嫌いだった課長と恋をするまで

第02話 九十キロを超えた俺

 昼休み、俺は社員食堂へ向かった。午前中の仕事を終えれば腹が減る。昼くらい好きなものを食べたい。それが今の俺にとって、一日の中で数少ない楽しみなのだ。

 食券を買って、唐揚げと焼き魚、それに味噌汁のついた定食を受け取る。ご飯は迷わず大盛りにした。トレーを持って席を探していると、小川が手を上げているのが見えたので、その向かいに腰を下ろす。
 昨日から東京本社から来た神谷課長がいるせいで、何となく職場の空気が変わっている。だが、仕事以外では、できるだけ関わらない。それが一番楽なことだと思っていた。

「高橋さんって、昔はもっと細かったんですよね?」

 小川にそう言われて、箸が止まった。

「……何で知ってるんだ?」

「藤原さんが言ってました。高橋さん、入社した頃は今よりずっと細かったって」

「藤原さん、そんなこと話したのか」

「昔から知ってるから分かるんでしょうね。私なんて入社してからしか知りませんし」

 そう言われて、少し離れた席で、同じように昼食を取っている藤原さんへ目を向けた。俺が入社した頃からずっと世話になっている先輩だ。仕事のやり方を教えてもらったこともあるし、入社したばかりで右も左も分からなかった頃の俺を知っている。もちろん、今の俺しか知らない人間なら、昔の姿を想像するのは難しいだろう。

「昔は結構走ってたんだよ。高校の頃から身体を動かすのが好きだったし、入社してからもしばらくはジムに通ってた」

「じゃあ、何でこんなに変わったんですか?」

「……色々あったんだよ」

 俺はそれ以上答えず、唐揚げを口へ運んだ。

 「別に」、という言葉で済ませたくなるのは、話したくないからだ。俺が変わったのは、仕事が忙しくなったからでも、運動する時間がなくなったからでもない。

 高校時代から付き合っていた恋人と別れた。それがきっかけだった。長い付き合いだったから、社会人になっても、その先もずっと一緒にいるものだと思っていた。ところが、ある日、彼女から好きな人ができたと告げられた。相手は俺ではなかった。大きな喧嘩をしたわけでも、何か酷いことをされたわけでもない。ただ、自分が当然のように信じていた未来から、自分だけが外された。あのとき感じたものを、俺はいまだにうまく言葉にできない。

 別れた直後は、何とか元に戻ろうとした。仕事をして、帰宅したら走る。休日にはジムへ行く。以前と同じ生活を続けていれば、以前の自分に戻れると思っていた。でも、家へ帰って一人になると、どうしても考えてしまう。
 
 何が悪かったのか。
 どこで間違えたのか。
 自分に足りなかったものは何だったのか。

 考えても答えなんて出ないのに、頭の中では同じことを何度も繰り返した。そんな夜に、コンビニで買った弁当を食べている間だけは何も考えずに済んだ。腹がいっぱいになれば眠れる。眠ってしまえば、その日のことを考えなくていい。最初は、それだけだった。

 それが何日も続き、何週間も続いた。走らなくなった。ジムにも行かなくなった。休日に出かけることも減った。仕事から帰れば食べて、休日も食べる。食べることが好きだったわけではない。ただ、食べている間だけ、自分のことを考えずに済んだ。そうしているうちに身体は少しずつ変わっていった。以前なら余裕のあったスーツのズボンが苦しくなり、ベルトの穴が一つずつ外側へ移っていく。鏡に映る自分の姿も、以前とは違っていた。それでも体重計には乗らなかった。数字を見たところで、どうにかできる自信がなかったからだ。

「でも、高橋さんがそんなに食べるようになったのって、ここ数年ですよね」

「そうだな」

「藤原さん、前に言ってましたよ。高橋さん、入社した頃は昼休みに食べたあと、午後から外回りしても全然平気だったって」

「……余計なことまで知ってるな」

「先輩だからでしょう」

 小川は笑い、俺も苦笑するしかなかった。藤原さんは、俺が入社した頃のことを知っている。仕事を覚えるために必死だった時期も、休日に走っていた時期も、その後、少しずつ変わっていったことも知っている。ただ、理由までは聞かれていない。俺も話していない。だから、あの人が今の俺を見て何を思っているのかは分からなかった。

