嫌いだった課長と恋をするまで
第34話 今の関係を壊したくない ~美月視点~
昼休みの終わり、私は一人で窓際に立っていた。神戸の街を見下ろす窓には午後の光が差し込み、遠くの建物や道路を走る車が小さく見える。
手元には東京本社から届いたメールが開かれたままだ。内容を確認するために何度も読み返しているのに、頭の中へ入ってこない。
原因は分かっていた。朝から高橋さんの様子がおかしい。仕事の報告も確認も正確で、チームリーダーとして何の問題もない。それなのに、私と話すときだけ妙に距離を取る。必要なことしか話さず、こちらが声をかけても長く視線を合わせようとしない。昨日までは気にならなかったはずの小さな変化が、今日は一つ一つ引っかかっていた。私は窓へ視線を戻しながら、自分の胸に浮かんだ疑問を無理に消そうとした。高橋さんは、なぜ急に私を避けるようになったのだろう。
「課長、これ、確認をお願いします」
背後から声がして振り返ると、松本さんが資料を持って立っていた。私は資料を受け取り、内容へ目を通す。これは、本社との案件だから、確認しなければならないことは多い。質問を受ければ答え、必要な部分には修正を入れる。それだけの仕事なのに、視線が何度も入口へ向かいそうになる。
高橋さんが戻ってくるかもしれない。そんなことを考えている自分に気づき、私はすぐに資料へ目を戻した。どうしてこんなことを気にしているのだろう。高橋さんは部下だ。仕事ができるから頼りにしている。それだけで十分なはずだった。私は東京にいた頃から、多くの部下を見てきた。信頼できる人間もいたし、仕事の相性がいい人間もいた。それでも、席にいるかどうかまで気にしたことはない。なのに今は、少し姿が見えないだけで気になってしまう。
「神谷さん、この部分ですが」
「はい。ここは先方に確認してから進めましょう」
「分かりました」
松本さんとの話を終えたあと、私は自分の席へ戻った。パソコンの画面には午後の予定が並んでいる。確認すべき案件も、決裁しなければならない書類もある。仕事をしていれば余計なことを考えずに済むと思った。
ところが、画面の端に高橋さんの姿が見えた瞬間、指が止まった。高橋さんは後輩社員と話をしている。資料を見ながら何か説明しているらしく、相手が質問すると笑って答えている。その表情を見て、私はなぜか安心してしまう。
元気そうでよかったと思った直後、自分の考えに戸惑う。私は何を考えているのだろう。部下の体調を気にすることくらい、上司なら普通だ。そう思い直したものの、視線を画面へ戻すまでに少し時間がかかった。
高橋さんと一緒に魚屋道を歩いた日から、私は彼を見る目が変わってしまった。最初は、体重のことを何も考えずに仕事へ持ち込んでいる人だと思っていた。自己管理くらいしてほしい。そう思って、かなり厳しい言い方もした。
ところが、仕事では誰より周囲を見ていて、取引先との交渉でも相手の事情を考えながら判断する。自分のことになると無理をするのに、人のためなら迷わず動く。魚屋道以来、高橋さんは私にとって、ただの部下ではなくなっている。その事実を認めるのが怖かった。
「課長、この資料ですが」
「……はい」
いつの間にか高橋さんが目の前に立っていて、私は反射的に顔を上げた。
近い。
そう感じた瞬間、自分でも驚くほど心臓が速くなる。高橋さんは何も知らない顔で資料を差し出している。いつもの仕事の顔だ。私だけが勝手に意識している。それが恥ずかしくなって、私は資料へ視線を落とした。
「ここまで確認しました。問題ありません」
「ありがとうございます」
「ただ、最後の数字だけ、念のためもう一度確認してください」
「分かりました」
高橋さんが資料を受け取る。そこで会話が終わると思ったのに、私は思わず声をかけた。
「高橋さん」
「はい?」
「……最近、私を避けていませんか?」
言ってしまった。
高橋さんの表情がわずかに固まってしまった。私も自分で何を聞いているのか分からない。上司としてなら、部下の仕事上の変化を確認する質問として成立する。そう自分へ言い聞かせながら、彼の返事を待った。
「そんなつもりはありません」
「そうですか」
「ただ、少し仕事に集中しようと思っていて」
「仕事に、ですか?」
「はい」
高橋さんはそれ以上説明しなかった。私は何か言わなければと思ったのに、言葉が出てこない。問い詰めれば、彼が距離を取る理由まで聞いてしまいそうだったから。
もし私が原因だったらどうする。
もし彼が私に何か特別な感情を持っていたら。
そこまで考えたところで、私は考えることをやめた。
「分かりました。仕事のことなら、私も安心しました」
「……はい」
高橋さんが自分の席へ戻っていく。その背中を見ながら、私は胸の奥に残った違和感を持て余していた。仕事に集中している。それなら問題はないはずだ。それなのに、どうしてこんなに寂しいのだろうかと。
