嫌いだった課長と恋をするまで

第32話 課長が好きだ

 藤原さんと話した翌日から、俺は妙に自分の周りを意識するようになった。何かが劇的に変わったわけじゃない。朝になれば会社へ行き、仕事をして、課長から指示を受ければ返事をする。取引先から連絡が来れば対応するし、部下から相談されれば一緒に考える。いつも通りの一日なのに、頭の片隅には藤原さんの言葉が残っていた。
 相手が誰を選ぶかと、自分に価値があるかは別の話。なら、自分で選べるものを選べばいい。昨日までの俺なら、その言葉を仕事や生活の話として受け取って終わっていたと思う。でも、今の俺には引っかかるものがあった。誰かに選ばれることばかり気にしていた俺は、自分が誰を選びたいのかを、いつから考えなくなったんだろう。

「高橋さん、この資料ですが」

「はい」

 課長から声をかけられて、俺は顔を上げる。神谷課長が俺の机の横に立ち、手には明日の取引先との打ち合わせ資料があり、いつものように必要な箇所を指で示していた。仕事中の課長は相変わらず厳しい。数字の間違いがあれば遠慮なく指摘するし、曖昧な返事をすれば聞き返される。俺もそれを分かっているから、必要な確認を済ませていく。そんな当たり前のやり取りなのに、課長が立ち去ったあとも、俺の目はしばらくその背中を追っていた。

「……俺、何してるんだ」

 小さく呟いて、視線をパソコンへ戻す。だが、仕事に集中しようとしても、さっきの課長の横顔が頭から離れなかった。今まで、そんな自分を「課長のことを気にしすぎているだけだ」と片づけていた。
 
 尊敬しているから。
 仕事のできる上司だから。
 自分が世話になっているから。

 いくらでも理由は作れた。実際、それらは全部嘘じゃない。課長の仕事ぶりは本当に尊敬しているし、俺が助けられたことも一度や二度じゃない。ただ、それだけなら、課長が他の誰かと話しているだけで胸の奥がざわつく理由にはならない。

 
 昼休みになって、俺は自分の席でスマートフォンを眺めていた。何となく開いた画面には、連絡先の一覧が表示されている。里奈の名前はない。俺自身の意思で拒否したからだ。そこに寂しさはない。昔なら、名前を消すことさえ怖かったかもしれない。何かを失う気がして、最後のつながりだけは残しておきたかった。でも、今は違う。もう戻りたいとも、認めてもらいたいとも思わない。あの恋が終わったことを受け入れたからこそ、ようやく空いた場所に気づいた。

「高橋さん、昼休みですよ」

 顔を上げると、課長が少し離れたところに立っていた。

「分かってます」

「ずっと画面を見ていたので」

「ちょっと考え事をしていました」

「そうですか」

 課長はそれ以上聞かなかった。いつものように必要以上に踏み込まない。その距離感が、今は妙に心地よかった。俺が何かを話したくなれば聞いてくれる。でも、無理に聞き出そうとはしない。そんな課長のことを、俺はいつからこんなに大切に思うようになったんだろう。

 午後の仕事が終わる頃には、答えはかなりはっきりしていた。松本さんと課長が話していたときに感じた苛立ち。課長から距離を置かれたときに感じた寂しさ。魚屋道で苦しくて足が止まりそうになった俺を待ってくれたことを思い出したときの嬉しさ。課長が笑っている姿を見ると、なぜか自分まで安心する。祖父のことで無理をしている姿を見ると、放っておけない。仕事で頼られると嬉しいし、自分のことを少し話してくれた日は、その日の帰り道まで気分が軽い。どれも尊敬している上司という言葉だけでは収まらなかった。

 俺は胸の中に浮かんだ言葉を、今度は否定しなかった。

(俺、課長が好きなんだ)

 声には出さず、心の中で言ってみる。
 その瞬間、今まで別々に見えていたものが、一つにつながった気がした。課長が距離を置いたとき、あれほど寂しかった理由も分かる。松本さんと話している姿を見て、胸の奥がざわついた理由も分かる。課長の笑顔を見つけると嬉しくなった理由も、少し頼られるだけで舞い上がりそうになった理由も、全部同じだった。

 好きだからだ。

 こんな簡単なことに、俺はずいぶん時間をかけてしまった。

 会社を出ると、夕方の神戸の街には少しずつ灯りが増えていた。駅へ向かって歩いていると、少し前を歩いていた課長が振り返った。

「高橋さん」

「はい」

「駅まで行きますか?」

「はい。一緒に行きます」

 課長が歩き出し、俺もその隣へ並ぶ。人の流れが多いから、肩が触れそうになることはない。それでも、今までとは景色が違って見えた。同じ道なのに、隣にいる人を意識するだけで、こんなにも心臓がうるさくなる。

「今日、何かありましたか?」

 課長が前を向いたまま聞いてきた。

「どうしてですか?」

「朝から少し考え込んでいるように見えたので」

 課長は相変わらず、妙なところをよく見ている。

「昔のことを整理してました」

「そうですか」

「藤原さんと話したんです」
 
「藤原さんと?」

「はい。俺が昔、彼女と別れてからどうなったかも知っている人なので」

 そこまで言うと、胸の奥に残っていたものがすっと軽くなってくる。俺は過去を隠すために誰かを好きになろうとしているわけじゃない。傷ついた自分を埋めるためでもない。藤原さんと話したことで、ようやく分かった。俺はもう、誰かに選ばれることで自分の価値を証明しなくていい。だったら、自分が誰を大切にしたいのかを、自分で決めていい。

「高橋さん?」

「……すみません」

「また考え事ですか?」

「はい。でも、今度は悪いことじゃないです」

 課長がこちらを見る。その目を見た瞬間、胸が熱くなってきた。

 俺は、この人をもっと知りたい。

 仕事の顔だけじゃなく、笑っているときの顔も、困っているときの顔も、誰にも見せたくない弱さも知りたい。頼ることが苦手なこの人が、誰かを頼っても大丈夫だと思えるようになったら、その相手が俺だったらいいと思う。そんなことを考えている自分に気づいて、俺は少しだけ息を吐いた。

 これはもう、尊敬じゃない。
 憧れでもない。
 昔の恋を忘れるための気持ちでもない。

「課長」

「はい?」

「……いえ」

 今はまだ言えなかった。俺の気持ちは、俺だけが知っていればいい。上司と部下という関係を考えれば、簡単に口にできるものじゃない。課長がどう思っているのかも分からない。それでも、もう自分の気持ちを否定するつもりはなかった。

 昔の俺は、誰かに選ばれなかったことで、自分には価値がないと思っていた。

 今は違う。

 俺には、自分で選びたいと思える人がいる。
 その人の隣を歩きたいと思っている。

 神谷美月。

 俺は、この人が好きだ。
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