「高橋さん」

 別の声がして、顔を上げると、神谷課長が目の前に立っている。

 昨日から何度も見ているはずなのに、こうして仕事から離れた場所で見ると少し印象が違う。仕事中と同じように姿勢はまっすぐで、周囲を見回す動作にも無駄がない。東京から来たばかりだから、この食堂の勝手がまだ分からないのか、一度立ち止まってから空いている席へ向かっていく。手にしているトレーには、ご飯と味噌汁、それに焼き魚が載っていた。

 俺は何となく、自分の前に並んだ料理を見た。

 大盛りのご飯。
 唐揚げ。
 焼き魚。
 味噌汁。

 そして、昨日の課長の言葉が頭に浮かぶ。

  『健康管理については、少し考えたほうがいいと思います』

 課長は俺の前の料理へ一度視線を落とし、それからこちらへ歩いてきた。

「高橋さん」

「……何ですか?」

「毎日、そのくらい食べているんですか?」

「昼飯ですよ。これくらい普通でしょう」

「普通かどうかを決めつけるつもりはありません。ただ、昨日も今日も見ていると、かなり食事量が多いように思います」

「だから?」

「以前も言いましたが、一度、ご自身の生活を見直したほうがいいと思います」

 また、それか。

 俺は箸を置いた。胸の奥に嫌な熱が広がっていく。自分でも分かっている。太ったことも、運動しなくなったことも、食べ過ぎていることも、全部分かっている。だからこそ、人から言われたくなかった。

「課長には関係ないでしょう」

「私があなたの上司だから言っています」

「仕事には支障を出していません」

「今は、ですよね」

 昨日と同じ言葉だった。理屈だけなら、きっと課長のほうが正しい。だから余計に腹が立つ。俺が自分でも触れたくないところへ、何のためらいもなく踏み込んでくる。

「……課長って、俺の身体しか見てないですよね」

「そんなことはありません」

「じゃあ、何を見てるんですか」

「仕事です。あなたが仕事をきちんとしていることは分かっています。だからこそ、体調を崩して、その仕事までできなくなるのは避けてほしいと思っています」

「俺のこと、心配してるんですか?」

「上司として必要なことを言っています」

 やっぱり、この人はこういう人なのだと思う。正しいことを正しいと言う。必要なことなら、相手がどう受け取るかを考えるより先に伝える。俺とは根本的に合わない。

「俺の生活は、俺が決めます」

「分かっています」

「だったら、もう言わないでください」

「分かりました。ただ、仕事に影響が出た場合は、上司として確認します」

「……それは、分かりました」

 課長はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。小川が何か言いたそうに俺を見る。

「何だよ」

「いえ。課長って、思ったよりちゃんと話を聞く人なんだなと思って」

「そうか?」

「高橋さんのこと、仕事ができないとは思ってないみたいですよ」

 俺は答えなかった。それは、俺にも分かっていたことだからだ。

 昨日から神谷課長は、俺の仕事そのものを否定してはいない。だからこそ余計に分からない。どうしてそこまで俺の生活に踏み込んでくるのか。どうして、会ったばかりの人間のことをそこまで気にするのか。

 
 その日の帰り、俺は一人で駅へ向かっていた。神戸の街はまだ暑く、九月になっても昼間の熱が道路に残っている。歩きながら、朝に見た体重計の数字を思い出した。

 九十二・四キロ。

 別に今日、急に太ったわけじゃない。もっと前から分かっていた。スーツがきつくなったことも、階段を上ると息が切れることも、鏡を見るのを避けるようになったことも、全部知っている。

 それでも、自分から変わろうとは思えなかった。

 家へ帰り、冷蔵庫を開ける。中にはコンビニで買った弁当とプリンが入っていた。俺は少し迷ってからプリンを取り出した。

 食べている間は、何も考えなくて済む。それが今の俺には必要だった。

 高校時代から続いた恋人との時間が終わって、自分の中にぽっかり空いたものを埋めるように食べ始めて、気づけば九十キロを超えていた。自分でも、今の自分が好きなわけじゃない。それでも、誰かにそこを指摘されると腹が立つ。まして、昨日会ったばかりの課長なんかに。

 俺はプリンを食べ終え、空になった容器をテーブルへ置いた。

 神谷課長の顔が頭に浮かぶ。
 仕事は認めている。
 だからこそ、俺の生活について口を出してくる。
 その理屈が、やっぱり俺には理解できなかった。

 九十二・四キロ。

 俺はその数字から目を逸らすように、テレビの電源を入れた。
 
 このときの俺はまだ知らなかった。自分でも好きになれないこの身体と、そこから逃げ続けている自分を、少しずつ変えていくことになる人間が、昨日東京からやって来た神谷美月という女だということを。
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