。それが今では、少し早足になっただけで胸が重くなる。ビルの自動ドアを抜け、冷房の風を受けながらエレベーターの扉に映った自分の姿を見て、俺は視線を逸らした。最近は、自分の姿を正面から見ることが少なくなっていた。

 エレベーターを待つ間、なんとなくスマートフォンを取り出し、健康管理アプリを開いた。表示された数字は九十二・四キロ。昨日より増えたわけでもないのに、その数字を見るだけで気分が沈む。画面を閉じようとして、指が一瞬止まった。もう一度見たところで数字が減るわけじゃない。俺はそのままアプリを閉じ、スマートフォンをポケットへ戻した。原因なんて分かっている。食べるようになったし、動かなくなった。それだけだ。以前なら仕事が終わってから走りに行っていた時間を、今はコンビニで買った弁当を食べながらテレビを見る時間に使っている。分かっているからこそ、そこから先は考えたくなかった。考え始めれば、どうしてこうなったのかまで思い出してしまう。

 部署に入ると、すでに何人かが席についていた。自分のパソコンを立ち上げているところへ、小川が資料を抱えてやってくる。

「高橋さん、おはようございます。今日、九時から部長会議ですよね。昨日の資料、もう確認しました?」

「昨日のうちにまとめてあるよ。八時半までに一度見てもらえると助かる」

「分かりました。……そういえば、高橋さんは聞いてます? 今日から新しい課長が来るって話」

「ああ、東京本社から来る人だろ」

「三十歳の女性らしいですよ。しかも、かなり仕事ができるって評判みたいです」

 小川は楽しそうに言うが、俺にはどうでもよかった。新しい課長が男だろうが女だろうが、仕事ができようができまいが、俺がやることは変わらない。与えられた仕事を片づけて、定時になったら帰る。職場に余計なものを持ち込まないほうが楽だし、今の俺には人間関係を一から作るような気力もなかった。

「高橋さん、相変わらず興味ないですね」

「朝から上司の噂話をしてる暇があるなら、会議資料を見てくれ」

「はいはい。じゃあ、あとでちゃんと見ます」

 小川が自分の席へ戻るのとほぼ同時に、後ろから藤原さんに声をかけられた。営業から戻ってきた数字が一つ合わないらしく、九時の会議までに確認してほしいという。資料を受け取り、元データを共有してもらうと、営業報告だけでは判断できない箇所が見つかった。俺は顧客別のデータまで開いて数字を照らし合わせ、入力された時点ですでに一つ数字が変わっていたことを確認した。こういう仕事は嫌いじゃない。数字なら、余計なことを考えずに済む。どこが違うのかを探して、原因を見つければいい。人間相手のように、言葉の裏側まで考える必要がない。

 
 九時前になり、会議資料を藤原さんへ渡したところで、部署の入口が少しざわついた。何人かが顔を上げたので、俺もつられてそちらを見る。入ってきた女性は紺色のジャケットを着ていて、肩にかかる黒髪を揺らしながら、こちらへまっすぐ歩いてくる。
 派手な服装ではないし、特別目立つ格好をしているわけでもない。それなのに、妙に視線が引っかかった。歩き方に無駄がなく、周囲をきょろきょろ見回すこともない。自分がこれから入る場所について、すでに何かを決めているような歩き方だった。

 女性は部署の前で立ち止まり、全員を見渡した。

「本日付で営業企画課の課長として着任しました、神谷美月です。東京本社から参りました。こちらの部署については、まだ分からないことも多いと思いますので、まずは皆さんの仕事を見せていただきたいと思います」

 そこで言葉を切った彼女は、少しも表情を変えないまま続けた。

「ただ、仕事に関して妥協するつもりはありません。これからよろしくお願いします」

 部署の中から一斉に「よろしくお願いします」という声が上がり、俺も周囲に合わせて頭を下げた。顔を上げたとき、神谷課長と目が合った。ほんの一瞬だったが、彼女の視線が俺の顔から胸元、そして腹のあたりまで動いたように見えたので、思わずシャツを引っ張ってしまう。
 しかし、すぐに馬鹿らしくなった。九十二キロという数字を知っているわけでもないのに、何を気にしているんだ。そう思って顔を上げると、神谷課長はすでに別の社員へ視線を移していた。

 それから十分もしないうちに、彼女は俺の机の前へ来た。手にしているのは、今朝確認していた営業報告の資料だった。

「高橋さん、少しよろしいですか。こちらの資料ですが、あなたが作成したものですか?」

「はい。昨日の営業報告をもとにまとめています」

「この数字について、どこまで確認しました?」

「営業報告だけでは合わないところがあったので、顧客別のデータまで確認しました。元データはこちらです」

 俺が画面を見せると、神谷課長は椅子の横まで来て、身をかがめるようにして画面を覗き込んでくる。その視線の動きが速い。数字を一つずつ追いながら、必要なところだけを拾っているようだ。
 俺は何か指摘されるだろうと思っていた。東京本社から来たばかりの上司なら、自分の部署の仕事を確認したいのは当然だ。それならそれで構わない。仕事についてなら、俺も遠慮するつもりはなかった。