私は自分の席へ座り、パソコンへ向かいなおす。メールを開き、決裁書類を確認する。目の前の仕事は山ほどある。課長としてやらなければならないことも分かっている。東京本社からは、神戸での勤務をいつまで続けるのかという確認も来ている。祖父のことを考えれば、すぐに東京へ戻るわけにはいかない。それでも、本社から必要とされている以上、今後のことを決めなければならない時期が近づいている。
そのとき、ふと高橋さんの姿が目に入ってきた。
私は神戸へ来た理由を考えてみた。
祖父のそばにいるため。
仕事を続けるため。
それだけだったはずだ。それだけだったはずなのに今は、そこへもう一つの理由が入り込んでいる。
高橋さんと離れたくない。
その考えが浮かんだ瞬間、私は自分で自分を否定する。それは違うのだと。私は課長で、高橋さんは部下なのだ。
もし私が自分の気持ちを優先してしまえば、彼の仕事にも影響する。周囲から余計なことを言われるかもしれない。何より、これまで築いてきた信頼関係まで壊してしまう可能性がある。私はそれだけは避けたかった。
だから、距離を取る必要がある。高橋さんが私を避けているなら、私も追いかけてはいけない。そう決めたはずなのに、その日の午後は何度も彼の姿を目で追ってしまう。
仕事をしている横顔を見るたびに、胸の奥が苦しくなる。
誰かと話して笑っていると、なぜか気になる。
私が知らないところで楽しそうにしているだけなのに、心が落ち着かない。
そんな自分が嫌になって、私は再びパソコンへ視線を戻した。
「課長、お疲れさまです」
定時を過ぎ、高橋さんが帰りの挨拶をしてきた。
「お疲れさまでした、高橋さん」
「課長も、あまり遅くならないようにしてください」
「はい。ありがとうございます」
高橋さんはそれだけ言って、オフィスを出ていった。
私はその背中を見送るが、引き止めたいと思ってしまう。
「今日くらい、一緒に帰りませんか」、と言いたかった。
でも、言えなかった。
私は課長で高橋さんの上司なんだ。だから、今の関係を壊したくない。それだけは、絶対に避けなければならない。
そう自分へ言い聞かせながら、私は誰もいなくなり始めたオフィスで、一人残った仕事へ目を向ける。画面には数字が並んでいるのに、頭の中に浮かぶのは、さっき出ていった高橋さんの姿ばかりである。
距離を取れば、この気持ちも落ち着くと思っていた。仕事と私情を分ければ、元の関係へ戻れると思っていた。それなのに、離れたことで分かったことがある。高橋さんが隣にいないだけで、こんなにも心細い。
私はその事実を認めることができないまま、誰もいないオフィスで小さく息を吐いたのだった。
手元には東京本社から届いたメールが開かれたままだ。内容を確認するために何度も読み返しているのに、頭の中へ入ってこない。
原因は分かっていた。朝から高橋さんの様子がおかしい。仕事の報告も確認も正確で、チームリーダーとして何の問題もない。それなのに、私と話すときだけ妙に距離を取る。必要なことしか話さず、こちらが声をかけても長く視線を合わせようとしない。昨日までは気にならなかったはずの小さな変化が、今日は一つ一つ引っかかっていた。私は窓へ視線を戻しながら、自分の胸に浮かんだ疑問を無理に消そうとした。高橋さんは、なぜ急に私を避けるようになったのだろう。
「課長、これ、確認をお願いします」
背後から声がして振り返ると、松本さんが資料を持って立っていた。私は資料を受け取り、内容へ目を通す。これは、本社との案件だから、確認しなければならないことは多い。質問を受ければ答え、必要な部分には修正を入れる。それだけの仕事なのに、視線が何度も入口へ向かいそうになる。
高橋さんが戻ってくるかもしれない。そんなことを考えている自分に気づき、私はすぐに資料へ目を戻した。どうしてこんなことを気にしているのだろう。高橋さんは部下だ。仕事ができるから頼りにしている。それだけで十分なはずだった。私は東京にいた頃から、多くの部下を見てきた。信頼できる人間もいたし、仕事の相性がいい人間もいた。それでも、席にいるかどうかまで気にしたことはない。なのに今は、少し姿が見えないだけで気になってしまう。
「神谷さん、この部分ですが」
「はい。ここは先方に確認してから進めましょう」
「分かりました」
松本さんとの話を終えたあと、私は自分の席へ戻った。パソコンの画面には午後の予定が並んでいる。確認すべき案件も、決裁しなければならない書類もある。仕事をしていれば余計なことを考えずに済むと思った。
ところが、画面の端に高橋さんの姿が見えた瞬間、指が止まった。高橋さんは後輩社員と話をしている。資料を見ながら何か説明しているらしく、相手が質問すると笑って答えている。その表情を見て、私はなぜか安心してしまう。
元気そうでよかったと思った直後、自分の考えに戸惑う。私は何を考えているのだろう。部下の体調を気にすることくらい、上司なら普通だ。そう思い直したものの、視線を画面へ戻すまでに少し時間がかかった。
