嫌いだった課長と恋をするまで

第31話 元カノとの決着

 仕事を終えてからも、俺は自分の席を立てずにいた。パソコンの画面には明日の予定が並んでいるのに、文字が頭へ入ってこない。今日やらなければならない仕事はもう残っていない。それでも帰る気になれなかった。
 里奈からの連絡を拒否して、もう二度と俺のところへ届かないようにしてから、時間はかなり経っている。向こうから何かが届くこともないし、俺自身も連絡先を開くことはない。それなのに、あの頃のことだけは、何かの拍子に胸の奥から出てくる。

 俺が何を悪かったと思っていたのか。
 どうして自分に価値がないと思うようになったのか。

 考えれば考えるほど、失恋した事実より、その後の自分の生き方のほうが気になった。

「まだ帰らないのか?」

 背後から声をかけられて振り向くと、藤原さんが自分の鞄を持って立っていた。先輩社員の藤原さんは、俺がこの会社へ入ってからずっと面倒を見てくれている先輩だ。仕事で困ったときに相談する相手はいくらでもいる。でも、自分のことを話せる相手となると話は別だった。俺が一番心を許しているのは、昔から藤原さんだった。
 高校時代からの彼女と別れたことも、その後しばらく仕事に身が入らなかったことも、食べることで気を紛らわせるようになったことも、藤原さんは知っている。俺が九十キロを超えてしまった理由まで、わざわざ説明する必要がない数少ない人だった。

「もう帰ります」

「その顔で言われても、帰るようには見えないな」

 藤原さんは向かいの席へ腰を下ろすと、俺の顔を見てくる。余計なことを聞かない人だからこそ、俺は話しやすかった。無理に聞き出そうとはしない。ただ、俺が話し始めれば最後まで聞いてくれる。今日もそうだった。

「……ちょっと、昔のことを考えていました」

「元カノのことか?」

 名前を出されなくても分かってしまうほど、長く付き合ってきた先輩だった。俺は小さく息を吐いて、椅子の背もたれへ体を預けた。

「はい。もう連絡も取っていません。着信もメッセージも拒否しています。だから、何かあったわけじゃないです」

「じゃあ、何が引っかかってる?」

「自分が捨てられたことを、ずっと自分の価値みたいに考えていたんだと思います」

 口にした瞬間、自分でも驚くほどしっくりきた。別れた直後は、ただ悲しかった。好きだった人が、自分ではない誰かを選んだ。それだけのことだったはずなのに、俺はその出来事を何年も引きずって、自分自身への評価にまで変えてしまった。仕事ができても、誰かに頼られても、体重が増えても減っても、心のどこかでは、『あのとき選ばれなかった男』という場所から動けなかった。

「俺、あいつに選ばれなかったから、自分には何か足りないんだと思っていたんです。だから仕事を頑張っても、誰かに頼られても、どこかで意味がないような気がして。食べて、太って、運動もしなくなって……自分のことなんて、どうでもいいと思うようになった」

「それを、ずっと一人で抱えてたんだな」

「藤原さんには、いろいろ見られてますけどね」

「見てたよ。急に食う量が増えたのも、仕事が終わっても帰らなくなったのもな」

 藤原さんは笑わなかった。昔の俺を責めることもしなかった。ただ、事実を確認するように言う。その言葉を聞いていると、当時の自分が少しだけ遠くに思えた。俺は失恋したことそのものより、失恋した自分を何年も許せなかったのかもしれない。

「でもな、高橋」

「はい」

「相手が誰を選ぶかと、お前に価値があるかは別の話だろ。違うか?」

 その言葉は、思っていた以上に深く入ってきた。藤原さんは俺の過去を知っている。別れた日のことも、そのあと俺がどうなったのかも知っている。それでも、俺を見るときに『捨てられた男』として見たことは一度もなかった。仕事で結果を出せば認めてくれたし、俺が誰かを助ければ、そのことを当たり前に受け止めていた。俺が勝手に自分を低く評価していただけで、周りまでそう見ていたわけじゃない。

「俺、あいつにもう一度認めてもらいたかったのかもしれません」

「今さら?」

「たぶん。今の自分を見せて、あのとき捨てたのは間違いだったって思わせたかったんだと思います」

 口にすると、ひどく幼い願いに聞こえる。

 仕事ができるようになった。
 チームリーダーになった。
 収入も昔より増えた。

 そういうものを並べて、自分は捨てられるような人間じゃなかったと証明したかったのだろう。でも、それでは結局、俺の価値を決める権利を里奈に渡したままだ。

「じゃあ、もうやめればいい」

「何をですか?」

「証明することをだよ。お前が誰に選ばれるかなんて、お前自身が決められる話じゃない。だったら、自分で選べるものを選べばいい。ただ、それだけのことだ」

 藤原さんはそれだけ言って立ち上がる。俺も椅子から立ち上がり、パソコンを閉じる。胸の中に残っていた重さが、全部消えたわけじゃない。それでも、何年も握りしめていたものを少しだけ手放せたような感覚があった。俺は里奈に勝ちたいわけじゃなかった。もう、里奈に認めてもらう必要もない。ただ、自分を捨てた人間の判断を、自分自身の価値として受け取るのをやめればいい。

「藤原さん」

「ん?」

「ありがとうございます」

「礼を言われるようなことはしてない。昔から、お前が一人で抱え込むから話を聞いてるだけだ」

「それが助かってます」

「じゃあ、今日はもう帰れ。明日、寝不足の顔で仕事するなよ」

「分かりました」

 会社を出ると、夜の空気が少し冷たかった。丁度、課長と正面玄関でばったりと会ってしまった。俺に気づいた課長は一瞬だけ足を緩めたが、すぐにいつもの仕事の顔へ戻った。

「高橋さん、まだ会社にいたんですか?」

「藤原さんと少し話していました」

「そうですか」

 それだけ言って、課長は歩き出した。俺も隣へ並ぶ。以前なら、ここで無理に話題を探していたかもしれない。でも今日は違った。藤原さんに言われた言葉が頭に残っていた。

「課長」

「はい」

「俺、少しだけ変わった気がします」

 課長が歩きながらこちらを見る。その視線を、俺は逃げずに受け止めた。

「何かあったんですか?」

「昔のことを整理していただけです。自分が誰かに選ばれなかったことと、自分に価値がないことは、同じじゃないんだって」

 課長はすぐには答えなかった。駅へ向かう人の流れの中で、二人の足音だけが続いていく。

「……そうですね」

 短い言葉だった。でも、その声にはいつもの仕事上の確認とは違うものがあった。

 俺は前を向く。里奈とのことは、もう終わっている。連絡を拒否した時点で、関係そのものには区切りをつけていた。
 今日、藤原さんと話したことで終わったのは、もっと別のものだった。俺はもう、誰かに選ばれなかった自分を理由に、自分を粗末にしなくていい。誰に認められるかではなく、自分が誰を大切にしたいのかを考えていい。そのことに気づいたとき、不思議なくらい、隣を歩く課長の存在がはっきりと感じられたのだ。
< 31 / 48 >

この作品をシェア

pagetop