「この数字、営業報告のままだと合いませんね」

「そうなんです。顧客別まで戻ると、入力段階で数字が変わっています」

「もう営業側へ確認を?」

「藤原さんから頼まれたばかりなので、まだです。会議が終わったら確認するつもりでした」

 神谷課長は画面をしばらく見たあと、ようやく顔を上げた。

「分かりました。ありがとうございます。ここまで確認しているなら、営業への確認はこちらでします」

「お願いします」

 資料を受け取るのかと思ったが、彼女はすぐには手を伸ばさなかった。

「高橋さんは、仕事が正確なんですね」

「……ありがとうございます」

「ただ、仕事以外のところで一つ気になることがあります」

 その言い方が妙に引っかかった。俺が黙っていると、彼女は何でもないことのように続けた。

「昼食です。総務の方から聞きましたが、毎日かなり召し上がるそうですね」

「……昼飯?」

 思わず聞き返した。

「はい。健康管理については、少し考えたほうがいいと思います。体調を崩せば、本人だけでなく周囲にも負担がかかりますから」

 朝、初めて会ったばかりの人間に、いきなりそこまで言われるとは思わなかった。最近、何度も聞いてきた言葉が頭の中に浮かぶ。

 少し太ったんじゃないか。
 前より大きくなったな。
 もう少し痩せたほうがいいんじゃないか。

 どれも相手に悪意があったわけじゃない。それが分かっているから、余計に腹が立った。笑って流すしかない言葉を、何度も聞かされてきたからだ。

「ご心配なく。仕事には支障を出していません」

「今のところは、ですよね。自己管理の問題を放置するのは、私はおすすめしません」

「課長、俺のこと、何も知らないですよね」

 自分でも驚くほど低い声が出てしまう。その声で神谷課長の表情が初めて止まった。俺も言い過ぎたと思ったが、口にした言葉を引っ込める気にはなれなかった。彼女は俺が何を食べているのかも、なぜこんな身体になったのかも知らない。休日に何をしているのかも知らない。それなのに、健康管理という言葉だけで、俺のことまで決めつけられたような気がした。

「……そうですね。確かに、私はあなたのことを知りません」

 神谷課長は少しだけ視線を落としたあと、俺を見た。

「だったら、仕事だけ見てください」

「分かりました」

 あまりにも素直な返事だったので、逆に言葉に詰まった。謝るでもなく、反論するでもない。俺としては言い返されるつもりでいたから、その先が続かない。

「ただし、高橋さん」

「何ですか?」

「私も、あなたには仕事だけを見てほしいと思っています」

「……どういう意味ですか?」

「今日から私はあなたの上司です。あなたは私の部下ですから、仕事については遠慮なく言います。私の判断に納得できないときは、あなたも言ってください。立場が上だからという理由だけで、黙って従ってほしいとは思っていません」

 そう言うと、神谷課長は資料を手にしたまま自分の席へ戻っていった。俺はその背中を見ながら、なんとも言えない気分になった。
 腹が立つ。朝から人の昼飯にまで口を出してきたんだから、腹が立って当然だ。それなのに、さっき仕事の話をしていたときの彼女の目だけは、どうしても頭から離れなかった。数字の間違いを見つけたことを、余計な社交辞令なしに認めた。その部分だけは、嫌いになりきれない。

 俺は椅子へ座り直し、会議資料を開いた。これ以上、神谷課長のことを考えるつもりはなかった。ところが、午前の会議が終わる前に、また彼女から声をかけられた。

「高橋さん。この処理について、少し確認したいのですが」

「はい」

 神谷課長が指差したのは、さっきの営業報告とは別の数字だった。

「私は、この処理ではなく別の方法を取ったほうがいいと思います」

「その方法だと、あとで営業側の確認が増えます」

「増えても、数字の整合性は取りやすくなります」

「でも、現場の負担が大きくなりますよ」

「では、現場の負担を増やさずに済む方法を考えてください」

「……課長、それ、俺に丸投げしてません?」

「そう聞こえましたか?」

「かなり」

 神谷課長は一瞬だけ黙り、それからほんの少しだけ口元を緩めた。

「では、一緒に考えましょう」

 その言葉に、俺はますます調子を狂わされてしまう。

 
 この人とは合わない。
 たぶん、ものすごく合わない。

 そう思ったのに、その日の午後には、俺たちは同じ資料を挟んで言い合いをしていた。仕事のやり方が違う。考え方も違う。何より、俺が一番触れられたくないところへ、神谷美月は初日から平気な顔で踏み込んできた。

 最悪の課長だ。

 少なくとも、このときの俺は本気でそう思っていた。
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