高橋さんと一緒に魚屋道を歩いた日から、私は彼を見る目が変わってしまった。最初は、体重のことを何も考えずに仕事へ持ち込んでいる人だと思っていた。自己管理くらいしてほしい。そう思って、かなり厳しい言い方もした。
ところが、仕事では誰より周囲を見ていて、取引先との交渉でも相手の事情を考えながら判断する。自分のことになると無理をするのに、人のためなら迷わず動く。魚屋道以来、高橋さんは私にとって、ただの部下ではなくなっている。その事実を認めるのが怖かった。
「課長、この資料ですが」
「……はい」
いつの間にか高橋さんが目の前に立っていて、私は反射的に顔を上げた。
近い。
そう感じた瞬間、自分でも驚くほど心臓が速くなる。高橋さんは何も知らない顔で資料を差し出している。いつもの仕事の顔だ。私だけが勝手に意識している。それが恥ずかしくなって、私は資料へ視線を落とした。
「ここまで確認しました。問題ありません」
「ありがとうございます」
「ただ、最後の数字だけ、念のためもう一度確認してください」
「分かりました」
高橋さんが資料を受け取る。そこで会話が終わると思ったのに、私は思わず声をかけた。
「高橋さん」
「はい?」
「……最近、私を避けていませんか?」
言ってしまった。
高橋さんの表情がわずかに固まってしまった。私も自分で何を聞いているのか分からない。上司としてなら、部下の仕事上の変化を確認する質問として成立する。そう自分へ言い聞かせながら、彼の返事を待った。
「そんなつもりはありません」
「そうですか」
「ただ、少し仕事に集中しようと思っていて」
「仕事に、ですか?」
「はい」
高橋さんはそれ以上説明しなかった。私は何か言わなければと思ったのに、言葉が出てこない。問い詰めれば、彼が距離を取る理由まで聞いてしまいそうだったから。
もし私が原因だったらどうする。
もし彼が私に何か特別な感情を持っていたら。
そこまで考えたところで、私は考えることをやめた。
「分かりました。仕事のことなら、私も安心しました」
「……はい」
高橋さんが自分の席へ戻っていく。その背中を見ながら、私は胸の奥に残った違和感を持て余していた。仕事に集中している。それなら問題はないはずだ。それなのに、どうしてこんなに寂しいのだろうかと。
私は自分の席へ座り、パソコンへ向かいなおす。メールを開き、決裁書類を確認する。目の前の仕事は山ほどある。課長としてやらなければならないことも分かっている。東京本社からは、神戸での勤務をいつまで続けるのかという確認も来ている。祖父のことを考えれば、すぐに東京へ戻るわけにはいかない。それでも、本社から必要とされている以上、今後のことを決めなければならない時期が近づいている。
そのとき、ふと高橋さんの姿が目に入ってきた。
私は神戸へ来た理由を考えてみた。
祖父のそばにいるため。
仕事を続けるため。
それだけだったはずだ。それだけだったはずなのに今は、そこへもう一つの理由が入り込んでいる。
高橋さんと離れたくない。
その考えが浮かんだ瞬間、私は自分で自分を否定する。それは違うのだと。私は課長で、高橋さんは部下なのだ。
もし私が自分の気持ちを優先してしまえば、彼の仕事にも影響する。周囲から余計なことを言われるかもしれない。何より、これまで築いてきた信頼関係まで壊してしまう可能性がある。私はそれだけは避けたかった。
だから、距離を取る必要がある。高橋さんが私を避けているなら、私も追いかけてはいけない。そう決めたはずなのに、その日の午後は何度も彼の姿を目で追ってしまう。
仕事をしている横顔を見るたびに、胸の奥が苦しくなる。
誰かと話して笑っていると、なぜか気になる。
私が知らないところで楽しそうにしているだけなのに、心が落ち着かない。
そんな自分が嫌になって、私は再びパソコンへ視線を戻した。
「課長、お疲れさまです」
定時を過ぎ、高橋さんが帰りの挨拶をしてきた。
「お疲れさまでした、高橋さん」
「課長も、あまり遅くならないようにしてください」
「はい。ありがとうございます」
高橋さんはそれだけ言って、オフィスを出ていった。
私はその背中を見送るが、引き止めたいと思ってしまう。
「今日くらい、一緒に帰りませんか」、と言いたかった。
でも、言えなかった。
私は課長で高橋さんの上司なんだ。だから、今の関係を壊したくない。それだけは、絶対に避けなければならない。
そう自分へ言い聞かせながら、私は誰もいなくなり始めたオフィスで、一人残った仕事へ目を向ける。画面には数字が並んでいるのに、頭の中に浮かぶのは、さっき出ていった高橋さんの姿ばかりである。
距離を取れば、この気持ちも落ち着くと思っていた。仕事と私情を分ければ、元の関係へ戻れると思っていた。それなのに、離れたことで分かったことがある。高橋さんが隣にいないだけで、こんなにも心細い。
私はその事実を認めることができないまま、誰もいないオフィスで小さく息を吐いたのだった。